製薬会社の闇
人間の終わり
父と母が僕の手をぎゅっと握りしめていた。
二人の顔があまりに必死だから、僕はちょっと冗談を言って笑わせたかったのだけど止めた。
酸素マスクは外せなかったし、二人に冗談が通じないことは分かっていたから。
僕はこれから死ぬことになっていた。生まれた時からの難病で、一六歳になる前に死ぬことを宣告されていた。遺伝子が原因の病気らしく、世界中で数人しか見つかっていない難病らしい。一〇歳をピークに成長した後、どんどん老化が進行していく。一七歳になった僕の体は小さな老人となっていた。ちょっと体を動かすだけで関節がギシギシし、酸素マスクをしていても呼吸が苦しくなった。この一週間で急激に老化が進み始め、医師には後三日の命しかない、と言われた。
「ゲンのおかげで、幸せな時間を過ごせたわ。ありがとう」
母は大粒の涙を流しながら言った。
父は神妙に頷いていた。
僕がしわくちゃのおじいさんになっても、両親の僕に対する愛情は変わらなかった。母は僕の頬にキスをすると、微笑んだ。
「でも、きっとうまくいくわ。大丈夫」
白くほっそりした手で僕の赤いシミだらけの手を握った。母は僕より若くて魅力的だ。潤んだ瞳とふっくらした唇、くびれたウエストに形良く膨らんだヒップは、擦れ違う男たちを振り向かせた。このチャーミングな母と寡黙だが愛情豊かな父に見守られ、僕は満ち足りた気持ちでいた。二人のおかげで幸せな人生を送れた。もう悔いはない。
僕の横にはガラスの箱があり、その中に可愛らしいゴールデンレトリバーの茶色い子犬が横たわっていた。薬で眠らされているようだ。小さな頭に何本ものコードが取り付けられていた。それらのコードの先端はコンピューターにつなげられており、そのコンピューターの反対側からは直径五センチ以上はある太いコードが隣に置かれた大きな金属の箱につながっていた。
「ゲンさん、心の準備はできましたか?」
分厚い眼鏡をかけた白衣の博士が声をかけてきた。もじゃもじゃと伸びた白髪はジャングルのように絡まっている。たぶん、あの頭に櫛など入れたことはないだろう。
眼鏡の奥に覗く小さな目は優しく僕に問いかけている。
僕は頷いた。やっと苦しみから解放される。成功しようと失敗に終わろうと・・。
両親の僕の手を握る力が強まった。僕の脆い手の骨が折れてしまうのではないか、と心配になったけれど、どうせ僕の体はこれで死ぬんだから、と思い直した。
僕は父に抱きかかえられて、分厚い金属の箱の中に入れられた。金属の中は温かなジェル状の物質で満ちており、いい香りがした。なんだろう、花の香だ。もう僕は天国に入った気分だった。ジェルは呼吸の苦しさや体の痛みを全て取り除いてくれているようだ。
すうっと遠のく意識の中、僕は下にゆっくり落ちていくのを感じていた。
「意識と記憶の転送成功率は、動物実験において三〇パーセント。人の場合・・・」
一ヶ月前、旭川科学技術大学の小さな部屋で僕を挟み両親と三人、白衣の目黒博士と対峙していた。
窓の下では、コートやブルゾンを着た学生たちが寒そうに足早に歩いている。
「人においては一一パーセントに下がります」
別に僕も両親も非難する顔も見せてないのに、目黒博士は分厚い眼鏡の奥で目をきょろきょろさせながら慌てて付け足した。
「倫理的に問題があるのは分かっているのですが、ある方面から頼まれまして、癌の末期の患者さんの記憶と意識を転送する実験を九件ほどしました。しかしながら、いずれも失敗しまして、成功したのは一件だけです」
「癌の患者さんは成功すれば助かりますけど、転送される側の方は、言ってみれば他人に体を乗っ取られるようなもんですよね? 実験に協力してくれるような人たちなんていたんですか?」
母が不審げに聞いた。
形の良いふっくらした母の唇から慌てて目を反らしながら博士は言った。
「それについては・・私は一切関知してないので・・・私は頼まれたことをしただけで・・いや、でも、転送される側の方たちにはおそらく多額の・・お、お金が支払われたのではないかと思います。その方々が実験の内容をよく知っていたかどうかは存じませんが」
「もし、失敗した場合、どうなるのでしょうか?」
額に汗をにじませながら、父が聞いた。ほっそりして小柄な母と対照的に父の身体は大きく太っていた。一一月の北海道は既に一桁の気温となっていた。暖房は焚かれているようだが、部屋の中はうすら寒く、年老いた僕は震えていた。父が気づいて僕を抱きかかえると、ふわっと心地好い温もりに包まれた。
「失敗に終わっても、転送される側には何も変化が起きません。しかし、転送する側の身体は成功しても失敗しても、零下二〇〇度の極低温の中で強い圧力と電気ショックを受け、細胞レベルまで粉々に分解されてしまいます」
僕たちは黙りこんだ。
「動物実験では、同種間の転送成功率は三〇パーセントでしたが、異種間の成功率はちょっと変わります。転送を猫からネズミにした場合、目覚めるとネズミがにゃあ、にゃあ鳴き始めます。九〇パーセントの割合で成功するのです。ところがネズミから猫だとほぼ一〇〇パーセント失敗します。同じように、犬から猫だと成功しますが、猫から犬へは失敗します。外の世界で起きるようなことが、脳の中でも起きているのではないか、と私は考えています。猫の意識をネズミの頭に転送すると、猫の意識がネズミの意識を食い殺してしまっているのではないかと仮定できるのです」
博士は紙に猫とネズミの絵を描いて説明してくれたが、僕にはどちらが猫でネズミなのか分からなかった。どちらもヒゲがあり、シッポが長かった。
「そこで、私は人の間でも、同じようなことが起きている可能性があると考えました。強い方が弱い方を駆逐して体に残ることができるのではないか、と」
「ゲンより弱いヤツかあ」
父が考え込んだ。
「死にたがっている相手に転送するなら、成功する可能性があるんじゃない?」
と、母が言う。
博士が気の毒そうに言った。
「ところがですね、人同士の間では難しいことが分かったのです。他人が自分の脳に入ってきたら、本能的に排除しようという力が働きます。先程、一人だけ転送に成功した、と言いましたが、実を言うと完全には成功できませんでした。というのも、患者さんは転送先の人間の意識を追い出すことはできなかったのです」
「成功したのではなかったのですか?」
「転送できた、という意味では成功しました」
博士が眼鏡の奥で眼をしばたきながら言った。
「しかし、二人の意識が体に残ったのです」
「そんな二人の心が一つの体にいるなんてありえるんですか?」
母が驚いて言った。
「二重人格や多重人格の方をご存知でしょうか? そういう方は実際いらっしゃいます。この時転送先の女性は非常に気弱な方でした。一方、患者さんは精力的で強そうな男性で、何て言うか私に対しても威圧的な態度を示されました。そんな方でも、女性の意識を体から追い出すことができなかったのです。動物と違って人間の場合、元々の宿主の意識をなくすのは難しいのかもしれません」
「今、その方は・・・どうしてらっしゃるんですか?」
博士は首を振った。
「そ、それは、お伝えすることはできません」
「生きているかどうかだけでも、教えていただけませんか?」
母が博士に食い下がった。
「おそらく生きていらっしゃい・・ます」
博士は母の勢いに吞まれたように口ごもった。
「じ、実験以来お会いしてないのです。ただ、一度車を運転している姿をお見かけしました。人違いでないのならですが」
「そうですか」
父も母もほっとした表情を見せた。
「しかし、もしお母さんのおっしゃるように自殺願望の被験者に転送をするとなると、自殺願望の意識とゲンさんの意識は共存することになるかもしれません。そうなると、ゲンさんの意識が眠っている間に自殺してしまうかもしれない。せっかく転送に成功しても、すぐ自殺されてしまってはどうにもならないでしょう」
博士に言われ、二人はうつむいた。
「私に転送したら、どうでしょう」
母がいいアイデアを思いついたように言った。
「ゲンと一緒に共存できるわ」
「難しいと思います」
博士が申し訳なさそうに言った。
「ゲンさんの意識はあなたと争いを避けて死を選ぶ可能性があります。しかも人同士の間ではまだ一件しか成功してないのです。危険すぎる賭けとなりますよ」
「それじゃあ、ゲンは死ぬしかない、と言うのですか」
母の唇が震えた。
「いえ、お母さん、そうとは言ってませんよ」
慌てて、博士が否定した。
「私たちは、どんなに低い確率でも、ゲンが生きられる望みが僅かでもあるのなら賭けてみたいんです」
母が必死な顔で博士に訴えた。
ゴホゴホゴホ
突然、僕は咳が止まらなくなった。気管に痰が詰まったようだ。
父と母が慌てて僕の背中を擦る。
ようやく咳が止まり落ち着くと、水の入ったコップを持った猿が目の前に現れた。
猿は博士と同じように白衣を着ている。猿は驚いている僕たちの前にコップを差し出した。
「お水をどうぞ」
博士が言った。母は猿から恐る恐るコップを受け取り、ゆっくり僕の喉に流し込んだ。
「この猿は元は人間で、私の研究室の助手をしていました。自ら私の実験に協力してくれましてね、このような姿になっていますが、今も私の優秀な助手です。彼のおかげで、人間の意識が動物に転送された場合、どのようなことが脳の中で実際起きているのか分かりました」
僕たちは驚きのあまり声が出なかった。
猿は両親に向かってにっと笑った。
「目黒博士の研究は偉大なものでス。私はその研究に貢献できて非常に嬉しく思っていまス」
猿が喋った。猿の声は少し高く上擦っていたが、人のものと大差ない。猿は僕たちをじろじろ見た。
「魅力的なお母さんですねエ。猿の身にもよーく分かりまス。猿になると眠っていた本能が冴えてくるんですヨ。鼻も効く。生理が近いんじゃないですかネ? 私もちょっと興奮気味ですヨ」
母の顔が赤くなり、父がむっとした顔を見せた。
「このご老人のお命も半年ももちませんねエ。命の臭いがしなーイ」
猿の声の中に悪意が感じられる。
「大した能力があるとは思えないのに、なーぜあなたがたがこのご老人の命を救おうとするのかわっかりませ・・・」
怒った母が立ち上がると同時に、父が猿を投げ飛ばした。猿は壁にぶち当たり、ひっくり返る。
「林君、大丈夫か!」
博士が猿に駆け寄った。
「博士、大丈夫ですヨ。猿は体が柔らかいんでス」
猿がすっと立ち上がった。
「林はもともと口数が少なくてこんなことは言わない人間だったのですが、・・・猿になって自制心が低下したのかもしれません。申し訳ありません」
博士が謝ると、父もいつもの冷静さを取り戻した。
「こ、こちらこそすみません。ゲンのことを言われると頭に血が上ってしまって・・・」
その時携帯電話が鳴り、博士が電話に出た。
「はっ、はっ、わ、分かりました。す、すぐに行きます」
博士は電話を切ると、急にそわそわし始めた。
「博士、会いにいくんですカ?」
猿が責めるような声を出した。
「もちろんだよ。大事なパトロンだからね」
「奴らなんていなくても、研究は続けられまス、博士。やめましょうヨ、何考えてるか分からない奴らですヨ」
「研究が続けられる? 君がサーカスでもして金を集めるかね? 資金はどうしても必要なんだよ」
そう言うと、博士は僕たちに頭を下げた。
「これから約束がありますので、私は出かけなくてはなりません。人から動物へ転送する場合、九〇パーセント以上の確率で成功します。一番確実な方法だと言えます。ただこの林のように、動物的な面が出てくることがあります。よくお考えになってから決めてください。ご心配な点やご不明な所は、林に聞いてみるか、私にお電話ください。林君、後は頼んだよ」
博士は僕たちに何度も会釈して、部屋を出て行ってしまった。
「まったく博士は奴らの言いなりダ。」
猿は顔を真っ赤にして怒った。
「奴らとは?」
父が言うと、猿は鼻を鳴らした。
「お前らには関係なーイ。とにかく転送するのかしないのか早く決めロ。転送するなら、成功しても失敗しても一千万必要だ」
「一千万?」
母が驚愕した。
「ちょっとこれは高すぎるでしょう」
「お母さんは、あんたの命は一千万より安いって言ってますヨ。あんたをどんなことをしても助けたい、てのは嘘だったようだネ」
猿の目が僕に向いた。目の中に憎しみがある。僕は、目を伏せた。
「嘘じゃないわよ。あなたが言うことは信じられないのよ」
母が怒りを堪えながら言った。
猿が、クククっと笑った。
「猿の言うことは信じられない、って? とんだ差別発言ですネエ。転送には高価で稀有な物質が大量に必要ダ。極低温と強い電圧によるショックをやわらげるエスネックスジェルは一グラム千円、それが実験ではおよそ八キロ必要になるから八〇〇万はかかりますネ、それに記憶と意識を電気信号に変換するのに特殊な装置を使う。博士が作った、世界に一つしかない・・・」
「分かった。一千万払おう」
父が言った。
猿はにたりと笑った。
「さすがお父さんは話が分かりますネエ。言っておきますが、失敗しても一千万ですよ」
母が心配げに父の顔を見る。
父は僕と母に、大丈夫と頷いて見せた。
その帰り、僕たちはペットショップに寄った。
母はオウムを気に入り、父はシベリアンハスキー犬を飼いたがった。でも、オウムは僕を見るたびに小馬鹿にしたように首をかしげて「アホウ」と鳴き、子犬のハスキー犬は落ち着きなく自分のシッポを追いかけてクルクル回り頭のネジが一本抜けていたから、僕は首を縦に振らなかった。こんな奴らになるくらいなら、生きていたくない。
博士の話を聞いた時から、僕は公園にいた子猫のことが頭に浮かんでいた。
僕がまだ歩いて学校から帰っていた五年前のことだ。通学途中の公園のベンチの上にダンボール箱が置かれていて、その中に一匹の黒い子猫を見つけたことがあった。生まれて日も浅く、目も見えていなかったのかもしれない。細い声でミャアミャア鳴き続けていた。左後ろ足が曲がり引きずって歩いていたので、誰にも拾われなかったのだろう。
子猫は痩せて小さく、まるで僕のようだった。
翌日、僕は給食の牛乳をこっそり持ち帰った。子猫はその日もベンチの上のダンボールの箱の中で鳴いていた。僕は牛乳を水で薄めて、落ちていたカップ麺の器に入れて与えてみた。子猫はもの凄い勢いで飲み始めた。親から引き離されてからずっと何も腹に入れてなかったのかもしれない。子猫は少したつと飲むのを止め、うとうとし始めた。しばらく子猫の寝顔を見た後に、ダンボール箱をベンチの下に移した。子猫は少し目を覚ましたが、すぐにまた眠ってしまった。
ここなら、雨が降っても濡れないだろう。
それから僕は毎日給食の牛乳を持ち帰った。
小学五年の頃から少しずつ僕の髪は白くなり始め、子猫に出会った頃は既に真っ白になっていた。膝や腰が痛く、走ると心臓がバクバクした。
朝は母に学校に送ってもらったが、帰りは公園を通って歩いて帰宅していた。
子猫は僕の後を追うようになり、どうやって子猫をまいて家に帰るか頭を悩ませるようになった。僕の住んでいる所は動物の飼えないマンションだったから、連れて帰れなかった。
ある日子猫の前にパンの切れ端を置いてから息を切らし走ったが、しばらくして振り返るとすぐ後ろに子猫がいた。僕の走るのが遅くなったのか、子猫が食べるのが早くなったのか分からない。多分、両方ともだろう。
ちょうど交差点の前のことで、子猫から逃れるために僕はポケットに入っていた飴玉を来た道のずっと遠くへ投げた。
子猫は跳んで飴玉を追いかけた。
僕はその隙に交差点を渡った。青信号は点滅し渡る途中で赤に変わってしまったが、僕の白い頭と曲がった腰のおかげで運転手たちは辛抱強く待ってくれていた。
渡り切ると、後ろですぐ車が走り始める音が聞こえたが、僕は振り返らずにマンションに戻った。
次の日から、僕は歩けなくなった。いや、歩けたけれど、歩かなかったのかもしれない。車に轢き殺されて潰れた子猫の死体を見るのが怖かったのかもしれない。生きていたとしても、再び子猫が自分を追って付いてくるのが怖かった。母の運転する車の中で、公園近くにさしかかると僕は体を伏せた。子猫が車の中の僕を見つけられるはずがないのに、そのルーティンは僕が学校へ通えなくなる一昨年まで続いた。
もし今公園に行ってあの子猫を見つけたら、あいつになりたいと思うだろうか。あいつはもうあれから五年も経ってるから、大人になってゴミを荒らし回る汚らしい野良猫になってるかもしれない。父や母は家に入れるのを嫌がるだろう。
頭にこびりついた子猫の像をべりべりと剥ぎ落とそうとしたが、以前僕の後をしつこく付いて回った時のように剥がしても剥がしても復活し、頭の中でにゃあと鳴いた。
しばらくして父の兄の家で飼っていた犬が子犬を八匹も産んだ、と連絡があった。その中から一匹押し付けられることになり、必然的に僕の行き先はその子犬になることに決まった。
市街地にあったペット禁止のマンションから郊外の一軒家へ引っ越し、慌ただしい日が過ぎて行った。同時に僕の容体も急激に悪化していき、点滴と酸素マスクが外せなくなった。医者に、僕の命は三日ももたないだろう、と言われ、慌てて母は博士に連絡を取った。急きょ父は親戚や友人、勤務先を奔走したが、大金を貸してくれるような人はいなかった。人間の意識を犬に転送するなど、信じる者はいなかったし、父が息子の死を前にして頭がおかしくなったのだろう、と皆、気の毒がっていた。
結局、三百万しか用意できずに博士の研究室へ向かうと、準備を整えて待っていた博士は金額を聞いて驚いて言った。
「一千万? まだ開発途中の研究です。お金など受け取れません。林が勝手に言ったんでしょう。林君! 君、一千万と言ったんだって?」
博士が猿を呼びつけて叱ると、猿がしらばっくれて言った。
「さあ、そンなこと言った覚えはありませンが・・・でも博士、三百万、受け取っておきましょうヨ。支援も断られたトコだし、当分の研究費になりますヨ」
「そんなことはできないよ。成功するかどうかも分からない不確実なものに三百万ももらえない」
「受け取ってください」
父が博士に言った。
「ゲンの命が長らえるかもしれないんです。三百万じゃ安いくらいです」
「ホラ、篠原さんも言ってるシ」
「このお金が役に立つなら、ぜひ使ってください」
母も僕の手を握りながら博士に言った。
「本当にいいのですか?」
博士が嬉しさを隠しきれずに言った。
「実は今、生体でなく人型ロボットへの意識転送を開発している途中なのです。成功すれば、ゲン君の意識も犬からロボットの方へ移行できるようになるかもしれません」
「それなら是非この金を使って、成功させてください」
父も母も僕の手を放し、博士の手を握った。
新たなる始まり
キャンキャンキャン
子犬の甲高い鳴き声で、僕は意識を取り戻した。
ぼんやりと僕の前に母と父の顔が見えた。母はどうやら泣いているようだ。父は呆然としている。奥の方で博士が猿を叱りつけている姿が見えた。
博士が両親に近づき、謝っているようだった。父が博士に渡したはずの封筒を、博士が父に返しているのが見えた。
子犬の息とキューンキューン鳴く声で聞きとれなかったが、父が何かを言うと博士は頷いて二人で金属の箱に向かった。博士が金属の箱を開けてみせると、父が手を中に入れた。手からジェルの塊がこぼれる。母も立ち上がり、金属の箱に近づくと両腕をジェルの中に潜らせた。
僕は思い出した。確か僕はあの中にいたのだった。いつガラスの箱に移されたのだろう。
息が苦しくなかった。体も痛くない。エネルギーに満ち溢れている。思い切り走り回りたい気分だった。
ああ、転送は成功したのだ。僕は子犬になったのだ。
僕は心地好い開放感に包まれた。
「あー、あいつ、あんなとこでション便してやがル」
猿の声が聞こえた。
僕はいつの間にかガラスの箱の中でシッコをしていた。僕は慌てて止めようとしたが、体は言うことを聞かなかった。長いことシッコをした後、吠え始めた。
うるさい! 吠えるな!
