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第二話

 静寂さで覆われた夜を引き裂くように突如鉦鼓が鳴らされた。


「敵襲だァッ!!敵襲!!」

「配置につけ!!兵を起こせ!!」

「各隊は整列の上、将の指示を待てッ!!」


 矢継ぎ早に叫ばれる兵士たちの声をぶち破るように、蜀陣営のあちこちで喚声があがった。


「あらあらあら、これはこれは嬉しいこと。退屈をしていたところにいい玩具がやってきたのね!!」


 魏延がいち早く馬に乗り、歓喜の表情を浮かべて大鎌を引っ提げた。


「さぁ!丞相殿のご指示を待つことはないわ!狩りの時間よ!!草刈りの時間よ!!ホ~~~~~ッホホホホホホホッ!!!」


 魏延は高笑いすると、直属兵を率い、一気に丘の上から馬を疾駆させ、混然とする最前線に突入していった。張翼、王平、馬岱、胡済、呉懿ら前線の各将も後れを取らず、すぐに戦闘態勢に入った。


「オラオラァ!!蜀の犬どもめガァ、殺す殺す殺す殺す殺す!!!」


 夏侯称が大剣を風車のように振り回し、片っ端から蜀兵を切り刻んでいく。血しぶきが飛び、首、手、脚、胴等が砂塵と共に中天に吹き飛んでいく。


「称兄は派手にやっているようだなぁ。ま、こっちはこっちで――」


 襲い掛かってきた3騎を同時に串刺しにして仕留めながら夏侯威は嘯く。


「こっちはこっちでやらせてもらおうかな」

「・・・・・・・・」


 夏侯和は後方にあって兵を指揮しながら戦況を見まわしていた。



** * * *


 楊儀は陣営にあって彼方から聞こえる地響きと喚声に眼を見張った。


「こんな時に・・・オジキがいけねえっていうときに、司馬仲達の野郎は血も涙もねえのかよ・・・・」

「楊、騒ぐんじゃねえ」


 野太い声がした。振り向くと、諸葛亮が肩ひじついて起き上がったところだった。


「オジキ!!」

「あんなもんはこけおどしだ。司馬仲達の野郎・・この俺がくたばったかくたばってねえかを見極めるためにしかけやがったな」

「ですが、オジキ、そうはいっても奴らやけに派手にぶっぱじめやがっているみたいですが」

「フン!」


 諸葛亮は鼻を鳴らした。


「前線からここまでは幾重にも罠を張ってらァ。奴らが前線を突破したその先に待っているのは・・・・・」


 諸葛亮がニヤリと凄惨な笑みを浮かべた。これまで何十万も殺してきた殺し屋だからこそ見せられる凄みのある笑みだった。


「地獄さ」


 楊儀はつばを飲み込んだ。


「楊」

「へい」

「姜維に伝えろ。つっても、アイツァ、もう出ているかもしれねえがな」

「わかりやした。で、なんてお伝えしやしょうか」

「俺にかまう事はねえ、派手にぶちかませ、そして、俺の地獄への道連れを一人でも多く捕まえて来いってな!」

「御意!!」


** * * *


「状況は!?」


 姜維は伝令部隊から前線の報告を聞きながら馬を疾駆させていた。伝令部隊は伝令に特化した兵の集団であり、正確かつ素早い情報伝達を行う事を目的としている。姜維はおかげで戦線の状況を正確に知ることができ、同時に襲われる恐れのない部署から兵を引き抜いて戦場に急行することができた。その数1万余。全軍騎馬部隊である。


「敵の一団、夏侯称、夏侯威、夏侯和他約2万余が大規模な攻勢を前線全体にわたって仕掛けております。前線各隊は奮戦中。魏文長様が敵中深くに突っ込み、突破口を広げています」

