第78話 ぬるぬるねばねば
リビング内で、女がくだを巻いていた。
「なんていうか、おいしいところ全部持っていかれちゃったって感じッス」
カツ、という小さな音と共にペンが液晶の上を滑り、幾重にも線を引いてゆく。汗ばむ気温になりつつある今日、汀はショートパンツに若干ヨレたタンクトップ一枚という、酷くラフな格好をしていた。胸部装甲の薄さ故か、或いは着古した服の所為か。どちらが原因なのかは理解らないが、かなり際どい格好だ。
そんな彼女はペンを走らせる手を止めることなく、うだうだと朝から文句を垂れ続けている。一方、汀と同じ様に隣で何かを描いているクリスは、ただ黙々と作業を進めていた。
「なーんか、いっつも間が悪いんスよね。京都の時もそうッスけど、今回のお嬢も、もっと注目されてもいいだけの活躍はしたッスよね?」
「……」
「それが何スか?渋D30階層突破?聞いてねーっスよそんなの。つーかイレギュラーさえ無かったらお嬢がやってたっつーんスよ。おかげでうちらの話題も大して広まらないし」
「……」
「そりゃね?ちゃんと分かってくれてる人達が居るのは知ってるっスよ?でもさぁ、もっとこう……あるじゃんね?そもそも日米共同って何スか?テメー達でやれよっていう話なワケで?」
「……」
「上手くいったら100万人くらい登録者増えてたんじゃないッスかね?いや、それは流石に都合が良すぎるか……?まぁいいや、つまり何が言いたいかというと───」
「……汀、ココとココ、線が切れてます」
「───ッス」
ネチネチと悪態をつく汀へ、クリスが冷静に指摘を入れる。手こそ止まっては居ないものの、やはり集中出来ていないのか。彼女から回ってきた線画にはところどころに粗が見られた。塗りや修正を担当しているクリスからすれば、それは要らぬ手間に他ならなかった。普段の汀であればこのようなミスはしない筈で、恐らくはそれだけ鬱憤が溜まっているのだろう。クリスとて今回の件は残念に思っているが、しかしここで愚痴っていても何も得るものは無い。それが理解っているからこそ、クリスは今やるべき事に集中していた。
「……あの、そろそろ質問をしてもよろしいかしら?」
先程まで動かしていたペンを置き、紙をズラし、アーデルハイトが二人へ声をかける。互いに向かい合ってテーブルについているクリスと汀だが、アーデルハイトの席だけは少し離れた上座の位置であった。
「どうしました?」
「どっか分からないとこでもあったッスか?」
クリスと汀は作業の手を止め、いやに親切な様子でアーデルハイトへと顔を向ける。それはまるで初心者の女性プレイヤーに群がる男ゲーマーのように、酷く優しい声であった。
「いえ、その……分からないところといえば、今の状況の何もかも、全てが分かっておりませんわ」
「おや、ですがとてもお上手ですよ?」
「ッスね。まさかお嬢にこんな特技があるとは思わなかったッス」
「あら、有難う存じますわ。これでも剣を握る前までは、公爵令嬢としてしっかり芸術周りの勉強も……いえ、だからそうではなく」
「……?」
困惑しつつも、包み隠さず心中を吐露するアーデルハイト。しかし二人には今ひとつ伝わってはいなかった。否、アーデルハイトが何を言いたいのかを理解しつつ、敢えて分からない振りをしているのだ。そんな二人の巧妙な話術に、危うく誤魔化されそうになるアーデルハイトであったが、しかし既のところで踏みとどまる。
「その、今わたくしが描いている───いえ、貴女方に描かされている『コレ』についてですわ」
そう言って、アーデルハイトがテーブルの上に散らばった紙を指差した。クリスに渡されたネームに従って、つい今しがたまで自らが描いていたラフ画を。そこには無垢な少年少女達にはとても見せられないような、艶めかしくも美麗な絵が描かれていた。ラフ画故に細かい部分まではまだ描写されていないが、それは誰がどう見たって如何わしい内容である。
