第1話 奴隷少女と異世界魔術の基礎
重たい木製の扉が軋みを上げ、宿の一室へと白夜は足を踏み入れた。
簡素なベッド、古びた机、窓から見える街並み。豪華ではないが、最低限の設備は整っている。
そして、そのベッドの上には奴隷商から引き取った少女が横たわっていた。
少女は無表情で天井を見つめている。
金色の髪は埃にまみれ、目元には疲労の色が濃い。両腕も両脚もない彼女の姿は、異世界での過酷な生き方を物語っていた。
「……さて」
白夜は無言のまま彼女の横に腰を下ろし、軽く指を鳴らした。
その音を合図に、部屋の周囲に淡い光が広がっていく。静かに、確実に、結界が張られていく感覚が部屋を満たした。
「……な、何を……?」
少女の声はか細く、消え入りそうだった。
白夜は一瞬だけ彼女に目を向けたが、すぐに視線を戻し、手元の魔術具を取り出した。
「治療だ。まずはそれが先決だろう」
「……え?」
彼女の瞳に、一瞬だけ光が灯った。
だが、すぐにその輝きは消える。何度も希望を裏切られてきた経験が、彼女を現実的にさせていたのだ。
「治るわけ……ない。何度も、誰にも……捨てられて……」
「……黙っていろ。話は終わってからでいい」
冷たい声だった。けれど、そこには確固たる自信があった。
白夜は魔術具を軽く振りかざし、淡い青白い光が少女の肩口に流れ込んでいく。
最初は何も起きなかった。
だが、光が集中するにつれて、微かに彼女の肌が震え始める。
肩口から、肉が、骨が、神経が――まるで彫刻のように再生されていくのだ。
「……あ、あ……」
少女の口から小さな声が漏れる。
信じられない光景だった。長い間失っていた腕が、今まさに目の前で生まれつつある。
「痛みはないはずだ。神経結合もスムーズにしている。……もう少しだ」
白夜は淡々と手を動かし、魔力を注ぎ続ける。
その冷静さが、逆に現実味を帯びさせていた。少しずつ形作られる指先、動く関節。彼女の両腕は完全に戻っていた。
「……嘘……」
震える声で呟き、彼女は自らの手を見つめる。
指を動かし、手のひらを開閉し、爪を触って確認する。確かに、それは彼女自身の手だった。
「まだ終わっていない。次は脚だ」
白夜は休む間もなく魔術を続行する。
彼女の膝下から光が伸び、骨が組み上がり、筋肉が包まれ、皮膚が形を整えていく。
痛みもなく、ただ“戻っていく”感覚だけがあった。
――そして、全てが終わった時。
彼女はベッドの上に“完全な体”で横たわっていた。
「……」
言葉が出なかった。
ただ、両手を見つめ、両足を見つめ、何度も何度も触れて確認する。指を曲げ、膝を折り、足首を回す――全てが“動いて”いる。
「……信じられない……こんな、こと……」
「信じられないのは分かる。だが、現実だ。お前は歩けるし、触れる。自分の力で生きることができる」
白夜の言葉に、彼女の目には再び涙が浮かんだ。
それは、諦めかけていた希望を取り戻した瞬間の感情だった。
「……ありがとうございます……あ、あり、が……」
声にならない嗚咽が部屋に響く。
両手で顔を覆い、全身を震わせて泣き続けた。
彼女にとって、それは“生まれ直し”の瞬間だったのだ。
* * *
彼女が落ち着いたのは、どれほどの時間が経ってからか。
瞳はまだ少し赤く、頬も涙の跡が残っている。だが、その目には確かに光が宿っていた。
「……さて、名前だ」
「……な、名前……ですか?」
「ああ。無名のままでは不便だろう。お前の名前、俺が決めていいか?」
少女は少し戸惑いながらも、静かに頷いた。
白夜は少し考えた後、短く告げる。
「……フィリア。今日からお前はフィリアだ」
「フィリア……フィリア……」
何度も口にして、彼女はふっと微笑んだ。
その笑顔は、これまでの絶望を一瞬だけ忘れたかのような、眩しいものであった。
「フィリア、これからお前には役目がある。まずは最低限、自分の身を守れるようにする。そのために、魔術の基礎を教える」
「魔術……ですか?」
「ああ。お前の適性は高い。さっき回復した時に確認した」
白夜は立ち上がり、部屋の中央に簡単な魔法陣を描いた。
そして手を差し出し、フィリアを立たせる。
「まずは、歩けるか確認だ」
「は、はい……!」
フィリアは一歩、また一歩と足を踏み出す。
恐る恐るだったが、確かに“歩いて”いる。
その様子を見て、白夜は頷いた。
「よし。次は、“魔術の基礎”だ。お前にとって、新しい世界が始まる」
その言葉に、フィリアの目が輝き始めた。
絶望に沈んでいた少女は、今、新しい光を見つけようとしていたのだ。
宿の一室には、淡い魔力の光が漂っていた。
部屋の中央には魔法陣が展開され、白夜とフィリアが向かい合っている。