僕が叫ぶが「体」は言うことを聞かない。
「体」は吠え続けた。
「うるせーナ」
猿は僕の頭を叩こうと手を伸ばしてきた。
「イテッ! コイツ、噛みやがっタ」
猿は手を押さえて、跳んでいった。
でかした! 僕は「体」を褒めてやった。
博士が近づいてきて、僕に鹿肉ジャーキーをくれた。「体」は腹を空かせていたようだ。涎をだらだら垂らしながら食べた。幸福感が僕の方にも広がってくる。
博士は暗い目で僕を見つめた。
なに?
博士の目に涙が浮かんでいる。
ああ、転送は失敗したと博士は思っているのだ。
母も泣いている。父も暗い顔だ。
みんな、僕が死んでいなくなったと思っている!
僕はここにいるのに。
どうしたら伝えられるんだ?
ふと気づくと、母と父は僕を置いて研究室を出ようとしていた。
母さん、父さん、待って!
どんなに叫んでも母も父も気づいてくれない。
さっきまであれほど吠えていたのに、「体」の奴はうんともすんとも言わない。
母の暗い横顔を最後にドアが閉まってしまった。
僕は絶望に打ちひしがれた。
「ハカセー、あいつら犬、置いていっちまいましたヨ。実験にでも使いますカ?」
猿がニタニタ笑いながら僕に近づいて言った。
博士は奥の部屋に行って聞こえないようだった。
「わざと電源切ってやったンダ」
猿が歌うように言った。
「オレは甘ったれた奴がでえっきれえなんだヨ。親父とお袋に大事にヨシヨシされてるヤツの顔を見るとナ、反吐を吐きそうになル」
猿は顔を赤くして、ペッと唾を吐いた。
「オレのお袋はガキのオレを置いて男と出て行っタ。残った親父はアル中で毎日ガキのオレを殴ったヨ。殴られ過ぎて、オレは耳が聞こえなくなっちまッタ。博士に拾われるまで地獄の日々だったネ。博士は命の恩人サ。だから、オレは自分の体を博士の研究にささげたんダ」
猿は喋りながら、僕の周りをグルグル回った。独り言を言ってるのだろうか。
「ちやほやされて生きてきた奴には分からン苦しみダ。クズ、死ね、失せろ、毎日怒鳴られてみろ!」
猿が僕に近づき、頭を背後から小突いた。
「体」が振り返ったが、猿は既に届かぬところに逃げていた。
「転送などしなけりゃ、幸せに死ねたものを。馬鹿な奴ダ」
僕はハッとした。猿は僕が子犬の中にいることを知っている!
父も母も博士も、転送は失敗して僕は死んだと思っているのだ。このままだと僕は誰にも知られずにこの犬が死ぬまでずっとここにいなくちゃならない。僕がこの状況から出られるかどうかは猿にかかっていた。
頼む! 君の為なら何でもするから、博士に僕が子犬に転送されていることを伝えて!
背を向けている猿に僕は必死で願った。
猿は突然振り返り、にっと笑った。
突然、ズーンと重い痛みが頭に響いた。
キャン!
「体」が悲鳴を上げる。
長い棍棒を掲げている猿の姿が目に入った。先にふわふわとした布のようなものが付いている。モップだ。
再び棍棒を猿が振り下ろす。
危ない!
「体」が棍棒をすんでの所で避けた。
猿は悔しそうに舌を鳴らした。
「林君!」
その時、慌てて博士が奥の部屋から出てきた。
猿がモップを放って、博士の方へ走る。棍棒がドンと音を立てながら倒れた。
「なんでしょうか? 博士」
「あれらの世話をして、何か気づかなかったかね?」
「は? 私、餌をあげ忘れてましたか?」
猿のキョトンとした顔を見て、博士が首を振った。
「いや・・・、気づいてないならいい。掃除して、今日は早めに帰ろう」
「あの犬はどうしますか?」
博士は僕の方を見た。「体」は、博士の方を向いて尻尾を振りワンワン吠えた。
「今晩は、ここに置いておこう。明日篠原さんに電話して引き取ってもらうことにする」
しばらくして博士と猿は研究室を出て行った。
電気を消され、僕たちは暗闇の中に一人取り残された。そう僕たちだ。子犬の体の持ち主と僕。
しーんと静まり返った真っ暗な研究室はひどく寂しかった。子犬の体が一緒であることは心強い。
「体」はキュンキュン鳴いていたが、諦めてうずくまった。
おい!
僕は「体」に呼びかけてみた。
母さんたちは子犬を何て呼んでいたっけ。僕は子犬が家に来た頃呼吸するのがやっとの状態だったから、子犬と接触することができなかった。だからどんなやつなのか分からない。
ちび!
何の反応もなかった。
たしか子犬はまだ産まれて一ヶ月も経たない赤ん坊だった。犬の一ヶ月は人間の何歳なのか分からないが、いずれにしてもまだ幼い子供だろう。寂しくてしかたないに違いない。
よしよし、いい子だ。
こんなところに一人きりで置かれることになっちゃって、ごめんな。
僕は自分のことばかりに気を取られ、子犬自身のことを何も考えていなかったことに気づいた。もし転送が成功してたら、子犬の意識は消えていたかも知れなかった。子犬にとんだひどいことをしようとしていたのだ。
キュンキュンキュン
いつの間にか「体」は眠りながら鼻を鳴らしていた。きっと母犬に体をなめられている夢でも見ているのだろう。
いい夢見ろよ、ちび。明日は母か父が迎えに来てくれるだろう。
「体」が眠り、僕は一人きりになった。
「体」の寝息を聞きながら、母や父の悲しみを思った。青い顔でよろよろと研究室を出て行く二人の姿が思い出され、心が痛んだ。今頃何をしているだろう。食事はできただろうか。二人が暗い部屋の中で呆然と座りこんでいる姿が浮かんだ。僕が子犬の中で生きていることを知らせてやれたらどんなにいいだろう。猿が僕の両親に伝える見込みはなかった。
奥の部屋から動物たちが動き回る音が聞こえた。博士の実験用の動物たちだろう。子犬の耳なら遠くの音も聞こえる。
ふともっと遠くの方から足音が近づいてくるのに気づいた。研究所の建物からずっと離れたところから聞こえてくる。人間の靴音ではない。
「体」も目をさまし、耳をそばだてていた。
車の走る音やブレーキ音、人々の靴音、大きくなったり小さくなったりする音楽や女性の嬌声、怒鳴り声など様々な雑踏を通り抜けて、その足音はこちらに向かっていた。その音には悪意の臭いが感じられたから、僕たちは緊張して待ち構えていた。
長い間「体」は物音も立てず、足音を待っていた。遂にドアが開き、猿が顔を出した時「体」は低い唸り声を出していた。
「ケッ、いっちょまえにそんな声出せるのか?」
猿はモップをロッカーから取り出すと、身構えた。また殴られるのではないかと、僕も「体」も緊張する。
すると、モップの先は僕たちの頭ではなく、ガラスの箱を突いた。ガラスの箱はバタンと横に倒れ、僕たちは驚いて箱から出た。
ゴーン
背中に鈍い痛みが広がった。振り返ると猿が棍棒を振り上げている。
逃げろ!
僕が叫ぶ。
「体」は走り出した。
「ホラ、ホラ!」
後ろに棍棒を掲げた猿が迫っていた。目がつり上がり、血走っている。
ドアから出るんだ!
「体」に叫ぶ。
ドアはわずかに開いていた。猿がきちんと閉めていなかったのだ。
「体」はその隙間から外に出ると、階段を駆け上った。猿が追いかけてくる。
上がった先に扉があった。その扉もきっちり閉まっていなかったので、「体」は潜り抜けた。
出会い
僕たちは明りに向かって走り続けた。そのうちに追ってくる猿の足音も遠ざかり、「体」の足も遅くなった。
いつの間にか繁華街に来ていたようだ。酔っぱらいに蹴飛ばされ、僕たちはひと気のない裏道に出てとぼとぼ歩いていた。僕の家はここから車で一時間はかかるはずだった。子犬も車に乗せられてきたから、道は分からないだろう。
これからどうすればいい?
一番いいのは、研究所に戻って猿に見つからないところに隠れていることかもしれない。博士が来たら出て行けばいい。博士の前なら猿も暴力を振るわないだろう。でも、それをどうやって「体」に伝えられる?
突然、ドスの利いた男の声が聞こえてきた。
「てぇめえ、きたねえション便ひっかけといて、そのまま帰る気かよ」
どうやら一本向こうの道路から聞こえるようだ。
「ナニ?」
酔っ払った男の声が聞こえる。
「だからよ、てめえのション便かかって、きたねえって言ってるの」
「きたねえだと?」
「そうよ。クリーニング代もらわねえと困るんだよ!」
酔っ払った男の呻き声が聞こえてきた。
殴られたのかもしれない。
「なんだよ、これっぽっちかよ」
男の舌打ちする声が聞こえる。
「体」は声のする方へ向かった。
同時に前方から男が走って来た。
まずいよ、これ。怖いヤツが来たじゃないか。猿よりやばいぞ、おい、早く逃げろ。
男は僕たちに気づくと、「ぎゃあっ」と叫び声を上げた。
えっ? 僕たちは驚いて、立ち止まった。
「あら、かわいいワンちゃん」
か細い声で言いながら男が僕たちに歩み寄り、頭をなでる。
訳が分からない。どういうことだ?
男だと思っていた人は、声からすると女性のようだった。
恐喝していた男とは別人だったのか。でもさっきのあの悲鳴は男の声だったと思うけど、聞き違いか・・
「なに、これ、血? 怪我してるの?」
自分の手を見て、女性は心配げに僕たちをのぞきこんだ。優しそうな目だ。
「ここじゃ暗くて見えないわ。うちにいらっしゃい」
女性に言われ、「体」は尻尾を振って付いて行った。
まずい。博士の研究所に戻らないとダメだ! 明日博士は母さんに連絡して子犬を引き取ってもらうと言っていた。博士が研究所に来るまでに戻ってなきゃ、家に帰れなくなってしまう。
研究所に戻れ!
僕は強く命令した。
すると、いやだという拒絶の波動がどっと押し寄せてきた。同時に憎々しげな顔をした猿の顔が恐怖の感情と共に浮かぶ。激しい感情の渦の中に巻き込まれ僕は意識を失いそうになる。
だ、だめだ! ついていくな!
僕は必死に叫んだが、「体」は女性から離れようとしなかった。「体」はこの優しい女性に好意を感じていた。僕の声など全く聞こえていないようだ。
三〇分ほど歩くと、女性は三階建てのアパートの前に立った。女性は僕たちを抱き上げて、数字のボタンを数回押しノブを回して中へ入った。目の前に階段が現われ、女性は僕たちをぎゅっと抱きしめて昇り始めた。窮屈になった「体」が女性の腕の中でもがき始めた。
「だめ!」
女性が僕たちが逃げないように腕に力を入れた。
まずい。この女は優しそうなふりをして僕たちを捕まえて何かする気なんだ。
腕を噛め!
「体」は躊躇っている。
早く噛め! 逃げて研究所に戻るんだ!
研究所、と聞いた途端、「体」は尻込みしてしまった。
しまった、と思ったが、もう遅い。女性は階段を駆け上がり三〇一と表示された部屋のドアの鍵を開け、部屋の中に滑り込んだ。
一LDKの何の変哲もない普通のこざっぱりした部屋だった。犬や動物が虐待されて置かれている様子もない。
「体」は解放され、部屋の中を走り回った。
「ごめんね。ここ動物禁止なの」
女性は髪を短く刈り上げ男のような衣服を身に着けているが、華奢で青白く弱々しげだった。
「下のお部屋の人、しばらくお留守だって言ってたから良かったわ」
くーんくーんと体が冷蔵庫の前で鼻を鳴らした。腹を空かせているのだ。途端、僕も腹が減ってきた。
「牛乳がいいかしら・・」
女性が皿に牛乳を入れてくれた。
僕たちがが牛乳を飲んでいる間に、女性はラフなジャージに着がえてきた。手を洗い、牛乳を飲み終えた僕たちの頭を調べ始める。
そうだ、猿に殴られたところから血が出ていたのかもしれない。結構痛かったからな。
しかし、女性の手は別の部分を押さえていた。コードを頭に差し込むのに開けた穴だ。穴は全部で4カ所だが、ほんの数ミリ程度の小さな穴で、それに小さな丸いテープが貼られていた。毛も少ししか剃られていないので、気を付けて見なければ分からない程度だ。
「これ・・」
女性は驚いて、考え込んだ。
そのうちに「体」はそわそわし始めた。牛乳が合わなかったようだ。
まてまて、どこでしたらいいんだ。
カーペットの上じゃ、まずいぞ。どこだどこだ。
テーブルの上に新聞が広げられているのが見えた。
そこだ!
僕が叫ぶと同時に、体はテーブルの上に飛び乗り、尻から黄色い液体を噴出した。
黄色い液体は新聞紙いっぱいに広がった。
「なにしてやがる!」
突如、男の低い怒鳴り声が部屋中に響き渡った。
「体」は怯えて、テーブルの下に隠れた。便の強烈な臭いが辺り一面に漂っている。
目の前で先程まで女性だった男が顔を真っ赤にし、目を吊り上げ怒っている。
「テーブルの上でするヤツがいるか!」
一番汚さなくていい方法だと思ったのに、男はかなり怒っていた。
「体」はテーブルの下でぶるぶる震えている。
しかし男の顔はすぐに先程の女性の顔に戻り、声もか細く小さくなった。
「ごめんね。出てらっしゃい、怒ったりしないから。トイレを用意しなかった私が悪かったわ」
女性はこぼれぬ様に注意深く新聞紙をレジ袋の中に入れ、ギュッと口を縛った。ぎりぎりテーブルに滲みていなかった。が、もう少し遅かったら、テーブルに黄色いシミがついていたかもしれない。
玄関にゴミ袋を置きに出ると、女性は新聞紙の沢山入った段ボール箱を持って戻ってきた。
「今度トイレする時は、この中でしてね・・分かるだろ」
いつの間にか女性の顔が男に変わっていた。目も鼻も口もつくりは女性のものと同じだが、性質が変わるとこうも人相が変わるものなのか。
「体」は目の前の人間の急激な変化に、立ち竦んでいた。
「おまえ、あっちに行け」
男が荒っぽく手を払った。
「体」は部屋の隅に逃げ込んでうずくまった。
「オレは犬が嫌いなんだ。ガキん頃犬に咬まれてな」
キッチンから漂白剤を持ってくると、男はテーブルの上にぶちまけた。液がカーペットの上に垂れ、白くシミを作っていく。部屋中に塩素の臭いが漂った。
「犬がこんなとこで、うんこ垂れるか? わざわざ新聞紙にするか? ふつう床にするだろ」
男は漂白剤の容器を僕たちに投げた。
容器が体にぶつかり、体はキャンと悲鳴を上げた。
「お前は犬じゃないだろ、正体現わせ」
男がキッチンバサミを投げた。体は間一髪でかわし、ハサミは壁を傷つけて床に落ちた。
「なんとか言え。犬の振りするな」
男が包丁を出してきた。
「これがなんだか分かるだろ」
男が包丁を構えた。
「体」は低い声で唸り始め、少しでも男が動いたら跳びかかる態勢を取った。
「ちょ、ちょとまて、まてよ」
男は慌て始めた。
「冗談だって、お、おい、ストップ!」
「体」が包丁を持った男の手に跳び付いた。包丁が床に落ちる。
女性は咬まれた手をもう片方の手で押さえた。すぐに牙の痕を水道の流水で洗いにいき、バンソコウを貼った。
「体」も僕も訳が分からなかった。目の前の人間は、暴力的な男なのか、それともか弱い女性なのか。僕たちの前で女性は黙って漂白剤の容器を片付け、テーブルを拭き、換気扇を回して部屋の塩素ガスを抜いた。
女性は冷蔵庫の中から骨付き鶏足を取り出し、フライパンで焼き始めた。次第に部屋中が美味そうな匂いで一杯になる。よだれが落ちて、カーペットが濡れた。
水の入った皿を僕たちの前に女性が置いてくれると、水を飲み干した。喉が渇いていたのだ。飲み終わると、「体」は恨めしそうに鳥足肉を横目で見た。
女性は骨から肉を削ぎ落としていた。削ぎ終えると、女性は削いだ肉の入った皿を持って僕たちの前に来た。
「哲也さんも悪気があって脅したわけじゃないの。許してね」
そう言いながら、皿を置いた。
「体」は目の前に座っている女性を見て一瞬躊躇したが、すぐ皿にかぶりついた。
うまい!
