赤錆の空に
私は憂鬱な気分を味わっていた。
「お姉さん、どうしたの?」
目の前に座る少年が、無邪気な笑みを浮かべて私に言った。
「ううん、なんでもないよ。」
「じゃあさ、じゃあさ、今度は昔のお兄さんがどうだったか教えてよ!!」
「どうといわれても・・・。」
私は困ったように笑みを浮かべることしか出来なかった。
我らが主が地獄の総裁となり、ひとつの軍隊の所有と指揮権を任された。
それに関して誇らしげにする者、戸惑う者、どういうことかと主に詰め寄る者、さまざまだった。
私は戸惑う者だった。
私からすれば、自分の主人が『黒き赤文字の悪魔』だなんて大層な異名で呼ばれていたり、私の後に五十人以上の従者を従えていたり、多くの畏怖や尊敬を集めていることこそが驚きだった。
私が生きていた頃、我が主は生意気なだけのガキだった。
どういうわけだか凄腕の騎士殿に守られて、偉そうに嫌味ばっかり言っていた記憶しかない。
そして時々面倒ごとに首を突っ込んでは教会の連中に追われていた。
悪魔悪魔だと罵られてはいたが、本当に悪魔になってしまうとは驚きを通り越してぐうの音も出ない。
そもそも私がこうして生きていることさえも、異常なことだった。
私は父の名誉の為に決闘し、その際に刺し違えて死んだはずだった。
その時に我が主に看取られたのを私は覚えている。
だというのに、私はここに存在しているのだ。
そして私は理解することを諦めた。
魔界の技術というのは、私のような学のない女には理解しがたいものだった。
とは言え、学のある教授にも理解しがたいものだったようだから、恐らく人間には誰にも分からないはずだ。
「やぁ、諸君。」
私は彼の質問をどう煙に巻こうかと考えていると、室内の両開きのドアを開けて、我らが主が現われた。
どこの魔術師だといわんばかりの漆黒のローブに黒髪の子供が、騎士殿などを引き連れて現われた。
ここは魔界にある我らが総裁たる主の拠点の一室。
一番の広さを持つこの部屋は、一同で食事などを取るダイニングとして使用されている。
そして、軍団の活動の命令などを伝達する場でもあった。
そこに五十人以上の人員が集まるとなると、なかなかに壮観である。
「今日も魔界の瘴気は濃いね。
それじゃあ、各々に今日の仕事の割り振りをするよー。」
私の知らぬ間に威厳を身につけた我が主が、的確に部下に仕事を割り振っている。
仕事と言っても、この軍団は出来て間もない。
殆どが雑用ばかりで、やりがいがあるのは少ないだろう。
とは言え、それでも六割以上の人員がここから出払うので、そこそこ大変な仕事なのだろう。
何か意味のある行動なのだろうが、私にはどうでもいいことだ。
「残りは全員、引き続きこの砦の掃除ね。」
はーい、とあまりやる気の感じられない返事がいくつか返ってきた。
勿論、私もその中の一人だった。
「はい、じゃあ皆、解散ね。今日も一日いい日にしようねー。」
なんてことを言いながら、主は去っていった。
私は窓の外から空を見上げる。
魔界の空は、赤く禍々しい。
まるで、空が錆びてしまっているかのようだった。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
私は気の滅入るほど入り組んだこの砦の廊下を、ひたすらにモップ掛けしていた。
魔界を統べる魔王から異例の采配で総裁という地位を頂いた我が主だが、それでも下っ端の下っ端に過ぎない。
人間で言えば、ひとつの軍隊の下仕官程度の地位なのだ。
それで最果ての辺境とはいえ小さな砦を任されることは確かにすごいことなのかもしれない。
だが、やることなど無いのだ。
