第344話 デッド・バイ・ミート
魔族は戦闘に特化した種族だ。
近接戦闘にしても魔法にしても、魔族に生まれたというただそれだけで、両方の才能に優れている事が殆どだ。人間が鍛錬して漸く辿り着けるその場所に、魔族は生まれた瞬間から立っている。
では人間には『種族』の差を埋めることが出来ないのかと言えば、無論そういうわけではない。『六聖』という名の、魔族ですら届き得ない高みに上り詰めた者もいるのだから。
要するにこれはスタート地点の話だ。例えば人間と魔族が百メートル走で競ったとして、魔族だけが五十メートル地点から走り始められるような、そんな話。しかし魔族とて伸びしろが大きい者もいれば、鍛錬したところでそれほど伸びない者もいる。個体によってそれぞれの才能は違うし、そうした部分は人間となんら変わりがない。どれだけ先んじていたとしても、後の努力次第で結果は変わるということだ。
とはいえ、魔族が優れた身体能力を持っているのは確かで、それはイヴリスも変わらない。イヴリスは生まれて此の方、鍛錬などというものをしたことがない。にも関わらず、そこらの人間ではどうしようもない程の体力と魔力を誇っている。こちらの世界の探索者に太刀打ち出来るような、そんな生易しい敵ではない。少なくとも、イヴリスが必死になるような相手はここには居ない。その筈だった。
「ハァ、ハァ……くッ……」
息を切らし、顔を歪ませ、イヴリスが大岩の陰に身を隠す。このあたりは特に入り組んだ地形をしており、大岩が乱立していることもあって視界が通らない。気配さえ隠してしまえば、目視での発見は難しいだろう。追われるイヴリスが一先ずの小休止を行うには、まさに絶好の場所であった。
(っ……ここなら暫くは――――)
呼吸を落ち着かせながら、イヴリスが岩にもたれ掛かる。そこらの人間では比肩しえない筈の体力は、既に底を突きかけていた。岩に背を預け、回復を図るイヴリス。神経を研ぎ澄ませて周囲を探れば、もうすっかり聞き慣れてしまった破壊の足音が、遠く聞こえた。
(くそッ、もう来やがった……一体何なんだアレは!?)
イヴリスとて、あちらの世界では人々から恐れられる存在だった。そこらの街へと姿を見せれば、それこそ軍が出動する程度には。敗北らしい敗北など、それこそ一度しか経験したことがない。ここ数時間の様子からは想像も出来ないが、しかし彼は紛れもなく一握りの強者、上澄みなのだ。
そんな彼は今、得体の知れない恐怖に襲われていた。
まだ距離はあるが、しかし確実にイヴリスの下へと近づく破砕音。かつて人々に恐れられていた魔族は今、見たことのない怪しい生き物に追い詰められていた。
(あんな……あんなモノが存在していい筈がない)
イヴリスはこれまで多くの魔物を目にしてきた。
あちらの世界では、ダンジョン内でなくとも魔物が生息しているのだから当然だ。ゴブリンなどの低級モンスターはそこらじゅうに蔓延っていたし、一定以上の高度がある山には大抵、ドラゴンのような強力な魔物が住み着いていたものだ。特に魔族領などは、その環境故に強力な魔物が発生しやすい。魔族であるイヴリスは必然的に、それらを目にする機会が多かったというわけだ。
そんなイブリスでさえ、あんな魔物は見たことがなかった。
力、速度、頑強さ。戦闘に必要なこれら基本要素のみを取ってみても、明らかに異常なスペックをしていることが分かる。逃げながら観察した限りではあるが、ドラゴンなどの高位魔物をゆうに超えている。あんなにも小さく、そしてコロコロとした丸い体をしているのに、だ。見た目はキマイラのようだったが、しかし恐らくはよく似た別種であろう。
ドラゴンよりも強い魔物など、あちらの世界ですら数えるほどしか居ない。そしてそれら『神獣』の全ては、ドラゴンよりも巨大な図体をしている。魔物の世界に於いては、基礎能力こそが正義なのだ。身体が大きいということは、ただそれだけで十分に強さの証明たり得る。酷く単純な話ではあるが、魔物にとっての『デカい』は『強い』とほぼ同義なのだ。
(……その筈だろうがッ)
洞窟タイプのダンジョンは基本的に狭い。特に通路や小部屋などはその広さ故に、一定以上のサイズを持つ魔物が物理的に存在出来ない。だからこそ撤退や、大部屋直前での様子見が成立するのだ。
だというのに、アレはどうだ。
その小ささ故に、こんな狭いダンジョン内ですら駆け回ることが出来る。小回りが利く。その上で、まるでドラゴンのように障害物を無視して突っ込んでくる。馬鹿げた話だ。追われる側のイヴリスに言わせれば、もはやルール違反もいいところであった。
(このままではいずれ追いつかれる……どうにかしてあのキマイラをやり過ごし、逆に前へ逃げ――――ッ、馬鹿か! そっちにはあの女が居るだろうが!)
