近親相殺
少し残酷な描写があるので苦手な人はご遠慮ください><
この夏一つの些細な事件が起こった。
七月中旬。
僕の通う高等学校の一人の女子生徒が屋上から飛び降り自殺をした。
それは真昼間の出来事だった。
普段は立ち入り禁止の屋上。この学校はL型になっていて四階建て。三階校舎になる僕たち三年二組の教室からはその屋上が良く見えた。僕は上の空で彼女が屋上に入ってきてから飛び降りるまでの一部始終を見ていた。
鍵がかかっているはずの屋上の扉をなんなく開け、扉を閉めることなく一直線にフェンスへ向かう。しかしその足取りは重い。フェンスの前に佇み手をかけた。少し格好の悪い登り方でよじ登っていく。頂上に着き、折り返して降りていく。「きゃあっ」と下の階から聞こえた気がした。気のせいかもしれない。彼女はフェンスを越えた。前方には何の縛りもない。ただの虚空が広がっている。
「きゃあああああぁっ」
耳をつんざく悲鳴が僕の真後ろから発せられた。
その悲鳴とほぼ同時に彼女は身を空中に投げだした。悲鳴がホイッスルで彼女が飛び込み台に立った水泳選手だったら絶妙なスタートだっただろう。
そんなくだらないことを考えているうちに悲鳴は教室中に響き渡り阿鼻叫喚と化した。
僕は顔をしかめて目をつぶり耳をふさいだ。
つい今しがたの光景を思い出す。
飛び降りる瞬間、彼女と目があった。確かに、しっかりと彼女はこの教室を見ていた。
僕を見ていた?
いや、違う……。
その視線は僕の奥の方を睨んでいた。
「―――っ」
凄まじく、おぞましい視線を感じた。
思わず反射的に振り替える。
クラスメートの一人の少女が僕を通して彼女が飛び降りた屋上を見ていた。
表情は無表情で一見にして今の事件に対して茫然としている様にも見える。だけど僕は見た。瞳の奥にある爛々とした輝きを。そしてその瞳は、今は、僕を捉えていた。
彼女の名前は漁紅。変わった名字なので覚えていた。
夏に起こった些細な事件とは漁紅に大いに関係あることだ。
女生徒の自殺?
名前さえしらない生徒が自殺したところで僕は何とも思わない。
日本じゃ一日に百人近い人間が自殺している。その一人がたまたま僕の通う学校で自殺した。それだけだ。皆大げさすぎなんだ。
はあ……、こんな性格の僕だから彼女は、漁紅は僕に声をかけたのだろうか。似たような仲間が欲しかったのだろうか?
いや、僕と彼女じゃ似ても似つかない。
すぐさま校内放送がかかり教頭が慌てふためいた様子で言った。
「先生方はただちに職員室に集まってください。生徒たちは教室で待機し絶対に外に出ないように」
担任は急いで教室を出た。
後を追うように好奇心に駆られた数人の生徒が教室を飛び出した。
「え? 飛び降り? まじで」「うわ、まじだよ。赤いの見えるし」「ねえ誰かわかる? わかんないか。でも女子だよね」「俺初めてだよこんなの」「テレビ来るかな?」
教室はかつてないほどの喧騒に包まれていた。
そんな中僕だけは落ち着いていて、「めんどうなことになったなぁ。でも今日はこれで帰れるかな」などとお門違いなことを思っている。自分でも見当違いなことを考えているのは自覚している。だけど自分の感情にウソはつきたくない。
ちらりと後ろを見た。
彼女、漁紅は数人の友達と一緒に狼狽えた表情で何やら囁き合っている。先ほど僕を捉えていた瞳とは打って変わった怯えた瞳。本質はきっと前者の方。
ざわめきは止む気配を欠片も見せない。
僕はそろそろうんざりしてきた。
グラウンドには人だかりができていた。その生徒たちを教室に戻そうと躍起になっている教師たち。遠くでサイレンが聞こえた。事件が起こりすぐさま救急車、または警察を呼んだのだろう。サイレンが近づくにつれて教師たちの表情に少し安堵の表情が浮かび始めた。
やがて救急車、パトカーが到着した。
担架を担いだ隊員が出てきた。きっと意味はない。
警察が円陣を作り徐々に人だかりを死体から遠ざけて行った。生徒たちは名残惜しそうに教室へと戻っていった。
僕の教室にも生徒が段々と戻ってきた。そして最後に疲弊しきった顔の担任教師が戻ってきた。
「えー、皆もう察しがついていると思いますが大変な事件が起きました」
始めにそう言って、自殺、と直接的には口に出さなかったが、今起こったことを簡単に説明した。
だけど皆はそんなことはもう分かっていると言った表情だ。どこの、だれが、なぜ、それが知りたいと目は語っている。
「警察の方々の作業が終わるまであと暫く教室で待機していてください。それが終わり次第おそらく下校です」
担任教師はそう言うと生気のない顔のまま教室を出て行った。
教室はまた喧騒に支配され始めた。
僕はまたうんざりした。耳にイヤホンを突っ込み音量をマックスにした。そして机の中から文庫本を取り出して読み始めた。多少の奇異な視線は受け流した。ただ一つだけ奇妙な視線だけは無視することができなかった。
暫くして僕らは強制的に帰された。
ディテールは何も言われずただ帰れと。おそらく夜七時半ごろに連絡網が回ってくるだろう。
僕は身支度を素早く済まして一番に教室を出た。
正門から出るには否応にも死体を横切らなければいけない。裏門から出て帰ることもできるが純粋に面倒だ、別に死体が見たくないわけではないのだから。
玄関を出て数メートルの所に死体があった。今はブルーシートが被せられているが広範囲に飛び散った血などがぽつぽつと見えた。
血の匂い、それに交じって漂う不快な臭い。
吐瀉物だ。
気持ちの悪い、饐えた臭い。死体を直視した誰かが溜まらず吐いたんだろう。おそらく一人じゃないはず。十人近くかなこの臭いから察するに。
ああ臭い。早く立ち去ろう。
