忘却ラバー
目を覚ますと、そこは知らない世界だった。
清潔感のある白いシーツに同じ色のカーテン、そしてクリーム色の床と壁が僕の瞳に入ってくる。
「ここはどこだ……?」
あまりにも見慣れない光景。しかし、どこかで見たことがあるような不思議な部屋に僕は首を傾げる。
とりあえず、起き上がってから諸々を考えよう。
そう考えて僕はベッドから立ち上がろうとする。しかし、何かが僕の体を引っ張って僕をベッドから立ち上がらせようとはしなかった。
僕は自分の体を引っ張ったものを知ろうとし、力がかかった右腕を見つめる。
僕の右腕には透明な管が刺さっていた。透明の管は僕の頭上にある点滴の袋に繋がっていて、袋の中からゆっくりなんらかの液体が落ちていた。
これを見て、僕はようやくここが病室であることを理解した。
しかし、なぜ僕は病室にいるのだろうか。
そんなことを考えていると、病室の外からノックの音が聞こえてきた。
「雄介。入るよ」
小さくて冷たい声と同時に病室の扉がゆっくりと開かれた。
僕は声のした方向に視線を向けると、扉の前に1人の女性が立っていた。
彼女はナース服を着ていて、看護師だということがすぐに分かった。彼女は僕を見ると、体を強張らせて目を見開いた。
僕はそんな彼女に視線を合わせると、彼女は信じられないものを見たかのように1歩下がる。
病室を呼吸音さえ聞こえないほどの無音が支配する。
そして、数秒後、彼女は瞬きを1つして意識を取り戻したようで、慌てて体を翻して廊下に向けて走り出した。
「せ、せ、せ、先生~!」
廊下から彼女の裏返ったような声が聞えて、彼女は部屋から出て行ってしまう。
僕はそんな慌ただしい彼女の姿にどこか懐かしさを感じながら、点滴を一瞥する。
点滴に繋がれているということは無理に立つことはよくないはずだ。そう思って僕は先ほど走っていった看護師が帰ってくるのを待つことにした。
しばらくすると、ドタバタという大きな音を立てながら先ほど走り去った看護師がノックの1つもせず扉に入ってきた。
その隣には滝のような汗を流す白衣を着た初老の男性がいて、彼が医者だとすぐわかった。
「浅沼さん! 目が覚めましたか!」
先生は寝ている僕に近づいて、僕の肩を力強く掴んで揺さぶる。
「うぉっ!」
先生の体は小太りで力があるようには全然見えないのに、僕の体は思いっきり揺らされて目が回っていく。
「先生! 浅沼さんが!」
「あ。す、すまない!」
僕の異変にいち早く気が付いた看護師が慌てて止めに入ると、先生は僕を揺さぶるのをやめて謝罪の言葉を口にする。
「……だ、大丈夫……です……」
謝罪の言葉を聞いた僕は反射的にそう口にする。
しかし、僕の体は意外と正直で喉が胃液によって熱くなっているのをひしひしと感じていた。
僕は喉を抑えながら吐き気を堪えていると、看護師から視線を感じ取る。
すぐに彼女の方を見ると、彼女は僕をじっと見つめていてどこか不思議そうで表情が曇っているように見えた。
そんな彼女の顔は芸術作品のようにきれいで、僕は思わず見惚れてしまう。
「浅沼さん、よろしいでしょうか?」
「えっ、あ、はい!」
僕が看護師と見つめ合っていると、先生が咳払いを1つしてから僕に声をかける。
「まずは浅沼さん、意識が戻ってよかったですよ」
「意識を失っていた……つまり、僕は入院していたということですか?」
安堵する先生に対して、僕はそう問いかけた。
すると、先生は神妙な顔つきに変わった後、重たい口をゆっくりと開いた。
「もしかして、浅沼さん事故のことを忘れてしまったのですか?」
事故。
そう聞いても僕は何も分からなかった。
いや、それ以前の話だった。
僕は先生の顔、そして看護師の顔を見比べてから口にする。
「あの……僕は誰なんですか?」
そう口にした瞬間、先生と看護師の顔から感情が消えた。
そして、お互いに青くなっていく顔を見合わせた。