「この……ローパーに絡め取られた挙げ句、ぬるぬるねばねばのあられもない姿になって、かつ恍惚とした表情を浮かべているこの女性。これ、どう見てもわたくしですわよね?」
「……いえ、この物語はフィクションです。彼女の名前はアーデルハイ『ド』ですから。確かにお嬢様にとても似ていますが、別人です」
「まぁぶっちゃけモデルはお嬢ッスけどね」
「……ですわよね?つまりこれは、わたくしがこちらの世界に来る以前より、貴女方が趣味で作っていたという、所謂薄い本ですわよね?しかも、そっち系の薄い本ですわよね?」
アーデルハイトはひとつずつ、順番に説明を求めてゆく。誤魔化すつもりがあるのかないのか、クリスと汀はアーデルハイトからの追及にもまるで怯んだ様子はない。
「そうですね」
「そッスね」
さも当然のような、酷くあっさりとした二人の答えに『もしかしておかしなことを言っているのは自分なのだろうか?』などと、アーデルハイトは一瞬考えてしまった。そうしてほんの数秒だけ考え込み、『やはり自分は間違っていない筈だ』と思い直す。そしてアーデルハイトの問いかけは漸く本題へと着地する。つまりは───
「……どうしてわたくしは、わたくしの知らないところで企画された、わたくしがモデルの如何わしい薄い本を、わたくし自らの手で描かされていますの?」
「……」
「……」
ついにバレたか、などといった表情であればまだ良かった。しかし、問われたクリスと汀の二人は全くの無表情であった。ともすれば『何言ってんだコイツ』とでも言いたげな顔にも見える。そんな二人の態度に、アーデルハイトは内心で恐怖した。そう。アーデルハイトは知らぬ内に、自分のエロ漫画を自らの手で描いていたのだ。
話は今朝に遡る。
クリスが作った朝食を三人と一匹で摂りつつ、今日一日の予定を相談していた時のことだった。夏コミの準備をそろそろ始めないと不味い、などと汀が言い出したのだ。近頃は配信周りのスケジュール調整で多忙だった為か、その言葉を聞いたクリスもはっとした表情を浮かべ、そして汀に同意した。
今の彼女達の本業は配信業だが、デビュー当時と比べれば今は登録者数もそこそこ獲得している。確かに配信業はスタートが重要だ。故に彼女達は序盤から頻繁に配信を行い、エロ釣りを用いて初手から登録者数を稼ぎに出た。そうして見事にスタートダッシュを成功させた彼女達にとって、今は焦るような時期ではない。配信を疎かにするつもりは毛頭無かったが、趣味の時間くらいは作ってもいい時期だろう。
そういう考えから、本日の午前中は同人誌の制作を行うこととなったのだ。だがクリスと汀はともかくとしても、当然ながらアーデルハイトにはそのような経験が一切なかった。それでも、二人の影響か近頃は怪しげなB級映画やアニメ、漫画等にも手を出し徐々にサブカル方面へ傾きつつあるアーデルハイトは、自分にも何か手伝わせて欲しいと名乗りを上げた。自分だけが除け者にされるのが面白くなかったというのもあるが、単純に同人作業というものに興味があったのだ。
そうして、何かアーデルハイトにも出来る作業はないかと汀が頭を悩ませていたところで、クリスがあることを思い出したのだ。それこそが、アーデルハイトの画力であった。クリスはあちらの世界に居た頃、アーデルハイトが描いた絵を何度か目にしたことがあったのだ。そして、その技量に感心したことを思い出した。
アーデルハイト本人が口にしていた様に、彼女は剣を握る前まではちゃんと公爵令嬢らしく育てられてきた。礼儀やマナーは当然のことながら、音楽等も含めた芸術方面も叩き込まれているというわけだ。
すぐに紙とペンを用意し、試しにアーデルハイトに人物画を描かせて見れば───