たぶん明日は休みになるだろうな。たまっていた本でも読もう。この間録画しておいた映画もまだ見てないし。そういえばもうすぐ夏休みか。どうせ出される課題はある程度分かってるし、早めに片づけておくのもいいかもしれない。あとは―――。
自分でも先ほどの自殺騒動などまったく興味はなく明日の過ごし方など念頭に置いているのは些かおかしいとは思う。いやまて、はたして僕はおかしいのだろうか? 目の前で自殺なんかされたら暫くはそのことが頭から離れない。それが所謂『普通』だと僕は認識しているわけだが。案外皆も自殺などではそう驚くことはないのかもしれない。ただ余りにも無関心でいるのも人としてどうなのか。きっと皆そこんとこを無意識に理解しているからうまく溶け込めているのだろう。
僕はそれがめんどくさい。
その夜予想通りに連絡網が回ってきた。
携帯のディスプレイにはサクラガワと表示されている。僕がクラスで連絡先を知っている二人のうちの一人だ。もう一人はもちろん僕がこの後回す予定の品川さんだ。このクラスになったときに強制的に連絡先を交換させられたにすぎないけど。
「もしもし、皐月君?」
「ああ、僕の携帯だしね」
「明日と明後日は休みだって。連絡はそれだけ。それにしても皐月君、今日はなんか平然としてたね」
「まあ、そうだね。それにしても三日後に一回いってすぐ夏休みか……」
「どうせならこのまま夏休みが良かったね。でも、まあいいかな」
「……? まあいいや、じゃあ」
「うん。おやすみ。また明日」
明日は休みだろうに……。電話を切って赤面している姿が目に浮かぶ。
すぐさま次の品川さんに電話をかけた。
「…………」
出ないな。
十五分後再度かけた。
「…………ちっ」
聞き手がいないのに話すのは虚しかったがしかたなく留守電を残しておいた。
留守電は嫌いだ。
決まりだと次の人がいない場合、さらに次の人に回さなければいけないわけだが、連絡網が書かれたプリントはもうどこかに埋もれて行った。
あったとしても連絡先は知らないわけだが………。
「……しかたねえなあ」
桜川さんに電話して聞くことにした。多少気まずいけど。
「……あ、もしもし」
「さ、皐月君、どうしたの?」
「次の人いなくてさ、次の次の人に回さないといけないんだけど僕の次の人って分かる?」
「えっと、漁さんだよ」
漁……、あいつか。
「ついでに言うと番号分かる?」
「えっと……、ごめん、わかんないや。友達なら分かると思うから訊いてみるね。あ、どうせなら私が回しておこうか」
「そ―――」
―――それじゃあ。
と、喉もとから顔を見せた言葉をひっこめた。
人と話すのは基本的には嫌いだが、漁……あいつのことは少し気になった。
「いや、悪いし僕がかけるよ。面倒だろうけど番号訊いたらもう一回かけ直して」
「そう? じゃあ、そうするね」
「よろしく。じゃあ」
そう言って電話を切った。
一分を過ぎたころ、携帯が鳴った。
はやくないか?
ディスプレイには知らない番号。
僕は訝しげに思いながらも三コールめで電話に出た。
「…………」
「…………フフッ」
「……漁さん?」
「そうだよ。なんでわかったの?」
「他に思い浮かばなかった」
「なに? そんなに私のことばかり考えていたの?」
「そうなるかな」
平坦に答えた。
「……つまんない」
そういう彼女の声は逆にとても楽しそうに僕の耳に響いた。
「で、何か用?」
「用があるのはそっちなんじゃない? 連絡網は次の人に回した? もしいないんだったらさらに次の人に回さなきゃいけないルールだよ」
まるで品川さんに連絡が取れないことを知っているかのような口ぶりだ。
「明日と明後日は休みだってさ」
「そう、わかった。じゃあね」
「……まてっ!」
思わずそう言ってしまった。何故呼びとめた? わかってる。彼女の口からもっと何か他のことを期待していたからだ。それは何? 僕を見ていたあの視線。しかし僕の思い込みが激しかっただけかもしれない。
「なあに?」
どうする? そうだ、不審なことがあるじゃないか。
「どうして僕の番号を知ってるんだ?」
「品川さんから訊いたの」
「……そう」
「うん、そう。じゃあね」
どこか腑に落ちない気分だ。
そんな気分を飛ばすように再び携帯が鳴った。
「もしもし? 皐月君? 漁さんの番号わかったよ。えっとね090――」
「わかった、ありがと(もう知ってるけど)」
「うん、じゃあね」
「ああ、じゃ」
嗚呼、桜川さんの苦労は徒労に終わってしまった。悪いことしたな。
そういえば、品川さんに連絡は取れなかったのになぜ漁は僕の番号を訊くことができたんだ?
再度品川さんに電話をかけてみた。
結果はやはり人工的なアナウンスが流れるだけだった。
三日ぶりの学校。
自殺現場はもうすっかり片づけられ、掃除され、元通りになっていた。
今日は終業式とホームルームだけで午前で終わる。予定調和の長いスピーチと大量の宿題、課題をもらって終了。で済めばいいけどな。
三日前に自殺なんてなかったかのように教室はいつも通りだった。
「おはよう、皐月君」
隣の桜川さんが控えめな声で挨拶をしてきた。
「おはよ。連絡網のときは助かったよ。ありがと」
「ううん、全然」
「…………」
「…………」
桜川さんは他に何か言いたげな表情をしていたが、僕は特に言うことはないので次の授業の準備をして、文庫本を開いた。
………嘗めつけるような艶めかしい視線。
その先にはやはり彼女、漁紅がいた。
目が合った。漁は徐に立ち上がり僕めがけて歩いてきた。
「おはようカゲト」
「………おはよ」
カゲトとは、ぼくこと皐月陰十のことであろう。
「じゃあ、放課後。約束通り付き合ってね」
「――――?」
「……ねっ」
呆けた表情をしていると、凄味のある表情と共にそう言った。
「…………」
僕は無言でうなずいた。
「うん」
彼女は笑顔で自分の席へと戻っていった。それにしてもなぜファーストネーム?