この魔界では魔王は神も同然の絶対者。
反抗する勢力など、皆無と言っても過言ではない。
徹底的な序列制度で管理された魔界の社会は、ある種の完璧な平和を体現している。
魔界の悪魔たちはその性質上、非常に職務には忠実だ。
人間のように横暴を働いたり、不正など行わない。
魔王の統治は極めて完璧であり、最下層の民からも魔王への不満など聞いたことは無い。
これだけ聞けば良いことだらけに聞こえるが、実はそうではない。
民の間では慢性的な退屈が蔓延しており、機械的で代わり映えの無い生活を淡々と送るだけの日々が繰り返されている。
例えば市場があるとして、人間ならば少なからず活気が溢れているだろう。
だが、魔界の市場は人が溢れていても活気は無い。
まるで葬列のような、一種の不気味さを醸し出している。
だから悪魔たちが、娯楽を求めて他の世界に繰り出すのは当たり前なのかもしれない。
「しかし、それを肯定する事は出来ません。」
魔界の町の様子を愚痴っていた私の言葉を同僚のシスターがそう断言した。
「偏見を抜きにして、魔王の統治は完璧です。
それだけでも十分贅沢なことですが、それで満足しろというのも酷でしょう。
だからと言って、他人から搾取して悦楽を得るなど言語道断です。」
そして、なんで我が主のような悪魔の従者となったのか分からないほど真面目な台詞を口にした。
今朝から一緒にモップ掛けをしているというのに、疲れた顔をちっとも見せずに職務に励みながら、だ。
彼女は、アイアンハート。
この男の騎士にでも居そうな名前を持つ修道女は、勿論本名ではない。
アイアンハートというのは主が遊びで呼ぶあだ名のことだ。
元々人嫌いの毛があった主が、人間を個人として認識しないように名前を覚えないことから始まった。
しかしそれでは不便なので、主は遊びでその人物を端的に現したあだ名をつけて、それを呼び始めた。
騎士殿もその余興に便乗したものだから、結局私は本名で呼ばれることは無くなった。
それが末席に行けは行くほど、主から貰った名を大事にしやがる。
中には自分の名を捨ててそう名乗るものも居るほどだ。
我が軍団の中には世捨て人のような者もいるので、不思議なほど定着している風習だった。
そしてここは悪魔が跋扈する魔界。
彼らは真実の名前を隠し、それを知るものに服従する。
郷に入っては郷に従えと言わんばかりに、各々自分たちの本名を封じて生活することになったのだ。
「赤錆さん、あなたもそう思うでしょう?」
「・・・・。」
赤錆、というのは私のあだ名だ。
不名誉なあだ名と言ってもいい。
私がかつて食うに困り、我が家に代々伝わる剣を錆びさせてしまうほど貧困の喘いでいた時の事だ。
盗みで生計を立てていた私は、ついに住んでいた町から追い出され、盗賊に身をやつすほかないと決意し、いざ襲ったのが運の尽き。
その相手というのが我が主であり、騎士殿にボコボコにされたのだ。
それ以来、私は赤毛というのもあってか、赤錆と呼ばれるようになったのだ。
「あんたこそ、こんなところでモップ掛けさせられていることに不満は無いのかよ。」
彼女は仮にも修道女だ。
こんな悪魔だらけの場所で、しかも一度死んだ身なのに生き返っているときたものだ。
真っ当な神の信者のなら、地獄に落とされたと思って嘆き悲しむくらいするだろう。
だというのに、私は魔界に来たその日に彼女とペアを組まされ、同室で過ごし、一緒に掃除をする日々であるのに、泣き言どころか弱音のひとつも聞いたことが無い。
「死後、こうしてもう一度何かをする機会を得たことを喜ぶべきなのでは?」
そして彼女はそんな事をのたまったのだ。
「はぁ? こんな地獄のようなところでか?
