第68話 気に障ったようでなによりですわ
風が黄金を纏い、ダンジョンを駆け抜ける。
アーデルハイトはほんの瞬きの間に、静かに佇む巨獣へと肉薄していた。これまでに彼女が見せた常識外れの身体能力の数々。そのどれもを凌駕する、まさに圧倒的な動きだった。クリスでさえ、どうにか視認出来るといった程度なのだ。月姫の目には、それが一筋の光条のようにしか見えなかった。視聴者達に至っては、眼の前で何が起こったのかなどまるで分からなかった。もしもクリスカメラに切り替わっていなければ、その残像すらも捉えることが出来なかっただろう。
これまでにアーデルハイトが見せた歩法は、どちらかと言えば技術に重きを置いたものが多かった。速度自体はそれほどでもないが、代わりにまるで舞いのような軽やかさ。踏み出した足の一歩一歩に意味を持ち、攻撃から回避、そして回避から攻撃へ。一連の動作は一瞬たりとも途切れることのない、華麗な動き。
岩人形と戦った際も、巨大な蟹と戦った際も。そして死神を屠った時もそうであったように。視聴者達の知るアーデルハイトの動きとは、一貫してそういうものだった。
しかし今のアーデルハイトは、ただただ疾かった。停止状態から突如として行われた暴力的なまでの加速。ほんの一瞬で全ての視線を置き去りにしたアーデルハイトの動きは、これまでとは全くの正反対。直線的で荒々しさを感じさせつつも、それでいてまるで乱れない。ある種の矛盾を孕んだその動きは、しかし巨獣の眼にはしっかりと映っていた。
陸の王たる余裕なのか、それとも見下しているのか。アーデルハイトの動きを捉えておいてなお、巨獣はただほんの少し視線を動かしただけ。身じろぎの一つも見せなかった。とはいえ、巨獣の態度などアーデルハイトにとってはどうでもいいことだった。如何に最上位の個体といえど所詮は魔物。人に仇為す魔物を滅するのが剣聖としての使命であり、それ以上でも、それ以下でもない。
「────ふッ!!」
まずは一閃。右手に握るローエングリーフを右上段から振り下ろす。所謂袈裟斬りであるが、斬りつけるのは巨獣の大きな左腕。尋常ではないほどに強固な肉体を持つ巨獣だが、厚い毛皮に覆われていない腕部ならば、刃が幾分通りやすいのではと思ったのだ。あとは単純に、位置的に一番斬りつけやすかったという程度の理由だった。
剣閃は理想的な軌道を描き、刃の通り道に軌跡を残して虚空を滑る。ローエングリーフの刀身と同じく、紅く燃えるような軌跡だった。
しかし、そんな彼女の思惑は外れた。甲高い、まるで金属同士が軋るような不快な音が接触部分から鳴り響く。およそ生物の身体を斬りつけたとはとても思えない、異様な音だった。
(っ……流石に硬いですわねッ!!)
