潮騒
記憶喪失になった明。
葛藤を繰りかえし、そして、彼女は決意する。
「なあ氷雨、あたし…記憶喪失なんだろ?」
「おう」
「あたしと、氷雨は…どんな関係なんだ?」
「俺と、お前の?」
無邪気に尋ねる明に、一頻り、胸が痛んだ。
言っても、怒らないだろうか、と一瞬、躊躇したが、彼女は、純粋に知りたがっているようなので、氷雨は、真実を伝えることにした。
「俺と、お前は…旅の仲間、だ。コイツともな」
「チイ!」
氷雨が上着のポケットを緩めると、ヨミが顔を出した。
「仲間…か、氷雨っ…どうして泣くんだ?どこか、苦しいのか!?」
苦しい?
苦しいさ…
胸が。
胸が、痛い。
「泣くな、泣くなよ…男だろ?」
(『泣くな、男だろ?』)
(『俺だって泣くっ!』)
その時、明の中に、断片的に、『なにか』がちらついた。
「氷雨…」
明は、氷雨の頭を、優しく包みこむように抱いた。
「ごめん、ごめんね…早く、記憶、取り戻せるように頑張るから、泣かないでくれ」
「ああ…っ」
氷雨は、涙を拭うと、決まり悪そうに笑って見せた。
「俺も、悪かったよ…辛いのは、お前だって同じなのにな、宿に戻ろうか」
「うんっ」
握りあう、手の温もりが、ひどく懐かしかった。
夜半、明は眠れずに、床を抜け出した。
離れて眠っている氷雨を見るが、目を覚ます気配はないようだった。
安心した半面、なぜか、胸が痛んだ。
「苦しい、苦しすぎるよ…」
涙を拭って、しゃくり上げながら呟く明。
「ごめんね、氷雨…さよなら」
(なっ!なんでだよっ、俺、なにかしたか?)
彼女が出て行った後すぐ、氷雨は、慌てて飛び起き、後を追った。
潮騒が聞こえる。
この村が、海の近くにあることを思い出して、明は歩き出した。
昼間は、喧噪にかき消されて分からなかったが、今は夜。
寄せては返る、波の音が、心地よかった。
明は、波寄せる砂浜におりた。
「誰もいない、寂しいな」
ぽつり、と呟くと、靴を脱ぎ捨て、海へ入っていった。
「あたしは、氷雨を苦しめてばかりだ…あたしなんて、死んでしまえばいい」
苦しませるだけの存在なんて、いらない!
「なにしてンだよっ、このバカ!」
「えっ!」
勢いよく腕を掴まれ、明は瞠目した。
「バカ!入水するつもりだったのか!?死んで、俺が喜ぶと思ったのかよっ」
氷雨は、明を抱きすくめる。
「不安なんだ、早く、お前を思い出したいのに、分からないんだっ!」
「だからって、こんな事するこたねぇだろうがっ」
「うん…」
「うん、じゃねぇっ!もう二度とすンなよ?いいなっ」
「ごめん…なさい」
「よーし、いい子だ」
氷雨は、明の髪を、ぐしゃぐしゃとかき混ぜてやる。
「氷雨、なんか…父さんみたい」
「じっ、冗談じゃねぇっ」
面食らって、氷雨は毒づいた。
「照れてる?」
「照れてねぇっ!」
「顔、赤いぞ?」
「気のせいだ、気のせいっ!はぁ、お前のせいで、目ぇ覚めちまったなぁ…仕方ねえ、散歩でもするか」
「ごめん…」
「明、不安なら…一人で悩むな、話してくれ」
「氷雨、例え、このまま記憶が戻らなくても…あたしの傍に、いてくれるの?」
「え…」
氷雨は、振りむいた。
彼女が、立ち止まったからだ。
いや、そうではない。
彼女の中にある、不安と同じ物を、自分の中に見つけたからだった。
「それでも、いてくれる?」
声が、震えている。
涙を、必死に堪えているのだ。
「当たり前だ…記憶がなくたって、俺がお前を、離すわけねぇ。記憶がなくて不安なら、また、新しく作ればいい。そうだろ?だから、もう泣くなよ」
氷雨は、そう言ってから、盛大に転んだ。
転んだ、といっても、一人で転んだわけではない。
明に、抱きつかれたのだ。
幸い、砂が衝撃を緩和したので、痛みはない。
「氷雨ぇっ!」
「ってて…お、おいおい、明っ?」
「大好き…」
「お、おう」
勿論、氷雨も明が好きだ。
その想いが、一生消えないことを、保証できる。
「明、記憶ってもんは、時が経てば、消えちまう。だから、消えない記憶…作らねぇか?」
「消えない?―‐‐‐あっ」
氷雨の、言わんとしていたことを理解した明は、顔を赤くした。
「氷雨と、あたしは…恋人だったのか」
消え入りそうな声で言った明に、氷雨は口づけた。
「どんなことがあっても、これだけは変わらねぇ…お前を、愛してるってことは」
心に刻まれたのは、確かな愛だから――――‐‐