「雨ニモ負ケズ」を暗唱するようぬ
壇上で、みんなの前で、スラスラと諳んじる。一語一字を間違えずに、、、。
花巻小学校4年生。52人の生徒。発表会まで3日。はたして何人が、、、。
「雨ニモマケズ」を暗誦しなさい
作 葉月太一
昭和31年4月の始業日の岩手県花巻小学校4年生の教室です。
田舎の小学校ですが、ベビーブームの子供たちなので、一クラスは
50人前後で10クラスもありました。ワイワイガヤガヤ、いつも
全クラスがにぎやかでした。でも、始業ベルが鳴ると、さすがに全
教室はシーンとなりました。ところが、太一の教室は、直ぐには静か
になりませんでした。何故なら、3年生の時は、年取ったおっかない
おばあちゃん先生でしたが、今度は、学校出たての若い新米先生と
聞いていたからです。それもはつらつとした運動神経のいい「おどご
の先生」と聞いていたからです。子供たちにとっては、「おなごの
年寄り先生」よりも、「おどごの若先生」の方が嬉しかったのでしょう。
始業ベルが鳴っても、このクラスだけはまだざわざわしていました。
そして、先生が入ってきた時、
「起立!」全員がすぐに立って
「おはようございます!」、「着席!」と、
みんながにこにこしながらあいさつしました。教壇に立った新米の
「おどごの先生」は、内心「小学校の先生になって良かった」と
思いました。実は「おどごの若先生」は、昨晩は興奮して満足に
寝てもいませんでした。
床に入ってからも、小学校の先生でなく、中学か高校の教師になる
べきだった、とも思っていたのでした。
「おどごの若先生」は、岩手大学教育学部を卒業されたばかりの、
新進気鋭の竹岡先生でした。竹岡先生は、もちろん初めてクラスの
担任になりましたが、今日は何をすればいいのかわかりませんでした。
明日からは、決めてある時間割通りにすればいいし、家庭科だけは
女の先生に頼んで、あとは全部自分でやればいいのですが、、、。
初日からいきなり国語の教科書や算数の教科書はないよね、と思って
いました。子供たちだって、何かを期待しているはずだ。
教科書以外に何かを、、、。
「おどごの若先生」は、ありきたりの自己紹介をしました。
卒業した学校や学部の事を話していましたが、誰も先生の話を
聞いていませんでした。聞いている振りはしていました。
でも、先生が「先生の実家は、、」と言ったら、みんなは一斉に
耳をそばだてました。
「先生の実家は、、、豊沢町の竹岡納豆屋だ」と竹岡先生が言った
とたんに、生徒はみんな一斉に「わあー、わあー、ガヤガヤ」と叫びました。
「やっぱる、俺の言った通りだべー」と二三人が言いました。
「なぬがそんなに嬉しかべ?」と、先生が聞くと、
「おそらく納豆屋のせがれだべって、おらのかっちゃんがゆってた
通りや!」わっはっは、わっはっは、生徒のみんなは嬉しそうでした。
竹岡先生は、自分の自己紹介が終わると、みんなにも一人ひとり
自己紹介させました。この学年のクラスは、どのクラスも50人位
いましたので、全員の自己紹介はだいぶ時間がかかります。
勿論名前だけの者も居れば、生まれた日や家族の事までも話す者もいて、
いろいろでマチマチでした。10秒で済む者も、1分以上掛かる者、
誰かが茶々入れて、2,3分掛かる生徒もいました。
でも先生は、最後までにこにこしながら聞いていました。
ものすごく大変だったでしょう。最後の綿貫小次郎は名前だけでしたが、
先生はみんなに、「いがった、いがった、みんないがった」と言って、
手をたたきました。
「自己紹介は全員いがった、よくできたな、いがった、いがった。
ところで、みんなは、ケンジさんは知ってるか?」
「ケンジって?どこのケンジや?愛宕町のケンジか?」
みんなは、互いに顔を見比べながら、ガヤガヤしました。
一人が言いました。「そりゃー宮沢賢治だべ」
そしたら、何人も口々に言いました。
「そうだ、そうだ、宮沢賢治だべ」
「宮沢賢治だべ」「賢治だべ」と。
「さすがだな、おめさんだち4年生にもなると、賢治さんのこと
すってるんだな、みんなかしけーなあ」と、竹岡先生は喜びました。
「そしたら、もちろん、雨ニモ負ケズはすってるな?」
「すってる、すってる」みんな口々にといいました。
すると先生は、
「そんだら、来週の月曜日までに『雨ニモマケズ』を暗記すて
くるようぬ」と、クラスの全員に宿題を出されました。
「みんなが、よく出来たら、褒美に賢治さんの詩碑のところさ
連れてってやるべ」と言われました。
「詩碑のところ」とは、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩を刻んだ
詩碑が建っている公園です。そこからは、賢治がイギリス海岸と呼んだ
北上川の一角も見下ろせます。賢治の「裏のはたけ」だったところです。
しかし、公園といってもその頃は、単なる原っぱみたいな所でした。
でも、小学生にとっては、野外勉強は「遊び」と一緒です。
みんな、喜んで一生懸命頑張りました。みんな、暗記の練習をしました。
何人かが言い出しました。
「よく出来たらって、先生は言ったけど、全員のことだろうか?