必死で頭を回し、打開策を模索する。そうして頭を振り、湧き上がった安直な考えを振り払う。現在のイヴリスは万全の状態ではないのだ。アレらと戦うなど論外であった。よしんば万全であったとして、他の選択肢があるかと言われれば怪しかったが。
(ならばどうする? 考えろ、何か手があるはずだ。何か――――ん?)
そこでふと、イヴリスはある事に気がついた。といっても、妙案が浮かんだという訳では無い。彼が気づいたのは違和感だ。考えを巡らせていたせいか、今の今まで気づかなかった。あるべきものがないことに。
(……待て。音が……音が消えた?)
それは先程まで聞こえていた破壊音。例の怪しい生き物がかき鳴らしていた、地均しの音。それがいつの間にか消えていた。どこぞの工事現場も斯くやといったあの騒音が、ぷっつりと。イヴリスの背中を、冷たいモノが駆け抜ける。
(……落ち着け。気配も消していたし、音も立てていない。つまり、ヤツは私を見失ったのだ。つまり、これは千載一遇のチャンス――――)
瞬間、突然の浮遊感がイヴリスを襲った。
「な――――がはッ!?」
次いでやってくる無数の衝撃と痛み。けたたましい爆発音、肺から漏れる空気。視界に映る小さな石片、逆転する天地。それら全ての情報が、イヴリスの脳へと強制的に叩きつけられる。
(なん、だと……? もしや私は今、吹き飛ばされている、のか……?)
ぐるぐると回る世界の先には、先程まで背中を預けていた大岩の無惨な姿が見えた。そしてその傍らに、『ふんす』と鼻を鳴らす魔物の姿も。自分で攻撃を仕掛けておきながら、どうやらイブリスの姿を見失っているらしい。白く長い尻尾をゆらゆらと揺らしながら、周囲をきょろきょろと見回していた。まるでお気に入りの玩具でも探すかのように。
イヴリスの身体が悲鳴を上げる。しかし幸いにもというべきか、思っていたほどのダメージではなかった。岩がクッションになってくれたのか、或いは本気の攻撃ではなかったのか。いずれにせよ、動けないというほどのダメージではない。
現在のイヴリスは宙空に吹き飛ばされた状態で、かつ追手は自分を見失っている。イヴリスにとってこれは、ダメージと引き換えに得たチャンスであった。舞い上がる砂埃に紛れれば、今なら飛んで逃げることも可能であろう。無論前にではなく、後ろにだ。あの女が追ってきている以上、更にダンジョン奥へと逃げる以外の選択肢がない。
このチャンスを逃すまいと、イヴリスが翼を広げる。鋭い痛みが襲いかかるも、歯を食いしばりどうにか声を抑え込む。そうして素早く飛翔し、ダンジョンの更に奥へと逃げ出すイヴリス。例の魔物に気づかれないかと肝を冷やしたが、しかしどうやら杞憂だったらしい。振り返って確認してみても、背後から追ってくるような気配は感じられなかった。一先ずは窮地を脱したイヴリスがほくそ笑む。
「ぐうッ……クソ、この私がなんてザマだ。だが……クククッ! 所詮は知能の足りん魔物よ! このまま拠点へと戻り、傷を癒やして――――」
そうしてイヴリスが再び前を向いた、その時。
「はい残念、ですわ」
イヴリスの右頬を激しい衝撃が襲う。
『一体何故』と問うよりも前に、イヴリスの身体は岩壁へと叩きつけられていた。
肉離れのことかな?