その後、色々な検査を受けた後、僕は診察室に呼ばれた。
診察室には先ほどの先生が座っており、その後ろには同じ看護師が立っていた。
「どうぞ。座ってください」
「あ、ありがとうございます」
先生に促されて、僕は扉の近くにあるパイプ椅子に腰かけた。
そして、先生はパソコンに映し出されている僕のカルテを見ながらゆっくりと口を開いた。
「それでは確認なのですが、浅沼さんは事故のことだけではなく、自分のことを覚えていないのですか?」
「はい。辛うじて自分が浅沼 雄介っていう名前だってことは覚えていますが、それ以外のことは分かりません」
先生の質問に対して、僕は簡潔に今の自分の事情を伝える。
それを聞いた先生は固く口を閉ざして、何かを考えこむように俯いてしまう。
そして、数秒の間を置いた後、彼はゆっくり顔を上げて話を続けた。
「それでは、まず事故のことをお話ししたいと思います。浅沼さんは2週間前に交通事故に遭って、今の今まで意識不明になっていました」
先生は僕が遭ったという事故の話をするが、それを聞いても僕は何も思い出すことができず、まるで他人の話を聞いているようにその話を聞いていた。
「その事故の影響で、浅沼さんは記憶障害を起こしていると考えられます」
「……それは……治るんですか?」
僕の質問に対し、先生は苦しそうに目を伏せる。
「分かりません。すぐに記憶を取り戻すケースもあれば、一生記憶の失ったケースもあります」
彼は重たい口調でそう告げる。
それを聞いた僕は息を呑み、目を瞑る。
「分かりました」
「落ち着いていますね」
「なんか、まだ現実味がなくって」
僕は曖昧に笑いながらそう説明すると、先生は納得して大きく1回頷いた。
そして、僕は看護師のことが気になり、彼女に視線を向ける。彼女は悔しそうに唇を噛みしめていて、僕が見つめていることになんか気づいていないようだった。
「……あの」
僕はそんな看護師の様子が気になり、声をかける。
ようやく僕の視線に気が付いた看護師は、すぐさま無表情になり、先ほどの悔しそうな感情をかき消した。
「……もしかして、彼女は僕の知り合いなんですか?」
そう口にした時、病室の空気が一変したのを肌で感じ取った。
先生と看護師は驚いて口をあんぐりと開いて、僕の顔を見つめる。
そして、先に口を開いたのは先生だった。
「思い出したんですか……?」
先生は希望に縋るような表情で僕に問いかける。
そんな彼に対して、僕は首を横に振った。
「いや、思い出したわけじゃないんですけど、彼女の反応的に……」
そういうと、看護師は顔をしかめて顔を逸らした。
少しの間の後、忌々しく彼女は口を開く。
「本当に覚えていないんですか?」
「はい」
僕が素直にそういうと、彼女はわざとらしくため息を吐いた。
「あなたの彼女です」
「は?」
そう口にした時、彼女は甘酸っぱい視線を僕に向けていた。
僕は驚いて彼女の顔を見る。確かに恋人といわれても違和感があまりなく、彼女が嘘を吐いているようには見えなかった。
「……ゴメンナサイ」
恋人のことを忘れてしまったことに罪悪感を抱いた僕は、謝罪の言葉を口にする。
僕の謝罪の言葉を聞いて彼女は少しだけ苦しそうな顔をするが、すぐさま冷静さを取り戻して無表情になる。
「別にしょうがないことなので」
言葉とは裏腹に、彼女はどこか寂しそうで僕が記憶を失ったことを受け入れることができていないようだった。
そんな彼女にかける言葉が見つからず、気まずい空気が診察室を支配する。
「……浅沼さん。とりあえず、私が知っていることをお伝えしたいと思います」
先生は重たい空気を感じて、すぐに話を軌道修正してくれる。
「まず、私は浅沼さんと霧島さんが交際していることは知っていました。よく浅沼さんが霧島さんの退勤時に病院に迎えに来ていたので、その時にご挨拶させていただきました」
「……そうだったんですね」