画風こそ現代とは異なるものの、人体の特徴などをしっかりとおさえた、実に見事な絵を描いて見せた。様々なポーズに多彩なアングル、俯瞰も仰視もお手の物であった。しかも手が異様に早い。そんな彼女は、クリスと汀の二人からいくつかの指摘を受け、要所要所の改善点を聞いただけで、自らの画風を現代でも問題なくウケそうな絵柄へと調整してみせた。
こちらの世界に来てからのアーデルハイトを見ていると忘れそうになるが、彼女は才能がジャージを着て歩いているような人間なのだ。おまけに努力まで怠らない、まさに完全無欠のお嬢様である。こうしてアーデルハイトの思いがけない画力は、二人にとって大きな戦力となった。
即戦力として数えられたアーデルハイトは、あれよあれよという間にテーブルの上座へと据えられ、前々から用意されていたネームを与えられ、キャラクターデザインの指示を受け、そうして今に至るというわけだ。
当然ながらアーデルハイトは、途中から『コレ、なんとなくわたくしに似ていますわね?』とは思っていた。が、初めての仕事に初めての作業だ。気にはなりつつも黙々と手を動かし、そのまま尋ねる機会を失って、ずるずるとここまで引っ張ってしまったのだ。
そして今、アーデルハイトの前には無表情の二人が居た。
「何故……ですか。いいですかお嬢様、これはお嬢様の為なのです」
「私の為」
「そうです。お嬢様は文化そのものとなるのです」
「文化」
「はい。そして、エロなくして文化の発展はあり得ません。これは古来からの常識です。つまりコレはお嬢様にとって、避けては通れぬ道なのです」
「……んぅ?」
クリスが何を言っているのか、アーデルハイトにはまるで理解が出来なかった。否、理解できる部分も多少はあったが、しかしどう考えも今この場で語る内容ではない。はっきりと言ってしまえば、クリスにしては珍しく意味不明な発言である。だがその力強い口調の所為か、不思議と説得力だけは凄かった。そしてそんなクリスの言葉に、汀もまた援護射撃を行う。
「お嬢は知らないかも知れないッスけど……」
「……なんですの?」
「エロ同人は人気キャラの宿命ッス。つまりこれは人気の表れなんス」
「わたくし、キャラではありませんけど」
「……そんな細かいことはいいんスよ!!時間無いんだからキリキリ描く!ホラホラ!はい!もっと肉感的に描いて!!脚は太ければ太い方が良いんス!!あと、ニーソの上にはちょっとだけ太ももの肉を乗せる!!」
汀の言葉に、リビングの床でぴすぴすと寝ていた肉がびくりと身体を震わせる。そうしてアーデルハイトの膝の上へとよじ登り、再度寝息を立て始めた。探索者四人を葬った破壊的なまでの野性は、今ではすっかりと失われている様子である。
結局アーデルハイトは二人の勢いに負け、釈然としない気持ちを抱えたままペンを動かす事となった。そのまま作業を続けること30分、ふと、クリスが思い出したかのように話題を提示する。
「そういえば、異世界方面軍のアカウントに、とあるところからDMが届いてまして。どう答えたものか、少々返事に悩んでいるのですが……」
「……?そんなもの、近頃はよく届いているのではなくって?」
「なんか歯切れ悪いッスね……嫌な予感がしてきたッス」
怪訝そうな顔をみせるアーデルハイトと、言いよどむクリスの様子から面倒ごとの匂いを嗅ぎつけ、しかめっ面になる汀。
「差出人が『魅せる者』なんです。曰く『共同探索を一時休止しているのは知っているが、せめて一度会って話すだけでもお願い出来ないだろうか』だそうで。意外にも、とても丁寧な文面でした」
そう続けられたクリスの言葉を聞いた二人の反応は対照的だった。アーデルハイトは『魅せる者』が何なのかを知らず、きょとんとしたアホっぽい顔で、ただ頭の上に疑問符をいくつも浮かべ。一方の汀は、先の愚痴の件もあってか、苦虫を大量に噛み潰したかのような、なんとも表現のし辛い、酷く複雑な表情をしていた。
ラフ担当 アーデルハイト(アナログ)
線画担当 汀 (デジタル)
塗り担当 クリス(デジタル)