だとしたら、神様はこんなところで何をしろっていうんだろうな。」
神の存在を微塵も信じていない私は、どこか吐き捨てるようにそう言った。
或いは、今まで受けた教会からの仕打ちを彼女で晴らそうとした醜い行いだったのかもしれない・
「このような場所に送られたことが神の御意志だというのならばそれに従いましょう。
我が主に組した罰だというのなら、それを受け入れましょう。
いずれにしろ、私はこれを幸運と受け取りました。
ほら、見てください、この健全な身体を。」
そう言って、彼女は両手を広げた。
「私は己が死ぬ前は、老いてベッドから動くことすらままなりませんでした。
そして我が主に多大な迷惑を掛け、幾度と無く己の無力を呪ったことでしょうか。
ですが今、こうして私は我が主と出会った頃の若さを取り戻している。
これを腐らせることほど冒涜的なことも無いでしょう。」
そう言って彼女は、二十台前半に見える己の身体を掻き抱いた。
「老い・・? じゃああんた、もしかして私よりずっと年上・・?」
「確か、七十までは数えたと記憶しています。
それ以降はどうも、老いが頭まで達したようで・・。」
「・・・・。」
まさかあの主に五十年近く仕えたと言うのか。
私でさえほんの数年だというのに。
そして普通に年上だった。とんでもなく年上だった。
私の場合、若返るどころか死んだ直後と全く同じ感覚だ。
そこでふと、教授の言葉が頭に浮かんだ。
「恐らく我々は自分にとって最も活動するに適した、即ち自らが全盛期だと思う頃の肉体を再構築されたのであろう。」
と言った彼が全く若返った様子が無いのは、恐らく魔術師は老練さが必要だからなのか。
「本当にそう思っているのかよ、教授は言ってたぜ。
この身体は悪魔と似たような物だって。」
なんでも、人間の身体には魔界の瘴気は劇毒にも等しいらしく、自分たちがここで問題なく呼吸が出来ると言うことは悪魔に等しい存在になっているからでは、という仮説を立てていた。
そう、悪魔になっているのだ。
悪魔に魂を売ったから、悪魔になった。
ありそうな話じゃないか。
「ですが、それで私の考えや行動を縛られることは無いでしょう?
今の私が悪魔だと言うのならば、それは私が心底悪魔になったからでしょう。
もしそうならば、それを受け入れるしかないでしょう。
その上でどう行動するか決めなければなりません。
心身ともに悪魔と化すのならば、抗うことしかできないのでしょうけれど。」
「・・・・・。」
この女は、挫けるということを知らないのか。
「じゃあ、不安は感じないのかよ。
これからどうなるのか、どうしていくのか、とかさ。」
「不安を感じない人間はいないでしょう。
現に私もどうしていいか分からず、こうして掃除から始めているところです。
悩むより、自分に出来ることから行動に移すことが大事なのです。」
経験ですけれど、と話す彼女に私は、なぜ彼女がアイアンハートなんて呼ばれているか分かった気がした。
「おーい、誰かー。」
ふと、通路の向こうから一人の青年が書類を片手に歩いてきた。
「どうしましたか? マイザーさん。」
どうやら、彼はマイザーと呼ばれているらしい。
五十人以上の人間が居るので、私はこの短期間でまだその全てを把握してはいない。
「あー、姐さんですか。
今ここで一番上の人間って誰ですかね?」
「恐らく、彼女でしょう。」
そう言って、アイアンハートは私を見た。
驚きはしなかった。
魔界は実力主義だが、それは年功序列の上に成り立っている。
年月を経た悪魔が強いのは当然だからだ。
そして、私の序列は騎士殿の次。部下の中では二番目になる。
主に仕えた順番に、機械的に番号を割り振るならそうなるのだ。
「えーと、じゃあ、諸経費について相談があるんですけど。」
「あ、悪いけど、あたし数字分からないんだ。」
「えー・・。」
するとマイザーはあからさまに顔を顰めた。
「参ったなぁ、いまご主人が居ないんですよ。
・・・じゃあ臨時の責任者とか誰か分かりませんかね?」
「えっと・・・教授は居ないの?」
「あの魔術師の爺さんですか?