こんな美味いものは食べたことがない。僕は感動した。人間だった頃、僕は母にこれはビタミンAとカロテン、ルティンがあって、目にいいから、とか、この胸肉には良質のたんぱく質がある、などと教わりながら、味よりも栄養を優先して食べていた。今はもう何も考えず心から肉を味わえる。
食い終えると、満足した「体」はうとうとし始めた。
傍で女性がじっと僕たちの様子を伺っていた。いや、女性でなく男だった。僕たちを観察しているのは男の方だった。
しばらくして、男が口を開いた。
「お前は美枝子の息子のゲンだろ?」
僕があまりに驚いたので、「体 が目を覚まし、男に気づいた。唸り始める。
「おい、ちょっとまってくれよ」
男はキッチンに逃げた。
女性に変わるかと思ったが、男のままで話を続けた。
「転送に失敗したな。動物なら失敗せんって話なのに、美枝子の奴も運の悪い奴だな。おい、ゲン、犬の頭に閉じ込められてるんだろ。そこから出してやれないことはない」
えっ!
「体」が唸る。
「興奮するな。落ち着け、犬が騒ぐ」
僕はできるだけ落ち着こうと努力した。この暴力的な男が母の知り合いだったのはショックだった。酔っぱらいを殴って金を巻き上げた奴だ。どんな関係だったんだろう。母のことを随分馴れ馴れしく美枝子と呼んでいる。
「おまえがオレんとこに来るとはすごい偶然だな。こいつの野生の勘に感謝しねえとな」
そうか。僕が必死に止めようとしているのに、「体」は女性の後を付いて行ったのだ。何かを感じ取っていたのかもしれない。
「オレも、目黒ちゃんの転送実験の被験者だ。人間を対象とした実験の唯一の成功例よ」
僕は納得した。これで全て説明がつく。男になったり、女になったり・・。目黒博士が確か言っていた。気の弱い女性に、気の強い男の意識を転送したら成功したって。しかし女性の意識を追い出すことができず、二重人格の人間になったと・・
「お前は今、犬の意識の中にいる。動き回ってみろ。厚い壁にぶつかるはずだ」
たとえどんな奴だとしても、僕をこの状況から救えるのはこの男しかいなそうだった。少なくとも母の息子である僕に対して男が悪意を持っていないことは感じられたから、彼の言葉に従うことがベストであるように思えた。
僕は外の世界を遮断し、今自分のいるところに意識を集中した。
母犬の乳首を吸っているシーン。
兄弟とじゃれ合うシーン。
母犬に舐められているシーン。
母犬と兄弟たちから引き離されるシーン。
様々な場面がごちゃまぜになり、ぼんやりとあちこちに揺れている。母や父が子犬を手招きしているシーンもあった。
猿が鬼のような顔をし、棒をかざして追いかけてくるシーンは他のものよりも大きく、色鮮やかであった。強烈なトラウマとして残っているのだろう。
それらを全て潜り抜けていくと、壁にぶつかりそれより前に進めなくなった。
これからどうすればいいんだよ。
しばらく僕は男の声を待った。
「犬が眠った。今がチャンスだ」
男のささやき声が聞こえてきた。
「人間の意識の壁は部厚いが、動物のは大したことない。眠ってる時は余計薄くなっているから、壁を破るチャンスができる。普通は転送する時のエネルギーの助けで壁をぶち破れるはずだが、機械にトラブルが起きてできなかったんだろう。お前は自分の意志の力で壁を破って外に出なきゃならん。でないと、3日以内に犬の中で意識は消滅することになる」
三日以内に意識が消滅すると聞き、急に恐怖が襲ってきた。
今までは自分自身が死ぬことに何の抵抗も感じていなかった。母や父を悲しませたくない、という思いだけが僕を生に引き留めていた。しかし、今は違った。子犬の中に入り込み、生への執念を直に感じることで何か自分の中で変わったのかもしれない。何としても生きていたい。死にたくない。死ぬまで犬の中にいてもいい。とにかく自分の存在が消えることに耐えられなかった。
しかし意志の力でどうやって壁に穴を開けられる?
体当たりしたが、壁は強力ですぐに弾き飛ばされた。動物なら意識の壁が薄い、と聞こえたのは空耳だったか? 何度も何度もチャレンジしたが、無理だった。
僕は男に助けを求め、意識を外に戻した。
しかし男の姿はなかった。もちろん男がいたとしても、僕は喋れないのだからどうにもならないのだけど。
電気を消したのだろう。部屋は真っ暗になっていた。
寝室の隙間からほんの少し明りが漏れている。起きているのは男か女性か。
「体」は目をさまし女性の作ったダンボールのトイレでシッコをすると、再び部屋の隅に戻って眠った。
その晩僕は壁と格闘していたが、結局穴を開けるのは無理だった。
チャーリーの死
朝、僕はすっかり疲れていて、男に話しかけられたのに気づかなかった。
「一緒に、職場に行くか?」
もう一度尋ねられて、僕はハッと意識が戻った。「体」は男に話しかけられ、唸り声をあげていた。
「こりゃ、ダメだな」
と、男が言うと、一瞬で女性に変わった。
「おいで、チャーリー」
いつの間にか女性は子犬にチャーリーと名前をつけたようだ。好い名だ。僕もそう呼ぼう。チビよりずっといい。
チャーリーが嬉しそうに近づくと、女性は頭と体中を撫でまわした。キュンキュンと僕なら恥ずかしくて出せそうもない声を平気で出して甘えている。
大きなカバンに女性は僕たちを入れた。チャーリーは嫌がらずに大人しくカバンに入っている。僕の知らないうちに随分と手懐けられたものだ。
女性は僕たちを抱いて急いでアパートから出ると、裏の駐車場まで行き車に乗った。小さな白い軽自動車だ。僕たちは袋から出されて後部座席に座らされた。
運転しているのは男のようだった。たまに運転席から男の悪態が聞えてきた。チャーリーは男の声を聞いても騒がなかった。車が動き出すと、すぐ眠り始めたからだ。
しばらくして、車が停まった。
車の窓から、青い大きな5階建てのビルが見える。その前に二重の門があり、それぞれに門番が立っていた。門のすぐ横の塀には大きく「エスタニック製薬会社」と文字が刻まれていた。聞いたことがある名だった。いつも飲んでいた薬のメーカーだっただろうか。
男が車のドアガラスを下げ許可証を見せると、白髪頭の守衛は顔見知りらしく男に向かって頷き、リモコンのスイッチを押して門を開けた。続いて二番目の門の前でも同じことを繰り返したが、二番目の門の守衛は若く、無愛想だった。
百台ほど車が並んだ駐車場で、車は止まった。男は車から降りると、後部座席のドアを開けた。
しかしチャーリーは唸り声を上げるだけで、降りようとしない。
いけ!
僕も叫ぶが、チャーリーは梃子でも動かなかった。
男は舌打ちをし、バンッとドアを閉めた。
「ションベンを中でするなよ」
キーで窓を開けながら、男が言う。
「それからゲン、オレが帰った時にいなかったら、置いて帰るからな」
男は青いビルの中に消えた。
しばらくチャーリーは車の中で女性を待って、キュンキュン鳴いていた。女性が戻ってきそうもないことが分かると彼は車の窓から跳び出し、 どこいくともなく何台も並ぶ車の中を歩き回った。
途中、数台の車が駐車場に入ってきたが、チャーリーはその度に車の下に隠れてやり過ごした。
もしチャーリーが男の後を付いて行ったら、どこに連れて行く気だったのだろうか。僕が意識の壁を破れるような何らかの手段がこのビルの中のどこかにあったのではないか。だから、僕たちを職場にまで連れてきたのではなかったか。
そう思うと、チャーリーが車から出なかったことが残念だった。
しかし、チャーリーはどこにいくつもりなのだろう。何かを嗅ぎ取ったようで、コンクリートの地面に鼻をクンクンつけながら前に進んでいる。
突然、人間ではない動物の臭いが鮮やかに漂ってきた。嗅いだことがある、少し懐かしい臭いだ。何だったろう・・記憶を探っていく。
その時、目の前に黒猫の姿が現われた。
チャーリーがワンワン吠えながら、逃げる黒猫を追う。チャーリーは猫など見たことがなかっただろうに、なぜ追いかけるのだろう? 犬は猫を追いかけるように本能に組み込まれているのだろうか。
僕はハラハラしながら、チャーリーと共に黒猫を追っていた。美しい猫だった。黒く艶やかに光る肢体に、しなやかな身のこなし。黄色く光る目。チャーリーをあざ笑うかのようにちらっと振り返り立ち止まっては優雅にゆっくりと走る。
青いビルの入口に近づくにつれ、黒猫の走る速度はゆっくりと落ちていった。チャーリーは勝ち誇ったように猛烈な勢いで黒猫に迫った。
ビルの壁に追い詰められた時、突然黒猫はチャーリーに向き直り、毛をフーッと逆立てた。チャーリーは驚きのあまり立ち竦み、足元に黄色みがかった液体が滴り落ちて小さな水溜りができた。
「情けない坊やね」
黒猫が喋った。
「まあ、おチビちゃんだからしょうがないけど」
この猫も博士に転送されているのか。
もう何が起きても僕は驚かなくなっていた。象がオペラを歌おうと老婆がヒヒヒーンといななこうとどうってことはない。何たって子犬の中に閉じ込められてる僕が一番おかしい。
「ゲン、あんたを助けてあげるわ」
黒猫は黄色い目で、僕たちを覗き込んだ。
僕は急に足元のおもらしが恥ずかしくなった。僕がしたんじゃない、と伝えられないのが残念で仕方なかった。
駐車場から歩いてこちらに向かってくる人物がいる。それを見て黒猫が言った。
「いい? 続いて中に入るわよ。急いで」
スーツの男性がせわしく自動ドアを通って中へ入った。その後を黒猫が続く。チャーリーが動こうとしないので、黒猫が毛をフーッと逆立てた。チャーリーはびっくりしてダッシュしたので、ドアが閉まる前にすれすれ中に入り込めた。
「私たちだけじゃ、体重が軽くてドアが開かないのよ」
黒猫が言った。
スーツの男がエレベーターに乗って消えると、僕たちはエレベーターの前を横切って階段を昇りはじめた。
黒猫は全てにおいて美しかった。外見から動作に至るまで上品でそれでいて野性的であった。この美しさはもともとの猫からきているのだろうか。それとも転送された人間のもつものであったのか。
僕は黒猫の階段を昇る後ろ姿を見ながら感嘆していた。
チャーリーはすっかり怖気づいていて、黒猫が振り返るたびにビクビクした。もともと臆病な性質なのだろう。猫におびえる犬の絵図は滑稽だが、目の前の黒猫とチャーリーに関して言えば、当然な上下関係に見えた。
最上階に着くと、黒猫は右に曲がり走り出した。そして一つのドアの前で立ち止まった。
僕たちが追いつくと、黒猫が思案げに言った
「暗証番号を押すのに台を用意しておいたのに、片付けられちゃったわ」
テンキーパッドは、僕たちの身長よりずっと上の方にあった。
黒猫がジャンプした。見事な跳躍だったが、ボタンは一つしか押せてないようだ。何度もジャンプしたが、途中でタイムアウトになってしまった。
「仕方ないわね」
息を切らしながら言うと、黒猫は僕たちを鼻先でテンキーパッドの下まで追いやった。チャーリーは黒猫にされるがままだ。あの猿や暴力男には唸ったり咬みついたり抵抗していたが、黒猫には全面降伏である。結局後ろ足で立たされた。
二本足で立っている僕たちの頭の上に黒猫が跳び乗った。驚いてチャーリーは逃げ出そうとしたが、黒猫に咬みつかれ踏みとどまった。
黒猫は僕たちの上で立ち上がり、手を伸ばす。何とかボタンに手が届きそうである。
8、0、5・・最後の数字を押しかかった時、突然ドアが開いた。
ドアの後に、男がいた。あの暴力男だ。
僕たちの姿を見て、男はプーッと噴き出した。
「すごい芸当じゃないか。いつの間に仕込んだんだ?」
シーッ、激しい音を立てながら黒猫は僕たちから跳び降りると、部屋の中にすっと入った。黒猫に促され、僕たちも入りこむと、ドアが閉まった。
十八畳ほどの部屋に本やDVD等の資料が入った棚が並び、中央には資料を座って閲覧できるように机と椅子も置かれ、机の上にはパソコンもあった。
「鮫島さんね。台を片付けたの」
黒猫が、部屋の隅に車輪が底についた高さのあるスチール製の台を見つけて言った。
「おかげで、ひどい目に遭ったわ」
「あんなところに置いてあったら、誰かが不審に思って入って来るだろうが」
「大丈夫よ。こんな時間にこの辺りに来るような人はいないから」
男と黒猫は知り合いのようだった。二人ともここの社員だったようだ。男はヤクザかと思っていたが、こんな大きな会社に勤めているとは驚きだった。
チャーリーが男に向かって唸り始めた。
「あいつ、何とかしてくれ」
「まさか、怖いの?」
黒猫が呆れて、男を見上げた。
「悪かったな。ガキん頃犬に咬まれて、縫ったことがあるんだ。犬は苦手だ」
「じゃ、誰が注射するのよ?」
「おまえだろ」
「できるわけないじゃない? 私、猫なのよ」
「猫のくせに、犬を手懐けてるじゃないか。注射ぐらいできるだろう、暗証番号を押してたぐらいだからな」
「ボタンを押すのと注射するのじゃ、訳が違うわ。まったく・・」
黒猫が首を伸ばして、僕たちの方を振り返った。首元に小さな三日月の白い模様が見えた。首に白い模様があるとは気づいていたが、三日月だったとは・・。公園の子猫と同じだ。だが、曲がった左後ろ足を引きずっていた、痩せてみすぼらしい子猫とは似ても似つかない。
「ゲンを助けるのは無理そうね」
黒猫が冷たく言った。
「ちょっと待ってくれ。オレが注射をする。君はあの犬を押さえつけておいてくれ」
慌てて男が言った。
「随分、ゲンに入れ込んでいるのね。美枝子さんの息子だからかしら」
黒猫の尖った言葉に男は何も返さず薄手袋をはめ、プラスチックの箱から注射器と赤い液体の入った小さなビンを出し、注射器の中に薬を挿入した。
「準備ができたぞ。犬を押さえてくれ」
黒猫は不満げにそっぽを向いていたが、突如僕たちに跳びかかった。黒くよく伸びた肢体に組み敷かれ、チャーリーは驚きと恐怖でうずくまった。
素早い動きで男は僕たちの首に注射器の針を刺した。一瞬の出来事だったので、チャーリーは抵抗することができなかった。
ゆっくりと僕たちは深い深い闇の底に沈んでいった。
小さな痩せてみすぼらしい黒い子猫が牛乳をペチャペチャ飲んでいた。
惨めなほど、生への執着を子猫はあからさまにし、最後の一滴までも残さず丹念に舐めつくした。
なぜこれほどに生きていたいのか。足の悪い子猫の将来は想像しても楽しいものになるとは思えなかった。これから苦労して餌を探し続けなければならない。カラスやキツネに狙われるかもしれない。無惨な最期を遂げるだろうことが分かる。このまま飢えて死ぬ方が子猫にとって幸せなのかもしれないのだ。
自分が欲せられるがままに子猫に餌をを与えていることは、子猫の為になることなのだろうか。
牛乳を舐めつくした子猫はまだ物欲しげに僕を黄色く光る目で見上げた。
「ごめん。もう何もないんだよ」
僕の言葉に腹を立てた子猫は唸り始めた。僕は怖くなって、逃げた。
必死で走る。運動会で走った時より、必死だった。僕がどんなに遅くても、足の悪い痩せこけた子猫よりも早いはずだ。
振り返ると子猫は、やはりずっと遅れて足を引きずりながら走っていた。
僕を子猫は黄色く恨みがましい目でじっと見た。
哀れに思ったが、僕はほっとして立ち去ろうとした。
その時、子猫が跳んだ。
子猫の首元に白い三日月が見える。
子猫は僕の上に被さってきた。
うわあ!
ゲン!
誰かの声がした。
ゲン!
ゲン!
聞いたことのある声だ。
目を覚ませ!
オレだ! 分かるか!
ああ、あの乱暴男の声だった。
周りを見回してみろ!
辺りはぼんやりとして何も見えない。靄のようなものがかかっている。
頭がガンガンして痛かった。僕の頭はもうないから、痛いのは子犬の頭か?
前にずんずん進め!