「皐月君、漁さんと仲良かったの?」
「……ん? いや、別に」
おずおずとか細い声で言うので最初何を言っているのか分からなかった。
「そう、なんだ」
「………」
僕も桜川さんもあまり話す方ではないので会話はこれで終了した。
はて、そんな寡黙な桜川さんが僕と漁との関係に興味を持ったのは、純粋な興味からか、はたまた、僕に気があるのか……。えー、確か彼女との関わりは一年のときに同じクラスだった、が、一言も会話したことがない。二年は別クラスで全く交流なし。三年になって連絡網の関係で番号を交換、で隣の席。あまり関わりが多いとは言えない。しかし人が人を好きになる尤もな理由なんてないし、つまらないことが人を惹かれる要因になったりもするし、結論を言うと、なんともいえない。
仮に彼女が僕を好いているとしても、奥手な彼女はアクションを起こす可能性は少ないだろう。なら、現状維持を貫こう。
やがて担任教師が現れ、皆そろってぞろぞろと体育館に移動、儀礼的な終業式を済むと教室へ戻ってホームルーム、課題、宿題、成績表をわたされ、担任教師が進路について短く神妙に語ってはい終了。
進路、高校三年のもう夏休み。ほとんどのやつは進路を決めているのだろう。かくゆう僕も数回にわたる進路調査やら進路相談で大体は決まっているわけだが。正直どうでもいいことだ。
無限に続くかと思われた校長の話も過ぎてしまえばどうってことなく、あっというまの放課後。と、言ってもまだ正午を少し回ったあたりだ。
身支度を終え、いつもなら真っ先に席を立つのだが、不安半分、興味半分で彼女を待っている僕がいた。
やがて彼女も身支度を終えたようだ。これから長期休暇に入るため鞄がいつもより膨れていて重そうに見える。
「や、帰ろうか」
真っすぐ僕の方へ歩み寄り薄く笑いを浮かべて彼女は言った。
「……ああ」
教室の注目が集まるのが分かった。
漁はそんなことはまったくきにせず先立って歩いていく。僕もそれに倣って教室を出た。
僕らは無言のまま学校を出た。
漁は脇目も振らずどんどん歩いていく。何処に向かっているかも分からず僕はその半歩後ろを黙ってついて歩いた。
「横にきなよ。不自然だよ。なんか舎弟って感じみたい」
漁は顔だけ少し振り返りそう言った。
僕は仕方なく漁に並んだ。
「何処に行くんだ?」
「何処に行きたい?」
「帰りたい」
漁はさらりと受け流し「取り敢えず少し話したいからどこか入ろうか」そう言って少し先に見えた全国にチェーン展開しているファミリーレストランに進路を受けた。
漁はコーラ、僕は紅茶を頼んだ。互いにうっすらと汗をかいていた。
「さて、まずなにから話したらいいかな?」
「なんで、僕の番号が分かったんだ?」
「……いきなり話を横道にそらすね。それにもう言ったでしょ」
「品川さんに電話は繋がらなかった」
「別に学校で訊いたかもしれないし、家電にかけたかもしれないし、いくらでも可能性はあると思うけど?」
「分かってる。でもなんだか腑に落ちない」
「………君はやっぱり変わってるね。そして勘が鋭い。」
コーラと紅茶が運ばれてきて漁の言葉は止まった。ストローで一気に三分の二ほど飲みほして漁は話しはじめた。
「うん。君が勘ぐる通り正攻法ではないよ。彼女の携帯を盗って、そこのアドレス帳から拝見したのです。そのせいで彼女は少し機嫌が悪かったよ。気付かなかった?」
「気付かなかった」
「他人には興味がない?」
「ないことはない」
「ふうん」
そこで会話は途切れた。
店内にはまだ昼過ぎということで余り客はいない。僕達と同じくして午前で学校が終わった生徒達が数組いた。静かなアコースティックの曲が流れている。僕はもう訊きたいことは終えたので彼女が口を開くまで音楽に耳を傾けていた。
「君は――」
「ん?」
「そういうことを非難しないタイプ?」
「盗みを働いたってこと?」
「そう。友達が煙草吸ってたり、無麺でバイクを乗り回したりしていても注意とかせずに軽く受け流すタイプ?」
「そうだね。麻薬やってようが、車を盗んで乗り回そうが注意も否定もしなければ別に軽蔑もしない。かといって肯定するわけではないけど、そんなのは個人の自由だ」
「絶対熱血教師とかにはなりそうにないね」
「子供は嫌いだからね」
曲が変わった。ロック調の激しい曲だ。ディストーションで歪んだギターが低音量で虚しく流れる。
ニルヴァーナだ。確か。曲名は忘れた。
「変わってるね」
「君も十分」
視線が絡み合う。恋人たちが交わすような甘酸っぱいものではなく、相手を推しはかり、見定めるような嘗めつく視線。それでいて漁の目は妖艶でひどく蠱惑的だ。
「さて、余談はこれぐらいにして本題にはいろうかな」
そう言った彼女の目は少し真剣見が増した。
僕は紅茶を飲みながら視線で先を促した。
「人を殺すのを、手伝ってほしいの」
宿題を手伝ってほしいの、と頼むような調子で漁はいった。
通りかかった従業員が「何物騒なこと言ってんだ」といった風な訝しげな表情で通り過ぎて行った。
漁はニヒルに笑って僕の反応を待っている。
――嗚呼、きっと、本気で言ってるんだな。
僕は思った。
紅茶を飲みほしズズズッとストローが虚しい音を立て始めたので口を話した。
「一応聞くけど、冗談では―――」
「ないよ」
漁は笑顔で答え、それにしても――、と続けた。
「普通いきなりこんなこと言われたら噴き出すとか、もうちょっと驚くもんじゃない?」
「普通はいきなりそんなこと言われたら冗談だろう、と思って受け流すよ。よって僕は普通と」
「でも君は私が冗談で言ってるんじゃないって、なんとなくわかっていたよね」
「まあね」
「ねえ、普通って何?」
「便利な言葉」
「君は、なんていうのかな。どこか斜に構えているといか、諦念を持っているというか。変わってるね」
「君は僕をよく変わってるっていうけど、本当はみんなも僕みたいに達観した思いは持ってると思うよ。ただ、それを表にだすと社会的に都合がよくないってことをみんな分かってるんだ。だからみんな『普通』にしてるんだよ」