研究中だから誰も部屋に入るなって言われまして・・・。」
「一体何の経費なのですか?」
困っている両者の間に入るようにアイアンハートがそう言って言葉を被せた。
「砦の修繕と改修費用ですよ。
しかし、額が額ですから、経理を預かった者としてどこまで認可していいものか・・。」
彼が語る内容はかなり重要なもののようだった。
「ならば彼女に相談するのが一番でしょう。
恐らく、砦にいるでしょうし。」
そして、彼女は一人の人物を提示した。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「ねえ、なんであたしがついていく必要があるのよ。」
「そりゃあ、上の立場の方が居たほうが話がスムーズに進むからですよ。」
マイザーの言葉に、私は暗澹たる思いだった。
私は主に二番目に仕えたというだけで、特別強いとか、すごい能力があるとか全く無い。
多少剣術の心得があるだけで、騎士殿のように魔剣すら持っていない。
そして私の家は私が物心つく頃にはすでに没落していたので、当然高等な教育も受けていないのだ。
そんな庶民に毛が生えた程度の人間である私は、二番目に主に仕えたというだけで何かと頼られ、理由も分からず慕われ、一目置かれていた。
自分より遥かに優秀で優秀な人間たちにそんな風に見られて、劣等感に苛まれない人間は果たしているのだろうか。
私は無理だった。
この魔界の地にて蘇り、この砦に配属されて数日になるが、私もこの重圧に耐え切れそうに無くなってくる。
私とマイザーがやってきたのは、砦の一階部分の外側だった。
重厚な城壁に囲まれていれば意も言われぬ圧迫感に苛まれる感覚に襲われる。
そんな砦の建物の入り口部分の裏側に、彼女は居た。
豪奢というほどではないが、鮮麗なドレスを纏う女性だった。
その佇まいから人目で貴人であることが伺え、すらりとしたその姿勢からは気品すら感じるだろう。
手に金槌を握っていなければ。
「こことここが脆くなっておりますわね。
この辺を補強しなければ、ちょっとした爆発物で総崩れですわ。」
などと言いながら、砦の壁をガシガシ金槌で殴りつけている。
結構近づいているのに、こちらに気づいた様子も無く彼女は夢中になって壁を金槌で殴り続けている。
当然私も絶句、マイザーもどう反応したらいいのか分からない様子だった。
「ふーむ、やはり爆弾のひとつも無ければこの砦を崩壊させるのは無理でしょうね。
問題はどのように調達するべきか・・・・。」
「ちょっちょ、冗談じゃないっすよ、お嬢さん!!」
物騒な思考を漏らす彼女に、マイザーは慌てて駆け寄った。
「あら、あなたは確か・・・マイザーさん、でしたか?」
「えッ、まあ、はい、そう呼ばれています。」
彼は意標を突かれたように驚いた顔をした。
自分たちは一通り面識はあるし、一度全員で一人ずつ自己紹介させられたこともあるのだが、あの濃い面子の中から比較的影の薄いだろう彼も、まさか自分の顔と名を覚えてもらっているとは思わなかったのだろう。
彼女の顔には見覚えがあるのだが、仕えた順番に自己紹介したからあまり覚えていない。
確か彼女は最初の方だった筈だ。
そして特段目立つ自己紹介はしていないはずだ。
自分はそこそこ記憶力は自信が有るのだが、主だった濃い連中は記憶に残っている。
「私は主にクラッシャーと呼ばれていますわ。
見ての通り、品の無い女ですが。」
そう言って、彼女は優雅に微笑んだ。
彼女に品が無いというのなら、私はきっとドブネズミだろう。
「いえいえ、どこかの貴族のお嬢様かと思いましたよ。
私も昔は商人をしてまして、人を見る眼はあるんです。」
と言いながらも、マイザーの視線は彼女の片手に握られている金槌に視線が行ったことを見逃さなかった。
「そんなものに意味はありませんわ。
私の居た国などもうありませんし、血筋も残っていないでしょう。
そしてここではかつての地位など無意味な物ですわ。」
「は、ははぁ・・・。」
マイザーは感心して頷いた。
「それで、わたくしに一体どんなご用で?