男の声が響いて、頭が余計痛くなる。うるさい。もっと静かに話せないのか。
僕は靄の中をゆっくり進んだ。
いいか! どんどん進んで行けよ。
「分かってる! もっと小声で話してくれ!」
思わず僕は怒鳴った。
「救世主に随分な口のきき方するじゃないか」
急に靄が開け、目の前に乱暴男の顔が見えた。
「うわっ!」
僕は驚いて叫んだ。とたん頭がガンガン鳴り響き、呻いた。
「騒ぐなよ。まだ薬も切れてないんだからな。ひどい目に遭うぞ」
くぐもっていた視界や音が急にクリアになっていた。乱暴男の顔がはっきり見える。男に見えていたが、よく見ると女性の華奢な顔立ちだ。声も、低く乱暴ではあったが、女性のものであった。
「こんにちは、ゲン、私の名はメイサよ」
黒猫がしなを作って近寄ってきた。
艶やかに黒くうねる肢体と黄色く光る目はより妖美に僕の心を揺さぶる。
「それから、この人、鮫島哲也」
サメジマ? 乱暴男にぴったりの名だ。
「エスタニックのワクチン開発チームのスタッフよ。あなたのお母さんも昔、ここで働いてたの」
ああ、それでこの会社の名を聞いたことがあったのか・・
「あなたのお母さんは会社でとてもモテてたらしいわよ。何しろ、鮫島が惚れてたらしいから」
鮫島は否定もせずに言った。
「いい女だったが、男の趣味が悪かった。オレのようないい男でなく、デブでダサいお前の父さんを選んだんだからな。」
父さんの悪口を聞いて、僕はムカッと来た。
「母さんは見る目がある。中身を見て父さんを選んだんだ。あんなに優しくて、いい父親はいない」
「ふん、大分甘やかされて育ったな。普通なら薬など使わず、簡単に犬の意識の壁など破れるものを」
僕は、ハッとした。
「チャーリーは?」
「チャーリー?」
鮫島が怪訝そうに言った。
「ああ、犬の方か? 薬でやられたはずだ」
僕はショックだった。僕のせいだった。自分のためにチャーリーを殺してしまったのだ。
「本来は転送の時にそうなるはずだったんだ。気にすることはない。この薬は転送で失敗した仲間の為に開発したんだが、結局人間は意識の壁が強固で薬で破壊することができなかった。ようやくこの薬も今になって役に立つことができた、ということだ」
博士が九人を人間で実験したが一件を除いて失敗した、と言っていた。その人達のことを鮫島は言っているようだった。
「黙って仲間の脳波が消えていくのを見るのは辛いものだ。三日もすると、皆消えていった」
鮫島がらしくない声で言った。よほど堪えたのだろう。
「チャーリーを犠牲にするくらいなら、僕は消えてよかった」
自己嫌悪で僕は泣きたくなっていた。
「やっぱりお坊ちゃんね」
黒猫のメイサが言った。
「世の中そんな甘いこと言ってたら渡っていけないのよ。みんな沢山の命の犠牲の上で生きられているの。ゲンだって肉を食べたことあるでしょ。薬も飲んでたでしょ? 薬も大量の動物実験のおかげで使えるようになっているのよ」
「ここの施設には実験動物が沢山飼育されているからな。お前も誰かに見つかったら、実験動物と間違えられて檻に入れられるぞ。目ん玉くり貫かれたり、脳をほじくり出されるからな」
鮫島が脅した。
「大丈夫よ。あなたみたいな可愛い犬は実験に使われないから」
チャーリーのことを何も知らないうちなら、何の感情も持たなかったのかもしれない。でも、僕はチャーリーの心を覗いてしまったのだ。ほんの一日だったがチャーリーと楽しいことも恐ろしいことも一緒に体験した。自分の分身が消えてしまったような喪失感があった。
あーあ、と黒猫メイサが伸びをした。黒い肢体が伸び、妙に艶めかしい。
「もう一時間も費やしたわ。鮫島さん、お仕事の方大丈夫なの?」
「まずいな。あと、頼むわ」
鮫島が薬や注射器をカバンに仕舞って立ち上がった。部屋から出ると、ドアが閉まらないようにボールペンを挟んだ。
「おまえ、猫になって随分色気出たな」
去り際に、鮫島が黒猫メイサにふっと声をかけた。
「今更何言ってるの・・」
メイサが鼻で笑った。その横顔は少し寂しげに見えた。黒猫はひょっとすると鮫島のことが好きだったのかもしれない。僕は鮫島に嫉妬を覚えた。
「これからだけど、私は調べることがあるの。ゲンはここにいてちょうだい。誰も来ないと思うけど、誰か入ってきたら隠れるのよ。あっ」
黒猫メイサは僕の頭の小さなテープに気づき、鋭い爪を使って全て剥がした。痛みはなかった。
「もしもの時のために剥がしておくわ。あなたが人間であることが知られないようにね。血も止まってるし大丈夫。後で鮫島さんがあなたをお母さんのところに連れていってくれるわ。それまで見つからないように」
そう言い残すと、黒猫メイサは部屋を出て行った。
僕は一人になると、椅子の上にうずくまった。薬の影響で頭はがんがん痛かったし、昨日から様々なことが急激に起きてくたびれていた。そして何より夜には母と父の所にいるのだ、と思うとほっとして力が抜けた。これからのことは、母たちと考えればいい。僕は深い眠りに落ちた。
動物実験の材料へ
近づいてくる男の声と足音で僕は目を覚ました。
僕は慌てて棚の陰に隠れた。
「なんだ、ドアが開いてるぞ」
背の低い男が挟まっているボールペンに気づいて、拾い上げた。
「誰か慌てて部屋から出て行ったんだろう。ボールペン落としたのも気づかんで」
もう一人の男が言った。
「米倉だ。昨日、実験映像を取りに来たはずだからな。まったく不用心な奴だ」
男が二人入ってきて、棚に並んだ資料を探し始めた。
「一九五一年、朝鮮戦争・・細菌爆弾、あったぞ」
分厚い資料を取り出し、二人で確認している。
「やはりな・・米倉の言うとおりエイジイはここが起源だな。北朝鮮の山中の村で奇妙な伝染病が流行。感染すると急激に老化が進むが死には至らず。老人ばかりの村・・アメリカ軍の兵士に感染者あり・・ウイルス特定するが、兵器としては使えず・・自然宿主はネズミ・・・石田峯三? 初代社長か?」
「ここの創設者が元七三一部隊出身だって噂で聞いたことがあったが、本当だったらしいな。アメリカに協力して戦犯を免れたんだ」
眼鏡をかけ、色白のインテリ風の若い男が言った。
「ああ、それはオレも聞いたことがある。戦犯免れて会社を作った話は結構有名だ」
背が低く吹き出物だらけの男が言った。
「死には至らず、てことは、ひと昔のエイジイはそれほど強力ではなかったっていうことだ。二十年前にアメリカ北部で発生したエイジイ患者は感染して一週間で死亡してる」
インテリ男は一九九六年の資料を見ながら言った。
「ウイルスが遺伝子操作されたんだろ」
「おそらくな。北朝鮮からウイルスを持ち帰った奴らがウイルスを変異させて重症化させることに成功したんだ。研究所からウイルスが漏れて、死者が出た。それで、ここでもエイジイのワクチン開発が始まったが、五年で中止になった。なぜだと思う?」
「エイジイが流行しそうもないからじゃないのか?」
「九六年の資料を見ると、感染者が六人と出てる。感染者は全員死亡しているが、この変異ウイルスは人に感染しにくいらしい。ウイルスを直接口に入れたりしなければ、感染しないと書かれている。結局、研究所で働いていた男の愛人が男の家に行って飲用水にウイルスを混ぜた、って言うのが真相らしいね」
「最近、うちでエイジイのワクチン研究を再開したのは・・」
「どうやら世界中で少しずつ広がってるらしい。感染力はあまり強くはないが、感染したら確実に死亡する。ロシアとスペイン、中国、ドイツ、アメリカで何人か出てる」
「日本じゃ聞かないが・・」
「うちのエイジイワクチン班の奴らが全員姿を消したって知ってるか?」
インテリが急に声を落として言った。
「本当か?」
ニキビ顔が驚いた。
「みんな、エイジィに感染したのか?」
「おそらくな。ワクチンを開発している過程で、ひょっとするとウイルスの感染力が強まったのかもしれない。連中は感染のリスクに感づいていて、あらかじめ死ぬ準備をしていた。家族には遺書を残しているし、家族に移さないように一年泊まり込みで自宅に戻ってない。さすがエリート達だよ。こっそり葬儀も行われたらしい」
「いつ頃の話だ? まったく気づかなかった」
「二ヶ月前だよ。上の連中が必死で隠してたから無理もないだろう」
「よくお前、知ってるな」
「米倉の兄貴がワクチン班だったからな。兄貴の死を不審に思って調べ始めたんだ。遺体も戻らなかったそうだ」
「気の毒だったな。米倉・・しかしこれでワクチンも中断か」
「いや、新たに人を入れて続けてる。伊林詩織っていう男だか女だか分からん奴がチーフだ」
僕は男たちの話があまり理解できなかったが、男だか女だか分からん奴、というのが鮫島だということはピンときた。あの乱暴男は意外なことにエリートらしい。
それよりも僕は便意を催してきていて、むずむずしていた。ここでしてしまったら、とんでもないことになる。男たちも臭いですぐ気づいてしまうに違いない。この部屋に来る途中で便所を見かけた。すぐにでもあの便所に駆け込みたい。
僕の願いが通じたのか、ニキビ顔が椅子から立ち上がった。
「昼休みも終わりだ。さあ行こう」
二人がドアを開けた時、僕は突っ走った。もう限界だったのだ。男たちに見つかろうと、どうでもよくなっていた。男たちの足の間をくぐり抜け、僕は便所へ走った。後ろから男たちの叫びが聞こえたが、気にしている余裕などなかった。
便器の上に飛び乗り一気に出すと、僕は可笑しくなってきた。こんな風に品良く便器に座って用をなす犬はいるだろうか。僕は前足でボタンを押し、便を流した。残念なことに、いや幸運なことに便所には他に誰もいなかったから、僕の滑稽な姿は僕だけの頭の中に仕舞われた。
手を洗うか迷ったが、結局床に手をついて歩くのだから無駄なことだ、と思い止めた。便をした後洗わないのは気になるが、直に慣れるだろう。
二人の男たちの姿はなかった。僕を探し出す気はなかったようだ。男たちの様子からすると、ここに来たことがばれては困るのかもしれない。
黒猫メイサが戻ってくるまで、僕は大人しく部屋の前で待っていることにした。しかし便を出したせいか腹が減ってきた。メイサが来るまで我慢しようと堪えていたのだが、体がいつの間にかふらふらと階段の方へ向かっている。どこからか美味そうな匂いが漂ってくる。よだれが口からこぼれ落ちた。
僕は匂いがくる方へ引き寄せられて、階段を下りて行った。もう頭からメイサのことは消えていた。
階段を下りきると、朝、黒猫メイサに連れられて通った自動ドアが見えた。それとは反対に進むと食堂らしきものが奥に見える。中に大勢人がいるようだ。その手前に正面玄関があり、受付が横にあって若く綺麗なお姉さんが座っていた。
「かわいい!」
僕が食堂に吸い寄せられて進んでいくと、走ってきた受付のお姉さんに抱き上げられた。
「みて! ぬいぐるみみたいよ!」
ちょうど食堂から出てきた若い女性たちにお姉さんが叫ぶと、たちまち僕は女性たちに囲まれて触りまくられることになった。
「どこからきたのかしら」
「ここを歩いてたのよ」
「誰が連れてきたの?」
「あたし、こんな犬欲しかったのよね」
「こんな犬なら、あたしも欲しいわ」
女性にモテたいと思ったら、子犬になるのがいいだろう。この時に僕は一生分のモテ期を費やしてしまった。
「触るんじゃない!」
突然、制服を着た無愛想な男が割り込んできて僕をつまみあげた。
「研究所から逃げ出してきたやつだ」
無愛想な男は僕を鷲づかみにして、驚く女性たちを背後に裏口に向かった。
「ひどい。あんな可愛い子を実験に使うなんて」
「みて、怖がってるじゃない」
「あたし、飼ってもいいわ」
「ちょっとなんの実験に使うつもりなの」
女性たちの悲鳴を聞きながら、この無愛想な男は僕に嫉妬してるのだと思った。彼も、このくらい若い女性にモテたいのだ。
無愛想な男に裏口から連れ出された時、階段の端にちらっとメイサの黒い影が見えたような気がした。僕は少しほっとした。あれが黒猫メイサならきっと助けに来てくれるだろう。勝手に部屋を出たことを怒っているにちがいない。
僕が連れて行かれたのは、ビルから少し離れた場所にある研究施設だった。数部屋に渡って実験用の動物たちが檻やガラスケースに入れられている。僕の部屋には、猫や犬、猿が数匹ずつ収容されていた。皆、僕が部屋に入ってきても啼いたりせず、諦めたように静かだった。
僕は動物たちの世話をしているらしい若い男に引き渡され、檻に閉じ込められた。
「随分かわいい新米がきたな」
若い男は首を傾げた。
普段、実験用の動物は愛着がわかないように、可愛げのないのを使っているのだろうか。
僕は周りの動物たちを見回した。
猫も犬も猿も皆表情がない。猫は十数匹いるが皆似ている。兄弟か、血筋が近いのだろう。実験するには似た遺伝子を持つ動物が多くいた方が比較するのにもいいのかもしれない。犬もアイヌ犬らしいのが八匹いる。僕とは全然違うタイプの犬だ。猿はよく分からなかった。顔は皆似ていた。
皆、実験用の動物としてここで生まれ育っているのだろうか? 日も浴びず草の上を走り回ることもなく、ここで一生を終えていくのだろうか? 初めから生きることを諦めているから、こんな暗い目をしているのだろうか。
チャーリーは生きることに貪欲で、ここにいる動物たちと正反対だった。
食用の家畜たちはどうなのだろう。
身動きだけができる狭い空間で太るために餌を大量に与えられている豚の写真を父と見たことがあった。デイズジャパンという雑誌だったか。鶏も卵を産むマシーンとなって狭いゲージの中で生かされているという。乳牛も本来は草を食べる動物であるのに、栄養価の高い配合飼料を与えられて乳を搾り取られ、寿命の半分も生きられないと聞いた。
「世の中そんな甘いこと言ってたら渡っていけないのよ。みんな沢山の命の犠牲の上で生きられているの。」
メイサの声が頭の中で響いた。
僕は、そんな価値のある人間なのか。チャーリーを犠牲にして、沢山の動物たちを犠牲にしてそこまでして生きる価値があるのだろうか。
そこまでして生きていいのだろうか?
暗い目で一匹の猿が僕の方をぼんやり見ている。
僕は、この猿より本当に価値があるのだろうか?
同じ病気の子供と
水を飲むのが難しい。
僕は水を飲むという行為に苦心していた。
隣りの檻にいる犬の飲み方を観察し、真似てみるがうまくいかない。どうしても舌でうまく水をすくえないのだ。
器から水を一気に口に流し込んでしまいたい。
猫と犬の水の飲み方も違うようだ。猫はペチャペチャと音を立てながら上品に舌の上に水をのせて飲んでいる。しかし、犬は舌を裏側に丸め、水をすくってバシャバシャと飲んでいる。器に入った水の大方が周りに飛び散っているような状態だ。非効率な飲み方だ。オオカミもそうなのだろうか。よく滅ばないで生きながらえてきたものだ。水の豊富な地域に生息してきたのかもしれない。
もう、やめた!
僕は器を両手で持ち上げ、水を口に流し入れた。
最初からこうすれば良かったのだ。
カラカラだった喉が潤い、腹ペコの胃にモノが入ってちょっとはマシになった。
でも、腹が減っている。早くごはんを持って来てくれないだろうか。この際、ドライフードでもなんでもいい。
すると妙に緊張し、かしこまっている先程の若い男の声が近づいてきた。
「は、は、はい。わ、私もおかしいと思ったのです。ここから逃げた犬ではないのです」
「ちょっと見せてくれたまえ」
「は、はい」
若い男が、きっちりした身なりの紳士を連れて入ってきた。
髪もきれいに整えられ、洗練された雰囲気がある四、五〇代の男性だった。
紳士は僕をしばらく見た後、若い男に僕を檻から出すように言った。
「ゲージに入れてくれ。私が連れて帰る」
「は、はい!」
若い男は僕を小さな籠に入れた。
「私がお車までお運びします。」
「申し訳ないな。ありがとう」
「いえ、とんでもございません、副社長」
僕は高級車らしいグレイの車に載せられた。直前、周りを見たが、黒猫メイサらしき姿は見えなかった。
どこに連れて行かれるのだろう。副社長って言ってたよな。偉い人なんだ。この人の家に連れて行かれるんだろうか。
今晩は家に帰れるはずだったのに、またもや両親と遠のいてしまう。メイサは僕が車に載せられたのに気づいてくれなかっただろうか。
副社長は運転中、ずっと電話をしていた。仕事の話のようだ。
「家に寄ってから、すぐ行く。三〇分後だ」
僕はずっとシッコを我慢していた。この立派な車の中でするのは気が引けた。ケージの台から漏れてこぼれてしまうかもしれない。そのくらい膀胱に溜まっていた。
もう膀胱が破裂しそうだ。犬なんだから、漏らしたっていいじゃないか。
そう観念した時、車が停まり、後部座席のドアが開いた。
僕は後ろ足を上げ、外に向かって思いっきり尿を噴射した。
「わあっ!」
副社長の声が聞こえた。
見ると、シッコが副社長の立派なスーツにかかっている。
僕は慌てて止めようとしたが止まらないので、体を動かして狙いを別の場所に定めたが、慣れていないのでシッコは逃げる副社長の靴にかかったり、頭にかかったりした。
ようやく治まると、副社長が「参ったなあ」と言いながら、僕を覗きこんだ。意外なことに笑っていた。
「元気な奴だな」
副社長は言うと、僕の入ったケージを持ち上げ立派な邸宅に入っていった。
「旦那様、どうされたのですか? 濡れてらっしゃいますけど」
年配の女性が出てきて、副社長をタオルで拭き始めた。
「大したことはない。すぐ出かけるから別の靴とスーツを用意してくれ」
「はい。そちらの子犬がお電話下さった?」
「リュウが気に入ればうちで飼おうと思ってる。リュウは?」
「お部屋にいらっしゃいます。ご容体はお変わりありません」
「ちょっと行ってくる。加奈子は?」
口ごもりながら年配女が答えた。
「ちょっとお出かけに」
副社長の顔が急に厳しくなった。
「奥様も、お坊ちゃまのご看病にお疲れなんです。気晴らしに・・」
年配女の言葉を最後まで聞かずに、副社長はエレベーターに乗った。
部屋に入ると、車椅子の子供が絵本を見ていた。
「リュウ!」
副社長が大きな声で呼ぶと、子供が振り向いた。赤いシミが多数ついた老人の顔。
かつての僕がそこにいた。
「これ見てくれ」
老人は僕を見ると、皺だらけの顔で嬉しそうに微笑んだ。
「犬だ! ボク、犬を飼いたかったんだ」
「レックが死んで、リュウも落ち込んでたからな。新しい犬はどうかな、って思ってね」
「レックって?」
副社長はハッとしたような顔をした。
「前に飼ってた犬の名だよ」
「フーン、ボク、飼ってたっけ? 最近、ボク、忘れっぽいんだ」
副社長は僕をケージから出した。
どうすればいい? チャーリーだったらどうする?
