第342話 僥倖ッ!
梅田ダンジョンのとあるフロア。
攻略チームの簡易キャンプ地から遠く離れた、ずっと先の階層で。イヴリスは人知れず目を覚ました。
「ぐうっ……く、屈辱ッ……! まさか拳聖でもない輩にやられるとは……」
その顔は恥辱に塗れ、まるで悪夢でも見ていたかのように、脂汗を額に浮かべている。ギリ、と歯を噛み締め、冷たい地面を怒りのままに拳で叩く。しかし思ったように力が入らず、ぺちりという可愛らしい音がフロアに響いた。その様は、彼の衰弱具合を如実に表しているようであった。
油断がなかったといえば嘘になる。
イヴリスはこちらの世界に来て以降、既にいくつものパーティを壊滅に追いやっていた。思い返せば、最初の頃に遭遇したとあるパーティは、あれでそれなりに腕が立つ方だったのだろう。その後、散発的に現れた討伐隊らしきパーティもまるで相手にはならなかった。
要するに舐めていたのだ。ほんの僅かな例を以て、全てを知ったつもりでいたのだ。所詮は異世界の冒険者、自身を脅かすような存在はここに居ない、と。だからこそ今回は、当初持ち歩いていた魔法剣を準備しなかった。舐めて掛かっても、それで釣りがくるとさえ思っていた。
故に拳聖の顔を見た時、内心イヴリスは焦っていた。何故此処にこの男がいるのか、その理由はまるで分からない。だが少なくとも、一度は敗北を喫した相手なのだ。戦って負けるつもりはなかったが、厳しい戦いになるであろう事はすぐに分かった。イヴリスの所有する『六翼の魔法兵装』は、都度魔力をチャージしなければ使用出来ない。取り繕うように『ここで会ったが百年目』的な空気を出しはしたものの、武器の準備を怠った事を彼は後悔していた。
拳聖の他にも、こちらの世界の冒険者らしき者が数人見えた。しかし自分の相手にはならないと、瞬時にそう判断した。警戒するべきは拳聖のみ。他の塵芥如きには、傷ひとつ付けられない自信があった。
そうしてレベッカや莉々愛達から意識を切ったのが、イヴリスの失敗だった。拳聖といえば、あちらの世界でも脳筋として有名な男だ。加えて修行馬鹿であり、自身が強くなることのみに心血を注ぐ男であるとも。弟子を取ったなどという話もなく、殆ど世捨て人も同然な男だ。よもや彼らが異世界技術によってテコ入れされている――実際には、それらのテコ入れはウーヴェによるものではないのだが――などと、夢にも思っていなかったのだ。
これまでに遭遇した現地の冒険者達は、剣や槍・弓などといった、イヴリスもよく見知った武器を手にしていた。異世界と言えど文明レベルは同等であると、そう予想した。故に反応が遅れた。戦闘の最中であれば躱せたはずの攻撃が、イヴリスには回避出来なかったのだ。
こうして理由を並べ立てたところで、所詮は言い訳にしかならない。拳聖などがこれを聞けば、それこそ鼻で笑うことだろう。『如何なる者が相手であろうと、戦闘中に意識を切ったヤツが悪い』と。イヴリス自身、後悔と自責の念に駆られていた。
「だが、しかし……くくく、保険を張っておいて正解だった。分け身を作っていなければ滅んでいたかもしれん」
彼が未だ命を落としていないのは、偏にその用心深い性格のおかげだった。彼は迎撃に向かう直前、『分け身』と呼ばれる魔法を使用していた。『分け身』とはその名の通り、魂をふたつに分割することで分身体を生み出す魔法だ。生み出した分身体を動かす事はできないが、しかし本体が死亡した際に残された魂の残滓を手繰り、分身体に宿ることで復活することが出来るのだ。リスポーン地点を生み出す魔法、といえば分かりやすいだろうか。