「君はなんで『普通』にしないの? それともできないの?」
「できない、ことはないだろうけど、自分を騙すのは好きじゃないし、疲れる」
「それはやっぱり、『異常』なんだよ」
「『普通』の定義がない限り相反する『異常』なんてことばは適用されない気がする。そもそも君はどうなんだ?」
「私? 『普通』じゃ、ない」
漁はそう言って自虐的にほほ笑んだ。
もうでよう、と漁が言ったので僕らは席を立った。
そして伝票を僕に突き出した。
こういうときは男が払うのが『普通』なんだそうだ。
「おはよ、早かったね」
今朝六時半、僕は携帯の着信で強制的に目を覚まされた。電話にでるなり『今君の住むマンションの前にいるからすぐに来て』と、捲し立て僕が口を開く前にぷつりと切られた。
「なに?」
低血圧で朝の弱い僕の声にはいきなりの来訪にイラだちが含まれている。
「昨日の続き」
「……殺人計画?」
「そ。とりあえずうちのマンションいこ」
有無も言わせず強引に事を進めて漁は歩き始めた。
「どこだよ」
横に並ぶ気にはなれず後ろを歩きながらそう訊いた。
「近いよ。あれ」
そう言って指さした先にはこのあたりでは一番の高層マンション。外装からして高級感が漂っている。
「いいところに住んでるんだな」
「まあ、ね。大体十分ぐらいで着くよ」
僕は傍から見たらいつも通りの無表情でクールな様子だろう。だけど内心では少し興奮していた。感情の起伏が少ない僕にしては珍しく。
それはきっと彼女のせい。
予定調和の毎日から僕を抜け出させてくれた。
漁の話していたことに嘘偽りなんてないだろう。確信はないけど。
僕等が漁のマンション目指して一直線に進んでいるとき、曲がり角から大きなセントバーナードがぬっと顔を出し、続いて知った顔も出てきた。
「あら」
「え? 皐月君と、漁さん……」
「おはよう桜川さん」
漁はそう言って涼しい顔で通り過ぎようとした。少々ばつが悪かったが僕も軽く会釈だけして横を通り過ぎようとした。
「こんな朝早くから二人で何してたの?」
普通に話しかけたつもりだろうが少緊張が含んでいるのが分かる。
漁は悪戯に笑って「朝帰り」と言ったが、一瞬にして青に染まった桜川さんの顔をみて「冗談だよ」と言ってすぐさま前へ向き直った。
僕等は振り返らず歩いた。
桜川さんはどんな目で僕等を見つめているのだろうか。振り返りたい衝動に駆られたがここは我慢しておくことにし、先に漁を問い詰めた。
「変なこと言うなよ」
「いいじゃない別に、どうせ彼女は誰にも言わないでしょう」
「言わないだろうね」
「それともあの子に気があった?」
「いや、別に」
「向こうはカゲトのことが好きみたいだけど?」
「なんとなくそう思ってた」
僕等は淡々と言葉だけを紡いでいた。そこには何の感情も詮索も見られない。
「鈍感ってわけじゃないのね」
「むしろ鋭敏」
そうこうしているうちにマンションは目の前にあった。
「で、何すんの?」
「まあまあ、取り敢えずくつろいでいて」
僕は十分にくつろいでいた。
マンションの八階にある漁家の部屋。そこのソファーに座り朝のニュースを見ていた。僕と漁の他には誰もいる気配がない。
部屋はとてもきれいに整理させれている。それでいてどこか生活感がない。部屋のカタログの中にいるようだ。
沸々とお湯が沸騰する音が聞こえた。漁は台所で何やら飲み物を作っているようだ。
「お待たせ」
漁はそう言ってマグカップをテーブルの上に置いた。
「ブラックで大丈夫? ミルク、砂糖いれる」
僕は頷いた。
「どっちよ?」
「どっちでも。イエス、ノーで答えられない質問は嫌いだな」
「それは典型的な会話嫌いじゃない?」
「そうかもね」
漁はあきれた様子でため息をつき、僕の隣に腰を下ろした。
二人してテレビに見入ってコーヒーを啜っている。……いい豆だな。
政治資金がどうやら、裏金がどうやら、就職難やら、僕らに直接には関係ない。興味がないわけではないが、どうだっていい。どこか遠い国で起きている戦争のようにどこか実感がない。
マグカップが空になり、テレビでは占いが始まった。
漁がこちらに向き直り「何型?」と訊いた。
「オー」
「私はエービー」
傍から見たらどんな光景だろうか。若い男女二人が朝のくだらない占いに見入っている、なんて、想像したら笑えてきた。
「何にやけてんの? ビリだよ」
オ―型はビリだった。ラッキーカラーは赤。だとさ。
「で、何すんの?」
僕はさっきと同じセリフを吐いた。
漁は徐に立ち上がり一枚のディスクを持って戻ってきた。
「何だと思う?」
「犯罪的なもの」
「正解」
慣れた手つきでディスクをDVDプレーヤーセットして、僕の隣に戻りリモコンを操作して再生した。
「何? 映画?」
「これはね、ちょっとしたテストだよ。……念のためにね」
ニヒルに笑ってそう言った。
映し出された画面の中は暗い個室。壁、床はコンクリートであまり広くはない。
数人の男、どれも日本人ではない。話している言語からするとおそらくロシア人。
その男たちに囲まれている小さな少女。歳の頃はまだ十代前半か、それより下ぐらいだろう。右手がベッドの脚に手錠で繋がれている。顔面は蒼白、瞳は絶望、歯の根はかみ合わずカチカチと鳴っている。涙も鼻水も垂れ流しで失禁までしている。ここまで恐怖に支配された人間を見るのは初めてだ。
男たちはベットの上に綺麗に並べられた道具、に手を伸ばした。
―――さて、どれにしよう。
表情だけで何を考えているのかがわかった。
生憎と男たちの中にてんびん座はいないらしくすぐ決断し、それぞれ道具、を手に取った。ただ言えることは彼らはロリコンではない。
これからこの場所で何が行われようとしているかは容易に想像がついた。
理不尽なスローターが始まった。
ギラついた目。
荒い鼻息。
狂った笑い声。
耳を劈く悲鳴。
断末魔の叫び。
血! 血! 血!