僕はチャーリーになりきったつもりで、老人の元へ駆け寄り、じゃれついた。
老人は嬉しそうに笑った。
「サンって名前にするよ、パパ」
副社長はそれを聞いて、安堵の表情を浮かべた。
それから僕はしばらくこの家で過ごすことになった。
五ヶ月も経つと僕の体はぐんぐん大きくなり、来る前の三倍にも四倍にもなった。きっとメイサや鮫島は今の僕を見ても分からないだろう。
僕はこの家の、リュウの世話係だった。リュウが車椅子に乗る時に助けたし、車椅子を押して歩いた。何かを欲しがったら、それを取ってきて渡した。紙おむつの交換はできなかったから、その時はベルを押して小堺さんを呼んだ。小堺さんはこの家のお手伝いさんだ。小堺さんは僕がいてどれだけ助かるか、いつも副社長の謙一さんに話していた。
リュウは僕が罹っていたのと同じ病気を患っていた。リュウは僕より二歳年下の一五歳だったが、認知症も進行していて、母親のことも分からなくなっていた。
「サンって名前にするよ、パパ」と言われて、謙一さんが安堵の表情を浮かべたのは、リュウが父親を忘れていなかったことが分かったからであった。そんなことを知らずに、僕は勝手に謙一さんは僕を気に入って自宅に置いておきたいのだと、勘違いしていたのだ。
僕はシッコをひっかけても怒らなかった謙一さんが気に入ってたし、自分と同じ病気のリュウのことも気がかりだったから、ここを出たいとは思わなかった。
両親に会いたい気持ちは変わらない。今両親がどんな生活をしているのか、気になる。でももう、会ってはいけないような気がしていた。会って、両親の生活を乱すようなことをしてはいけないのではないだろうか。
「ボクのママは、背が小さくて、顔もタヌキみたいな顔をしてたけど、すごくやさしかったんだ」
リュウはよく母親の話をした。
「お坊ちゃまがまだお小さい頃、お世話をしていた荻さんっていう方のことですよ。とても慕ってらっしゃったんですが、結婚されて出て行かれたので、ひどく悲しがっていました」
リュウの母親の加奈子さんは健在で今も一緒に暮らしている。モデルのようにスタイルの良い美しい女性だ。不思議に思って尋ねたかかりつけの医師に小堺さんはそう話していた。
本当の母親がいる前でも、リュウは荻さんという人を母さんと呼んで話をしていた。悪気がないのは分かるが、加奈子さんが傷ついた顔をしているのを見ると、無邪気な人ほど罪作りな人はいないと思う。
加奈子さんは感情を表に出して伝えるのが下手なだけなのだ。リュウをとても愛しているのはよく分かった。チャーリーのように、素直に感情を表すことができれば、リュウとの間も夫婦の関係も良くなるのに。
製薬会社の陰謀
ある晩のことだった。驚くべき訪問があった。
鮫島が、相変わらず黒い革ジャンの姿で乱暴にホールに入ってきたのだ。
「すげえ、豪邸だな」
鮫島は無遠慮に家の中を見回した。
僕がここにいることを知って、迎えに来たのかしら?
二階の手すりから顔を出すと、鮫島は僕の姿を見てぎゃっと悲鳴を上げた。
忘れていた。鮫島は犬が大の苦手だったのだ。
傍にいた謙一さんが僕に合図をしたので仕方なく姿を隠した。
どうやら僕を連れ戻しに来たわけじゃないようだった。
謙一さんは一階の応接室に鮫島を案内した。
鮫島は何しに来たんだろう。品の良い副社長と乱暴な鮫島には接点がないように思える。同じ会社に働いている、という点以外は。
加奈子さんがコーヒーを持って応接室に向かったのを見て、僕も一階に降りて向かった。リュウはもう眠っていて、お手伝いの小堺さんも自分の部屋に引き上げていた。
僕は応接室のドアの前に座って聞き耳を立てた。
「ご無沙汰してます」
鮫島の声が聞こえた。
「ごめんなさい。伊林さんでしたっけ? 私、どこでお会いしたか覚えてないんです」
「伊林でなくて、鮫島です」
「鮫島さん? まさか・・色黒でもっとなんというか、男らしい方で・・」
「加奈子、もう行きなさい。二人だけの話があるから」
「いいだろ、石田。加奈子さんにも聞いてもらいたい話だ」
「後から、俺が伝えるよ。二人だけで話したいんだ」
謙一さんが強く言った。
ドアが開き、加奈子さんが青い顔をして僕の横を通り過ぎた。ドアの前の僕には気づかなかったようだ。
「随分、加奈子さんに冷たいんだな」
「息子を放って、外をほっつき歩く女だ」
「こんな牢獄に閉じ込められてちゃ、外にも出たくなるだろう。俺だったら、三日も持たないね」
コーヒーをすする音が聞こえた。
「仕事は順調か?」
「まあまあかな」
「感染だけは気を付けてくれよ。お前の体じゃないんだからな」
「前回のは、新米研究員のミスだ。感染した猿に情を移した奴が無防備な格好で水を飲ませにいったのが原因だ。今回はベテランしかいない」
「研究所から出るなとは言わないが、あまり出歩いて、ウイルスを撒き散らすような事態だけは避けてくれ」
「ああ・・」
大きな音を立てて、鮫島がコーヒーを飲んだ。
僕は顔をしかめた。母がよくコーヒーを音を立てて飲む人は嫌いだ、と言っていた。僕もいつの間にか母に影響されていた。
「米倉の弟がいろいろ調べてる」
「ああ、そのことは俺の所にも情報は入ってる」
「今日、奴が俺に会いに来た」
「! なんて」
「伊林詩織に変わってやった。フフ、奴は面食らってたぞ。相手にしてるのが、腹黒い男じゃなくて、おどおどした女だからな」
《鮫島の話》
俺が車に乗り込もうとしたら、奴が急に声をかけてきた。
「すみません、ちょっとお話が・・」
俺はピンときて、詩織と入れ替わった。
「な、なんでしょう」
「・・・女性の方だったんですね。申し訳ありません。少しお時間をいただいていいでしょうか?」
「ええ、少しなら・・」
奴は詩織をベンチに誘った。
「・・こちらの会社に入社されたのはいつ頃ですか?」
「ええと・・、6ヶ月くらい前だと思います」
「入ってすぐに今の部署に? なかなか入れない部署ですが、どなたかのご推薦でも?」
「え、鮫島さんの・・」
「鮫島さんは7か月前の一〇月一一日に亡くなってますよね。その鮫島さんが生前あなたを推薦していたと・・?」
「え? ま、まあ・・」
「鮫島さんは心不全で亡くなったとされていますが、本当のところどうなんでしょう?」
「わ、私には、分からないです」
「同じ部署の一〇人が同日亡くなっています。事故としか考えられないでしょう。そして八人が遺書を残しています。危険な仕事をしていたから、あらかじめ用意してあったと考えるのが妥当だと思います。彼らは、エイジイのワクチン開発に当たっていました。エイジイは感染率も低い恐れるに足りないウイルスです。彼らは本当にワクチンの開発をしていたのでしょうか? 感染率の高い強力な病原性のウイルスを開発していたのではないですか?」
「ま、まさか・・」
詩織は衝撃を受けて、震えていた。
「或いは誤って開発してしまい、部署全員が感染してしまった。感染したら致死率一〇〇パーセントのウイルスです。分かっているから死ぬ前に、遺書を書いたのです」
米倉の弟は、詩織が愕然としているのを見て何も知らない、と踏んだようだった。
「フランスやベルギー、スイスなどでは野生のキツネの狂犬病予防対策の為に、ヘリコプターでワクチン入りのクッキーを森林に散布して効果を上げました。ワクチニアウイルスに狂犬病ウイルスの被膜の遺伝子を組み込んで、食べる狂犬病ワクチンを作ったのです。この方法なら、注射をしないで空からばら撒くだけで予防ができます」
IQの低い詩織にこんな専門的な話をしても無駄なのに、米倉の弟は話し続けた。
「血管に注射して予防する方法はリスクが伴います。水銀、アルミニウム、アジュバント、ホルムアルデヒド、グルタミン酸ナトリウム、ポリソルベート80、ツイーン20・・などの毒物を血液の中に入れることになります。副作用もおきます。その病気は防げても、自閉症や癌やアレルギーになる可能性があるわけです。だから、子供たちの為に兄はもっと安全で負担の少ないワクチンを作りたい、といつも言っていました。兄は飛沫感染で簡単にエイジイウイルスの抗体を作る安全なエイジイワクチンを開発しようとしていた可能性はあります。たとえば弱毒化して、飛沫感染しやすいインフルエンザウイルスのようなものにエイジイウイルスの何らかの遺伝子を組み込んでみたら、接触やくしゃみから広がって楽に抗体が作れるようなワクチンになるかもしれない。こんなワクチンじゃ、儲けにならないから会社から隠れて研究をしていたかもしれません。ところが、動物実験を行っている最中に、想定外の出来事が起きてしまった。弱毒化したはずのウイルスが強毒化し、実験動物が感染して死亡した。さらにその動物から瞬く間にエイジイワクチン開発部のメンバー全員に広がった」
さすが米倉の弟だよ。そこまで突き止めるとはね。米倉と同じ遺伝子を持っているだけある。
「そのままみんな死んでいればよかったんだ」
突然米倉の弟が吐き出すように言った。
なに?
俺は耳を疑った。何を言い出すんだ、やつは。
「伊林さんは以前、スーパーで働いてらっしゃいましたよね」
「は、はい」
急に振られて、詩織はビビッていた。
「辞めたのは何か理由でも?」
「いえ、あの、スーパーの仕事が自分に合わなくて・・人間関係も上手くいかなくて悩んでいたもんですから・・」
「そこに、いい話が舞い込んできたんですね。実験に協力したら、大金が手に入る、という・・」
「え、あ、そそんな、話は・・」
詩織はしどろもどろになっていた。
俺は、米倉の弟がどこまで知っているか大人しく観戦させてもらうことにしたよ。
「あなたは、お父さんが競馬でこしらえた借金を返すのに闇金から借りた額が山のように膨れ上がっていた。そこへ、そんな話が舞い込んできたから、飛び付いた。目隠しをされてある施設に連れて行かれ、注射をされた。気づいたら、自分の中に別の人間がいた」
「そ、そんなこと・・・あ、あるわけないじゃないですか!」
「私はあなただけでなく、他の方々からも話を伺っているんです。最初はどなたも話してくれませんでした。何度も訪ねて誰にも口外しないと約束しましたら、少しずつ話してくれるようになりました。皆さん、施設で注射をされて意識を失っているので何をされたのか知りません。ただ意識を取り戻した時に、頭の中に誰か別の人格がいることに気づいた、と皆さん言っておられます。あなたと違うのは、三日でその誰かが消失したということです」
暗闇の中、白い防御服をきた男たちに白い施設の地下に連れられて行った時の光景が浮かんだ。
「鮫島、お前も陽性だった」
ゴーグルの下から覗いたお前の目は申し訳なさげに俺を見ていた。それで、俺も観念した。
防御服も着ないで、俺に近づこうとしたもじゃもじゃ髪の眼鏡男がいたから「てめえ、死にてえのか!」と、怒鳴ってやったことは覚えている。
注射をされ意識を失い、気づいたら会社の研究施設の中にいた。
俺以外は皆失敗だったと聞いて、仲間の意識を何とか救い出せないか必死に考えた。結局、何をやっても変わらぬまま、次々仲間の脳波が消えていった。その時の、俺の無力感が分かるか?
「そのままみんな死んでいればよかった」だと?
「私は兄を探しました。最初、あなたの中に兄がいるのではないか、と希望を持ちました。でも、残念ながら、そうではなかった。兄は物静かな人でしたから、横柄な態度をとるあなたとは全く違う。私は被験者となった方全員に、三日の間頭の中に存在していた別の人格の意識や記憶を辿ってもらいました。しかしその中に兄貴らしい人格はなかった・・」
奴の言葉が途切れた。
俺は次の言葉を待った。
「兄は・・兄は・・」
米倉の弟の言葉が震えた。
「自分で自分の命を絶ったんだ――」
俺はショックだった。まさか、米倉に限って絶対にありえない。奴とは二〇年以来の付き合いだ。最後まであきらめないしつこい性格だった。確かに感染した俺たちが隔離されていた部屋には米倉はいなかった。後始末を一人でしているものだと思っていた・・、石田、コイツはでまかせを言ってるんだろ?
「兄は遺書で・・人は自然の一部である。決して自然に逆らってはならない。自然に逆らうということは、自殺するようなものだ。誤った方向に進まないよう、道を正さねばならない。健二は道を間違えるな・・と、書き残していました。」
米倉の弟は立ち上がり、歩き回った。
かなり冷え込んできて、詩織の体は冷たくなり、歯がガチガチ鳴っていた。
「兄は誤ってできてしまった強毒性のウイルスが世に出ないように、自分が死ぬことでウイルスを封印しようとしたんです。ウイルスを作った時の重要な部分はおそらく兄の頭の中にしかなかった。だから、自分が死ねば世に出ることはない、と思ったんでしょう。兄貴ならそうします」
奴は俺の目を強く睨んだ。詩織でなく、俺の目だ。詩織はビビッて今にも逃げ出しそうだった。俺ががっちり捕まえていねえとな。
「それなのに、鮫島さんは一体何をしてるんですか? あなたはせっかく兄が封印しようとしたウイルスを掘り起こそうとしている。会社の命令ですか? 会社はそのウイルスを使って一体何をしようとしているのです? 外国に売り渡すつもりですか? この遺伝子組み換えの猛毒ウイルスが世に出たら、世界中に瞬く間に広がって数億の死者が出るかも知れません。あなたは・・」
僕はとんでもない話を聞いていた。恐ろしいことが身近で進行していたのだ。この人たちは何をしている人達なのか?
「どういうつもりで俺たちを助けようとした? なんで俺にワクチン開発の続きをさせている? え、石田!」
「俺は知らない。社長命令だ」
「お前の親父だろ。息子なのに知らないのか」
「・・わからないんだ。すまん、鮫島」
沈黙が流れた。
「石田、・・米倉は本当に自殺だったのか?」
「・・・あいつから感染の知らせをもらって駆けつけた時は、既に塩化カリウムを打って死んでいた」
鮫島の呻くような声が聞こえた。
それから、部屋から声が聞えなくなった。
二階から、リュウが唸っている声がする。最近、寝言が多い。
かすかに音楽の音も聞こえる。加奈子さんが流しているのだろう。最近寝る前に加奈子さんはヴァイオリン音楽を聴くことが多かった。
しばらくして、鮫島の声がした。
「俺は仕事を下りる」
「お前が辞めても、別の人間が開発を続けるだろう。米倉がやろうとしていた安全なワクチンを作れるのはお前しかいない。今、エイジイワクチンは人類を救う救世薬になるか、破滅に導く毒薬になるか、紙一重の所にある。毒薬の恐怖を体験したお前だからこそ、救世薬を作れるんだ。人類が踏み入れてしまった道は、決して引き返すことはできない。だとしたら、より良い道を模索して進んでいくしかないのじゃないか?」
「また、同じ猛毒のワクチンを作ってしまったら・・?」
鮫島には似合わぬ心細い声が聞こえた。
「天は何故お前一人を生き残らせたんだろうな・・」
謙一さんが呟いた。
僕がこうして犬となって生きているのは何か意味があるのだろうか。
鮫島が一人だけ生き残ったのも意味があるのかもしれない。
その晩、僕は眠れぬ夜を過ごした。ヴァイオリンの音もずっと流れていたから、加奈子さんも眠れなかったのかもしれない。
死の宣告
それから数日後、今度は旭川科学技術大学の目黒博士が現われた。
相変わらず髪はもじゃもじゃでジャングルのようであったが、すっかり痩せて憔悴しきった顔をしていた。
僕は声をかけたかったが、博士の暗い顔を見ると傍に寄ることもできなかった。
「どちらにいらしたんですか? 大学に電話しても、行方が分からないと言われましたし、ご自宅にもおられない。五ヶ月、探し廻りましたよ」
謙一さんと加奈子さんの前で、博士がソファーに小さくなって座っていた。
小堺さんがコーヒーを「どうぞ」とテーブルに置くと、博士は余計縮こまった。
僕は応接室の隅にいることを許され、みんなを観察していた。
「実は息子のことで、ご相談があるのです。以前、博士にお話したことがありますが、先天性の病気で先があと僅かしかないのです。博士は、動物への転送だと成功率が高いと、おっしゃっていました。妻とも話し合ったのですが、博士にお願いして息子を犬に転送してもらえないか、と考えています」
犬? まさか、僕に?