先生にそう言われても僕にはそんな記憶はなかった。
しかし、先生が嘘を吐いているようには感じていなかった。
「えっと……僕はその……霧島さんのことをなんとお呼びしてましたか?」
「下の名前で……えっと……」
「雄介は私のことを静香って呼んでいました」
そう告げる霧島 静香はとてもぶっきらぼうで一見すると無表情だが、なぜだか怒っていることが手に取るようにわかった。
「そうなんですね。それじゃあ静香って呼んでもいいですか?」
「問題ないよ。それに、雄介は私に対してタメ口で話しかけてきたから無理に敬語を使う必要はない」
「分かりまし……じゃなくって分かったよ」
僕がタメ口を使うと、彼女は満足そうに大きく1回頷いた。
そして、僕はふと気になったことを先生に問いかける。
「そういえば、僕の家族はどこにいるんですか? 記憶喪失のことをちゃんと伝えないと」
僕がそう問いかけると、先生が何かを答える前に静香が口を挟んだ。
「2人とも亡くなってる。雄介と私が中学生の時に交通事故で」
彼女は淡泊な口調でそう告げる。
その答えは一般的には重たい内容だったはずなのに、彼女のその態度のおかげか僕の心は落ち着いてそれを冷静に受け止める事ができた。
「そうなんだ。じゃあ、一緒に住んでいる人とかは」
「ん」
「え」
僕の質問に対して、彼女は右手の人差し指を自分に向ける。
その素振りを見て、彼女の伝えたいことが分かった僕は冷や汗を流す。
「……同棲してるってこと?」
「うん」
彼女の言葉に僕は思わず頭を抱えてしまう。
当然のことだが、僕にそんな記憶はなかった。
ちらりと視線だけ上げて彼女を見つめる。彼女はジト目になって僕を見つめ、圧をかけてくる。
冷静に考えてみると、同じ家に同棲しているのなら職場に迎えにいく機会も多くなるだろう。
そう考えが至った僕は、顔を上げる。
「そ、その……ちなみになんだけど、いつから静香と付き合っているの?」
彼女の怒りをひしひしと感じながら、僕は問いかける。
「私たちが中学生の頃から付き合っているから、もう10年になると思うけど」
「……中学生からって……」
信じられない話だったが、彼女の瞳は僕に有無を言わさないほど鋭く、僕は言葉を飲み込んだ。
そんな僕に先生が助け舟という名の事実を突きつける。
「事実だよ。実際、霧島さんからはよく話を聞いていたからね」
「……そうだったんですか」
僕は彼女の顔を見る。
彼女の子は整っていて、大和撫子という言葉が似合う和風な顔立ちをしていた。
そんな彼女の顔を見ていると、どこか懐かしさと安心感を覚えて、彼女の言う通り長年一緒にいたという感覚が湧いてくる。
「まぁ、ゆっくり思い出して行けばいいよ」
先生は僕に優しく語り掛けてくる。
「……はい」
僕は項垂れながらそう返事するしかできなかった。
それから僕は先生から様々なことを聞いた。
交通事故に遭った時、僕は奇跡的に受身を取れたようで体自体に大きな怪我はなかったという。
そのため、僕が眠っている2週間の間にあらかたの治療は終わったらしい。
しかし、交通事故の際、トラックに吹き飛ばされた僕は頭をガードレールにぶつけてしまったようで、意識を失ってしまったままだった。
そして、記憶喪失になったこともあり、これから僕は様々な検査を受けないといけないようだった。
1週間後、僕の退院日が来た。
入院中、僕の記憶は一切戻らなかった。
先生はたまに僕の病室に来ては静香から聞いたであろう僕の身の上話をよく聞かせてくれた。
その一方で、静香はこの1週間、僕の病室には来なかった。
理由を先生に聞いたら「関係性のある人物が担当することを病院側が許可しなかった」と教えてくれた。
だからこそ、退院日に彼女が病室に来るのを僕は心待ちにしていた。
「静香!」
病室に入ってきた彼女は1週間前とは違い、ナース服ではなく群青色のスカートと白い小さなバッグを持っていた。