先ほどまで横たわっていたフィリアは、今、自らの足で立ち、魔法陣を見つめていた。
「まずは、基礎中の基礎だ。魔力の制御――お前は、どれくらい知っている?」
「えっと……その……ほんの少し、です……」
彼女はうつむきがちに答える。
魔術適性は高いと言われながら、実際にはまともな教育を受けたことがない。奴隷として買われては捨てられ、ようやく“役立たず”と判断されてこの街に流れ着いたのだ。
「具体的には?」
「……手をかざして、火を灯すくらいしか……」
「なるほどな。……まあ、いい」
白夜は軽く手を振り、魔法陣を展開した。
空中に無数の符号が浮かび上がり、複雑な幾何学模様を描く。それらは彼の指先に従い、音もなく流れ、組み替わっていく。
「まずは魔力の視覚化からだ。お前の内部にある魔力を感じろ。……ほら、目を閉じて」
「……はい」
フィリアは言われるがまま、目を閉じて意識を集中させる。
すると、わずかに体内に熱が流れる感覚がした。
「それだ。それが魔力だ。……次に、その流れを意識的に動かせ」
「……動かす、ですか?」
「ああ、心臓から手先に、指先まで流れを繋げろ。難しいか?」
フィリアは少し戸惑いながらも試みた。
しかし、うまくいかない。魔力の流れが不規則で、まるで勝手に動いているような感覚がする。
「えっと……なんか、暴れて……」
「そりゃ当然だ。魔力というのは、生まれた時から“自分のもの”ではない。無理やり体に宿らせているようなものだ。だから、飼いならす必要がある」
白夜は自身の手を軽くかざし、青い光が指先に灯った。
その光は揺れることなく、安定して彼の手の中に収まっている。
「俺の場合、これは習慣だ。お前も訓練次第でこうなる。まずは手のひらに収束させろ。力を入れる必要はない。流れに逆らわず、ただ意識を繋ぐだけだ」
「……は、はい……」
フィリアはもう一度目を閉じた。
呼吸を整え、胸の中の温かな流れを意識する。心臓の鼓動に合わせて、ゆっくりと腕を通し、指先へと導いていく。
数分が経った頃、彼女の手のひらに微かな光が灯った。
それは小さな揺らぎのようで、安定はしていない。それでも確かに“そこにある”魔力だった。
「……でき、ました……!」
目を開け、震える声で告げる。
白夜は淡々と頷いた。
「悪くない。魔力の流れを掴むのが早いな」
「ほ、本当ですか……?」
「嘘を言っても意味がないだろう。今のところ、順調だ」
褒められることに慣れていないのだろう、フィリアの顔は赤くなり、目を逸らした。
白夜はその様子に気づくことなく、次の段階へと進んだ。
「では、次は形を与える。火を灯せると言っていたな?」
「は、はい……でも、小さい炎しか……」
「問題ない。まずは出してみろ」
フィリアは深く息を吸い込み、両手を合わせて集中する。
目を閉じ、再び魔力の流れを意識し、手のひらへと集めていく。
「……《ライト》」
かすかな呪文の響きと共に、手のひらの上に小さな炎が灯った。
光は揺らぎ、彼女の顔を優しく照らしている。
「……うまくできた……!」
「そうだな。だが、まだ効率が悪い」
白夜は手を伸ばし、フィリアの手の上に自分の手を重ねる。
突然の接触に、彼女は少し身を震わせたが、彼は気にせず続けた。
「……魔力の流れが滞っている。中途半端に力を逃しているんだ」
彼の指が、フィリアの手のひらに軽く触れ、魔力の流れを調整していく。
すると、彼女の炎は一瞬で倍以上の輝きを持った。
「ほら、無駄が省かれただろう?」
「あ、す、すごい……!」
「要は制御の問題だ。正しく流せば、結果も正しくなる」
簡単に説明したが、その理論は異世界の魔術にはない。
制御の概念すら存在しない彼女には、それが驚きだった。
「……すごいです……これ、今までの魔術と全然違う……」
「この世界の魔術が未発達なだけだ。お前には才能があるから、すぐ覚えられるだろう」
そう言って、白夜は少し目を細めた。
まるで、思ったよりも素質が高いことに驚いているような表情だった。
「……お前、やればできるな。意外と素直で、覚えも早い」
「え……?」
「いや、無駄に時間がかかると思ったが……思ったより使えそうだ」
それは、彼なりの褒め言葉だった。
けれど、無表情で告げられたその言葉に、フィリアは一瞬きょとんとし、次の瞬間、顔が真っ赤に染まった。
「……ほ、褒められた……私、褒められた……!」
彼女の頬はほのかに火照り、目は潤んでいる。
白夜はそれに気づかず、淡々と次の講義へと移っていった。
「次は基礎防御術式だ。手を出せ、見本を見せる」
「あ、はい!」
フィリアは白夜の手に導かれながら、再び魔術の学びへと集中していく。
彼女の目には、確かな光が宿っていた。
