〜第1章〜タバコを吸うその人
〜第1章〜タバコを吸うその人
小学校中学年のある夏の日の暮れの事だった。
なにがあったかは今でも
目を開けていても鮮明に思い出せる。
まるで、体中の血という血に記憶が乗り移って
波打っているみたいに。
その日は橙色の空がずっしりと重く、
のしかかっていくように日が暮れた。
汗が首を滴る。
冬の時間が多い俺の故郷では、
珍しく暑い夏の日だった。
夏は日が落ちるのが遅い、
油断して遅くまで友達と遊んでいたが、
徐々に闇のとばりが落ちてくる。
俺は怒る母親の顔を思い浮かべ、
自転車のペダルをぐいぐいとこいだ。
パァン。
珍妙な風船が割れるような音がひびき、
急に視界が揺れた。
ものの線が、視界の線が
とつぜん3重になる。
なんだ?
驚き、足を止める。
おかっぱの髪を切るようなビル風がゆらし、
汗を飛ばした。
目の前が急に真っ暗になり、息が止まる。
必死で息をして目を開けて飛び込んできたのは、
目の前に広がる光の渦だった。
目下には、こうこうとそびえたち
夜を照らす建物が俺を見上げていた。
突然俺は建物の上の階の部屋
開けっ放しの窓際に移動してしまったのだ。
「誰?」
薄暗い
部屋の奥から女の声がした。
俺は半泣きで声の方を振り返った。
部屋は高級ホテルの一室のようで、
真ん中にキングサイズのダブルベット、その前に
テーブルが置いてある。
ほぼ部屋全体を窓が取り囲んでおり、
まるで大都会の夜景に抱かれているようだった。
俺は右横のベランダから部屋に戻り、
徐々に近づいてくる彼女から隠れることもせず、
自転車のハンドルを握りしめ足を震わせ
ただ棒立ちになっていた。
彼女は俺をみて、
タバコを吸い、吐いた。
可愛らしい顔をツヤツヤした金髪に
近いぐらい茶色い長い髪が
花を添え
赤いバスローブを着ているがはだけていて
ベビーフェイスには似つかわしくない
大きな胸が顔をのぞかせている。
タバコを吸っている人は親父や
親父とよく競馬に行くおじさんしか
知らない。
でもその人は今まで見たことのある誰よりも優雅に、綺麗な弧を描くようにタバコを口に
くわえ、吸い、吐いた。
俺は彼女を見つめて子供心に思った。
八重歯が可愛いな。
彼女は一瞬驚いた顔をしたが、
すぐに少し悲しそうな、
めんどくさそうな目をして僕にいった。
「珍しいお客ね。
どこからきたの?」
俺はなにも答えられず
ただ彼女に見とれていた。
彼女が俺にとって
忘れられない人になることを
この時の俺はまだ知らない。