「まずは退院おめでとう」
「ありがとう」
今日の彼女は休暇のようで、看護師と患者という関係がないからか、彼女はこの前とは違いタメ口で僕に声をかけてくる。
「その服……」
「ん? あぁ、静香が用意してくれたんだよね。ありがとう」
僕は今自分が着ている服に視線を向ける。
彼女が今着ているスカートと同じ群青色のパーカーと黒いズボン、そしてパーカーの上から太ももまで丈があるクリーム色のコートを羽織っていた。
これらは静香が家から持ってきたもので、先生から昨日手渡されたものだった。
「……別に。雄介の部屋にあったのを持ってきただけだから」
彼女はぶっきらぼうにそう言うが、僕の服はアイロンがかけられていて、コーデとしても統一感があった。きっと彼女が服を選んでアイコンをかけてくれたことを察した。
「退院手続きはこっちで終わらせているから、あとは家に帰るだけだよ」
「そっか。それじゃあ、行こうか」
昨日までお世話になった先生に感謝の言葉を伝えたかったが、これからも通院することになっているのでまた会うことができると思い、彼女の提案を受け入れた。
「ん」
そして、彼女は僕に向けて右手を差し出してきた。
「どうかしたの?」
「いや、いつも手を繋いでいたから」
そう言う彼女の顔は真剣そのもので、僕は戸惑いながらその手を見つめる。
彼女はずっと手を差し伸ばしたまま、体を一切動かさなかった。だからこそ、僕は緊張しながらも自分の震える左手を差し出す。
そして、彼女は1歩前に出て僕の右手を掴んだ。
僕たちは並び立つような形で手を繋ぎ、静香は病室の外に出て行こうとする。
「あ、あのさ」
「何?」
「……その……休日とはいえ、職場で恋人と手を繋ぐ……っていうのは恥ずかしくないの?」
僕の質問に彼女は不機嫌に立ち止まった。
そして、彼女は表情をピクリとも動かさずに胸を張った。
「いつも繋いでたから別に」
「……あっそうなんだ」
どうやら記憶を失う前の僕たちはバカップルのようだった。
僕は記憶を失う前の自分に呆れながらも、彼女の手を繋いだまま彼女の歩幅に合わせて歩き始めた。
そして、彼女が病室の扉を開いた時、そこに先生が立っていた。
「先生、どうかしたんですか?」
「あぁ、いや。今日は浅沼さんの退院日だろ? だから最後に挨拶でもって思ってな」
静香は先生に敵意が満ちた瞳を向ける。先生はその視線に慣れているのか、あまり動揺せずに即答した。
「わざわざすみません」
「いやいや全然。退院おめでとう」
そう言いながら、先生は僕に握手を求めて右手を差し出す。僕はその手をすぐに掴み、力強く握手を交わした。
「それで、まだ記憶は……」
「はい。戻ってません」
「そうか……。まぁ、あまり気負わずにね」
「はい」
先生は自分の事のように悲しそうな表情をしていた。
その顔を見て、僕は先生に対して感じる必要がない申し訳なさを感じてしまう。
「それにしても、相変わらず仲睦まじいね」
先生はすぐに僕の左手を見てにやにやした。
視線の先には静香と手を繋いでいる僕の手があり、僕は気になっていたことを質問する。
「……その、これっていつも通りなんですか? その……正直信じられないというか、恥ずかしいというか……」
「あぁ、いつも手を繋いでいたよ」
僕の質問に対して先生は驚きもせずに大きく頷いた。
「一緒にいる時は手を繋いだり、腕を組んだりしてこっちが胸やけしてしまいそうだったよ」
「……それは病院でも」
「あぁ、病院でも」
先生は笑っていた。
僕はゆっくり隣に視線を向ける。彼女は僕の言葉が不満なのか、より一層力強く僕の手を握りしめていた。
そして、彼女と視線が合い、彼女は私に笑みを見せてくれる。
しかし、その瞳は笑っておらず、僕に対する怒りを露わにしていた。
「……すみません」
その圧に敗北した僕は静香に対して謝罪の言葉を口にする。
