佐藤光と紫藤明人、あるいは進藤刑事の場合
4月11日水曜日。午後4時13分
「さーて、今日も無事に終わったなー」
紫藤明人は今にも空から沈もうとしていた、燃えるような夕日が空と雲を赤く染め上げられた街を歩いていた。
学校帰りの子供たちは笑いながら飛び跳ねて家へと駆けていく。夕ご飯の買い物を終えた主婦たちは世間話に花を咲かせて道を歩き、野球部員たちは規則的な掛け声を上げその日最後のランニングをして学校へと走る。
そんな風景の中、明人は家路についていた。学校指定のブレザーを身に包んでいる明人はどこにでもいそうな顔をしていた。髪も短めに切り揃えられており、体も脆弱というほどではないが筋肉質というほどでもない、あいまいな体格。唯一特徴があるとすれば少し同い年の高校生に比べて背が高いことだろうか。
明人は人通りの少ない道に入ると、彼の日々の平和な日常を脅かす音がかすかに響いてくるのが聞こえた。
(なんか嫌な予感がする)
そんなことを考えながら、明人は路地裏を覗きこんだ。
案の定、そこには彼には見過ごすことのできない光景が広がっていた。
元来、彼は平和主義者である。それも生粋のだ。
近くで諍い事があるとそれをすぐに諌めようとする。自分の周りにあるおよそ平和の反対と呼ばれているものは全力で排除しようとする。結局自分のためだけに行動してるにも関わらず、周りの人はその彼の様子を見て、平和主義者というよりも正義感の強い人間、それこそ「良い人」だと誤解してしまう。
しかし彼の行動はあくまでも自らの安心と平穏を守るためのものでしかない。言い方は悪いけれども彼は自分の平和というものに関してはひどく利己的な人間なのだ。
ただ、彼のしていることがいかに利己的な理由で行われたに過ぎなかったとしても傍から見れば「良い事」をしていることには変わりはない。
自分の平和を守るという事に関して、彼は絶対に妥協しない。
彼にとって平和というものはどんなものでも代用することのできない唯一のものだからだ。
それは心の平穏というものも、その例外ではなかった。
そのため明人の目の前に広がる光景は決して見過ごせるものではなかった。
◆◇◆◇◆◇
「おら、金出せよ」「持ってんだろ」
「そ、そんな、僕は」
「いいっていいって皆まで言うなって。俺らにお金くれるんでしょ」「やっべー心優しいなおまえ」「ほんとほんと」「まさかくれないわけねーよなー」「良いじゃんちょっとぐらい、いっぱいお小遣いもらってんだろ?」「つーかさっさと財布出せよ、ゴラ!!」
「っひ!」
現在、佐藤光は数人のガラの悪い男たちによってカツアゲをされていた。
カツアゲを行っている男たちは真っ赤なパーカーやらダルダルのズボン、指輪やネックレスを身に着けた様相はまさしく不良そのものだった。どの不良もまだ若かったが見た目からして学生のようではないようだ。こんな時間に出歩いているところを見るともしかしたら働いていないのだろう。とはいっても、カツアゲをしている連中が真面目に働いているなどという話は聞いたことがないが。
一方カツアゲをされている方はというと、大きな旅行鞄を携えた子供だった。いや子供というのは少し語弊があったかもしれない。確かに男性としては少しばかり華奢な体格をしているし顔だちも幼く見える。だがしかし、そこでカツアゲの被害にあっていた子供――――佐藤光は今年高校に入学したばかりのれっきとした高校生なのだ。光はそのことでよく友人たちにからかわれていたためそれをとても気にしていた。
さて、なぜ光がこんな状態になっているのかと言うと、時は少し前に遡る。
昨晩の事だ。突然光の父が家族を呼ぶと
「実は父さんの会社が潰れた」
と静かに言った。光の家では父が唯一の収入源だったためにこれは大変なことだった。
突然の事だから退職金が出ないらしいとか、失業保険のお金も当分もらえないとか、お金をどうにか工面してみるがおそらく授業料が払えないから光には高校を辞めてもらいたいとか、就職先を見つけてみようと思うがこのご時世ではそれも見込めないだろうなどと言っていたのは覚えているが、如何せん突然のこと過ぎて、光には理解が追いつけなかった。
呆然とした光を心配してか母に今日はもう眠りなさいと言われ床についたまでは良かった。