「勿論、出来る限りのお礼もさせていただきます。ご支援を断っておいて失礼なお願いだということは重々承知でお頼みしています。会社とは関係なく、個人でお願いしています。どうか、息子を助けてもらえないでしょうか」
二人はソファーから降りて、跪いて頭を下げた。
慌てて博士は立ち上がった。
「や、止めてください。私は、頭など下げてもらえるような人間じゃありません。大学で学生に教えられるような人間じゃないのです」
博士の声は苦渋に満ちていた。
「わ、私は、頭を下げてもらいに来たんじゃないんです。謝りに参りました」
謙一さんが笑った。
「何をおっしゃってるのです? 確かに八人は転送に失敗しました。ですが、一人は成功したのです。薬でもそうですが、成功は莫大な失敗の積み重ねで生まれてくるものです。博士の発明は偉大なものですよ。人間への転送はまだこれからでしょうが、動物への転送は確実なものとなっています。もっと自信をお持ちになってください」
「成功などしてませんよ」
博士がぽつっと言った。
「え? 確かにあなたのところにいた猿は、あなたの助手だった方でしょう。言葉を喋ったのでびっくりしましたよ。うちの鮫島もおかげで助かって働いています。まだまだ博士の思うような成功ではないのかもしれませんが、私たちから見たら素晴らしい成功です」
「成功などしていません。全て失敗だったんですよ」
博士は聞き取れないような小さな声でボソボソ喋った。
「助手はもういないんです。ただの猿になって、今は動物園で暮らしています。ネズミに転送した猫も、猫に転送した犬も消えて、今はただのネズミと猫です。転送して一年しか残れなかったのです。消えたと思っていたもともとの意識が復活して、侵入者を排除できるようになるまで一年かかるのでしょう。私は、林を殺してしまった・・」
博士の目から涙がこぼれた。
応接にいた僕たちは全員愕然としていた。
「私は・・ずっと動物園の猿の檻の横で過ごしていました。私を覚えていたのかもしれません。私が行くと嬉しそうな声を立てるんですよ。・・もう少し林の話を聞くべきでした。私は自分の発明に有頂天になっていました。林が少しずつおかしくなってきていることにも目をつぶっていた。林は最後は非常に暴力的になっていました。晩はいつも私の自宅で一諸に過ごしていたのですが、ある晩抜け出して帰って来なかったことがあったのです。翌朝、施設に行くと、荒れた部屋の中に林がポツンといました。何を喋っても通じませんでした。・・今は、動物園で知り合った雌猿と仲良くしてます」
それから誰も喋る者はいなかった。
コーヒーのお代わりを用意してきた小堺さんは、部屋の雰囲気に驚いてそそくさと出て行った。
そのうちに博士が静かに立ち上がり、部屋を出た。誰も見送りに行こうとする者はいなかった。
僕はそっと抜け出して、博士を追いかけた。
玄関を出ると、とぼとぼ歩いている博士が見えた。
その寂しげな後ろ姿に、僕は思わず声をかけた。
「目黒博士!」
博士が振り向いて、驚いた顔をした。
「林さんは、博士のことをすごく尊敬していて、虐待をするお父さんのところから助け出してくれたことを感謝していました。それにご自分が博士の研究に役立てたことを心から喜んでいたんです。たとえ一年でご自分が消えることになったとしても、決して後悔はしなかったと仰ると思います。もし、博士がこのまま研究を止めてしまったら、林さんは悲しむと思います。どうか続けてください」
僕が話している間、博士は涙をこぼしていた。
「ありがとう・・君は・・篠原さんの? 確か転送に失敗したはずじゃ・・」
「鮫島さんが助けてくれたんです。鮫島さんは転送に失敗した仲間を救おうといろいろ薬を作ったんです。お仲間には役に立ちませんでしたが、僕には効果がありました」
「・・篠原さんご夫婦はとても悲しんでおられたから、喜んだだろうねえ」
と言って、博士は呻いた。
「実は、まだ知らないんです。いろいろあって・・」
「そうか・・喜んでいる所へまた悲しみに突き落とさなければならないのは辛い。・・君にも、謝らなきゃいけないね」
「いえ、博士、自分が消えるというのは怖いですが、でも博士の話を聞いて、僕が子犬を殺したわけでないことを知ってほっとしました。侵入者は僕ですし、体を返すのは当然なことだと思っています。それに、一年という時間を僕に与えてくれたことを博士にすごく感謝しています。いろいろなことを体験できたし、知ることもできました」
「そう言ってくれたら助かるよ」
と博士は言って、眼鏡を取り、涙を拭いた。
「博士、お願いがあります。今はまだ行かれないのですが、僕を両親の所に連れていって欲しいのです」
「喜んで約束するよ。連絡をくれたまえ」
「ただ僕であることを言わないでください。僕はもう数か月すれば消えることになりますから、その時にまた悲しませたくないんです」
「・・・」
「それからもう一つお願いがあります。動物を実験材料に使わないでください」
博士が僕を見た。
「動物も僕たちと同じ命です。みんな心を持っていて、痛みも感じるし、辛い思いもします」
博士は頷いた。
「・・わかった。約束する」
博士を見送って戻ろうとすると、謙一さんが道端にいた。
「サン、君が人間だったとは・・道理で気が利くわけだ」
僕は尻尾を垂れた。
「すみませんでした。騙すつもりはなかったんです。ただ・・」
「ションベンを私に引っかけて言えなくなったんだな」
「あ、あの時は・・ごめんなさい。まだ犬の体に慣れてなくて」
「ハハハハ、そんなことは大したことない。それより、危うく君をリュウの器にするところだった」
「最初からそのつもりで、僕を実験動物の部屋から救い出してくれたんじゃないですか?」
「可愛い子犬が動物実験に使われるから何とかしてしてって、若い女性秘書に言われて見に行ったんだよ。そうしたら、ぬいぐるみの様な子犬がちょこんと座って檻から私を見ていた。一目見て、リュウの器にいい、と思ったよ(笑)。なんでまたうちの会社に紛れ込んだんだ?」
僕は偶然鮫島(伊林詩織)に会い、拾われたところから一部始終を話した。
「君は美枝ちゃんの息子さんなんだね?」
「母を知ってるんですか?」
「二〇年前は、加奈子と鮫島、美枝ちゃんの四人でよく飲みにいったものだ。当時私と鮫島は同じ仕事をしていたから、親しくてね」
「母と鮫島さんは、その、お付き合いのようなことしてたんですか?」
「ん、まあ、二人はてっきり結婚するとばかり思っていたよ。気づいた時にはいつの間にか別れていて、美枝ちゃんは別の男と、君のお父さんかな、結婚していた。鮫島も、ああいう性格で、突っ張って意地張る奴だからな、美枝ちゃんを怒らせて謝れなかったんだろう」
鮫島と結婚などしてたら、母は毎日泣いていただろう。あの優しい父が支えてくれてるからこそ母はいつも笑っていられたんだ。僕の様な難病の息子を持っても。
一晩中ヴァイオリン音楽を聞きながら、眠れぬ夜を過ごしているリュウの母加奈子のことを思った。父の包み込むような愛情がどれだけ僕たちを救ってきたのか――。
「僕は、リュウと同じ病気だったんです」
それを聞いて、謙一さんは考え込んだ。世界中に数人しかいないという難病の割に、偶然にもこんな身近に二人もいる。それも、エスタニックの会社関係だ。
「ちょっと調べたいことがあるから、会社に行こう。黒猫の名前も教えてほしい」
黒猫メイサの正体
僕は謙一さんの車に乗って、五か月ぶりにエスタニック製薬を訪れた。
守衛は以前とは違う男性で、謙一さんの車を見ると即座に門を開け敬礼をした。次の門の守衛もすぐに門を開け、車は止まることはなかった。
日曜日のせいか、駐車場には車がほとんどなかった。謙一さんはそこを通り過ぎ、ビルのすぐ脇に車を停めた。そこが副社長の専用の駐車場なのかもしれない。
謙一さんの後について自動ドアを通った。もう僕は体重もかなり増えたから、一人でもドアは開くだろう。
僕たちはエレベーターに乗り、五階で降りた。前に来た時もそうだったが、シーンと静まり返っている。ブルーのカーペットの敷かれた廊下を左側に進み、一つの部屋のドアの前に謙一さんは立った。暗証番号を押して中に入ると、パソコンに電源を入れる。虹彩認証でログインし、真剣な顔で従業員の情報をチェックし始めた。本社、支社、工場を合わせると、数千人に上る。退職者も入れるとかなりの数になる。
まず健康を害して休職、退職した者を検索してみる。その中から、難病を拾いだした。パーキンソン病や膠原病、多発性硬化症等は多くあったが、早老病はなかった。
次に従業員の家族、特に子供の病気を検索してみる。
いつの間にか窓の外は暗くなり、月が見えた。
僕はシッコに行きたくなり、謙一さんにドアを開けてもらって、便所に走った。暗闇でも、犬の目はよく見えるものだ。
途中、黒い小さな影が動いたような気がしたが、僕は気に留めなかった。
戻ってドアを前足で叩くと、謙一さんが中に入れてくれた。目に隈ができている。
「ちょうど終わったところだよ」
謙一さんは目を擦りながら、笑顔で言った。
「どうでしたか?」
「よかった、取り越し苦労だったよ。早老病は君とリュウしかいなかった。会社は関係なかったよ」
ほっとしたような顔で言った。
僕は腑に落ちなかった。本当に関係ないんだろうか。同時期にエスタニックで働いてた社員の子供が同じ病気になっている。僕たちは何とか生まれ出たけれど、それ以外は流産や死産だった、ということもあるかもしれない。
「しかし、黒猫に転送されたのは誰なのか分からないな。半年前にいなくなったような女性社員はここにはいなかったし、メイサという名の女性もいなかった。君の話だと、鮫島と親しい仲だったようだね?」
「はい。この会社のことも詳しそうでしたし、いろいろ調べてもいるようでした」
「黒猫の姿になっているということは、目黒博士のところで転送してもらっているということだな。博士に聞いてみれば転送した時期も分かるかもしれない。一年も前にしていたら、今はただの黒猫になっているはずだ。とにかく、明日にでも博士に聞いてみよう」
謙一さんは帰り支度を整え、ドアを開けた。
ドアの前には、黒猫メイサが首を長くして座っていた。
「待ちくたびれたわよ」
メイサが言った。
「おしっこちびらせてた子が、ずいぶん立派に成長したものね」
人間だったら、僕の顔は真っ赤になっていただろう。
「ぼ、僕じゃないよ、ちびらせたのは」
「クスッ、むきにならなくても分かってるわよ」
メイサに笑われ、余計僕は動転した。
「なんだよ、助けに来てくれなかったくせに」
「私があなたを助けなきゃならない理由でもある? あなたに手を貸したのは、鮫島さんに頼まれたからよ」
メイサは澄ました顔で言った。
確かにそうかもしれない。メイサが助けに来てくれる、と思ったのは、僕の勝手な思い込みだ。
「君は、鮫島とどういう関係かね? ここの社員ではなさそうだが、なぜここにいる?」
謙一さんが口を挟んだ。
メイサは素早く部屋に入り込み、ひらりとテーブルの上に飛び乗った。
「副社長は私を疑っているようね」
「当然だろう。社員名簿にも君の名は載っていない。それなのに、会社の中を自由に歩き回っている」
「猫だもの。名簿に載っている方が変だわ。それに・・猫は、犬と違って自由な動物なのよ」
謙一さんをからかっているのか、メイサは前足を舌で舐めはじめた。その仕草が妙に艶めかしい。
「会社の中で動物が勝手に歩き回ることは許されていない」
「そちらのワンちゃんもかしら」
「今日は特別だ」
謙一さんがムッとしながら言った。
「鮫島さんとの関係を聞かれたけれど、恋人って言ってもいいかしらね」
ドキッとした。
「鮫島さんはその気はなかったかもしれないけれど」
謙一さんはソファーに腰かけた。
「鮫島からエイジイが君に感染したんだな。感染防止の為に、一年間研究施設の外部の人間とは接触禁止になっていたはずだが」
「鮫島さんがそんなこと守る人だと思う?」
「罪滅ぼしに鮫島が目黒博士の場所を教えた」
「まあそんなとこね。最初電話がきた時、声が違うからびっくりしたけど。いろいろ聞かれて、すぐに誰とも接触しないで博士の所にいくように言われたわ。私もリスクを覚悟で鮫島さんと接触していたから、感染したことはすぐに分かった。まさかでも、自分が猫にされるとは想像もしなかったわ」
「仲間たちが人間への転送で失敗してるからな、苦渋の決断だ」
「だとしても、野良猫はないでしょう。途中の公園で拾ってきたって」
「公園で? どこの?」
思わず僕は大きな声で聞いた。
「そんなこと知るわけないでしょ。知りたくもない。綺麗にするのに時間がかかったわ」
メイサは首を回し、背中の方を舐め始めた。
「君は何が目的で、鮫島に近づいた?」
「鮫島さんが素敵だったからよ。男らしくて」
舐めながら、メイサが答えた。
「鮫島よりもっと若い、男らしい男は沢山いる」
僕も頷いた。
「そうね。でも、エイジイのワクチン開発に一番近いのは彼だった」
メイサは体を舐めるのを止めた。
「米倉は真面目すぎて、全く私に興味を示さなかったわ。でも、鮫島は私の体に、ではないわね」
と言って、苦笑した。
「鮫島は、私の持つ情報に関心を持った」
「情報?」
謙一さんが眉をひそめた。
「アメリカのバクター社をご存じよね?」
「ああ、それは勿論。世話になっているからね」
「私はそこから派遣されているのよ」
「なんのために。豚インフルエンザ、子宮頸がん、新型鶏インフルエンザ、次々ワクチンを作って世界中に売りさばいてる天下のバクター社が、こんなちっぽけの会社から情報を盗んで何になる?」
「次は、エイジイがターゲットだからよ」
「鮫島や米倉の研究が、バクター社のものを脅かすのか?」
メイサは鼻の先で笑った。
「あなたは、お父さんやお爺さんから何も聞いてないのね」
謙一さんの顔色が変わった。
「エイジイのワクチンなんて、とっくに私たちは開発しているわ。あと必要なのは、エイジイが世界中に広がって、エイジイのワクチンを求める声が高まること。そして感染力の高い新型ウイルスはバクター社でない場所で作られること」
「き、貴様、鮫島にわざと情報を提供して、新型ウイルスを作らせたな」
謙一さんの声が震えた。
「人聞きが悪いわね。私はヒントを与えただけよ。実際は、鮫島から情報を得た米倉が作り上げた」
黒く艶めく肢体に黄色く光る目のメイサは魔女のようで、ひどく怪しげだった。僕は毒気に当てられ、身動きだに出来なかった。
「貴様らは悪魔だ。貴様も・・鮫島も、もうすぐ命が消えるのも、神の采配なんだろう」
謙一さんが呻いた。
メイサの黄色い目が僕に訊ねる。
僕はうつむいた。
「転送して生きられるのは博士によると一年だけだそうだ。君たちはあと半年の命だ」
謙一さんが僕の代わりに言った。
メイサは一瞬驚きの表情を見せたが、それはすぐに消えた。
「私は最初から捨て駒の一つ。半年前、本当なら死んでいた」
寂しげにメイサはフフっと笑った。
「バクター社に入社すると、すぐに注射を受けさせられる。病気予防のワクチンではなく、マイクロチップを埋め込められるのよ、最初はそうとは知らなかったけれど。そして、バクター社の上部の人間に、コンユーターで思考、感情、身体の動きまでコントロールされる。私は中国系で、日本人の中に入っても目立たないということを買われて、日本語を叩きこまれてここに送られたわ。
私は鮫島に会って、恋に落ちた。あなたの言うとおり、他にも魅力的な男は沢山いるのにおかしなことね。積極的に鮫島の気を引こうとしたわ。そのうちに、バクターのエイジイの情報に釣られて鮫島は私と付き合い始めた。すべて、バクター上層部の思い通り。
でも今、人間の体を失くして、バクターのコントロールから逃れたけれど、鮫島への想いは変わらない。まさかね。そんなこと思いもしなかったわ。人間でいる時に気づいていれば、彼には近づかなかったでしょうね」
黒い魔女に可憐な少女の面影がちらりと垣間見えた瞬間であった。
「バクター社をひどい企業だと思うかもしれないけれど、そう操っている人たちが陰にいるということ。生き残っていくためには、その勢力から誰も逃れられないのよ。ここの社長も。あなたもね」
長い沈黙が続いた。
「君をこのまま野放しにしておくわけにいかない」
しばらくして謙一さんが重い声で言った。
「わかってるわ。研究施設の実験動物の部屋にいれてちょうだい」
「え!」
僕は耳を疑った。
「あそこはだめだ。暗くて、ジメジメしてて、希望がない」
メイサが僕を見て笑った。
「どこにいれば希望があるの? 私は残された時間を少しでも鮫島の近くにいたいのよ」
僕はメイサに何も言えなかった。
謙一さんが警備員に「黒猫を迎えにきて研究施設に連れて行くように」と連絡した。
「本当は、ゲンに伝えたいことがあって来たのよ。でも、どうでも良くなっちゃったわ。後半年の命、ゲンはもう一ヶ月長いかしら、お互い大事に過ごしましょう」
「伝えたいことって?」
僕は気になった。
「病気の事じゃないの?」
ドアを叩く音が聞こえた。
「どうでもいいことよ。でも・・」
謙一さんが席を立ち、ドアを開けに行った。
「気になるなら、明日アメリカからここの社長が戻るはずだから、聞いてごらんなさい」
メイサが僕の耳に囁いた。
あの無愛想な警備員が入ってきて、乱暴にメイサの首根っこを捕まえた。
「メイサ! やっぱり僕の病気は、会社と関係あるんだね?」
返事は何もなかった。
廊下に警備員の靴音が無情に響き渡り、しばらくすると消えた。
病気の真実
「リュウ! おじいちゃんのことが分かるか?」
白髪の老人がベッドに寝ているリュウの体を揺すった。
二人とも老人だが、リュウでないもう一人の方がずっと若々しい。
ウッ、ウッ、とリュウが呻く。
「やめてください。旦那様、お坊ちゃまが苦しがってます!」
小堺さんが慌てて老人を止めた。
「あ、ああ、そうか・・」
初めて気づいたように、手を止めた。
リュウが唸りながら、目を開ける。
「おお、リュウ! わしが誰だか分かるか?」
「・・じい・・さん」
リュウが老人を見て答えた。
「よく覚えていてくれたな、リュウ。じいちゃんは嬉しいよ」
老人は大喜びで言った。
「分かってないですよ。お坊ちゃまは見たまんま答えただけなのに」
小堺さんがそう言ったが、老人には聞こえていないようだ。お年寄りと言うのは、都合の悪いことは聞こえないらしい。
「お父様、いらしてたんですね。申し訳ありません、気が付かなくて」
加奈子さんが慌てた様子で入ってきた。十時にもなろうとしてたが、起きたばかりの顔をしている。
「おお、加奈子さん、気を使わないで下さいよ。わしは孫に会いに来ただけじゃから」
と言いながら老人は手を振った。
「そんなことおっしゃらずに、お昼召し上がっていきませんか? 腕を振るいますよ」
加奈子さんの申し出に、老人は嬉しそうな顔をしてみせた。
「そうか? ではせっかくだから、加奈子さんのご馳走を頂いてから会社に行くとするか。あまり早くいくと、息子が嫌な顔をしそうだからな」
加奈子さんはにこやかな顔で出て行った。夫より夫の父と話している時の方が明るい表情だ。
「昼までに腹を空かせないと、加奈子さんに悪いからな、よし、リュウ、散歩に行こう」
それを聞いて、僕は車椅子を押してベッドに付けた。小堺さんがリュウを起こしてベッドの端に座らせると、僕は背に乗せ一瞬で車椅子に移した。
その見事な早業に、老人は目を丸くして感嘆した。
「これは凄い! 大したワンコだ」
「そうなんですよ。サンはほんとに賢い犬なんです。サンがいてくれて、どんなに助かってるか分かりませんよ」
小堺さんが僕を褒めあげた。
「サンは、人間だからね」
リュウが突然口に出した。
僕はドキッとした。リュウは呆けているのか呆けていないのか分からないことがよくある。突然、鋭いことを言ったりする。
「お坊ちゃまがそう仰られるのもよく分かります。私も、人間じゃないか、と思いますからね」
「そうか、そうか、サンは利口なワンコなんだな」
老人が僕の背を撫でた。
春の暖かな陽気を楽しむかのように、小鳥たちがにぎやかにお喋りをしている。
二〇aほどの庭園の草木もうららかな日差しにご満悦の様子で、生き生きとした色彩を見せ始めている。エゾ桜も満開だ。あちらこちらで、赤、黄色、白のチューリップが色鮮やかに自己主張をしていた。
老人に車椅子を押されていくうちに、リュウはうつらうつらし始めた。エゾ桜の下まで行くと、車椅子を止め、小さなベンチに座った。
「やはり日本はいい」
老人が目を閉じながら言った。
僕はリュウの横に座った。
リュウのイビキが聞こえる。
「鮫島も、メイサも、君も残念だったな。せっかく生きながらえたと思ったんだが」
突然、老人が言った。
僕は驚いて、老人を振り返った。
先程までの人の好い年寄りの姿はなかった。引き締まり、鋭い目をしたエスタニック製薬の社長の顔がそこにあった。
「驚いているようだね。会社での出来事はすべて私の所に届くようになっているんだよ」
ふと無愛想な警備員の顔が浮かんだ。
五か月前のあの部屋での出来事も、昨日の副社長とのやり取りも、全て警備員室で聴かれていたのだろうか・・
「私も、不老不死の術が遂に発明されたかと喜んだんだがね、まだ先の話になりそうだ」
残念そうに、社長が笑った。
「君は、こんなところにいていいのかい?」
急に厳しい目で僕を見つめた。
「残りの時間は大切に過ごしなさい」
「でも・・」
「リュウのことなら大丈夫だ。君がしていることは、加奈子がやるべきことだ。リュウも先が長くはない。できるかぎり加奈子とリュウ二人の時間を作ってやりたい。私も暫くこちらで過ごす予定だから、私の家に小堺さんに来てもらおうと思っている」
それは無理だ、と僕は思ったが口には出さなかった。
「人は自分が誰かの役に立っていると思った時に、生きがいを感じるものだ。君が一生懸命やればやるほど、加奈子から生きがいを奪い取っているんだよ」
僕はドキンとした。
だとしたら、今まで僕がしてきたことは一体何だったんだ。
「君自身、死ぬまでに何かやらなければならないことがあるだろう。何のために君は一年命の延長が許されたんだ? 何のために君は犬になった?」
社長の目が容赦なく僕を責めてくる。
そんなこと・・、僕が望んだわけじゃない。僕はあのまま死んでも良かった。両親の愛に包まれて・・
「君はあのまま死んではならなかった。やるべきことがあったからだ」
やるべきこと?