しかし、それを聞いた彼女は目を見開いて僕を睨みつける。
「敬語?」
「えっと……ごめん?」
「ん」
僕がタメ口に言い換えると彼女は満足そうに頷いた。
そんな不思議な彼女に僕は首を傾げる。
それを目の前に見ていた先生は、愉快に大きく笑った。
「あははは。まるでいつも通りだね」
「いつも通り……?」
先生の言葉に疑問を感じた僕はオウム返しで聞きなおす。
「あぁ。いつもどうでもいいことで不機嫌になる霧島さんを浅沼さんがなだめていたんだよ。霧島さんは私たちにはそんな顔を見せず、とてもクールな子だったからね、初めて見た時は衝撃だったよ」
「先生。うるさいです」
「ごめん、ごめん」
静香は耳の先端を真っ赤にして、先生を睨みつける。
先生は口では謝罪しているが、その表情は笑っていて反省しているようには見えなかった。
「……あれ?」
そんな彼女を見て、僕は強烈な違和感に襲われる。
モスキート音のような小さくて不快な音が聞こえてきて、僕は思わず頭を抑えつける。
「……雄介?」
「浅沼さん、大丈夫かい?」
頭を抑えつけた僕に、2人は心配そうな顔をして僕の顔を覗き込む。
そして口を大きく開けている静香の顔を見た瞬間、音が消えていく。
「いえ、大丈夫です。久々に立ったままだったのでふらついちゃって」
「そうかい? なんかあったらすぐに言ってくれよ」
僕の適当な言い訳に先生は心配してくれた。
そんな彼に嘘を吐くことは心苦しかったが、僕は先生に笑みを向けた。
「それよりも先生。お時間は大丈夫ですか? 医者って忙しいイメージがあるんですけど……」
「時間? あぁ、確かにそろそろ他の患者のところに行かないといけないか」
先生は左手に巻いている銀色の時計に目を落とす。
そして、時間を確認した先生は右手を顎に当てた。
「……そうだね。そろそろ私は行くとするよ。最後に、退院おめでとう」
「……えぇ。ありがとうございます」
僕に促されて先生は病室の外に向かっていく。
そして、先生が病室の外から出ようとした瞬間、一瞬だけ僕の方に振り返り、笑顔を向けてきた。
しかし、先生は僕に対し何も言わずに病室の扉を閉めた。
「……先生無駄話好きだから、疲れた?」
「ううん。全く」
静香は握っている僕の手にさらに力を入れていく。
まるで離さないと告げるように、指と指を絡ませていく。
しかし、僕は手から力を抜いていき、彼女の手を離す。
「……雄介」
彼女は今日何度目かの不満に満ちた視線を向ける。
その顔はとても懐かしさを感じて可愛らしかった。なのに、なぜだか愛おしくは思えなかった。
「違うんだ」
「……何が?」
彼女はようやく僕の異変に気が付いたのか、心配そうな顔をして僕を見つめる。
「静香を見ていると、どこか懐かしさを感じるんだ」
僕がそう言った時、静香は何らかの希望を見出した静香は息を呑んだ。
「……思い出したの?」
「ううん。記憶は全く思い出せていない。だけど、静香を見ていると懐かしさがあって心が暖かくなるんだ。僕はそれを忘れてしまった僕に残された君に対する恋情だと思っていた。だけど違った」
僕は右手を自分の心臓がある左胸の前までに持っていく。
そして、ゆっくりと顔を上げて静香に1つの質問に問いかける。
「この感情は恋情じゃない。君は本当に僕の恋人だったの?」
彼女は何も言わなかった。
しかし、1歩僕から離れていく。
それが答えだった。
「……付き合ってなかったんだね」
僕も彼女から1歩離れて拒絶する。
そして、観念したのか彼女は天を仰ぎながら重たい口を開いていた。
「違うよ。私と雄介は間違いなく付き合っていた。だけどね。雄介は私を愛していなかった」
彼女は罪を懺悔する信徒のように、僕の知らない僕の話を聞かせてくれる。
愛している人がいた。
家が隣で同じ年ということもあり、仲良くなるのは必然だったともいえる。
私は雄介が大好きだった。