アーデルハイトとしても、この一撃で手傷を負わせられるとは思っていなかった。謂わば小手調べの一撃。陸の王たる巨獣、その力を測るための攻撃だった。だが、右腕に返った衝撃は想定していた以上のものだった。
アーデルハイトの剣はただ力任せに振るったものではない。それは彼女の経験と知識、そして剣聖として鍛え抜かれた確かな洞察によって導き出された、生物の肉を断つための理想だった。
アーデルハイトの師、つまりは先代の剣聖曰く、この世の全てには『斬り方』が存在するらしい。金属然り、魔物然り。それは生物無生物に関わらず、遍く全ての物に存在する不変の理。そこらの有象無象では想像することすら叶わない、剣の頂きに立つ者のみが触れることを許された、ひとつの真理。
幼い頃より剣を握り、そして才に傲る事なく、休まず過酷な鍛錬を続けてきたアーデルハイトには、それが『視える』、そして『理解る』。これが理想の剣筋だと、頭と身体で感じる事が出来る。そんな彼女の『理想』をもってしても、ほんの小さな傷を一つつけるのが精一杯であった。
巨獣とは、数多いる魔物の中でも単純な部類の魔物である。巨獣は魔法を使用することは一切なく、ただ圧倒的な力と、強靭極まりない己の肉体のみで世界を蹂躙する。催眠や衰弱等の厄介な魔法を使う魔物や、幻覚や毒などといった特殊な能力で相手を翻弄する小賢しい魔物。そういった強敵とは本質から異なる、極々単純な暴力の塊。それが巨獣だ。
単純であればあるほど、それは人類にとっての脅威となる。人間や魔族、他の魔物でさえも寄せつけないその暴力は、裏を返せば弱点となる部分が無いということだ。毒を持つ魔物には解毒薬を。催眠を使う相手には気付け薬を。そういった探索者にとって当然の事前準備が、巨獣にはまるで通用しない。
絶対に壊れない伝説の盾などというものが存在したとして、しかしそれを構えている人間は簡単に壊れてしまうのだから。その厚い毛皮と強靭な表皮は、生半可な攻撃ではなんの影響も与えられないだろう。遠距離から魔法で攻撃したとして、一体どれだけ魔法を放ち続ければ巨獣が倒れるのだろうか。そのように悠長な攻撃を試す時間など、巨獣は与えてはくれないのだ。
巨獣と戦う者は、その圧倒的な身体能力と正面から向き合わなければならないのだ。
つまり巨獣を倒すために必要なものとは、巨獣の防御を貫ける程の高い攻撃力を持った近接攻撃に他ならない。その条件を満たすことが出来る者が、果たして世界にどれほど居るだろうか。少なくとも、こちらの世界には存在しないことだけは間違いない。
そんな巨獣に対して、アーデルハイトは傷を付けた。そして彼女が残したその僅かな傷は、巨獣の眼の色を変えるのには十分過ぎるものだった。魔物にもプライドがあるのかどうかはアーデルハイトにも分からないが、巨獣ほど高位の魔物ともなれば、或いは気位のようなものが存在しているのかも知れない。どうやらアーデルハイトは、見事にそれを傷つけてみせたらしい。
咆哮。それも大咆哮だ。
地獄の底から響いてくるような、腹の奥へと重くのしかかる声だった。恐怖の塊ともいえる大咆哮に、生物としての本能が警鐘を鳴らす。クリスと月姫は耳を塞ぎ顔を顰める。しかし、アーデルハイトは耳を塞ぐどころか勢いよく跳躍し、苛立ちを顔に浮かべて巨獣の顔面を蹴り飛ばした。
「うる……っさいですわねッ!!」
ほんの小さな裂傷で激怒したのだ。それは巨獣のプライドに両手で泥を塗りたくるような行為だった。或いは、巨獣にとっては糞でも投げつけられたかのように感じたかもしれない。アーデルハイトの一撃はそれほど侮辱的な攻撃だった。
当然ながら巨獣は怒り狂った。彼にとってはアーデルハイトなど、潰しても潰しても湧いてくる、取るに足りない有象無象のひとつに過ぎない。そんなゴミ同然ともいえる相手が己に傷をつけ、更には侮辱までするなどと。
「あら、気に障ったようでなによりですわ」
その巨腕がアーデルハイトへと振るわれる。それは先のアーデルハイトの疾走よりも速い、ゴミを振り払うには過剰とも思えるような一撃必殺の薙ぎ払いだった。仮にあちらの世界の冒険者がこの一撃を見舞われたとすれば、恐らくは為すすべなく肉塊かミンチ、或いは壁の染みとなっていたことだろう。それほどの暴力だった。
その一撃を瞳に映し、アーデルハイトがすっと左腕を差し出した。
「アンキレー!!」