立ち話をしにきたわけではないのでしょう?」
「あ、はい、砦の改築や補強についての予算がまとまったのですが、認可を受けるにもご主人は不在でして。
そこであなたなら間違いはないと、彼女が。」
私の心臓が跳ねた。マイザーは私を指し示したからだ。
書類を通すための方便だろうが、そういうことは最初に言ってほしかった。
「ふむふむ、どれどれ・・・。」
彼女は書類を受け取ると、すぐにそれに眼を通した。
そして、
「これを製作したのはあなたでよろしくて?」
「ええ、はい、そうですが?」
次の瞬間、マイザーの身体は崩れ落ちていた。
彼女に金槌で殴られたからだ。
「ッか、ッ・・っは!?」
彼は呼吸も出来ないのか、地面で痛みに悶え苦しんでいた。
「わたくしが具申した内容と違いますわね。」
彼女はそう言って、その書類を破り捨てた。
「我が主から予算を組むように命じられたのでしょうが、そもそもそれはわたくしの方から補強が必要だからと申し上げたのです。
そしてその際、数箇所の補強と補修で十分だと進言いたしました。
今の書類に組まれた予算は、半ば改築するに等しい金額です。
私の見立てではその予算の四割で十分なはずですわ。
では、残り六割はいったいどうするのでしょうね。勿論、蓄えておいて後で使うなんて言い訳は聞きませんわよ。」
彼女はゆったりと、死刑を告げるようにマイザーに語りかける。
彼の恐怖の色が色濃くなった。
「こんな無駄な予算を組む財務官は不要です。
使途不明金に紛れ込ませて懐を潤したいのなら、もっと上手くやることですわね。」
彼女は金槌を振り上げる。
「まあまあ、その辺しとこうぜ。」
私は唖然としていたが、これはまずい、と思って二人の間に割り込んだ。
「こいつも慣れない土地の経理で戸惑ったんだろ?
それにこいつもまだ実際に不正をして儲けたわけじゃないんだし・・・。」
「ええ、ですがこの予算は我らのものではなく、民の税で成り立っているのです。
それを掠め取ろうとしたのですから罰するのは当然でしょう?」
「だけどここでこいつを殺しちまうってのはないだろう?
私も死ぬときはちゃんと我が主に許可を賜ったんだ。流石にそこまではあんたの裁量じゃ決められんだろ?」
私がそう答えると、彼女は僅かに逡巡して金槌を下ろした。
「たしかに貴女の言うとおりですわね。」
彼女はふわりと微笑んでそう答えた。
「ほら、あんたも、大丈夫か?」
「・・あ、ああ・・。」
私はマイザーを抱え起すと、彼は怯えながらも頷いた。
「どうせあんたがこんなことしでかすことを主も承知だったんだろうが、これに懲りたら公金に手を出すのは止めるんだな。
掠め取るんなら主のものだけにしておけよ。」
私がそう言うと、マイザーは驚いたような表情になった。
「俺と主の契約を聞いているんですか?」
「ん? いや、聞いちゃいないが。
だけど、主のことだ、どうせ自分のものを取れるならいつでも取ってみろとでも言ったんだろ?」
あのガキの性格を考えれば簡単に想像つく。
「お、お見それしました。
予算の報告書は後日改めてそちらに提出させて頂きます。」
すると、彼はなにやらとても恐縮したような態度になって深々と頭を下げた。
「え?」
「では、これにて失礼します。」
マイザーは呆気に取られる私など気にも留めずに去っていった。
「なるほど、我らが主の人の見る眼はやはり確かだったようですね。」
振り返ると、彼女もガシガシと壁を叩き始めた。
「・・・・しかし、今にして思えばアレだけの予算をかけて修繕したほうが壊し甲斐があったのかもしれません。」
そしてそんな物騒なことを呟いている。
「えっと、芸術家なんですか?」
私は十分に言葉を選んでそう言った。
本当は城砦とかを攻め滅ぼす武将とかが頭に浮かんだが、彼女の線の細さから見てそれはないだろうな、と私は思った。
「貴女は御自分の前世は何だか分かりますか?」
「え、・・・どうなんでしょうね、私はそういうの信じてないんですけど。」
「わたくしの前世はテロリストでしたわ。」
私は絶句した。
「あれは六歳のある日、突然でしたわ。
中庭で遊んでいたら、突然自分の中に知らない記憶や知識が溢れ出たのです。
三日間寝込んだ末に、わたくしは今の自分になっておりました。
わたくしの前世は主に爆破や建物の解体を得意とする奇人だったらしく、金で雇われて多くの人の命を奪ったようですわ。」
「えっと、そういうの、親に連れて行かれて教会に相談したりしないんですか?」
教会の連中は二重支配者の片割れだが、何も連中は横暴なだけが取り柄ではない。
神聖魔術の実力者が田舎の貧相な教会にも最低一人は居たし、確りと金払いの良い貴族連中には手厚い加護を授けていると聞いていた。
連中はその横暴に見合うだけの力を持ち、その分幅を利かせていたのだ。
尤も、貧民には関係の無い話だが。
「ええ、わたくしは十日も待たずに悪魔憑きとなり、城内でも腫れ物扱いになりましたわ。
今までわたくしに笑顔で接して来た者たちも瞬く間に離れていき、百はいた従者も片手で数えられる程度に減らされましたわね。」
「ああ、やっぱり・・。」
ん? 城内? 百はいた従者?