「魏文長殿・・・」


 姜維は一瞬魏延との会話を思い出したが、今はそれどころではない。そこに伝令部隊の一騎が駆けこんできた。


「前方より敵集団!!数およそ1万!騎兵です」

「なっ!?」


 姜維の周囲にいた軍団長の一人が声を上げる。


「前線は突破されたのか!?」

「前線と言っても隙間なく防備を施しているものではないもの。城じゃあるまいし。さて、では、手筈通りに迎撃態勢を整えましょうか」

「ハッ!」


 五丈原は広大な台地であるといっても、比較的高低差のある地形であり、狭隘な峡谷がある箇所も少なくない。

 姜維は、率いる1万余の軍をいち早くその狭隘な隘路を目前にした小高い丘の上に静かに軍を布陣させた。各騎馬隊を率いる軍団長は整然と隊伍を組んで整列している。


「・・・・・・・・」


 姜維は風に黒髪をなびかせながら待った。かすかな震動が聞こえ始める。それが徐々に熱気、殺気、喊声、馬のいななきをはらんだ風を伴ってやってきた。


「フッハハハハァ~~~!!!抜いた抜いた抜いたぞォ!!蜀の本営まで一走りだァ!!」

「秦元明様、もう少し速度を落としませんと――」

「やかましいわ~~~!!蜀の諸葛亮なんぞ一捻りよォ!!」


 姜維以下1万余の耳にも敵の喊声が入り込んできた。


「全軍備え!!」


 姜維の左手が横に振られる。騎馬部隊たちが背を正し、武器を構える気配が背後でした。


「構え!!」


 姜維の右手が高く掲げられる。魏軍の騎馬兵とそれに続く歩兵たちは喊声を上げて隘路からあふれ出てきた。


「撃てェッ!!!!」


 ドドォ~~ン!!と轟音が響き渡り、隘路めがけて巨大な岩石が幾重にも降り注いできた。あらかじめ待機してあった奇襲部隊が巨石巨木を投げ込んだのである。


「う、うわわわわわわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!」

「なんだこれはぁ!?」

「ギャアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!!!!」


 阿鼻叫喚が血煙もろとも石の下敷きになっていく。中団から後方の敵は一気に岩石群によって遮断された。それでも前方の生き残った敵は進撃をやめなかった。


「全軍突撃ィ!!!」


 姜維が槍を掲げる。それを待っていたかのように、全軍が雄叫びを上げた。その勢いは天を、地を震わせた。


『オオオォォォォォォォォッッッッ!!!!!!!!!!!』


 地鳴りのような大喊声と共に、1万余の軍は猛然と敵に突っ込んでいった。前方の魏軍も一瞬乱れ立ったが敵将の指揮のもと蜀軍に突っ込んでいく。騎馬と騎馬。猛然と走り寄った双方が激突した。

