9話「キセキの洞窟②」
「何だかすげえジメジメしてんなぁ」
ヘイサ村の北に位置するキセキの洞窟に入って早々にユーシャは愚痴をこぼす。
温室育ちの少年にとって、洞窟に入る事など勿論初めての経験である。
だが、その割には臆している様子は全く見受けられない。洞窟内の劣悪な環境に文句を垂れていても、その足取りは軽やかだ。生来の性格もあるのだろう。それに──。
ヘイサ村に辿り着いたユーシャとエーダは、存在をないもののように扱われるという酷い仕打ちを受けていた。別にこの村に住んでいるわけではないので、さっさと離れれば済んだ話なのにも拘わらず、どうにも釈然とせずに最後に一度だけと村をまわる。そんな折である。
──キセキの雫を飲めば視えるようになる──。二人にとってはようやく垂れてきた蜘蛛の糸だった。
…………。いや、そもそも突如として姿が認識されなくなるというのがちゃんちゃらおかしい話なのだが。
無視し続けられて相当に切羽詰まっていたのだろう。この村の住人の企みに一切気づかず、二人は踊らされるままにこの洞窟を訪れていた──。
文句と言えばもう一つ。ユーシャの鼻はいまいち嗅ぎ慣れていない臭いを感じ取っていた。
この臭いは何だろう? 洞窟はどこもこんな変な臭いがするものだろうか──。
「あぁ。魔除けの聖水よ。あのお婆さんが魔物がいるって言ってたから振りまいておいたの。慣れてないと確かに気になるかもね」
エーダに話すと、事も無げにそう返された。どこまでも用意周到だった彼女は、そんな事よりも洞窟内をすいすいと進んでいく少年のペースが気になっていた。
辺りをまばゆく照らす松明を持っているのはユーシャの後ろを歩くエーダの方である。
暗闇なのは勿論の事、こんなにも滑りやすい床をよくもそんなに速く歩けるものだと驚嘆していた。
どういう足腰をしていればヌメヌメしている中踏ん張りを効かせられるのと声を大にして言おうとしたその瞬間、案の定足を滑らせた。
「ごめん。エーダの事、あんま気にしてなかったな」
「……。……どうもありがとう」
エーダは顔を赤らめ感謝する。尻もちをつくすんでの所で、察したユーシャが素早く駆けつけ支えた。二人の距離は数メートル離れていたが、なんとユーシャはその距離を一瞬で詰めたのである。
「足元最悪な場所でよくそんな動けるわねー。ねえ、あなたも普段から旅でもしてるの?」
「いや、今さあ魔王を討伐するために国を出てるんだけどさ、国から出て自分の足で歩くのだなんてほぼほぼ初めてなんじゃないかな」
──魔王──? エーダはその言葉に小首をかしげた。そして眉をひそめながら聞き返す。
「……マオウ……さんて、どなた?」
「え?……まあ何だかよくわかんないけど、世界征服しようとしてるんだとさ」
「ふぅん。何でかしらね? 独占欲強いのかしら」
…………。……一体いつになったら魔王が出てくる会話で緊迫感が生まれるのだろうか──。
「あっ! あれじゃない⁉ ユーシャ見てあそこっ!」
魔王をこき下ろしていると言われても文句は言えない会話の後も、つつがなく洞窟内を進んだ二人はついにキセキの雫がある最深部に辿り着いた。
魔除けの聖水の効果か、幸いにも魔物に遭遇せずに目的地まで二人はやってきた。それとも、魔物が棲みついているというのは老婆の悪辣な嘘だったのだろうか。とにもかくにも雫は目前だ。さっさと飲んでヘイサ村に戻ろう──。
その時、そばの泉から大きな音を立てて何かが飛び上がってきた──。
雫の元に足早に駆け寄っていた二人の動きが止まる。固唾を呑んで泉から上がってきた物体を見ていた。
「お前達、その雫が欲しいのか?」
二人の前に現れたのは、体長が二メートルを優に超えるトカゲの特徴に類似した魔物だった──。
老婆の言っていた事は本当だった。ここまでの道のりが順調だっただけにユーシャは油断しきっていた。野外での生活に慣れているエーダでさえも遭遇するのは初めてなのか、魔物を目の当たりにして顔が引きつっている。魔王がいない世の中で、配下であるの魔物ももしかしたら穏やかに過ごしていたのかもしれない。いや、そもそもユーシャには魔物の生態なんてまったく知る由もなかった。
そんなこんなを考えてる内に、魔物はどんどん近づいてくる。
「……エーダって魔物と戦った事ある?」
「そんなのないわよっ。お父さんと旅していた時だって遠目でしか見た事ないもの!」
恐らくエーダの父は魔物を察知する術を持っていて、娘を危険に晒させないために上手く立ち回っていたのだろう。聞くにエーダは一人で旅をするようになったのはつい最近の事らしい。
──しょうがない、エーダを守りながら一人で戦うしかないか──! ユーシャは覚悟を決めた。
「うおおおおお」
「雫も無限にあるわけじゃないから独り占めしちゃダメだよ」
「おおぉっ……⁉……っ?……へ?」
……。独占はいけないと二人に忠告し、魔物は去っていった。
どうやらあの魔物はキセキの雫があるフロアの泉で水浴びをしていただけだったらしい。
「何っじゃそりゃ!!!」
「あーびっくりしたー! ねえねえとにかく何事もなくて良かったじゃないっ! 早く雫を飲んじゃいましょうよ!」
確かに──。この洞窟に来た目的は姿が視えるようになるキセキの雫を飲む事である。何事もなかったなら上々だろう。早速二人は天井から垂れてくる雫を手で受け止め、口に運んだ。
「不味い!!!」
キセキの雫はユーシャとエーダの口には合わなかった。
すぐに吐き出したくなるほど不味かった。だが、そんな事は言ってられない。絶対に頓挫してはならない。何のためにここまで来たというのだ。二人はとにかく雫を飲み続けた。
すると上の方が急に光り始めた──。
見上げると、なんとそこには淑女の霊が現れたのだった──。
「…………えぇっ⁉ やだ、もしかしてさっきのお婆さん⁉」
「いや違うだろ‼ 一回りくらい年齢若いぞきっと‼」
慌てふためく二人に淑女の霊はゆっくりと話し掛ける。
──私の愛したその雫は、美味しかった──?
……もはや究極の選択だった。きっと心からこの雫を好んでいるのだろう。柔らかい笑みを浮かべる淑女を前にして正直に答えるべきか、それとも──。どうするかを声に出して相談するわけにもいかない。こうなったらアイコンタクトで──。
──! こ、こいつ──‼
エーダの方を見やると、彼女は口を真一文字に結んでいた。眉尻が吊り上がり、眼は強い意志を秘めている。──絶対に私は口を開かない──そんな表情をしていた。
「……。…………。……とてもとても素晴らしく深い趣きのある味でございました……」
──ふふふ、そう。良かった──。
少年は意地でも美味しいとは言わなかった。しかし、どうとも取れる絶妙な発言でもそれなりに満足したのだろうか、淑女の霊は成仏したのだった──。
「あっ、あれ? も、もしかして……」
「……。……た、多分」
あれはきっと幽霊に違いない──。
淑女が消えていく様を呆然と見届けた二人は、背筋が凍る間もなく全速力で洞窟を抜け出した。
「キセキ」につづく。