その瞬間、私の背中に熱くも冷たい汗が流れ落ちた気がした。
もしかしたら、目の前に居る彼女は、想像以上のご身分だったのでは、と。
「食べるものも着る物も瞬く間に兄弟や姉妹と区別され、食事も一人で食べるようになり、十歳を待たずして廃嫡・・・ふふふ、まあ当然ですわよね。」
「・・・・不満は無かったんですか?」
「不満?」
それを聞くと、彼女は不思議そうな表情になった。
「ああ、それは仕方が無いのですよ。
なぜならわたくしも、自分の知識を試して多大な迷惑をかけたのですから。」
くすくす、と彼女は笑ってそう言った。
「不満などありませんでしたわ。
貴人は生まれながらに義務を背負います。
優雅な暮らし、豪華な食べ物と服の代わりに、戦いの赴いたり、政略結婚の駒にもされる。
その義務を果たさなくていいと言われたのですから、喜ばないほうがおかしいでしょう?」
彼女の物言いに、私の脳裏にある安っぽい身分差ラブストーリーが木っ端微塵に砕け散った。
「わたくしは好きなことをして生きました。
では貴女はどのように生きるのですか?」
「え。」
どのように生きたかではなく、彼女はこれからどうするのかと問うたのだ。
私は心の中を見透かされたような居心地の悪さを感じた。
「まあ、わたくしが口を出すことではありませんでしたわね。
申し訳ありません、昔からお喋りが過ぎるのです。」
「いいえ、気にしてませんから。」
私はそう言って、足早にその場から立ち去った。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「もし、もし。」
それは私が砦に戻って、掃除に戻ろうとした時だった。
「そこのお方、どうかワタクシを助けてくだすって。」
壁に、人間の上半身が生えていた。
「・・・・・・・・・・・・・。」
私は見ないことにした。
「ああ!! ワタクシをお見捨てになられるのね!!
なんて白状なのかしら!! こんなにわたくしが困っておりますのに!!」
壁に埋まった上半身はギャーギャー騒ぎ始めたので、私は仕方なく振り返った。
「いったいどうしたのよ、あなた。」
「ああ、やっと助けがきましたわ。」
さっき、本物を見たからか、若干怪しいお嬢様言葉を使う女性は、安堵したように息を吐いた。
「それにしても、一体どうやって壁の中に・・。」
よく観察してみると、彼女が突き出ている壁の周りは、まるで彼女に押しのけられたかのように内側から波打っている。
まるで彼女が壁を食い破ったかのようだった。
「すこし、壁を抜けようとしましたら、失敗してしまいまして。
慣れない事はしないほうがよろしいのですわね。」
「いやいや、壁を抜けようとしたって・・。」
しかし、これは引っ張れば引き抜けるかもしれない。
「せーの!!」
私は彼女の両腕を掴んで、めいいっぱい引っ張った。
「ひ、ひいいい!! 痛い痛い!!」
「我慢しなさいよ!!」
ズルズル、と少しずつだが壁から彼女の上半身が動いているのが分かる。
私は渾身の力をこめて、彼女を引っ張り出した。
「きゃあ!!」
スポン、というよりズルリ、という感じで、彼女の下半身は壁の向こうから脱出できた。
「た、助かりましたわ・・。」
彼女は起き上がり、喪服のようなドレスについた埃を払った。
「ありがとうございます、ワタクシはチェリーと言いますの。
お礼にお紅茶でもご馳走しましょうか?」
「いいえ、結構よ。
っていうか、なんでこんなことしたんだよ。」
人間の胴体の形に押し広げられた壁を見ながら、私は嘆息した。
これはマイザーも頭を抱えるだろう。
「こう見えてもワタクシはヴァンパイアの端くれ。
本当に壁抜けが出来るかどうか試してみたのですわ。」
「はぁ? ヴァンパイアって、お前がぁ?」