レンズにまでこびり付く。
熱い興奮。
白いシーツが赤く染まる。
歪んだカルテットが最高潮に達する。
発狂しそうなほどの阿鼻叫喚。
少女は白眼を向いて倒れた。
映像はそこで終わり砂嵐が流れ始めた。
…………。
……。
「演技うまいねぇ」
「本物だよ。……結構高かったんだから」
まあ、わかってたけどね。
「それにしても、こんなスナッフムービー何処に売ってんの?」
「とある警官から」
――世も末だ。
「で、これを僕に見せてどうするつもりだ? 感想文でも書けって?」
「ううん。ちょっと試しただけだよ」
漁はにっこり笑って、「うん、合格」と言った。
「ちなみに、何に?」
「言ったでしょ。殺人計画。これだけ酷い物を見ても平然としているんだから大丈夫でしょ。前に見せた子はすぐトイレに駆け込んで胃液が出るまで吐いてたよ」
「他に見せた奴がいるのか」
むしろこっちのほうが驚きだ。
「……一人だけね」
「で、そいつは試験に落ちたわけか」
「うーん、ちょっと違うかな」
「どういう――」
言い終える前に漁は言葉を紡いだ。
「ま、それは置いといて。光栄なことに君は最初で最後の受験者で最初で最後の合格者なのです。」
彼女にしてはめずらしくふざけた口調で言った。
「おめでとう。そしてよろしく」
そう言って僕の前に右手を差し出した。
その表情は今まで一番明るくて、一番輝いていた。まるで生き別れの兄弟に再会したかのように瞳はキラキラしていた。そして、僕は不覚にもそんな彼女が可愛く、とても愛おしく思えた。
僕の右手だけ重力の向きが変わり漁の右手に堕ちて行った。
気分を一転して僕等は外へ出た。
向かった先は先日赴いたばかりの喫茶店。この時間帯に開いている店はここぐらいしかなく、そして客は僕らしかいない。
「まず、ターゲットはうちの兄です」
「兄? いたのか」
「いたよ……、さっきも。寝てたのかな」
どこか含みのあるものいいだった。
店員が注文を取りに来たので先日と同じものを注文した。
「理由は訊いても?」
「許せないから」
「それの理由は?」
「いずれね」
「まあいいや。じゃあ具体的な計画を聞こうか」
「町の外れに廃ビルがある。十二階の。誰も近づかない。殺し、そこに隠す。以上」
端的に教科書を読むみたいにすらすらと言った。
「そんな簡単にいかないだろ。人が一人いなくなっただけで結構なことだぞ。何やってんんのその兄さんは?」
「会社員、だったけど馴染めなくてすぐ退社。その後暫くヒモととして暮らしてたけどその彼女には振られた」
「そう簡単にいくとは思えない。本当にもう人との繋がりはないのか?」
「そこまで言うなら」
彼女は席を立った。
「おい――」
「出よ」
今しがた来たばかりの店を出ようとしたとき、ちょうど注文のコーラと紅茶が来た。
「あのー……」
店員が困った顔をしている。
僕と漁は立ったままで各々飲み干し、僕は伝票を店員から受け取った。
漁は先に店を出て行ったので支払いはもちろん俺……。
そして漁のマンションへ戻ってきた。
「きて」
そう言って奥の部屋へと進んでいった。
僕も続いて、部屋に入った。
「ここは、例の兄の部屋か?」
「そっ」
いかにも男性の住む部屋だった。
青を基調とした部屋には高そうなオーディオ機器、テレビ、ゲーム、薄い青色の壁紙にはどこかの外国バンドのポスター。しかし片付きすぎていてどこか生活感がない。そして、気のせいか妙な臭いが―――まさか……。
「そうだよ」
何かに気付いた僕の心を読み取ったかのように漁はそう言って、クローゼットを開けた。
「まじかよ」
半場予想していたが、とりあえずそう呟いた。
そこには口には猿轡をかまされ全身をガムテープで雁字搦めにこれでもかというほど縛られた男性――おそらく漁の兄、が横たわっていた。
眠っていただろう男性はクローゼットを突然開かれ、その明りに目を細めた。目が慣れてきて僕の存在を認めると驚愕の表情を見せた後、助けてくれ! そんな気持ちがびしびし伝わってくる視線を向けてきた。
「いつからこの状態なんだ?」
「自殺したでしょ? ダレカが私たちの学校で、そのときから」
ということはまだそれほど経っていない。
それでも臭いは結構のものになっていた。あの日学校で嗅いだ吐瀉物の匂いとはまた違う種類の酷い匂い。
「で、いつやるんだ?」
「……やっぱり動じないのね」
漁は皮肉に笑って言った。
「生憎と普遍的道徳感も常識的な倫理観も持ち合わせてはいないんでね。それに動じるようだったら試験には不合格だったろ?」
僕も負けじに言い返した。
「それもそうね」
兄を監禁している少女。その兄を殺すのを手伝ってくれと言う少女に力を貸す少年こと僕。傍から見たらとても残虐な、それでなかったらかなり狂った少年少女だろう。
だけどそう言われたら言い返してやるさ。
普通って何?
「決行は、そうね。明日」
「また、ずいぶん急だな」
「思い立ったが吉日……と言っても実は結構前から計画してたんだけどね。一人じゃ出来なかったから」
「……じゃあ、明日な。どうすればいい?」
「たぶん夜になると思うから、十時ぐらいに電話するからまたここにきて」
「了解」
そう言って踵を返し、漁のマンションを後にした。
まだ朝は早く、通りには車も人も少ない。
何処かいこうにもコンビニぐらいいしかやっている店がない時間帯なので帰ることにした。
歩いていると角から大きな犬が顔を覗かせた。
―――あ、デジャヴ。
じゃない、確かに同じ光景を少し前に見た。そして次に顔を覗かせる人物もはっきりしていた。
「あ……」
「また会ったね」
桜川さんは再度の遭遇にかなり驚いている様子だ。
すぐ横を通り過ぎようとしたら彼女は張り詰めた様子で口を開いた。
「あの! 二人は……付き合ってるの?」
「……そうだよ」
これが一番早く会話を終わらせる回答だった。
彼女みたいに、今時珍しく純粋な性格な人は人間としても、異性としても嫌いではない、自分とは正反対の存在だから。彼女、漁と関わっていなければもしかしたら……。
翌日の日中は何事もなく家でダラダラと過ごした。そして夜、十時少し前に漁から電話がかかってきた。
「きて」
「わかった」
三秒にも満たない会話を終えて、俺は彼女の待つマンションへ向かった。
行動だけを考えてみれば、夜中に人目を忍んで恋人に会いに行くというシチュエーションみたいだが、残念だかこれはスリラーサスペンス……なんて。
マンションに着きインターホンを押した。
さすがに今回は桜川さんには遭遇しなかった。
「いらっしゃい」
僕は無言で中に入った。
漁の兄が監禁されている部屋へと通された。
「さ、死刑執行といきましょう」
そう言って勢いよくクローゼットを開けた。
気のせいか縛られた兄は昨日よりやつれたように思う。目には疲労と恐怖の色がありありと浮かんでいる。