しかし不幸とは重なるもので、光がベッドで寝ているとかすかにパチパチと言う音が聞こえてきた。気になって起きると家が燃えていた。
光は着の身着のまま家を飛び出した。幸いなことに家族のだれも目立った怪我は無いようだった。
すぐに消防が駆けつけ、消火活動を行ったが、家は半焼。とても人が住めるような状態ではなかった。
朝になった。家もなくし、収入も無くなった光たち家族はとりあえず荷物を整理してこれからの事を話し合った。
だがこんな状態ではまともな話し合いなどできる筈がなかった。そこで父なけなしのお金でご飯を買いに行くことにした。みんなお腹が空いていたのだ。
しかし何時まで待っても父は帰って来なかった。不安に思った母は父を探しに行ったが、母も光の元へ帰ってくることはなかった。
一晩が経ったが、一向に帰ってくる様子がない両親を待つのは馬鹿らしく感じた光は家を出ることにした。
いくつか残された服を旅行鞄に詰め込み、家じゅうをひっくり返して見つけ出したお金を財布に押し込み、家を出た。
ところが家を出て数十分後、行く当てもなく街を彷徨って路地裏に入ったところこうしてカツアゲにあってしまったのだ。
◆◇◆◇◆◇
それは、明人にとって最も遭遇したくないシチュエーションだった。
ここで言い忘れていたことがある。
紫藤明人は確かに平和主義者ではあった。だが同時に面倒臭がり家でもあった。特にこのような状況ではその性格はさらに増長させられる。
明人は頭の中で少しの間思案する。ここで助けに行き、平和だったはずの今日をトラブルのあった最悪のお日にするか。もしくはここでカツアゲされかけている中学生を見捨てて、今日会ったことを全部忘れてなかったことにするか。
しばらく考えた結果彼は黙ってその場を立ち去ることにした。
明人が非道な人間のように思えるがもともと彼は平和主義者であるがあくまで自分の周りの環境が無事ならそれでいいのだ。
明人が静かにその場を立ち去ろうとしたとき、
「もーいいよ殴っちまおうぜー」「おお、そうするか―」「いいねー、俺らのサンドバックにまでなってくれるとか優しすぎ」「マジパネー」
(ああ、面倒だ)
その下卑たセリフを聞いた瞬間、明人は無意識のうちに路地裏へと歩みを進めていた。路地裏は全体的に薄汚れており、いかにもカツアゲをしそうな連中がいそうな場所だった。
「よーわりー。遅くなった」
明人はカツアゲをされ掛けていた光と待ち合わせをしていた風を装って話しかけながら、囲んでいた輪の内側に入り込んで行く。
その時、不良たちに囲まれていた光が顔を上げた。
きれいな顔だった。たれ目の瞳は人を安心させる気持ちにさせ、その上の眉は形よく整えられていた。鼻は大きすぎず小さすぎない絶妙のおおきさで顔の真ん中にちょこんと納められており、唇と頬にはほんのりと赤みが差している。明るめの髪に包まれた卵型の輪郭の中の顔は女と見間違えてしまうほど愛らしかった。
「なんだおめー」「邪魔すんのか?」「ぁあん!」
ガラの悪い連中が突然乱入してきた明人に威嚇の声を上げる。
「すまんな、連れが世話になった」
明人は光のの手をつかんでその場を離れようとした。
しかし、カツアゲをしていた不良どもははそれを許してくれるようなほど優しいはずがなかった。
「ちょっと待てよ。にいちゃん」「俺ら、今この子と遊んでたんだけど」「邪魔すんじゃねえよ」「お呼びじゃねえんだよ」
不良の一人が明人に殴りかかろうとした。だがその拳が明人に届くことはなかった。
「悪いな」
そう言って明人は自分を殴ろうとした男の顔面を相手の拳が届く前に自分の拳を叩き込んだ。まさか反撃されるとは思わなかったのか、男たちは明人の行動に怯んでしまった。
その一瞬のチャンスを明人は見逃さなかった。
「走るぞ」
「ちょっ!えっ!!」
明人は男たちが鼻白んでいる間に光の手をつかんだまま走り出した。
路地裏を抜け、一気に表通りまで駆け抜ける。
「よくも!」「まてや、ゴラアア!!」「やりやがったなあの野郎!!」「逃がさねえぞこのくそアマーー!!」
不良たちもすぐに走り出した。皆一様に憤慨しており、怒りの形相を身に纏っている。
明人と光は表通りを抜け裏通りへ。横道に飛び込んだりまた表通りに戻ってきたりを繰り返した。
明人たちは橋の下の河川敷に身を隠すことで、ようやく不良たちを撒くことが出来た。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