それともみんなでなくともいいんだろうか?」
でも、誰も竹岡先生に確認しようとしませんでした。誰かが言いました。
「全員は、ねがべさ、、、」と言いながら、みんなは真剣に取り組み
ました。放課後は、大好きなドッチボールや野球もしないで、みんなで
協力し合って暗記に取り組みました。
読み合わせや読み比べなどもしました。何人かは、
「家さけえったら、また集まってやるべ」
「暗記ごっこやるべ」などと話していました。
次の週の月曜日の朝でした。
「1時間目から暗記の発表会をするぞー。」と竹岡先生は言って、
前の日の晩に自分の家で、わら半紙を何枚も貼り合わせて作った
「賢治の『雨ニモ負ケズ』・暗唱発表会」と書いた紙を、
黒板に貼り出しました。
さあ、暗唱発表会の始まりです。
「出席簿順に教壇に上がって、始めるべ。おどこ、おなごの順に
やるべ。まず初めに、あかぬま大介、いがわ洋子の順だな。」
「さあ、始めるべ!」
一人ひとり教室の教壇に上がらされて、暗唱させられました。
大きい声、か細い声などいろいろありました。「間」とか
思い出すための「沈黙」は、何度でも許されました。
でも、字句や語句は、一字でも間違えたら、
その場で降壇させられました。
「はい、それまで!」「はい、交代!」
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ
宮沢賢治
クラスの生徒は50人以上でしたので、みんなは、だいぶ
時間がかかると思っていましたが、あっという間に終わりました。
この詩は、スラスラと諳んじると、1分半でおわります。
全員スムーズに行っても1時間半以上になります。
ところが、一字でも間違えたらその場で降壇でした。だから、
短い人は2秒でした。
『雨ニモマケズ』を『雨ニモマケぬ』と詠んだら、即、降壇でした。
おかげで、みんなの成績は惨憺たるものでした。
一番最後の小次郎もすぐ終わりました。
みんなは、結果がよくなかったので、野外勉強を諦めていました。
「遊べる」野外勉強が、ダメになったとがっかりしていました。
ところが、竹岡先生は最後に、惨憺たる成績を怒るどころか、
ニコニコしながら言いました。「全部、間違わずに暗記できてたのが、
二人もいだな。他のみんなもよく頑張ったな。
さあ、賢治さんの詩碑のどころさ行ぐべ!」と。
しょげてたみんなは一斉に「ワー」と喜びました。
そして、ワイワイガヤガヤ、、、、。
家で「暗記ごっこ」した何人かも、どつき合って喜んでいました。
フユーー フユーー フユーー
(風の音、そして風の又三郎の歌)
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも、吹きとばせ
すっぱい くゎりんもふきとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
フユーー フユーー フユーー
(風の音)
ところで、間違わなかったのは、52人中2人だけでした。
そのうちの一人は私でしたが、もう一人は、、、、覚えていません。
、、、、おそらく孝か洋子だったでしょう。
葉月太一でした。
子供のころ、暗記・暗唱は難しかったけど、
「暗記ごっこ」は楽しかった。