「無言でやるのはなんか嫌だから楽しくおしゃべりでもしながらやりましょ」
漁はそう言って何処からか取り出した安全ピンを兄の腿に突き刺した。
「=========!」
試合開始のホイッスルとばかりに声にならない叫びが部屋に響いた。
「大丈夫この部屋は防音だから」
とにっこりほほ笑んで言った。
「ねえ、疑問に思わなかった? こんなことしてて家族は気付かないのかって」
漁はポケットからごっそり取り出した安全ピンを次々と兄の体へ刺していった。
「そういえば……何処か仕事で出張中とか?」
兄の来ていた青いパジャマに大きな赤いしみがいくつもでき始めた。
「ううん。いないの。私が二歳のときに死んだから顔も覚えてない」
兄の目からは涙、鼻からは鼻水がとめどなく流れ、顔はぐちゃぐちゃになった。
「てことは二人暮らしか」
「そ。ずっと兄と二人だった」
漁は徐に部屋から出ると、ペンチを手にとってすぐに戻ってきた。
「改めて聞くけど? なんでこんなことを?」
「………押さえてて」
兄に巻きついたガムテープの一部をはずし右手の肘から先だけを自由にした。そこに僕は足を乗せて言われた通りに固定した。
「ひと思いに殺さず、痛みつけて苦痛を味わせて、そんなに憎いのか?」
「ええ、殺したいぐらいに」
これからされることを想像した兄は身体をくねらせ必死に抵抗する。
しかし抵抗も虚しく、兄も僕も想像した通り漁はペンチで小指から爪を引き剥がし始めた。
兄は声にならない断末魔の声を上げた。これでもかというほどの苦痛の表情。
きっと食肉用の豚や牛を殺すときはこんな感じなんだろうなあ、などと考えているうちにも兄の右手の爪は全てなくなっていた。
「次は、左」
牛でも豚でも殺すときはやはり罪悪感というものを感じるのだろうか? いや、きっと慣れてきたらそれはただの作業になる。
傍から見たら今の状況は狂った犯罪的な光景でも、僕にとってはただの作業でしかない。
要は対象が人間かそうでないか、それだけだ。
もし命の価値が全て等しいとしたならば、今現在世界ではジェノサイドの嵐が巻き起こっているな。
「次は、右足、と」
えげつないなあ。
だけど昔の拷問器具を考えたり、戦時中の話を聞く限りこれより遥かに非道で残虐な拷問が行われていたんだよな。漁に見せられたビデオのように。あれに比べたらこれは頬を抓られている程度だろう。
「あ」
部屋にアンモニア臭が立ち込めた。
思考を戻して窺ってみると右足の中指の爪を引き剥がしたところで兄は失禁して気を失っていた。
「続けるのか?」
「気絶してるときにしても意味ないでしょ。ちょっと休憩」
そう言って部屋を出て行ったので僕はそれに続いた。
二人してリビングのソファーに腰掛け、漁の用意したコーヒーを飲んだ。
「起きるまで昔話でもしましょうか」
「是非知りたいね」
異様な空気の中漁の昔話が始まった。
「私が十四のとき、私は兄に犯された」
シンとした空気の中、漁は僕の反応を待っている。
「それが理由か?」
「そう、思うよね。だけど違うんだ。」
「違う? じゃあ他に理由が?」
「………十四の冬だったかな、深夜に兄が部屋に忍び込んできて乱暴に無理やり私を犯した。優しくて、二人になってから全部面倒見てくれた兄がなんでこんなことするのか訳がわからなくて、怖くて、痛くて、悲鳴も上げられずにただ成すがままにされた。ことが終わって、私はただ泣いた。裏切りと恐怖、喪失感に苛まれて。翌日、私はびくびくしながら自室をでてこのリビングに来た。そこには兄がいつも通り朝食を用意していて、新聞を読みながらいつも通り私に挨拶していつも通りに接した。昨日のことはなかったかのように。だから私も何事もなかったかのよう努めて接した。それからも、たまに兄は私の部屋に忍び込んで私を犯した。だけど私は誰にも相談しなかったし兄を拒絶もしなかった。だって、私は……兄が好きだったの。家族としてではなく、異性として。だから最初はただ怖かったけど次からは素直に、と言うとなんか変だけど、兄を受け入れた。慣れって言うのは恐ろしいもので、始めの頃は感情なくただ犯されていたけど、いつしか私は待つようになった、今夜は兄が来るのか? 思えば私が壊れ始めたのはそのころからかもしれない。そして十四から半年ぐらい前までそれが続いた。だけど半年ぐらい前からぱったりと兄は私の部屋に忍び込むのをやめた。なんでだと思う?」
「さあ、なんで?」
俺が質問を返したとき奥の部屋からうめき声が聞こえた。
「さて、話の続きはまたね。作業再開と置きましょう」
僕たちの狂った解体作業は再開された。
爪を全て剥がして、ついでに指の骨を一本一本丁寧に折った。親指だけは僕が。
そこで漁は徐に兄の猿轡を外した。
「うぅ……」
兄はくぐもった嗚咽とよだれを垂らした。
「あなたはこれから死ぬ。殺される、私に……。何か言い残すことはある?」
「うぅ……、ヒヒッ、ハハッハッハハハ」
嗚咽と息切れが止むと、兄は狂った笑い声を上げた。
「やっぱり、お前はあの親の娘だよ。そこのお前!」僕を睨みつけて兄は「俺たち家族はな―――」
何か言い始めようとした兄の口に漁は再び猿轡を嵌めようとした。
「くっ、次は、お前だ!」
そう言い残し、兄の口は閉じられた。
「じゃあね」
漁はそう言って兄の首を絞めた。
上に跨り、か細い腕で首を絞める。
漁はそんな顔で兄の首を絞めているのだろう。後ろから眺める僕には窺えない。
必死にもがく兄もやがて力尽きておとなしくなり、そして、絶命した。
「死んだのか?」
「ええ」
「そうか」
そういえば目の前で人が死ぬところを見るのは初めてだ。
しかしこんなものか。
僕は人から肉塊に変わったものを見ても何の感慨も浮かばなかった。
「まだ、終わりじゃないよ」
「例の廃ビルまで運ぶんだったな。でもどうやって?」
「待ってて」
漁は部屋をでた。そしてそのあとがたごとと大きな音が聞こえた。音が止むと戻ってくる足音が響いた。
「はい」
そう言ってノコギリと糸ノコギリを手渡された。
「……僕が?」
「チェーンソーも準備しといたから私がやってもよかったんだけど、うるさいしね。それに私は他の片付けしないと」
漁はそう言って雑巾で血や兄が垂れ流した物などを拭き始めた。
仕方なく僕も始めた。
かなり力のいる作業だ。これは女性の腕力では確かに無理があるかもしれない。気がつくと額に汗が浮かんでいた。
僕が作業をするたびにさらに部屋が汚れ、その度に漁は赤く染まった雑巾で拭う。
六つに分解した時点で僕は気づいた。
「そういえば防音じゃなかったっけ」
「………そういえば、そうだったね」
汗だくになった僕に向かってさらりと言った。
「チェーンソーなんて実はないだろ」