最期まで愛してくれた両親への感謝の想いが湧き出て・・胸がぐっと来た。
「今、僕が親に会いにいって感謝を伝えたとしても・・半年後には僕は消えてしまう・・二回も悲しませてしまう」
「私はそんなことを君に言ってないよ」
社長の目が優しくなった。
「君のご両親は、君の存在それだけで十分幸せな時間を過ごせてこれたのだから、お返しをしようなど考える必要はない」
それじゃあ、僕のやるべきことは何なの?
「自分の心に聞いてみるがいい。知っているのは、自分の心だけだ」
どこまで老人が本当に言ったことなのか、分からない。全ては僕が勝手に作り上げた幻想なのかもしれない。
知らぬうちに僕は心の中を探し歩いていた。
僕が本当に求めているものは何なのか?
外を思いっきり好きなだけ走りまわった。美味い物もたくさん食べさせてもらった。他にしたいもの・・
そうだ、恋をしたかった・・
小さな頃から赤い斑点が顔中にできていて、僕はずっと自分の顔にコンプレックスを持っていた。人を笑わせるのが得意で友達はたくさんいたけれど、女の子を好きになるのは避けてきた。拒絶されることが怖くて、女の子から目を背けてきた。自分の病気のことを思ったら、恋なんて手の届かない夢だと思っていた。
黒くしなやかな美しいメイサの姿が目に浮かぶ。
どうしようもなく自分が彼女に惹かれているのがわかる。
黒猫姿の彼女のどこに惹かれるのだろう。
彼女の生きざまが醸し出している陰鬱な匂いの中に潜むエロス。艶やかな黒い肉体に忍ぶほのかな恥じらい。冷ややかな目に宿る悲しみ。相反するものが絡まり合って、僕を誘惑する。
しかし彼女は、残りの命を鮫島への愛に費やすことに決めたのだ。
鮫島はメイサに、かつては母にも愛された。どうしてあんな男がモテるのか。あいつが最初に死んでいくのは小気味いい。
だが続いて、メイサ、次に僕の番が回ってくる。
意識が永遠になくなるって、どういう感じだろう。この世から消えるって、自分がなくなっちゃうって、どんな風なんだろう。
暗黒の宇宙を永遠に漂流し続ける塵のイメージに覆われた。
突如、得体のしれない恐怖が僕を襲い、僕は現実に引き戻された。
いつのまに老人の姿が見えなくなっていた。
どこにいるのかと見回すと、しゃがんで一心不乱に草を抜いている。
ふっと、メイサの言葉を思い出した。
「気になるなら、明日アメリカからここの社長が戻るはずだから、聞いてごらんなさい」
僕は思い切って声をかけた。
「僕の病気のことを教えてください。真実が知りたいんです」
聞こえているのか聞こえていないのか、老人は草を抜き続けていた。
気がつけば抜かれた草は山となっている。
もう一度僕が声をかけようとすると、老人は泥のついた手を払いながら立ち上がった。
「今のうちなら根が長く伸びてないからよく抜けるんだよ。この時期を過ぎると、根っこが張り過ぎて抜くのに一苦労する」
リュウの唸り声が聞えた。目が覚めたようだ。
「よし、話は家に戻ってからしよう」
僕の声は老人に聞こえていたようだった。
僕たちは車椅子を押しながら家に戻った。
昼はみんなで、加奈子さんの作ったあさりとトマトを使ったパスタと野菜サラダ、コンソメスープを頂いた。
リュウは、細かく刻まれ、柔らかく煮込まれたパスタや野菜、アサリをとろみのついたスープに入れて、小堺さんに食べさせられていた。いつも小堺さんの作るおかゆとは一風違うものだったが、リュウの様子は変わりない。
僕は床でみんなと同じものを食べた。みんなが見ていない隙に、こっそり器を持ってスープを飲む。未だに舌を使いこなせていない。
加奈子さんの作る料理はいつも美味しい。
ペロリと食べてしまった老人の皿を見て、加奈子さんも嬉しそうだ。
「ああ、加奈子さんの料理はやっぱり美味い。食べすぎて眠くなったわい。」
そう言って、老人はあくびをした。
「ちょっと昼寝をしてから会社に行きたいんだが、どこか静かな部屋はないかな」
「ああ、それだったら・・」
加奈子さんは一階の奥の部屋に案内した。ここは小堺さんによると、妻を早く亡くした父の為に謙一さんが作った部屋だったらしい。
他の部屋とは趣の違う、畳の敷かれた静かな佇まいだった。
窓のすぐ外は庭で、ここからエゾ桜も見える。
老人は畳の上に横になった。
「畳はやはり落ち着くな」
そう言って目を閉じた。
僕はドアの前に座り、老人が話し始めるのを待った。
《老人の話》
私が生まれたのは満州で、太平洋戦争が始まる前の年の一九四〇年、一二月の寒い日だった。
父は満州第七三一部隊という、後に人体実験や生物兵器を使ったことで非難されるようになった研究機関に所属していた。仕事柄、滅多に帰宅することがなく、私が父の顔を初めて見たのも五才になった年、ソ連が満州へ侵攻してきたために日本へ帰国することになった時だ。
私は父の顔を見て泣いたことを覚えている。冷たい感情のない目をしていた。せっかく会いに来た父から逃れて、私は外に隠れていた。
その時父は母に小さな包みを渡していた。それは掌に入るほど小さなもので、決して開けてはいけない、と父は何度も母に念を押していた。
後から母に聞いた話では、自分は捕えられるかもしれぬ故、母に包みを日本まで持ち帰るように頼んだのだという。決して開けてはならない。自分が戻らなかったら、誰も開けることがないよう土深く掘り、その下に埋めてくれ、と言ったという。
その一年後、私と母は日本へ何とか辿り着くことができた。途中、ソ連軍のレイプ、暴行、殺戮、冬場の極寒、飢餓、伝染病で次々周りの人が死んでいく中、私ら親子が生きて帰れたのは、父との約束を守る、という母の強い執念があったからだこそと思う。静岡の実家に戻ると、母は父の言いつけ通りその包みを誰にも見せなかった。私も忘れていた。
父はしばらく帰って来なかった。ソ連軍に捕えられ、シベリアに送られたのだ。
二年後、父は見る影もないほどやせ細り、窪んだ目をして戻ってきた。母から包みを受け取ると、再び姿を消した。私と母が父に呼ばれて東京に出たのはその一年後のことだった。
母が満州から後生大事に持ち帰った包みが何だったのか。それが分かったのは、孫のリュウが三歳になった時だ。
社長を二〇年前に退いてからも、ずっと会社の実権を握り続けてきた父だったが、母が七年前に亡くなってからは、すっかり弱って家に引きこもっていた。特にひ孫のリュウが生まれてからは臥せがちになっていた。
父に呼び出され、全てを打ち明けられたのは、亡くなる一ヶ月前のことだ。
その忌まわしい話を聞いて、私はしばらくの間仕事に手が付かなかった。父は私に話したことで長年の重荷が降りたのか、急速に身体が衰弱し、最期は誤嚥による肺炎で亡くなった。
その時聞いた話はこうである。
戦前、父は他の仲間と中国の奥地を調査に廻っているうちに、ある村で小さな老人をたくさん発見した。大人になる前に老化が始まってしまう子供たちだった。最初は、遺伝的なものかと思われたが、他所に移動していった親族たちにはそういう子供はいなかった。逆に、他所から移動してきた家族も孫の世代になると老化の症状が表れたので、風土病が疑われた。
調査をするうちに、そこの村では一七歳の男性成人の儀式で赤ネズミの生肉を食べる慣習があることが分かった。赤ネズミから採取したウイルスは老人化した少年から見つかったウイルスと一致し、赤ネズミを食べることでウイルスに感染した青年が女性と結婚して二次感染し、生まれた子が三次感染した可能性があると考えられた。成人後感染しても発病しないが、免疫システムが確立していない赤ん坊の時に感染すると発病しやすくなる、と推測された。
父たちが赤ネズミの生肉を食べる危険性を村人に伝えた為、その村では赤ネズミを食べる儀式が次第に無くなり、老人姿の少年少女は見られなくなった。
しかし父は、そのウイルスに対する興味は覚めることなく、より高まっていった。ウイルスの研究がソ連軍の侵攻で頓挫することになり、父はそのウイルスを母に託したのだ。
皮肉なことに、満州から母が必死で守ってきたものは、将来孫を感染させ、ひ孫に発病させることになったのだよ。
父は日本に戻ると、アメリカの密かな協力を得てウイルスの研究に没頭した。朝鮮戦争で発見されたことになっているエイジイウイルスは、実はアメリカ軍に付いて回った父が軍と共に朝鮮の農村で実験したものだった。飛沫感染しやすいよう改悪したウイルスを赤ネズミに注入し、村に放した。結果、感染した者は一時的に髪が抜けるか白髪化し、内臓機能が落ち、運動能力も低下したが、一ヶ月もすれば元に戻った。生物兵器としては、利用価値がないものと判断された。
戦後このウイルスは両国に持ち帰られ、再び密かに研究が進められることになった。二十年前にアメリカの研究室でエイジイウイルスが外部に漏れ死者が出た。それを機に、わが社でもエイジイワクチンの開発を公にすることになった。開発担当は、私の息子と鮫島、米倉の3人だ。
どのようにして、中国の古いウイルスが息子たちの手に渡り感染することになったのか、それは父にも分からないようだった。会社の研究施設に保管されていたのは、朝鮮戦争で使用したエイジイウイルスで、古いウイルスは土深く埋めたはずだった。ウイルスを猿に注射し、感染したその血液を別の健康な猿に注射するという行為を繰り返していくうちに、先祖返りしたのかもしれない。
ひ孫のリュウが生まれてその古いウイルスに特徴的な赤い斑点を顔に見つけた時、父はどれだけ驚き苦しんだことか・・
それからすぐに同じ症状を持つ君の存在を知って、父はエイジイワクチンの開発を急遽中止した。
代わって息子たちにエイジイウイルスを殺す薬の研究を始めさせたが、増殖をいくらか抑える薬は出来ても抗ウイルス薬は作れなかった。増殖を抑える薬は、君も毎日飲んでいただろう。
父をひどい極悪人だと思うだろうね。しかし、エイジイウイルスは、悪い面だけでなく良い面も持っているんだよ。うちの会社はエイジイウイルスの良い働きに特化して薬を作り、ここまで大きくなった。君は知らないだろうが、以前は癌で亡くなる人が多くいたんだよ。癌細胞を殺すエイジイウイルスのおかげで、この世界から癌で亡くなる人がいなくなった。全てには光と闇の両面がある。光が強ければ強いほど、闇は濃く深くなる。闇の部分を背負わせてしまった君にはいくら謝っても許してもらえないことだとわかっているが・・
「申し訳ない・・」
しばらくの間老人は頭を畳に擦り付けていた。
この老人が悪いわけでない。老人の父もウイルスの可能性を感じ取ってウイルスを掘り起こしたのだろう。結果、癌を治す治療薬として役に立つことになったのだ。
今さら僕は誰も責める気はなかった。ただリュウも僕も運が悪かっただけである。自分の運を呪うしかあるまい。
自然と体が老人に近づき、いつのまにか僕は老人の顔をなめていた。チャーリーの意識がそうさせたのかもしれない。
老人が顔を上げ、僕達は見つめ合った。
老人の目は涙で溢れていた。
実験動物の救出
秘書の運転する車に乗って、僕も老人と一緒に会社まで向かった。
車が停まると、僕は老人に別れを告げた。老人は僕がこれからどうするつもりか聞かなかった。分かっていたのかもしれない。
老人を迎えに沢山の社員が車の外に並んでいた。その中に、副社長の姿は見えなかった。
僕はこっそり反対側のドアから抜け出した。皆、老人への挨拶に気を取られて僕に気づく者はいなかった。
僕はまっすぐ研究施設へ向かった。
施設は会社のビルから100メートル程離れた所にあった。3階建ての白い建物で木々に囲まれている。以前連れてこられた時は気づかなかったが、思ったより大きい。
研究施設の入口まで行くと、木陰に隠れて出入りする人を見ていた。
皆、入口で暗証番号を押して中に入っていく。
押している番号を知りたかったが、なかなか分からない。以前みたいにこっそり人の後に付いて入ることも、体の大きくなった今では無理そうである。
僕は諦めて、他に入り口がないか探すことにした。ぐるっと施設の周りを回った。
入口はあるにはあったが、鍵がかかっていて入れそうもない。
僕はがっかりして、再び木蔭に戻ってうずくまった。
メイサはどうしているだろう。あのメイサが檻に入れられて実験動物と同じ部屋にいるところなど想像もつかなかった。早く助け出してあげたい。
暗い目をした猿や猫、犬たちを思い浮かべた。あの動物たちはまだ生きているのだろうか。
そういえば、あの部屋には窓があった。半年前は冬だったから閉まっていたけれど、今日のように暖かい日は開いてるはずだ。今度は注意深く見て回った。
窓が開いている部屋は5部屋ほどあったが、高い位置にあるため、何か台を置く必要がある。鍵をかけられた裏口の横に空のプラスチックのコンテナが積まれていたのを思い出した。一番近い窓の下にコンテナを何度か運び重ねると、窓枠に足が届くようになった。
中を覗くと、机に座った男女が2、3人見える。部屋から出そうな気配がない。しばらく様子を見ていたが諦めて隣りの窓の下にコンテナを移動した。動物たちの鳴き声が聞こえる。そこに実験動物が監禁されているにちがいない。コンテナを積み終え窓から覗くと、案の定以前僕が監禁された部屋のようだった。メイサの姿は見当たらない。若い男が動物たちを移して檻の中を掃除している。この様子だとしばらくかかりそうだ。待っているうちに窓を閉められて鍵でもされたら終わりである。別の窓の下にコンテナを移すことにした。
次の部屋には誰もいなかった。ガラスケースが数箱置かれていて、その中に白ネズミや赤ネズミが種類別に入れられていた。
僕は網戸を破り、飛び降りた。カサコソ動く音やチューチューという鳴き声の中、引き戸をそっと開け、廊下の様子をうかがった。誰もいないようだ。僕は廊下に出た。
耳を澄ますと、あちこちから人の話し声や動物の鳴き声が聞こえた。イライラと歩き回る足音。試験管同士がぶつかって偶然生まれた美しい音色。ドアが開く音。
僕は階段を昇った。下の廊下を白衣の女性が歩いて行く。
そのまま二階まで上がっていった。
一階に比べ静かだった。話し声や鳴き声は聞こえないが、人と動物の気配は感じる。誰かが近づいてくる音がした。僕は姿を見られないように、階段を上がった。上から廊下を覗く。
聞き覚えのある足音だった。やはりそうだ。階段の前を白衣を着た鮫島が通って行った。
追いかけて、メイサのことを聞けばよかったのかもしれない。しかし、話しかける気になれなかった。鮫島のせいで、僕だけでなく父も母も辛い思いをすることになったのだ。鮫島の声も聞きたくなかった。メイサも鮫島の犠牲者だ。なんでまだあんな奴を好きなんだ? 母さんもだ。あんな奴と付き合わなけりゃこんなことにならなかった。母に強い怒りを感じた。父が哀れだった。
鮫島は一番左奥の部屋に入って姿を消した。
僕は上へ進んだ。階段の途中、ビニールのカーテンで封鎖されていた。メイサがこの中にいないことは分かったが、人がいなくなるまで上に隠れていた方がいい。ビニールを噛み切ってその中に潜り込み3階へ行った。シーンと静まり返っている。おそらくここ数か月足を踏み入れてないに違いない。ムーンと埃臭い。
一部屋一部屋覗いてみる。
それぞれ、ロフトベッドが二つ。その下に机が置いてある。書きかけのノートが置いてあったり、本が乱雑に置かれている。
半年前亡くなったエイジイワクチンの開発者たちはここで寝泊まりしていたのだろう。
感染したことを知って、どんな思いだっただろう。ここの机で家族への遺書を書いたのだろうか。遺書をもらった家族たちは会社に怒りを感じなかったのか。遺体も返ってこなかったのだ。会社はどれだけの慰謝料を払って遺族の怒りを揉み消したのだろう。
椅子が倒れ、物が散乱している部屋があった。鮫島の部屋だ、と直感的に感じた。鮫島も会社の犠牲者の一人だった。
いつの間にか暗くなっており、研究所も静かになっていた。下に降りていくと、電気も消え、皆帰宅した様子である。
僕は二階を探してみることにした。
「メイサ! メイサ!」
暗い研究所の中は不気味だった。わざと大声を上げて、メイサを呼んでみる。