学の無い私も知っているくらい、ヴァンパイア、つまりは吸血鬼という存在については有名だ。
とは言え、教会が眼の敵にする血を啜る醜悪な化け物だってぐらいしか知らないが。
目の前の女はどうみてもそんな化け物には見えなかった。
「じゃあお前、他人の血を啜ったりするのか?」
「はぁ? 知らない人間の血を飲むなんて気持ち悪いこと致しませんわ。」
じゃあお前のどの辺がヴァンパイアなんだと、と私は口から出掛かったが、無理やり奥へ押し込んだ。
「ヴァンパイアって壁抜けができるものなのか?」
「ワタクシの地方では出来ると言われていましたわ。
しかし実際に試してみればあの有様。本当にお恥ずかしいかぎりですわ。」
「そうか、じゃあ、とりあえずこっちにこような。」
私はそう言ってチェリーの腕を掴んだ。
「え?」
「とりあえず、そこの壁に穴を空けた落とし前をつけような。」
後日、私がこの件をマイザーに報告したところ、チェリーは涙目になってクラッシャーに怒られていたという。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「はぁ・・・。」
私は深々とため息を吐いた。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
少年・エリュシオンの純粋な瞳が私を案じるように見上げてくる。
「あ、ああ、ちょっと疲れただけだよ。」
うちの連中はとにかくくせが強いのが揃っている所為か、些細なトラブルが絶えない。
そしてどういうわけか、私がそれらを折衝したりする役目を帯びているもんだと勘違いされ、それがまた周囲に認知され始めてきているのだ。
「やぁ、おはよう皆。今日も代わり映えのしない天気だね!!」
今日も我が主が朝礼に顔を出してきた。
一番広い部屋で、我が主はやり手の実業家の如く部下である我々に仕事を割り振っている。
と言っても、何かしらの役割を割り振られるのは十人程度で。
「よし、あとは戦える奴は僕についてきて、それが出来ない奴は今までの業務を続けて欲しい。」
てな感じで、今日は結構大雑把だった。
「あのさぁ、我が主よぉ。」
言うこと終えたらさっさと踵を返そうとする彼に、私はいい加減我慢の限界が来た。
周囲がギョッとして私に視線を向ける中、私は気にせずに我が主に言い放つ。
「一体全体、これからどうするつもりなんだい?」
「赤錆ッ、貴様口の利き方を忘れたのか。」
我が主ではなく、その横に控えていた騎士殿が前に出で凄んできた。
うっ、と私はそれに若干怯んだ。
彼は一番に我が主の従者となり、その武力で我が主を守り、大いなる礎となった男だ。
そして、私に礼儀や言葉遣い、果ては剣術を指南した師匠なのだ。
口には決して出さないが、第二の父親だと思っている。
彼の騎士としてのあり方は、憧れすら抱いているのだから。
「まあまあ、いいじゃないか。」
だが、我が主は騎士殿を制して一歩前に出た。
「言いたいことがあるんだろう? 言いなよ。」
そう言って彼は騎士殿に目配せした。
そのまま騎士殿は黙り込むと一歩下がって飾られた甲冑のように黙ったのだ。
「あのさ、まずこれからどうしたいわけ?
私たちはたぶん、私たちなりにあんたに仕えて、そして自分たちなりに納得して死んだはずだ。
・・・・皆はそうじゃないのか?」
私は立ち上がり、今まで口に出さなかったであろう同僚たちの代弁をした。
私の言葉に、少なくとも半数以上が同意したのを見ると、視線を我が主に向ける。
「それがある日突然、こんな見知らぬ世界で生き返ったときたもんだ。
別にもう一度あんたに仕えるのがイヤなんじゃない。何だかんだ言って、私もそれなりに楽しんでるからな。
だけど、私たちは何一つ聞かされちゃいない。
私たちを生き返らせて、お前は何をしたいんだ?