「………テキサスチェーンソービギニングって映画知ってる? かなり残酷なスプラッタな映画で、それには元になる実際の事件があるのそれは1957年にエド・ゲインが―――」
「わかった、わかったから」
言い訳? を制して作業に戻った。
約一時間後。
ようやく九つに分解できて持ち運べるぐらい大きさになった。
部屋の中はものすごい死臭にみちていて、まるで生ごみの中に突っ込まれたような気分だった。生憎なことにこの部屋に窓はなく、換気もできなかった。
そして大がかりな作業だったので二人とも汗だくで部屋の中は蒸し暑かった。
これほどまでの不快指数はないだろう。
「すごい匂いね」
「今ならスカンクも鼻で笑える」
「ファブリーズがあれば大丈夫じゃない?」
「十本ぐらいね」
談笑もほどほどに僕等は部屋を出た。
「取り敢えず私はシャワー浴びるけど、浴びてく?」
「是非。この臭いで外を歩きたくはない」
「一緒に入る?」
そこに悪戯な笑みはなく、あるのはただ疲れ切った顔。
「ああ」
僕は何は考えずにそう言った。
二人して脱衣所へ入り、躊躇うことなく生臭い衣服を脱ぎ棄てて洗濯機につっこんだ。
漁はシャワーを出し、冷たい水が跳ねた。
お湯に変わり、漁は頭から浴びる。
その間僕は何もすることもできずただ後ろに突っ立っていた。
ずぶ濡れになった漁は僕の方に向き直って歩み寄り、唇を重ねた。
「そういえば、キスは始めてかも」
僕は抗うことなく、ただ彼女に倣った。
そして、僕達は抱き合った。
流されるままに。
狂ったように、本能的に。
ただ、そこには何の感情も存在しなかった。
僕は柔らかいソファーの上で目を覚ました。
「……そうか、泊ったんだったな」
ざっと見まわしたところ漁の姿はない。
他の部屋を見たがそこにもいなかった。
「うっ……」
最後に昨日作業をした部屋を見たがそこにも姿はなく、強烈な臭いは未だに残留していた。
仕方なくリビングに戻り、テレビをつけた。
そこでタ○リ姿をみてもう正午を過ぎていることに気付いた。
ソファーに腰掛けたまま、僕はまた静かなまどろみに落ちていった。
ガサゴソとビニール袋の擦れる音で目を覚ました。
「おはよ、まだいたんだね」
目の前には大量のファブリーズをビニール袋からだしている漁がいた。
「帰ってよかったのか?」
「一旦は、また夜に来てもらう予定だったけど」
「じゃあ、もうこのまま夜までいるよ」
「そ」
短くそう言って、包装を剥がしたファブリーズを抱えてあの部屋へと向かった。
遅い昼食に漁はカップラーメンをくれた。そして夕食にはピザを取った。
今日一日、僕は本当に特に何をするわけでもなく一日を過ごした。そのほとんどがソファーに居座り、テレビを眺めていただけだった。
漁はというと僕と一緒にテレビを眺めたり他の部屋で何やらしたり、外に出かけたりと色々と何かしていた。
時間はあっという間に過ぎ時刻は午後十一時。
「さ、いきましょうか」
と漁が言った。
僕はテレビを消して立ち上がり、頷いた。
「はい、これ担いで」
玄関には今すぐキャンプにでも行くかのような大きなリュックサックが二個、置かれていた。
中に何が入っているのか? なんて分かり切ったことは訊かないさ。
僕たちは重いリュックサックを担ぎ、外に出た。
「どこいくんだ?」
マンションを出ると漁は道路とは違う方向に進んだ。
「いいから」
ついて行った先にはマンションの側面にある小さな駐輪場。数台の自転車とカバーの掛けられた一台のバイクが停められてあった。
「はい」
漁は徐にカバーを外し、バイクの上に置いてあった二つのヘルメットのうち一つを僕に差し出した。
「……運転できるの?」
不安を込めて僕は言った。
「運転できる?」
問いを問いで返す漁。
「僕が?」
「そう」
「原付の免許すら持ってない」
「私も」
「じゃあ誰のだよこれ」
漁は親指で担いでいるリュックサックを指した。
「ああ……。他に交通手段は?」
「歩くと一時間半ぐらい。見つかったらアウト。バスは終わり。電車はまだあるし、タクシーでもいいけど、少し臭いが少なからず漏れてるから怪しまれるかも」
「わかったよ。でも運転のしかたなんか知らない」
「キーを回してペダルを踏み込んでエンジンをかけてクラッチ切ってニュートラルからローに入れてアクセルを開けて徐々にギアを上げて行く。はい」
ざっくばらんに説明してキーを差し出した。
「……わかったよ」
覚悟を決めてバイクにまたがった。
エンジンをかけてギアをローに入れてゆっくりとアクセルを開けた。
低いエンジンをンを響かせながらバイクはゆっくりと発進した。
道路にでてスピードを上げるべくギアを一段上げた。
「おっと」
急な振動で一瞬車体が揺らいだ。
その後、転倒するようなことなく、なんとか漁の支持する場所へとたどり着いた。
バイクを目立たないところに停め、僕たちは廃ビルの中へと入った。
エレベーターがあったけど、もちろん稼働しているわけもなく僕たちは階段を重く臭いリュックサックを担ぎながら必死で登った。
最上階の十二階に着くころには息は切れて額に大粒の汗が浮かび上がっていた。
階段から一番遠い部屋にリュックサックを下ろした。
「ここで、いいのか?」
「ええ」
「じゃあ、さっさと帰るか」
「そんなに急がないで少しは休もうよ。疲れたよ」
漁はそう言って自分の兄が入ったリュックサックに腰掛けた。
「できればこんな気味悪い所より帰ってゆっくり休みたいね」
「まあそういわずに。そうだ、話の続きでもするから」
「……しかたないな」
話の続きが少し気になった僕はしかたなく漁と同じ様にリュックサックに腰掛けた。座り心地は余りいいものではない。
「どこら辺まで話したっけ?」
「確か、兄が漁を犯さなくなった…、だっけか」
「ああ、そうそう。半年ぐらいから兄はぱったりと部屋に忍び込むのをやめたの。さあ、なぜでしょう?」
「さあ……」
「答えは彼女ができたからです。とっても可愛い彼女が。兄は顔と口だけは上手だったからね、それにその彼女さんの家がお金持ちらしくて養ってもらってたみたい。家には週に一度帰るか帰らないかだったし。ねえ、これって酷くない? 新しい彼女ができたら私はもう用済みで放っておかれた。あれだけ好き勝手やっておいて。そこで私は初めて兄を、そしてその彼女を憎んだんだと思う。その彼女っていうのはたぶんカゲトも知ってると思うよ」
「だれ?」
「心当たりない? 今はたぶん学校で一番有名だよ。
そこで僕は勘ずいた。
「もしかして、夏休み前に飛び降りた生徒か?」
「そ、正解。よりにも寄って同じ学校、同じ学年の子と付き合ってたんだよ。そう、だから。だからワタシハカノジョヲコロシタ。」
んん? 漁は今何て言った? 兄を殺したではなく、その彼女を?