彼は明るい性格でクラスの中心人物だった。誰に対しても分け隔てなく親友として接し、常に誰かと一緒にいた。
一方で私は1人でいることが多かった。雄介以外に友達はいなかったし、要らなかった。私は彼とは違い、幼い頃から偏屈で醜い生き物だった。
「ずるい……」
中学2年生の時、彼とテスト勉強をするために2人きりで学校に残っていた。そんな私の口からは自然とその言葉が零れ落ちた。
「? なにがずるいの?」
雄介は私の言葉の意味を理解してくれず、いつも通りの笑顔で問いかけてきた。
彼は数学のワークを解きながら私の言葉を待つ。
「……この前さ。七瀬さんに告白されていたよね?」
七瀬さんは学級委員長でクラスからの信頼も厚い。その上、モデルみたいに可愛くって女の子の私から見ても、雄介とお似合いな人だった。
そのため、七瀬さんが雄介に告白して振られてしまったという噂は一瞬で学年中で話題になった。
その理由が知りたかった私が彼に問いかけると、彼は手に持っていたシャーペンを動かす手をピタリと止めた。
そして、ゆっくりと私の方をしっかりと目で捉える。
「まぁ、そうだね。断ったけど」
彼は笑顔のままだった。動揺も焦りもせずに再び数学の問題を解くことに意識を割く。
彼は色々な人から好かれた。
彼を好いている人はたくさんいたし、実際に彼に告白した人も少なくはなかった。
だけど、彼は誰の告白も受け入れることはなかった。
それはきっと私の告白も。
私は雄介のことが好きだ。
友達がいない1人ぼっちの私に分け隔てなく接してくれる彼に、恋に落ちるのは自然の摂理だった。
「……ねぇ、雄介は好きな人とかいるの?」
「なんで?」
その声はとても冷たかった。
いつも笑顔な彼からは想像ができないほど、彼の表情に陰りがあった。
「ち、違うの! ただ誰に告白されても断るから……誰か好きな人でもいるのかなって!」
彼の表情を曇らせてしまった。
それは彼のことが好きな私にとって許されず大罪であり、私は慌てて彼に言い訳を口にする。
それを聞いた彼は重々しく口を開いた。
「……僕は静香が好きだよ」
「えっ」
唐突に彼は私に告白をする。
その言葉はまるで夢のようで、瞬時に私の心は幸せで満たされていく。
しかし、その幸福はいとも簡単に崩れ去ってしまうのだ。
「同じくらい七瀬さんも好きだ。みんな平等に好きなのに、なんで誰かから特別な人を選ばないといけないの?」
それを着いた時、私は理解した。
彼は恋愛感情が分からないのだ。
誰であろうとも同じくらい好きで、それに差なんてものは存在しなかった。
それは彼にとって私の恋情はないに等しいということであり、私はその事実が受け入れられなくって思わず涙を流してしまう。
「私だけのものにしたいとかは」
「分からない」
「特別な人になりたいとかは」
「分からない」
「……この苦しみも」
「……ごめん。僕には分からない」
雄介は申し訳なさそうに顔を背ける。
そんな彼に私は右手を握りしめる。
そして大きな音を立てながら立ち上がると、私は彼の頬を撫でて私の方に無理やり顔を向けさせる。
「私と付き合ってほしい」
想像していた告白はもっと甘酸っぱいものだった。しかし、今の私の告白はあまりにも苦くって、私は歯を食いしばる。
私の告白を聞いた彼は口を強くかみしめる。
「……話聞いてた? 僕は誰かを特別扱いすることは……」
「それでもいいよ」
苦しそうな彼の瞳に映っている私は笑っていた。
「私は……あなたが好き。大好き。愛している」
あなたは私を1人にしなかった。
あなたは私を救ってくれた。
「私があなたのことが好きなのは、あなたが私を愛してくれなくても変わらない。私の想いだけは否定させない」
構わない。最初から彼が私を愛してくれるなんて期待していなかった。
「だから付き合ってほしい。あなたは私を愛さなくてもいいから、私にあなたを愛することを許してほしい」
その声は震えていた。