勿論、悪魔と契約した私たちだ。死後の権利なんざないのかもしれない。
それでも、私たちに目的のひとつも告げるのが筋ってもんじゃないのかよ。」
私はまくし立てるようにそう言った。
沈黙が、ダイニングに舞い降りる。
程なくして我が主が口を開いた。
「困ったなぁ。」
「え?」
「実を言うと、何にも考えていないんだ。」
ああ、そうだった。
そのとき私は全てを理解した。
彼は、我が主は、こいつは、いつも難しそうなことを考えているようで、その実は何にも考えていない無計画な奴だった。
「僕が魔王陛下から“総裁”の地位を拝命したのは成り行きで、その褒美として君らの命を頂いた。
しかしそれは僕が願ったものではないんだ。
軍団の再編成の手間を省いた程度の思惑に過ぎないんだろうけれど。
僕としても、例え自分から君たちを生き返らせる機会が有ったとしても、それをよしとするつもりはなかったんだ。
君らは君らなりに僕に仕えたように、僕は僕なりに君たちの死を受け止めていたからね。
中には僕の未熟ゆえに、死なせてしまった者も多かった。」
そう言って、我が主は全員を見渡した。
中には涙を流してすすり泣くものも居た。
私は思い出す。
初めて私たちがこの世界で意識を取り戻したとき、彼に泣きすがって喜んでいた従者が何人もいたことを。
「君たちに何も言わなかったのは、悪かったと思う。
だけどそれは許して欲しい。僕も僕で複雑な気持ちだったんだよ。
だってそうだろう? 人は普通、生き返らないものなんだから。
しかし僕はこう考えた。
ここは人から見れば地獄のような場所だ。地獄そのものとして語られる事もあるだろう。
だけど天国の秘密など人間は知る由も無く、ならばここは死後の世界。
こうして再び、偶然とは言え君たちと出会えたことを考えれば、ここは天国と一体何が変わろうか。
生前の目的など見失った以上、僕はこうして君らと過ごしているだけでそれなり以上に満足している。」
だって楽しいからね、と我が主はにやりと笑う。
「今は周辺の地理の把握で忙しいけれど、それが終わればどうせ一気に暇になるんだ。
僕は辛気臭くてつまらない魔界の住人なんかより、君たちと過ごすほうがずっと楽しいだろうし。
各々、積もる話はそれからにしようよ。」
以上解散、と彼は踵を返して、ダイニングを出て行った。
「戦闘要員は主に追従しろ。
魔界のあらゆる脅威から主をお守りするのだ。」
騎士殿がそう言うと、黙って我が主の言葉を聞き入れていた面々の半数が彼に追従して付いて行く。
「じゃあ、またねお姉さん。」
エリュシオンもまた、我が主についていく一人だった。
残された私たちも、各々の業務をするべく散り始めた。
「さてと、私も掃除の続きをやりますか。」
少し見ないうちに、ガキから成長していた我が主を思い浮かべて、私は少し笑った。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
「ねえ、お兄さん。」
「なんだい、エリュ。」
ぱたぱたと駆け足で自らの主人の下へと駆け寄るエリュシオン。
その幼いしぐさに、思わず騎士も無礼を働く部下を止めそこなったほどだ。
「お兄さんとお姉さんって、どういう感じなの?
“お姉ちゃん”と違う感じ?」
そしてそんなませたことをのたまった。
「そうだね。」
彼は、苦笑しながら答えた。
「あいつは僕の、不出来な幼馴染ってところかな。」
こんにちは、ベイカーベイカーです。
つい衝動的に始めてしまったスピンオフ作品。赤錆の空に、をお送りしました。
こちらはメインではないので、かなり不定期で、気が向いたときにしか更新されません。
あくまで、肥やしになるだろう設定に色をつけただけなので。
そしてシリーズ物なので、これ単体で呼んでもあまり面白くは無いかもしれません。
それでも、彼らの巻き起こす変わり映えの無い日常に興味があるという方がおられるのでしたら、同シリーズ共々ご愛読してくださると幸いです。
それでは、また次回。