耳を澄ましても、返事は返って来なかった。
一部屋一部屋扉を開けて、メイサを呼ぶ。
メイサが連れてこられたのは3日前のはずだった。まだ実験に使われて殺されたりしてはいないだろう。しかし、メイサの気配がしない。
「うるさいわね。ほっといてよ。私は好きでここに来てるの」
と、メイサに言われそうである。
でも、ほっとけなかった。ひょっとして、ここに連れてこられなかったのでは? 無愛想な警備員は別の場所に連れて行ったのではないだろうか。警備員の無愛想な顔が怪しげに見えてきた。
先程鮫島が入った左奥の部屋の前に着た時、部屋の中からカサコソ動く音が聞こえた。静かな息遣いも聞こえる。
僕はそっとドアを開けた。
ガラスの箱が無数並び、その中に猿たちがいた。年を取り、毛が抜け、息をするのもやっとの猿たちが暗い目で僕を見つめていた。その顔には、赤い斑点がある。
病気だった頃の僕やリュウの姿と重なる。
入口に置かれたガラスのケースの中で元気よく動き回っている赤ネズミ。
突然、今まで感じたこともないような怒りが体の奥底から湧き上がってきた。
鮫島や会社やその裏の巨大な勢力に対して、強烈な憎しみがこみ上がり、体がぶるぶる震えた。
この後のことを僕は断片的にしか覚えていない。
僕は一階に駆け下りて、動物たちの監禁されている檻やガラスを壊した。
猿たちの無表情な顔。
逃げない動物たち。
僕は吠え、咬みつき、脅した。
追われて逃げ出す猿たち。犬、そして猫。
開け放たれた裏のドアから、飛び出て行く動物たち・・。
ちょろちょろ走るネズミの行列。
そして火をつけたのだった。
「サン! 家にいないと思ったら、こんな所にいたのか」
駐車場の脇の木陰にいた僕を謙一さんが見つけ出した。
先の現場では、消防隊員たちが消火活動をしているが、火の手は強く一向に治まる気配はない。
「大丈夫か? 」
何も知らない謙一さんは呆然としている僕を心配そうにのぞいた。
「親父のやつ、サンを置いてさっさと帰ったな」
僕は怒りがすっかり抜け落ち、虚脱状態だった。
「全焼だな。ワクチンも消え失せた」
謙一さんの声はほっとしているようにも聞こえた。
「逃げ出した動物を捕まえなきゃならないし、後始末もあるから、今夜は帰れない。加奈子に迎えに来てもらうから、ここで待っててくれ」
僕は、ハッと我に返った。
「僕は・・もう帰りません。長い間お世話になりました」
謙一さんは一瞬驚いた顔をしたが、頷いて言った。
「残念だが、君は美枝ちゃんの元に戻るのが一番だな」
「お願いがあります」
「なんだね」
「逃げた動物たちを捕まえないでください」
謙一さんは驚いた顔をした。
「動物を実験台にして人間に役立つ薬を作るなんて、人間のエゴです。人を実験台にすることは罪で、どうして動物を実験台にすることは罪じゃないんですか? 動物も痛みも感じるし、恐怖も感じます。喜んだり、愛情を持ったりする。僕らと同じ命です。生きる楽しみを動物から奪って、苦しめたり、殺害する権利が人間にあるのでしょうか」
僕は溢れる感情のままに訴えた。
研究所は真赤になって燃え上がり、周囲を明るく照らしている。
「猿一九、犬八、猫一二、ウサギ十、ネズミ三二、確保しました」
シェパードを連れた社員たちが謙一さんに報告しに来た。
「全て始末してくれ。他にもまだいないか、引き続き捜索を頼む」
謙一さんが社員たちに命令した。
「始末って、どういうことですか」
僕の声が震えた。
「君は犬になって動物の気持ちが分かるようになった。動物側に立つ君の気持はよく分かる。しかし、この世が進歩するためには何らかの犠牲は致しかたないことなんだ」
「進歩する必要なんてありますか」
「進歩は宿命だよ」
謙一さんの声は厳しかった。
この後、僕は目黒博士に迎えに来てもらい、博士の家でしばらく厄介になることとなった。
「社長にまんまとはめられたんじゃないかね」
僕の話を全部聞いた後、目黒博士が言った。
「エスタニック社を操ってきた陰の勢力の支配から逃れるために、君にエイジイウイルスを全て燃やさせたんじゃないのかなあ」
目黒博士は紙に、エスタニック製薬とバクター社、陰の勢力、研究所の火事を絵で描き、図式化した。相変わらず下手くそな絵で何が書かれているのか分からない。
だが僕は、頭を下げ真摯に許しを乞うた老人の姿が偽りであったとは思えなかった。動物を逃がしたのも、火をつけたのも、僕が突発的にしたことだ。
「せっかく助けたのに、始末してしまうなんてひどすぎます」
「研究所の動物だから、何に感染してるか分からないからな。副社長としてはそうせざるを得ないだろう」
「でも、逃がしたのはまだ実験されてない動物たちです」
二階の部屋に隔離されていた、エイジイウイルスに感染した猿や赤ネズミを見殺しにしたことを思い出し、胸が痛んだ。
「感染された動物が100パーセント逃げてない、とは言い切れないからね。可能性がある以上、全て始末する必要があるんだよ」
一体全体僕がやったことはなんだったんだよ。結局、余計なことをして、動物たちを皆殺しすることになってしまったじゃないか。
「メイサも殺してしまったかもしれない」
僕は呻いた。もっと探していれば見つけられたかもしれないのだ。
「あの子は賢い子だから、どこかで生きているよ。君が心配することはない」
博士が僕を慰めてくれた。
「鮫島君もああ見えて優しい男だからね、あの子を助け出していたかもしれない」
鮫島が優しい? 僕はその言葉に猛反発した。
「猿にあんなひどいことが出来る人ですよ。まさか」
「君のお母さんに私を紹介したのも鮫島君だよ。正確に言えば、なんだったかな、えーとい、いば、伊林詩織さんだった。私にお礼も沢山くれたし、脅しもくれたがね、失敗したら、てめえをぶっ殺してやるって」
と言って、博士は笑った。
鮫島が言いそうなことだ。だが、猿を平気で実験台にする鮫島のことは信用できなかった。
「本を書いたらどうかね」
博士が僕に言った。
「犬になった君なら、動物の側の気持ちも書くことが出来る。私も自分の研究に夢中になっていて、君に言われるまで実験に使われる動物のことなど考えたこともなかったよ」
僕は迷いに迷って、博士の家で自伝を書くことにした。口頭で話せば自動的にパソコンが記録していくので、犬の僕でも書ける。僕の物語を信じる人がいるかどうか分からないけれど、読んだ人が人間の健康や幸せの為に動物を犠牲にしていることに対して疑問を持つようになってくれればいい、と思って決めた。それに、何かに夢中になっている方が死への恐怖が薄まる。
鮫島は本当にメイサを助けたのだろうか。
メイサの黒くしなやかにのびた体は美しかった。
もし生まれ変わりというものがあるのなら、来世僕はメイサのような美しい女性と恋に落ちたい。
博士の休日に動物園に連れて行ってもらった。
以前林助手であった猿は、猿山で一匹ポツンと群れから離れていた。
僕を見ても何の反応も示さなかったが、博士を目にすると興奮して叫び声を上げた。猿山を駆け回り、喜びを表している。他の猿たちが騒ぐ林助手を追いかけ制裁を加え始めると、おとなしくなった。
博士の目に涙が浮かんでいる。
「林君は、あの猿の中で生きているんじゃないかって、時々思うんだよ」
仕事が一段落したら、あの猿を動物園から引き取るつもりだ、と博士は言った。
その後
窓の外は真白く雪が吹き荒れている。
時折姿を見せる駐車場には車がほとんどなかった。
普段休みの日には賑わっているホームセンターの店内もがらんとしてひと気がない。時折、従業員が外を心配そうに眺めている。
詩織は客が来ないので、レジ台からそっと抜ける。
「何をお探しですか?」
小柄な黒髪の可愛らしい女性に声をかけた。レジ前の洗剤用品売り場の前を三度も通っている。
黒髪の女性は、ほっとした顏で詩織を見た。ふっくらした唇に、潤んだ瞳が特徴の魅力的な女性だ。年齢は三、四〇代だろうか? 男受けするタイプだ。
まただ。哲也さんの視線で女性を見ている。
「うちのワンちゃんがおしっこを絨毯の上に漏らしちゃって・・、消臭剤を探しているんですけど見当たらなくって」
「ああそれなら、こちらです」
詩織が店のずっと奥にあるペット用品売り場まで案内した。
「ペット用の消臭剤はこちらです。少々お値段は高めですが、ペットが舐めても安全な成分になってますし、効きもいいので、こちらをお買い求めになるお客様は多いですよ」
先日、詩織も飼い猫がソファーの上で尿を漏らしたので、この消臭剤を試しに買ってみたのだ。使ってみたら、案外臭いが消えた。もともと野良だった猫だから覚悟はしていたのだけれど、猫の尿の臭さには閉口した。この消臭剤のおかげでなんとか耐えられている。
「助かったわ。有難うございます」
黒髪の女性がカートの上の籠に消臭剤を入れながら嬉しそうに言った。
「それと、ドッグフードが切れそうだから・・」
「それなら、こちらです」
ドッグフードがずらりと並ぶ棚に女性を案内した。
黒髪の女性はざっと目を通した後、大袋のドライフードを選び出した。外国産の高価な無添加のものだ。小粒の小袋でなく大粒の八kgの大袋ということは、きっと大型犬を飼っているに違いない。
「レジ、お願いしてもいいかしら」
「はい」
詩織はレジ台に戻り、商品のバーコードをスキャンしていく。
「ひどい天候だから、お店に来るの大変だったんじゃありませんか?」
女性に話しかけた。
以前の詩織なら、自分から人に話しかけることなどなかった。これも、哲也さんの影響だろう。先日は、万引きした女子高校生まで捕まえてしまった。自分が自分でないようだ。確かに哲也さんが自分の中にいる時は他人事のように自分のしていることを眺めていた。でも、今は哲也さんはいない。神経の先まで尖らせても哲也さんの気配を感じ取れなかった。自分の中にぽっかり穴が開いた感じがする。
「ええ本当に、前が全然見えないんですもの。こんな日は家にこもってなきゃダメですね」
女性がはにかんだような笑みを浮かべた。詩織はこの女性に惹きつけられているのを感じる。
「ご自分で運転を?」
「いえ、主人が」
「ご主人様は駐車場で奥様を待ってらっしゃるんですね」
詩織は吹雪で全く見えない外を見た。
「いえ、主人、向かいのケーキ屋さんに行ってるんです。・・実は今日、息子の誕生日で、好物だった新谷さんのモンブランを買いに・・」
それで、こんな天候の日にも買い物に来たんだ、と詩織は納得した。
「お優しいお父さんですね。吹雪の中息子さんのためにケーキを買いに行くなんて」
と詩織が言うと、女性は頷いた。
「本当にすごく優しくて・・」
女性は何か呟いた。
「え?」
「いえ、息子、1年前に亡くなったんです」
黒髪の女性は寂しげに微笑んだ。
「主人、誕生日なんだから絶対に新谷さんのモンブランケーキを買ってこなくちゃダメだって。実は血がつながってないんですけど、息子のこと心から可愛がってくれてたんですよ」
「・・8430円になります」
低い声で詩織は言った。女性になんと声をかければばいいのか分からない。
女性は淡い桃色の財布から、一万円札を取り出して詩織に渡した。
「お父さんに愛されて、息子さんはきっと幸せでしたね」
お釣りを渡しながら、考え抜いた末に言った。
「ありがとう。私も幸せだったと信じてます」
携帯が鳴ったらしく、女性は鞄の中からスマホを取り出し電話に出た。
本当にいいお父さんに恵まれてよかったですね。詩織は心の底からそう思った。
「あら」
電話を切った女性が詩織を見て、首を傾げた。
「なにか?」
「ふふ、知ってる人と同じ癖だったものだから」
ああ。慌てて詩織は顎に触れていた手を下ろした。
「あまりに知り合いにそっくりだったから、思い出しちゃいました。彼のこと」
「恥ずかしいです。言われるまでそんな癖気づきませんでした」
「恥ずかしがらなくても。私、その癖、好きなのよ」
黒い艶やかな瞳に見つめられ、詩織はドキッとした。
「主人がお店の入口の前に車を停めてるみたいだから」
にっこり会釈をして、黒髪の女性がカートを押して出口に向かった。
詩織も、見えない何かに引っ張られるかのように女性の後を付いて行った。
自動ドアのガラス越しに、大柄な男性と大きな犬が見える。
優しそうな眼をした男性だ。ドアが開くと、女性に近づき、ドッグフードを抱えた。
シッポを振って女性にクンクン甘えていた犬が、急に詩織に気づきドアを抜けて店内に勢いよく走ってきた。
大きな犬に跳び付かれ、思わず詩織は転びそうになる。
「チャーリー?」
自然と犬の名前が詩織の口から出てきた。
大きな犬がぺろぺろ詩織の頬をなめた。
「ごめんなさい!」
黒髪の女性と大柄な男性が慌てて追いかけてきて、犬を引き離した。
「ゲン、ダメでしょ」
「すみませんでした。どこかお怪我ないですか?」
「大丈夫ですよ。可愛いワンちゃんですね。お名前は?」
「ゲンっていいます」
なんだあ、チャーリーじゃないのか。外れちゃった。
「ゲン、いい子ね」
詩織が頭を撫でると、犬は気持ちよさそうに目を閉じた。
チャーリーという犬がいたような気がしたが、思い出せなかった。テレビで見た犬だっただろうか。哲也さんは犬が嫌いだったけれど、その影響は受けてないようだ。犬に対する愛しさが募って来る。
「さあ、ゲン、いくぞ」
大柄の男性が犬を引っ張って、店を出た。
「ご迷惑をおかけしてごめんなさいね」
黒髪の女性も会釈をして、後を追った。
二人と一匹の姿が雪嵐の中に消えた後も、しばらくの間詩織はその場に立ち尽くしていた。涙がこぼれ落ち、なぜ自分が泣いているのか、分からなかった。ただただ溢れ出る涙に困り果てていた。
研究所からアパートに帰ると、哲也さんと交替し詩織が出て夜の時間を過ごしていた。その間哲也さんは眠っていたが、最期の頃はずっと目を覚ましていて何か考えているようだった。あまり難しいことは分からないが、哲也さんの仕事はあと一歩の所で会社の副社長に引き継がれたらしい。
消えていく前の哲也さんは穏やかだった。荒々しさがなく、静かに研究に没頭していた。
「楽しくやれよ」
詩織への最期の言葉が頭から離れない。
その言葉の後、哲也さんの意識が感じられなくなったのだ。
アパートのドアを開けると、黒猫のメイサが飛びだしてきた。慌てて周囲を見る。動物禁制のアパートだ。見つかったらまずい。
メイサを急いで中に入れ、皿の中にキャットフードを入れた。メイサはガツガツ食べ始める。
その様子を見て詩織は溜息をついた。本当は犬の方が好きなんだけど。
カーペットに黒い毛が沢山落ちているのを見て、詩織は掃除機をかけ始めた。
掃除機を止めると、携帯が鳴っているのに気づいた。
「米倉健二」と出ている。
最近、よく電話をくれる。
「もしもし、・・はい、大丈夫でした。帰る頃には吹雪も治まって・・ご心配くださり、ありがとうございます。・・ええ、土曜の晩ですか? 空いてますけど・・」
米倉さんは優しくて誠実な男性だ。でもどこか、違う・・。
いつのまにか哲也さんと比較してしまっている。
「はい。よろしくお願いします」
電話を切った。
米倉さんとお付き合いするべきかどうか・・自分もそろそろ三〇歳になる。
こんないい人から申し込まれることなんて二度とないかもしれない。
メイサは満足して、詩織に体を擦りつけてきた。昨日からやたらと体を擦りつけてくる。ひょっとすると発情期がくるのかもしれない。大声で鳴かれたら、大変なことだ。明日にも避妊手術を受けさせないといけないかしら。
頭を悩ますことは沢山ある。
「楽しくやれよ」
突然、哲也さんの言葉が頭に響いた。
そうだ、楽しくやらなきゃ。
このアパート追い出されたら、別のもっといい所に引っ越せばいいことよ。
詩織は掃除機を片付けた。
父と母の遺影を前に手を合わせた後、写真の横に置かれた本に気づいた。
四、五か月前に、目黒博士が送ってきた本だ。すっかり忘れていた。
「僕は犬になって、空を走る」
と書かれた題字の下に、ゴールデンレトリバーの子犬の写真が載っている。
そういえば、昼間店で見たのもゴールデンレトリバーだった。
詩織は本を開いてみた。
了