それほど用心深いのであれば、武器の準備を怠るなと言いたいところではあるが――――そこはそれ。相手を舐めるのは魔族の性だ。
無論『分け身』は極めて高度な魔法であり、魂を分割するというその性質上、ほんの僅かなミスがそのまま死に繋がる。魔力操作に長けた魔族の中でも、更に優れた者しか使用出来ないとされる、ほとんど秘術のような魔法だ。『分け身』を使用出来るというだけでも、イヴリスが優れた力を持っているその証左となる。
なお、オルガンはこの『分け身』を習得していたりする。自分自身を実験体に出来るということで、彼女があちらの世界にいた頃は頻繁に利用していた。しかし引きこもり体質が一層加速したために、今ではシーリアから使用禁止を言い渡されている。閑話休題。
ともあれ、イヴリスは間一髪のところで滅びを免れたというわけだ。莉々愛がレベルアップしたのは、イヴリスのついでにデュラハンを巻き込んだ為である。正確には、巻き込まれたのはイヴリスの方なのだが。
(しかし、力を半分失ったのは痛い。取り戻すにはそれなりに時間が掛かるか……とはいえ問題はない。一時身を隠し、奴らが去った後で再び冒険者達を襲えばいい。拳聖へのリベンジはそれからでも遅くはない)
イブリスはこれより、暫くの雌伏を余儀なくされるだろう。しかし魔族は長命故に、時間はいくらでもあった。力を取り戻すのに数年の時間を要するとしても、彼にとってはほんの一瞬でしかない。ウーヴェとの一度目の戦闘の時もそうだった。滅びさえしなければ、最終的に勝つのは魔族である自分なのだ。そうした基本方針があったからこそ、彼はその時も逃げを選ぶことが出来た。今回もまた、当時と同じことをするだけだ。
今後の方針をまとめ、イヴリスは漸く身を起こそうとする。やはり力は入らないが、こればかりは致し方ない。油断した自身への戒めとして、今は耐えるのみ。震えに腕に力を込め、情けなくもイモムシのように立ち上がろうとした、丁度その時だった。
「ああーっ!? し、師匠ぉー! ちょっと、ほらこれ見て下さいよぉー!」
「あーもう、はいはい。今度は一体何エドですの?」
イヴリスの前方から、なにやら緊張感のない声が聞こえてきた。
(何だ……? まさか、こちらの世界の冒険者か?)
イヴリスが確認した限り、冒険者達は二十階層より深部には居ない筈だった。最も深い場所で遭遇したのが例の『最も出来るパーティ』であり、他のパーティは二十階層よりも浅い層にしか居なかった。見逃していたのだろうかという疑問が、イヴリスの脳裏を過る。しかしそんな疑念は、ほんの一瞬で吹き飛んでいた。
(……ククク! 僥倖、僥倖ッ! ここまで来るパーティが他にも居たとはッ! 手始めにこの者らを喰らい、最低限活動出来るだけの力を取り戻すッ!)
弱りに弱っているイヴリスだが、しかしそれでも、こちらの世界の冒険者に後れを取るなどとは、ほんの僅かにさえ思っていなかった。地面に爪を立て、標的を確認しようと顔を上げる。そんなイヴリスの目に映ったのは、本日二度目の絶望であった。
イヴリスが過去に一度だけ、遠目にのみ見たことがあったその姿。見紛うはずもない。勇者などよりも余程恐ろしい、数多の魔族を滅ぼした歩く災厄。殺戮と狂気の間で魔を狩る者。聖剣に愛され過ぎた女。全自動首刈り女。乳魔族。
(何……だと……? 何故この女が、此処に……)
それは魔族領に於いて、数々の異名で呼ばれた不倶戴天の敵。
「あら? ちょっと……もしかしてそれ、魔族ではなくって?」
アーデルハイト・シュルツェ・フォン・エスターライヒが、そこに居た。何故か両脇に大型犬を抱えて。
鳥貴族みたいに言うな