 にぶい音と共にあちこちで中天に人が舞い、馬がいななきながら倒れ、それらを踏み越えながら騎馬が、そして歩兵たちが疾駆していく。

 姜維の槍さばきを食らった数騎は、はじけ飛ぶように撃ち落とされ馬群に踏みにじられた。


「貴様カァッ!!岩石をお見舞いしたのはァッ!!!」


 前方に数流の旗がなびき、魏将らしき人物が姜維をにらみ据えている。かと思うと、周囲が止めるのも聞かずに突進してきた。


「その旗印・・・姜伯約か、この魏の裏切り者がぁっ!!」

「ええ、そうだけど。それが何か?」


 魏将は一瞬信じられないものを見聞きしたように馬を引き戻した。


「き、きき、ききき、貴様ッ儂をおちょくるきかぁっ!?お、お、女ではないか?!」

「だからそれが何か?」


 姜維は無造作に槍の穂先についた血を払った。


「女であろうと何であろうと私は姜伯約。そして諸葛丞相の意志を継ぐ者。それ以上でもそれ以下でもないのだけれど」

「この忘恩の徒ずれが・・・・」


 魏将は歯噛みをしたが、天に吼えるように叫んだ。


「その首を撥ね飛ばして凱旋よ!一騎打ちじゃあ!!兵たちの仇を――」


 魏将は携えていた大刀を振りかぶる。


「思い知れェッ!!!」


 刹那――。


 腹に大穴開けた魏将は馬から吹き飛んで地面にたたきつけられていた。姜維はそれに一瞥をくれただけで、すぐに馬を疾駆させ、敵陣に突っ込んでいった。



** * * *


「ウォォォ・・・・殺す殺す殺す!!」


 夏侯称は血まみれになりながら暴れまわっていた。日頃たまりにたまっていた不満を全身の力に変えて戦場にぶつけ続けている。それにあたって斃れる蜀兵はおびただしい。


「あぁら、見ぐるしいわね、そんなに動き回っていて」

「あ?」


 夏侯称がゆっくりと声のする方を見ると、頬に返り血を付けた銀色に近い白髪を後ろで束ね、紫の紅を唇に塗り、眼には濃い化粧を施している異形の武将が馬に乗っていた。

 魏延は殊更にニンマリした。


「でも、なかなか良い玩具だこと。退屈していたところなの。坊や、遊び相手になってくれないかしら?」


 そう言って、頬についていた返り血を指で掬い取ると、ペロリと舌でなめとる。


「貴様ァ・・・・・・俺をなめとるんか?」


 夏侯称はギッと眼光を光らせたかと思うと、馬もろともに魏延にとびかかった。夏侯称の振り回す大鉄球と魏延の大鎌がぶつかり合い、火花をはじけさせる。一撃一撃が素早く、そして重く、周囲の兵たちにはまるで二つの風がぶつかり合っているようにしか見えない。

 だが、その力量差は徐々に表れてきた。


「ホホホホ・・・・!!まだまだこれからよ」


 魏延が高笑いしながら浴びせかける一撃を、夏侯称は交わしきれなくなってきた。そして――。


 魏延の大鎌が夏侯称の右腕をからめとるようにして胴体から奪い去っていった。思わず大鉄球を放した夏侯称は、血の噴き出た箇所を抑えにかかる。


「ホホホホ・・・・痛いでしょう?苦しいでしょう?その表情・・・・そそるわぁ・・・・!!そして綺麗な血の色ねぇ」

「ぐ・・・・貴様ァ・・・・・正気じゃねえなァ・・・・・」

「正気じゃない?失礼ねぇ」


 魏延は大鎌を引っ提げたまま夏侯称を憐れむように見つめる。その背後から一騎疾走してきていることに気が付かない。


「こんな臭い戦場には一片の美を求めなくてはつまらないでしょう?」


 そう言いながら、大鎌を無造作に背後に振り払った。火花が散り、仕掛けた夏侯威がよろめきながら勢いを殺さず、夏侯称のもとに駆け寄る。


「称兄が危ないんでね、及ばずながら助っ人ってやつかな」

「あらあらあら、美しい兄弟愛だこと!!」


 魏延は大げさに驚いたそぶりを見せる。


「その兄弟愛・・・壊したらどうなるかしらねェ?」

「えっ?」


 刹那、短刀が3本も夏侯称の胸元に突き刺さっていた。魏延が投擲したものだ。夏侯称は血を噴き出しながら馬から落馬し、地面に横たわった。


「・・・・・・・・!?」

「ホホホホホホホッ!その顔・・・・なんて良いのかしら坊や。お兄様を亡くした今の気分、どう?ねぇ、どうかしら?」

「・・・・・い」


 魏延が大鎌を構えた瞬間、疾風の勢いで夏侯威は斬り込んできた。細い細い眼がカッと見開かれ、殺気が魏延を包み込むようにして襲う。魏延は満面の笑みのまま、それを受け止める。


「ホホホホ・・・・人が死んだ。ただそんな単純なことで何を目くじら立てているの?」

「お前だけは・・・お前だけはさぁ、絶対に許さないんだよ、このクソッタレ野郎!!!!」


 夏侯威と魏延は獲物をぶつけ合い、撃ちあい続けた。夏侯称を相手にした後にもかかわらず、魏延の闘牙と勢いは一向に衰えない。


「そこまでですわ」


 二人の打ち合いが止まった。止めさせたのは金髪の美女である。いつの間にか魏延の周囲には魏軍が充満していた。


「辛憲英様」

「夏侯威。武器を引きなさい」

「ですが、俺――」


 夏侯威はそこまで言って黙り込んだ。辛憲英から何とも言えない威圧が夏侯威に降り注いでいたからだ。夏侯威は無言で引き下がった。


「面白くないわね、アンタ私の玩具を奪い取る気?」

「いいえ。今度はあなたが私の玩具になってもらう番ですわ」

「ホホホホホホホッ!!!」


 魏延は高笑いした。周囲にはいつの間にか魏軍ばかり。一人魏延は戦場に孤立していた。


「蜀の先鋒を務める貴方をここで仕留められれば、我が軍にとって有利極まりないのですもの。それに諸葛亮の寿命も近いこと。あなた方が散れば蜀を蹂躙すること、手のひら返すよりもたやすいですわ」

「あら、それはどうかしら、お嬢ちゃん」


 魏延はニンマリと笑った。そして目の前にいる、白馬にまたがり長い金髪を読風になびかせている美女を眺めた。


「そう簡単に行くと思って?」

「ええ、思いますわ」

「私は諸葛亮が大嫌いなの。アイツが死のうが生きようが知ったことではないのだけれど、でもねぇ、ここまで腐れ縁でずっと来たせいなのか、一つだけ認めているところがあるわ」