アーデルハイトの左腕を覆っていた腕甲。彼女の声によって、それが光とともに形を変える。左腕に現れたのは流線型の小盾、所謂バックラーであった。巨獣の攻撃を凌ぐにはどう考えても頼りない、殆ど何の役にも立たないであろう小さな盾だ。
『聖鎧・アンキレー』は、元々は盾であった。普段は盾を使用しないアーデルハイトが契約を結ぶ際、彼女に合わせて鎧へと形を変えたもの。それが現在のアンキレーである。故に、ある意味ではこの小盾の姿こそがアンキレー本来の姿とも言える。
金属すらも紙のように引き裂いてしまう、鋭く尖った巨獣の爪。その迫りくる爪の下部へと、アーデルハイトはまるで羽を持ち上げるかのように、そっと優しく盾を差し入れる。そのまま徐々に左腕へと力を込め、自らの身体を薙ぎ払われた巨腕の下へと潜り込ませる。行きがけの駄賃とばかりにローエングリーフを添えることも忘れない。
いとも簡単に受け流された巨獣の一撃は空を切り、その腕からは大量の血が吹き出していた。巨獣の力を利用した分、先程よりも刃が深く届いたのだろう。
「今のがそう、えっと、高貴……あっ、高貴パリィですわ!」
今考えたであろう死ぬほど適当な技名を、ご丁寧に巨獣へと説明するアーデルハイト。なお、先の一連の受け流しには『月映』という歴とした技名が一応ながら存在する。以前に披露した『高貴スラッシュ』、正式名称『穿光』のことを考えれば、このネーミングセンスもさもありなんといったところか。
余談ではあるが、剣聖の使う剣技には光に関係する名称が付けられている。あちらの世界ではいちいち技名を叫んだりしないため、アーデルハイトはその殆どを忘れているのだが。閑話休題。
ともあれ、漸くまともなダメージを入れることに成功したアーデルハイト。時間にすればほんの僅か。交えた刃はほんの二回。しかしそれは、傍から見ている者たちからすれば酷く長い攻防のように感じられた。命の危機に瀕した際、感覚が引き伸ばされて周囲がスローに視えることがある、というのはよく聞く話ではあるが、ある意味それと似たようなことなのかも知れない。カメラ越しの視聴者達まで伝わるほどに、巨獣の攻撃は凄まじい圧を放っていたということだろう。
「ふふ、先程までは眼中にないといった様子でしたけれど、先の一撃で、そろそろわたくしに見惚れたのではなくて?────っと!!」
腰に手をやり、乳を揺らしながらドヤるアーデルハイト。そんなアーデルハイトへと、知ったことかと言わんばかりに巨獣の右腕が襲いかかる。形状変化が解除され、既に腕甲へと戻っているアンキレーは使えない。故にアーデルハイトは、ローエングリーフの切っ先を、凶爪の通り道へと突き出した。
ぐっと右足に力を込めて、ダンジョンの地面が罅割れるほどに踏みしめる。そのままアーデルハイトは身をかがめ、突き出したローエングリーフを薙ぎ払いに合わせて全力で斬り上げる。先程アーデルハイトが左腕を斬りつけたときと同じように、耳障りな金属音が再度フロア内に響き渡る。彼女が行ったのは先の受け流しとそう変わらない。異なるのは、技による受け流しではなく力による弾き返しだったということ。
(────痛ッ!!流石にこれは無茶でしたわ!!腕が痺れて……)
どうにか巨獣の腕をカチ上げることには成功したものの、しかしアーデルハイトの腕に伝わった衝撃はかなりのものだった。傷こそ負ってはいないものの、ダメージとしてはなかなかに手痛いものがある。先程使ったばかりで、アンキレーによる再度の形状変化が出来なかった為、仕方がないことなのだが。それ以前に、この程度のダメージで巨獣の一撃を凌げたのならば上々の結果と言えるだろう。それに、この程度の痺れならばそう長くかからずに回復する筈。アーデルハイトが脳内でそう考えた時だった。彼女の右腕から、ぴしり、という嫌な音が聞こえた。
油の切れた人形のように、ゆっくりとそちらへ視線を送るアーデルハイト。そうして見つめた彼女の右手の先、しっかりと握られたローエングリーフが、その刀身の半ばからぽっきりと二つに別れ、そのうちの剣先の方が重力に引かれて地面へと落ちてゆく。からん、というどこか間抜けな音と共に。
「……あら?」
と、いうわけで恐らく本年はこれが最後の更新になると思います
残念ながら明日も明後日も仕事なんでねぇ!!
というわけで皆様、今年は本作を読んでくださりありがとうございました!
ぜひ来年もよろしくお願いいたします!!
では、良いお年を!!