「ふうーーー。ようやく撒いたか」
二人は橋の下で荒くなった息を整えていた。明人は橋の下から顔をだし、不良たちがいなくなったのを確認すると、全身を壁に預けて深く安堵の溜息を吐いた。ちらりと横を見ると、光も幾分か落ち着いたようだった。
「ありがとう、助けてくれて」
光は明人の方へ振り向くとにこやかな笑みでそういった。その口から発せられた声は鈴を転がしたような可愛らしいものだ。
「気にすんなって。っと、あいつらはもういねえな。じゃあ俺は帰るから。お前も気を付けて帰れよ」
明人は再び橋から顔をだし不良たちがいなくなったのを確認すると、立ち上がってその場から離れようとした。だが、それは先ほど明人に助けられた光が明人の腰に抱き着く、という方法で防がれてしまった。
「待って」
「うおっ!」
「助けてもらって悪いんだけど、今晩泊めてもらえないかな」
明人が下を見下ろすとバツが悪そうに笑う光の顔があった。
この光の登場により、明人のこれまでの平和な人生は音を立てて崩れ去っていった。
けれど夕日は、そんな明人を意に介した様子もなくいつもと変わらず街を照らすのであった。
◆◇◆◇◆◇
4月11日午前9時24分
廃ビル。
13偕建ての大きなビルだ。もともとは大企業の持つビルの一つだったが、経営縮小のため多くの社員といくつかのビルを手放してしまった。このビルもその一つである。
そのビルの六階で何人もの人間が忙しなく作業をしていた。
そのビルは先日良介と桜が炎使いの男と戦っていたビルだった。そして、そこで作業をしていたのは警察だった。
フロアの真ん中には炎使いの男の焼死体があり、鑑識の人たちがそれを証拠として写真を撮ったり、何かこの事件の手掛かりがないか探している。
その中の一人、進藤刑事と呼ばれる男がいた。がっしりとした体格に短く刈り上げられた頭、灰色のコートを着込んでいてもその有り余る筋肉は決して隠しきれていなかった。
進藤は焼死体の近くにしゃがみ込み、手を合わせ冥福を祈っていた。
(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏)
進藤はひとしきり唱え終えると、手をおろし、焼死体をじっと見つめた。
(こいつは明らかに人間業じゃねえよなー。大体、人ひとり燃やすには千度以上の熱が必要だが、こんな街中じゃあそいつは目立ちすぎちまう。仮に、目立たずにやったとしても人間をこの状態まで燃やすには普通の燃料や油じゃ不可能。ガソリンだとしても時間がかかりすぎる。それに)
進藤は立ち上がってフロア全体を見回した。
(何らかの燃料を使って燃やしたのならば、現場がこんなにきれいに残らない。この様子だと被害者一人だけが突然燃えたようにしか見えねえ)
進藤はコートの胸ポケットから煙草を取り出して口に咥え、ズボンの右ポケットからライターを出してひを付けた。
(この事件には何かがある。俺らの知らねえ何かがだ)
進藤は息を大きく吸い込むと、口から煙草を離して深く息を吐いた。煙草からは紫煙が立ち上りフロアの天井にぶつかってやがて消えていった。
(それにここ最近、同じように不可解な事件が続いている。半年前には一つの家族がまるで大きな怪物にばらばらに引き千切られた事件があったし、三か月前には女性が頭のてっぺんからつま先まで縦に真っ二つに殺された事件があった。つい一か月前には体のどこにも外傷は無かったはずなのに、突然頭が取れたなんて事件もあった)
再び煙草を口元に寄せながら、進藤は思いをはせる。
(いったいこの街で何が起きていやがる)
「進藤刑事、これを」
突然、後ろから若い刑事に進藤は話しかけられた。この前配属されたばかりの半人前だが、これから先良い刑事になると進藤が期待していた刑事からだった。
「どうした」
「これを」
そういって渡されたのはよく学校のセーラー服についているどこにでもある様な赤いスカーフの切れ端だった。しかし普通こんなものは殺害現場にあるという事はまずないが。
「そこの柱の裏に落ちておりました」
「そうか。すぐにこれがどこの学校の物か調べろ。何か手がかりが掴めるかも知れん」
「はい」
若い刑事は敬礼をしながら返事をするとすぐに走り去っていった。