 魏延は大鎌を肩に引っ提げた。そして高らかに歌い上げるように宣言する。


「誰よりも、この私よりも、蜀に対する想いは強いってこと。そんな諸葛亮が無策であなたたちを迎え撃つとでも思って?」


 魏延が一つ指を鳴らすと、いつの間にか魏軍の周囲に蜀の大軍が出現していた。


「・・・・・・・」

「・・・・・・・」


 両者はにらみ合ったまま何も言わない。


「なるほど」


 ようやく辛憲英は微笑を浮かべた。諸葛亮の命が旦夕にあってもまだその威風は衰えていない事がよくわかったからである。


** * * *


「各部隊、蜀陣営の迎撃に遭い苦戦中!秦元明様、夏侯叔権様、討ち死に!!」

「前線においては辛憲英様と魏延が交戦中!両者一歩も譲りません!」


 司馬懿は伝令兵からの報告を聞いて嘆息した。


「諸葛亮は手ごわい。死に瀕してもなお蜀陣営を抜くことはできない、か」


 司馬懿は辛毗を振り返った。


「どうやら私は生涯諸葛亮にかなわぬままになりそうですね」

「フン、なんの、諸葛亮ごときが」


 辛毗は強気だった。そして司馬懿に詰め寄らんばかりに語気を強めた。


「前線において稼働しているのは我が軍のほんの一部ではありませんか。秦元明様、夏侯叔権が討たれたといえど、未だ数十の将を擁する以上、攻勢を続けさせればよい」

「いいえ、もう充分でしょう」

「司馬仲達殿!」

「辛佐治殿には悪いですが、これは私から諸葛亮・・・いえ、諸葛孔明に対するはなむけでした。彼にとっては最後の戦になるでしょうから」

「なんと!?では、司馬仲達殿、あなたはわざと勝利を与えてやったと――」

「違いますよ。私も挑むからには万全を期して戦います。それでも諸葛亮にはかなわなかった。そう言う事です」

「・・・・・・・・」

「全部隊に退却を指令してください。そして陣営を閉ざし、硬く守りに入るべしと。もう蜀陣営が攻勢をかけることはないでしょう」


 辛毗は嘆息した。


「あなたは非情にはなり切れない」

「ですから仮に期待するとするならば、私の息子たちに期待してくださいますようにお願いします」


 司馬懿はそういうと、辛毗を残し、本営の幔幕に入っていった。


** * * *


「オジキ・・・オジキ」


 呼びかける声がする。諸葛亮は眼を開けた。暗闇の中の海から浮き上がってきたように体が重い。


「おお・・・気が付かれましたかい、オジキ」

「俺ァ・・・・そうかい、まだ死んじゃいねえってか。反対側の岸でカシラや兄貴たちの姿が見えたんだがな」

「当り前ですぜ!」

「今は楊、てめぇの後ろに俺が殺しまくった奴らの生霊がとりまいているぜ」

「やめてくだせえよ」


 楊儀は視線を移した。諸葛亮が見ると、そこには姜維の姿があった。


「司馬仲達からのはなむけは受け取ってきたみてえだな」

「ほ?はなむけってのは、何ですかい?」

「楊、てめえには関係ねえさ。これは俺と司馬仲達、そして姜伯約との間の問題だ」


 諸葛亮は体を起こした。眩暈がひどかったが彼は姜維を正面から見た。


「姜伯約」

「はい」

「いい面構えになった。これまで世話になったな」

「丞相・・・・!!」

「だが、まだ免許皆伝ってわけにはいかねえなァ」


 姜維は顔色を変えた。


「姜伯約。おめえたちには北伐は無理だ。いい加減諦めな。蜀を保ちたかったらおとなしく漢中固めて成都に引っ込んでいるこった」

「何を言うのですか!?・・・・丞相!!私は――」

「北伐は俺だからできたんだ」

「・・・・・・・・」

「この意味がわからねえようじゃおめえには俺の・・・カシラやオジキらの背おうモンを与えることはできねえな」

「わ、私には丞相のご遺志を継いで北伐を継続し、魏を洛陽から追い落としもって陛下を洛陽にお迎えする責務があります!」

「おめえの言っているのはただの意地だ」


 勢いづいて喋っていた姜維は諸葛亮の横やりに前につんのめるようにして言葉を失った。