淡い光が部屋を照らしていた。
手のひらに小さな火を灯し、フィリアは目を輝かせている。
かつて奴隷商の地下にいた少女が、今、魔力を自らの手で制御し、形を生み出しているのだ。
「……本当に、できるんですね。魔術って、こんなに簡単に……」
「簡単じゃない。お前が適性を持っているからだ。普通はこんなに早くはできない」
白夜は冷静に言い放つ。
だが、彼の表情にはわずかながらも満足感が見て取れた。
「さて、ここからが本番だ」
「本番……ですか?」
フィリアがきょとんとした顔をする。
白夜は頷き、机の上に幾つかの羊皮紙と魔力制御用のクリスタルを取り出した。
彼の指が空中に走ると、淡い光が幾何学模様を描き、文字が浮かび上がる。
「ここまでで、お前は魔力の流れと収束、そして発現を学んだ。だが、これだけでは“真の魔術”には程遠い」
「……どういう、ことですか?」
「お前はさっき、火を灯したな?」
「はい」
「その火は、どれくらいの時間、どれだけの熱量を持ち、どんな形で燃焼しているかを意識したか?」
「……え?」
フィリアはぽかんと口を開ける。
確かに火を灯すことはできたが、そんなことまで考えたことはなかった。
「……火は火です。熱くて、明るい……それだけじゃ、だめなんですか?」
「ダメだ。火は“エネルギー”であり、“物質”だ。発現させるための魔力量、持続時間、空間的な座標、制御範囲――全てが関わっている」
白夜の手のひらに、小さな炎が灯る。
その炎は、彼の指先で形を変え、消え、また現れ、そして瞬時に氷へと変わった。
「これが制御だ。魔力はただ放つだけではなく、正確に運用することで多様な形を生む。例えば、この炎の持続時間を“計算”することで、周囲への影響も変わる」
「……そんな、考え方……聞いたことないです……」
フィリアの目は驚愕に見開かれていた。
彼女が知っていた魔術は、“火を出す”“風を起こす”“水を作る”だけの単純なもので、制御や効率など考えたこともなかった。
「まあ、無理もない。この世界の魔術は“現象”を再現するだけで、理論的な運用はなされていないからな」
白夜は淡々と話しながら、空中に複数の魔法陣を展開する。
そこには数式のような記号と符号、回路のような線が幾重にも重なって描かれていた。
「まずは基礎だ。魔力の流れを可視化し、制御する。この過程を経ることで、魔術はただの現象から“技術”へと変わる」
「……魔術が、技術……」
フィリアはその言葉に目を輝かせる。
今まで“祈るように発動させていた”魔術が、実際には科学のように再現可能なものだという事実に心が震えた。
「例えば、火の魔術を一つ取っても、燃焼温度をコントロールすることで“熱波”にもなるし、逆に“光”として発現もできる」
「え……!? それ、本当ですか?」
「……やってみるか?」
白夜が指を動かすと、彼女の手のひらの上に小さな魔法陣が展開された。
その中央に淡い火が灯る。
「いいか。まずは魔力を“形”として捉える。単なる燃焼ではなく、“収束した熱エネルギー”だと意識しろ」
フィリアは緊張した面持ちで目を閉じ、意識を集中させる。
先ほど教えられた魔力の流れを、頭の中でイメージする。燃える炎は、熱を持った粒子の集まり――それをもっと細かく、密度を高めていくように。
「……えっと、こんな、感じで……?」
手のひらの火がわずかに揺らぎ、輝きが強くなった。
次の瞬間、白夜は少しだけ目を見開いた。
「……上出来だ」
「え……?」
「まさか、一度の説明でここまで収束できるとはな。想像以上に筋がいい」
不器用ながらも確かに形を変えた炎は、魔力が無駄なく収束され、持続性も強化されていた。
白夜は思わず感心したように頷き、フィリアを見つめる。
「本当に……私、できてるんですか?」
「ああ、俺の教えた通りだ。少しの調整で完璧に近づく」
白夜は言葉を続けた。
「この調子なら、次は魔法陣の応用にも進めそうだな。基礎理論は理解できているようだ」
「す、すごい……こんな風に魔術って変えられるんですね……!」
フィリアの目には希望の光が宿っていた。
これまで“できない”と言われ、諦めていた魔術が、自分の手で形を変え、効率よく発現する。
それは彼女にとって、新しい“生きる意味”を与えるきっかけとなった。
白夜は少し照れ臭そうに目を逸らしながら、ぼそりと呟く。
「……まあ、お前がちゃんとやれるなら、もっと早く進めるがな」
「は、はい! が、頑張ります……!」
フィリアは胸を張り、嬉しそうに微笑んだ。
その姿を見て、白夜は目を細める。
この世界の魔術は未熟だが――それを吸収する器があれば、無限の可能性があるのかもしれない。