第210話 教えは何処いったのよ
まるで湿地帯のような水場をのんびりと進む。纏わりつく湿気が鬱陶しく、薄っすらとかかった霧の所為で視界は悪い。こういった環境の変化も、探索者達が銃を好まない理由のひとつなのかもしれない。
茨城ダンジョンをホームとしており、地図など無くとも進める程度には慣れている、そんな莉々愛達でさえも普段であれば進行速度を落とす階層だ。だが今は違う。その歩みには淀みが無く、進行速度は先程までとなんら変わりがない。
そんな順調極まりない行軍を成立せしめているのは、偏に、怪しいナビゲーターのおかげに他ならなかった。
自称異世界人であるアーデルハイトの実力は、つい先程見せつけられたばかり。あまりにも隔絶した彼女の実力は、莉々愛から思考能力を奪った。どう見ても遊び半分で亀を投げただけなのに、あの筆舌に尽くしがたい惨状を生み出したのだ。もはや考えるだけ無駄、アレはああいう生き物だと、莉々愛はそう思うことにした。
だがしかし、それでも。アーデルハイトの投擲はまだ理解の範疇にあったのだ。確かに馬鹿げた威力ではあったが、行為自体は力任せの投擲に過ぎない。レベルアップを何度も重ねれば、いずれは同じことが出来るようになるかも知れない。一体どれほどの年月を必要とするかは分からないが、少なくとも全ての探索者の延長線上にある力だった。
だが───
【んー……3時の方向に魔物ッス。数は2、距離は大体700ってトコッスね】
「承知しましたわー」
【そのまま真っすぐ進んで───これは池かな? まぁよくわかんねッスけど、なんかそんな感じのヤツにぶつかったら、時計回りに迂回して下さいッス。そしたら次の階層ッスね】
「よくってよー」
だがこれはなんだ。今回の配信は『茨の城』だけが行っているため、地上との通信はこの場の全員に共有されている。故に莉々愛も、汀とアーデルハイトの会話をイヤホンで聞いていた。気配を感じ取るだとか、野生の勘だとか。そんな曖昧なものでは断じてない。口調こそひどく適当なものだが、しかし彼女が齎す情報は正確無比。
何故? 一体どうやって? そもそもナビゲーターを務める彼女はこの場には居ないというのに。初めて経験する『魔物と遭遇しないダンジョン探索』に、莉々愛は戸惑いを隠せずにいた。
「ちょっと月姫っ……」
「え、何?」
「何よこれ! どうなってんのよ!?」
「え、何が?」
この異様な光景を前にして、月姫は特に疑問を抱かない。何故なら、彼女もまたそちら側へと足を踏み入れているから。すっかり汚染されてしまった友人と、矢継ぎ早に襲いかかってくる異世界の不思議。莉々愛はここまで来て漸く、アーカイブを視聴しておかなかったことを後悔していた。
「いやぁ、僕も配信でしか知らなかったけど……実際目の当たりにすると、凄いねコレは……」
「凄いなんてもんじゃないわよ! こんな……こんなのチートじゃない!」
「ね。でも現場はもっと凄かったよ? もう何してるのか全然分かんないから。殆ど怪しい儀式か何かだったよ」
よくよく考えれば別に聞かれても問題はないのだが、何故か声を潜めて話す三人。ちらと前方へ目を向ければ、魔物が居るらしい方角へと肉を放り投げるアーデルハイトの姿。肉は綺麗な放物線を描きながら、そのまま霧の中へと消えていった。
「そもそもあの荷車は何!? 荷物持ちにしろ荷車にしろ、ダンジョン内では最優先で狙われる筈でしょ!? 何でアレは魔物に襲われないのよ!?」
莉々愛の疑問はそのまま、『エルフの荷車』へと向けられる。一見すれば何の変哲もない荷車だが、改めて考えれば明らかに不自然だ。理由こそ未だ解明されてはいないが、ダンジョン内に於いて非戦闘員は優先的に狙われる。これは探索者業界ではもはや常識だ。そんな文字通りの『お荷物』を護りながら進めるほど、ダンジョン探索は甘くない。誰もが一度は考え、そして諦めてきた。それが運搬用機材、或いは人員のダンジョン持ち込みである。
それがどうだ。ここに至るまでには幾度も戦闘があった───月姫が一人で殲滅した───が、あの荷車は一度も狙われていない。つまり異世界方面軍は、大容量の資源運搬を可能としているということ。ともすればレーヴァテインをも超える、まさに画期的な発明なのではないか。そんな莉々愛の考えは、しかし事情をよく知る月姫によって即座に否定された。
「あ、それはあの荷車が特殊なんじゃなくて、アレを牽いてるお肉ちゃんの所為だよ。『エルフの荷車』自体は本当に、ただの椅子付き荷車なんだってさ」
「あぁ成程、そういうことか……」
「どういうことよ!?」
異世界方面軍リスナーである莉瑠には、月姫の説明だけでピンとくるものがあった。加えてどちらかといえば裏方仕事の多い彼は、現地に居合わせた探索者の証言から、軽井沢での一件もある程度把握していた。故にそこでの肉の活躍も、うっすらとではあるが聞こえてきている。
月姫の言う『肉の所為』とは、つまり例の威圧能力の事である。軽井沢ダンジョンでもそうであったように、肉が本気で威嚇をすれば格下の魔物は近づくことが出来ない。どの程度の魔物にまで通用するのかは分からないが、少なくともこのあたりに出現する魔物程度であれば難なく退けてしまうのだ。本能的なものなのか、或いは、もっと直接的な何かなのか。あちらの世界に於ける最強の一角は伊達ではない、といったところだろう。
「なんで私だけ何も分かんないのよ!? 配信見たことないだけで普通こんな事になる!? 探索者業界の常識と教えは何処いったのよ!!」
「残念ながら、そんな事になるんだよねぇ」
「そう、異世界ならね」
またしても何も知らない莉々愛へと、よく知る二人がしたり顔でそう語る。その姿はまるで、コメント欄で古参マウントの取り合いをするリスナー達のようであった。
またしても何も知らない獅子堂莉々愛さん
配信一回見逃しただけで意味わかんないことになっちゃうから……予習、大事。