「その生徒は自殺じゃなかったのか?」
「そうだよ。でもね、自殺に追い込んだのはたぶん私じゃないかな」
「どうやって?」
「まあ、色々ね。そうそうあのスナッフムービー、カゲトに見せる前にも一人に見せたって言ったでしょ。それが彼女。私と今付き合ってる彼氏が兄弟ってここに気付いていなかったから私は彼女に近づいて仲良くなってまず情報を集めた。そして兄に隠してあった親の保険金の残りがまだ結構あってね。後はもういいね。」
「察しはなんとなく」
「うん。本当、ここ最近は疲れたよ」
あのとき、兄の彼女だという生徒が飛び降りたとき、僕のいる教室のほうを睨んでいたような気がしたのは、気のせいじゃなかったのか。確かの彼女は僕のいる、いや漁のいる教室を睨みながら落ちて行ったんだ。兄のように肉体的ではなく、精神的に酷いことをされたんだろうな、それこそ自殺するほどに。
「ねえ」
「うん?」
「結婚してよ」
冗談めかしく漁は言った。
「……はあ?」
突拍子もない漁の言葉に声が裏返ってしまった。
「これで私は一人になったんだよ。親も兄弟も死んで、母方、父方、両方の祖父もいない。頼れる親戚もいない。私は独りになっちゃんたんだ。だから、はい」
漁は『婚姻届』と書かれた紙とボールペンを差し出した。ほぼ全て記入してあり、後は僕の名前と印鑑だけだった。
「本気か?」
「フフッ、冗談だって。役所に提出なんてしないよ。ただ、こんな紙切れでも証が、繋がりが欲しいんだ」
「……わかったよ」
名前を記入し、落ちていたガラスの破片で少し指を切って拇印を押した。
「これでいいんだろ」
「うん、ありがと。お礼にもう一つ話をしてあげよう」
「まだなんかあるのか?」
「兄が死ぬ間際になんか言ってたの覚えてない?」
『やっぱり、お前はあの親の娘だよ。そこのお前!』、『俺たち家族はな―――』
「覚えてるよ、なんとなく」
意味はよくわからんかったけど。
「私のお父さんとお母さんはね、私のお二人の祖母ちゃんとお祖父ちゃんを殺したの。結婚に反対されたらいよ、それだけが理由かは分からないけど。そして私のお母さんは私のお父さんを殺した。浮気が原因らしいよ。そして私のお兄ちゃんは私のお母さんを殺した。理由は兄が十四歳のときにお母さんに犯されたらしいよ。そのくせお母さんは数カ月後他の男性と再婚しようとした。」
「なんでそんなこと分かるんだよ。確証なんてどこにもないだろ。大体両親は二歳のときに死んで顔も覚えてないんじゃなかったのかよ」
「よく覚えてたね、でもそれ嘘。確かにお祖母ちゃんとお祖父ちゃんが死んだことには確証はないよ。でもねずっと失踪中なの。お祖父ちゃんは山へ芝刈りに、お祖母ちゃんは川へ洗濯に行ったきり、なんてね。そして七年だった八年だったか、経過したから今では死亡扱い。お母さんが死ぬ間際に話してくれたの。」
「両親は?」
「仲良くお祖父ちゃんの家の庭に埋まってるよぉ。お母さんを埋めるときは私も手伝ったからね」
「埋めたって腐敗臭とかでばれるんじゃないのか?」
「プリズンブレイクってドラマ知ってる? そこで同じように死体を庭に埋めるところがあってね、もう忘れたけどなんかの薬品で死体を腐らせないようにしるとか、まあやったのは兄だから私は余り覚えてないの。大体お祖父ちゃんの家の半径百メートルは田んぼだからそんなことしなくても大丈夫だとは思うけどね。」
「それで今度は廃ビルの屋上か」
「そ、きっとこの殺人は遺伝子レベルなんだよ。幼児など含む四百人以上を殺害したと言われるグレイマンことアルバート・ハミルトン・フィッシュの家系は代々精神疾患が多かったらしいよ。本能だから抗えない。だってフツウこんなことでは人を、ましてや家族は殺さないでしょ?」
「ああフツウはな」
普通、普通か。クモやカマキリは交尾が終わるとオスはメスに喰われるってきいたことがあるな、……あまり関係ないか。
「家族同士お互いに殺しあうから、近親相姦ならぬ親相殺なんて、言いえて妙じゃない?」
話す漁の瞳にふざけた色はなく、僕は珍しく少し焦った。
「家族は全員殺し殺され、私は一人残された。だけど、ついさっき家族が、夫ができたんだ。ワタシヲコロシテクレル」
彼女は何処からか鋭い出刃庖丁を取り出して束の部分を僕に向けてさしだした。
「大丈夫だよ」
「何がだよ」
「はは、何だろう。もう疲れたよ。だから、お願い」
ワタシヲコロシテ
鋭い銀色が淡く輝いている。
漁は最初から死ぬつもりだったんだろうか。婚姻届はおそらく僕が寝ているときに準備したのだろうけど。
まあ、いいか。考えるのはもう疲れた。
こんなに真剣に頼んでる女の子の願いを無下にするなんてフツウはだめだろ?
僕は静かにカノジョヲコロシタ。
読んでいただきありがとうございました。




