第315話 ある朝の話(閑話)
ウーヴェの朝は早い。
日が昇るより前、朝の五時前には既に着替えを済ませている。布団を手早く片付け、小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。これらは全て、店長である東雲が用意してくれたものだ。完全にヒモである。
照明はおろか、陽の光すら差し込まない事務室。そんな事務室の上にある屋根裏倉庫から、もそもそとウーヴェが降りてくる。当然ながら、ウーヴェの他にはまだ誰もいない。ほとんどネズミである。
そうして準備を終えたウーヴェは、しっかりと戸締まりをしてから店を出る。薄暗い朝靄の中、こうして彼はジョギングへと出かける。こちらの世界に来て東雲に拾われて以来、ほとんど毎日欠かすことなく行っている日課だった。
無論あちらの世界に居た頃は、こんな生ぬるい鍛錬など行ってはいなかった。日がな一日山に籠もっては、出会った魔物を狩り尽くす。森に入っては木の実や山菜を採取しつつ、出会った魔物を狩り尽くす。そんな日常であったからこそ、わざわざジョギングなどをする必要がなかったのだ。
だが今は違う。
その気になればいくらでも魔物と戦えた世界とは異なり、こちらの世界では、戦闘が滅多に起きないのだ。故に、最低限の走り込みくらいはしておかなければならない。ウーヴェに限って平和ボケ、などということはあり得ない。だがそれはそれとして、何もしなければやはり身体は鈍ってしまうものだから。『過酷な世界』と聞いてやってきた彼からすれば、『話が違う』と文句のひとつも言いたかった。
とはいえ『過酷な世界』というのも、まるっきり嘘というわけではなかった。ただ少し、ウーヴェが思っていたものとは『過酷』のベクトルが違ったというだけのこと。そこら中に魔物がいれば、ウーヴェはいくらでも生きていくことが出来た。だがどうやらこちらの世界では、魔物はありふれた存在というわけではないらしい。
故に、ウーヴェは戦闘以外の方法で生活費を稼がねばならなかった。これは彼にとって初めての経験だった。軟弱極まりない民衆相手に、給仕の真似事をして日銭を稼がなければならないのだ。これまで戦い一筋だったウーヴェにとって、これは確かに、『過酷』以外の何物でもなかった。
思い描いていた世界とは随分と違ったが、しかしこれはこれで得難い経験だ。こちらに来てからの数ヶ月で、ウーヴェはそう考えるようになっていた。そう考えつつも、しかしこの生ぬるい世界に迎合するつもりは微塵もなかった。
目下、彼の目的はアーデルハイトへのリベンジだ。現状の情けない生活は、それを達成するための過程に過ぎない。まだ負けていない。これは勝ちの途中。あのふざけた女を打ち倒すためならば、現状も甘んじて受け入れられる。アーデルハイトとの再戦が、ウーヴェのモチベーションとなっていた。
そうしてウーヴェがジョギングを開始してから、いつの間にか一時間ほどが経過していた。仮にもウーヴェは異世界の頂点、その六つの輝きのうちのひとつである。たかがジョギングといっても、そのペースは凄まじい。一時間も走れば大抵の場所までは行けてしまう。そのおかげか、ウーヴェはすっかり、ここら周辺の地理に詳しくなっていた。
日が昇り始め、開店準備を始める店も僅かに見え出した頃。
信号待ちをしていたウーヴェへと、一人の男が声をかける。ロマンスグレーの頭に、どこか紳士的な印象を受ける口ひげと細身のメガネ。最近ジョギング中に知り合った、喫茶店のマスターであった。もちろん、ウーヴェは彼の名前など知らない。
「お、宇部くんじゃないか。おはよう、今日も頑張ってるねぇ」
「む……貴様か」
どうやらモーニングの為、店を開ける準備をしているところらしい。彼の店は地元民から愛される、昔ながらの喫茶店だ。出勤途中の常連客が立ち寄れるようにと、随分早くから店を開けている。
「今日は寒いね。どうだい、コーヒーでも飲んでいくか?」
「いや……ありがたいが、遠慮しておこう」
「そうかい? そんじゃあ……ああ、そうだ! ちょっとそこで待っててくれ」
「む……」
マスターはそう言うと、今しがたシャッターを開けたばかりの店内へと消えてゆく。特に急いでいるわけでもないウーヴェは、言われた通りにその場で足踏みをして待っていた。その意外過ぎる素直な姿をアーデルハイトが見ようものなら、腹を抱えて笑っていたことだろう。
ほんの一、二分後。
マスターがウーヴェの下へと戻ってきた。その手には、新鮮な野菜が大量に詰められたビニール袋を持っていた。
「これ、お裾分け。いい野菜が入ったんだよ」
「む……いいのか?」
「もちろん。君くらいの若い子は、どうせ適当にコンビニ飯で済ましたりしてるんだろ? たまには新鮮な野菜も食べなきゃ駄目だよ」
「む……そうか」
むすっとした顔でそう呟くと、ウーヴェはマスターからビニール袋を受け取った。中を見てみれば、見るからに鮮度が良さそうな野菜たちがごろごろと詰められている。近頃は野菜の値段も軒並み高騰しており、これだけでも結構な金額になることだろう。そんなものをポンと渡すのだから、このマスターもなかなか粋な男である。
「いつもすまんな」
「なに、気にしないでくれよ。じゃ、今度は店にも寄ってね」
「ああ。ではな」
丁度その時、信号が青へと変わる。
手短に別れの挨拶を告げ、ウーヴェは再びジョギングを開始した。これまでと違うのは、その手に野菜ぎっしりのビニール袋を提げている点だ。
実は、こういったやりとりは初めてのことではなかった。今朝は喫茶店のマスターであったが、ある時は八百屋、ある時は魚屋、肉屋に花屋などなど。ウーヴェは様々な店で、様々なものをお裾分けされているのだ。何故こんなにもお裾分けされるのか、その理由はまるでわからない。だがウーヴェが日課を終えて帰る頃には、大抵何かしらの荷物を持ち帰っている。低賃金で働くウーヴェにとって、これは非常にありがたいことであった。
そうしてその後も、名も知らぬ誰かから次々にお裾分けを頂くウーヴェ。店に帰った頃には、いつもと同じ様に、両手に一杯の荷物を抱えていた。
「む……とりあえず焼いて食うか」
なんだかんだと言いながら、すっかりこちらの世界に馴染んでいるウーヴェであった。
めちゃくちゃ馴染んどるやないかい!!!!