そして、彼は弱々しい月の光のように優しく微笑んだ。
「……分かった。付き合おうか」
そう言って、彼は私が彼を愛することを許してくれる。
こうして、私たちの奇妙な交際関係は始まった。
結局、彼は私を愛してくれなかった。
だけど、私は彼を愛し続けた。
中学を卒業して高校に入学しても、私たちの関係は一切変わらなかった。
高校を卒業後、私は看護師になるために専門学校へ、彼は文系の国立大学に通うことになる。そして、彼の大学卒業後、私たちは自然と同棲を始めることになる。
私たちの同棲生活は意外と順調だった。
生まれた時からずっと一緒にいた私たちにとって、隠し事というものは存在しなかった。だからこそ、明確な理由がなく始まった同棲生活は順調に進んでいた。
そのはずだった。
「もしも、生まれ変われたら君を愛したい」
その言葉は同棲が始まってから1年経った頃、2人で慣れない酒を楽しんでいた時、酔った彼がポツリとこぼした物だった。
それを聞いた瞬間、私は手に持っていたワイングラスを落としてしまう。
床に落ちたワインガラスは一瞬で割れて、中に入っていた赤いワインが広がっていく。
「静香? 大丈夫か?」
床に落ちたワイングラスを見て、雄介は心配そうな顔で私に声をかける。
「いや、さっき……」
私は先ほどの彼の言葉を問いただそうとする。
だけど、彼は自分が何を言ったのか覚えていないのか、首を傾げながらタオルを2枚持ってくる。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない」
私は彼が持ってきたタオルを1枚受け取ると、ワイングラスを片し始める。
私たちは協力してテキパキと片づけていき、すぐにワイングラスは片付いた。
「はい。今度は零すなよ」
「うん。ありがとう」
彼は冷蔵庫から海外のビール缶を持ってきて私に渡してきてくれる。
私はビール缶を開けると、それを一口飲んだ。
「あのさ……。私のことは愛せない」
「……そうだね。僕は君を愛せない」
彼はワインを飲みながら相も変わらずそう告げた。
「……すまん」
「気にしないでよ。私も気にしてない」
彼は謝罪の言葉を口にするが、私にとってそのことはどうでもいい事だった。
付き合ってもう10年くらい経つ。その間、彼は一言たりとも私を愛してくれなかった。
キスもそれ以上のことも、彼は私にしてくれなかった。
だから、彼の言葉が本当に嬉しかった。彼は私を愛せなかったけど、私を愛そうとしてくれた。
それだけで私は幸せだった。
「幸せだったんだ」
彼女の話を聞いて僕は理解した。
彼女と付き合っていることに対する違和感。それは彼女が嘘を吐いているからではなかった。僕は彼女を愛せなかったことから来た違和感だった。
「……だから期待してしまったんだ。あなたが交通事故に遭って記憶を失って……もしも私を愛してくれたらって」
彼女は記憶を失った僕を生まれ変わった僕と考えた。
普通だったらありえない思考。だけど、10年間最愛の人に愛されなかった彼女からしたらしょうがないことだった。
しかし、現実は残酷で僕は静香が愛した僕じゃなかった。
だからこそ、彼女は嬉しさと苦しさを感じていたのだろう。
「……静香。僕は君が好きだ」
そんな彼女に対して、僕は彼女に愛の言葉を口にする。
それを聞いた彼女は目を丸くして僕を見つめる。
「私は……」
「分かってる。静香が愛しているのは僕じゃない。記憶を失った僕は静香が愛した人じゃないんでしょ?」
彼女に対する一目ぼれを僕が口にすると、彼女はゆっくりと頷いた。
そんな彼女に僕は笑いかける。
「だけど、付き合ってほしい。君は僕を愛さなくていいから、僕に君を愛することを許してほしい」
彼女はきっと僕を愛してくれない。
それでもいい。それでも僕は静香を愛していた。
「……分かった。付き合おうか」
そう言って、はにかんだ笑みを僕に見せてくれた。