「おめえは俺たちの鎧を着ているが、中身は空っぽだってことさ」

「・・・・・・・・」

「意地なんざくれちまえよ、そこらへんの犬に」

「それでも・・・・それでも私は止まりたくはない。そうしてしまったら・・・・丞相を忘れてしまいそうに・・・・・・」


 姜維の両眼から涙があふれていた。楊儀は諸葛亮と姜維とを見比べていたが、やがて黙って室を出て行ってしまった。


「私は、ずっと不器用でした。今もそうです。だからこんな生き方しかできない」

「仁義を通す、か。嫌いじゃねえな。俺は」

 

 諸葛亮は二ッと笑った。その笑顔はどこか姜維には物足りなかった。諸葛亮と自分との距離が離れつつあることを感じ取っていた。


「だが、その生き方はてめえだけにとどめておけ。民に迷惑をかけさせるんじゃねえ。いいな?」

「・・・・・はい」

「俺ァ少し眠るよ。もう話しかけんじゃねえぞ」


 諸葛亮は腕を無造作に頭の後ろに組むと、床に寝っ転がった。眼をしばらく閉じていたが再び開けると、姜維の姿はなかった。


「おめえもわかってんだろう。心の底では。だからこそ、俺のすべてをおめえに渡した。・・・・楊の野郎は頼りなくていけねえ。魏延の野郎も俺の死後好き勝手するだろうが・・・・」


 諸葛亮は一人で笑った。番兵が聞きつけて幔幕を上げかけたが諸葛亮は横柄に手を振って退けた。

 もうやるべきことはやり、手配りは伝えてあるのに、最後まで心配事が尽きない。

「俺ァ何してんだ、最後まで世話焼きだってことか」


 荊州で暴れまくっていた時に劉備に出会い、カツを入れられ、手下になって不良ヤクザ同然の生活を送っていた。血で血を洗う戦いもあったが、なによりも劉備のそばにいられることが楽しかった。目標を失って自暴自棄に暴れまわっていた自分を引き上げてくれたのは劉備だ。

 劉備は世話焼きだった。誰よりも世話焼きだった。孤児があれば拾い上げて育て、戦災で家族を失った兵士達の師弟と共に泣いてその悲しみを共有した。誰よりも豊かな感情を持ち誰よりも笑い、泣いて、怒った。

 諸葛亮はそんな劉備が好きだった。

 だから劉備のようになろうと思った。劉禅にも父のようにして接し、ときには殴りつけたりもした。


けれど――。


諸葛亮は最後まで劉備になることはできなかった。


(カシラ・・・・すまねえ、本当にすまねえ。俺ァ恩を返すことができたんだろうか。カシラ・・・・・)


 戦場傷が刻み込まれた右手を上げながらその右手に向かって諸葛亮は心の中で話しかける。再度めまいが襲い、視界が暗転し始めた。


 右手が、床に倒れ込むようにして置かれた。



** * * *


「星が落ちましたか」


 司馬懿は本営の丘の上から一人つぶやいた。北天に輝く星が落ちたのは先刻のことだが、今しがたそれが夜空に戻り、そしてもう一度落ちたとの報告があった。司馬懿自身もそれを見ている。


(諸葛亮・・・・諸葛孔明殿。あなたの背は本当に大きい。今まで私はあなたを追い越そうとしましたが、もうそれはかなわなくなった。何故なら――)


 司馬懿の頬に一滴露が流れた。


「あなたは伝説になったのですから」


 瞑目した司馬懿はキッと眼を見開いた。そして矢継ぎ早に副官たちに指令を送る。


「諸葛亮は死にました!全軍に伝達、直ちに再度攻撃態勢を!ただし、今回は全軍をもって全力で蜀陣営に攻勢をかけます!」

『ウォォォォォ・・・・!!!!!』


 地鳴りのようなどよめきが起きた。ついに諸葛亮が死んだ。ついに、ついに、という声が広がっていく。これまでにない士気の上がり方だ。

 今度は私が腹黒いといわれても仕方がないですね、と司馬懿は一人つぶやく。


(ですが、乱世を終わらせなくては幾千幾万の民の安寧が訪れない。それこそが私の目的なのですから)


 集まってきた将たちに指示を下すべく、司馬懿は本営に入っていった。



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