第195話 高貴注入棒
莉々愛と莉瑠、『茨の城』の二人による襲撃から暫く。一行は場所を移し、室内修練場へとやって来ていた。室内修練場の広さは他の支部と大差がなく、大凡一般的な体育館ほどの面積しかない。
茨城支部に来る者は、その殆どが広大な屋外修練場目当てだ。故に人気はあまりなく、周りの目を気にする必要もない。そういった理由から、既に月姫の魔力修練は開始されている。仮に大勢の目があったところで、何をしているかなど理解出来る筈もないのだが。
現在は『高貴注入棒』と書かれた怪しげな棒を使って、胡座をかいて瞑想状態となった月姫の肩を、オルガンと汀の二人がばしばしと叩いているところである。
そんな様子をベンチから眺めていたアーデルハイトとクリスは、先程のやり取りを振り返っていた。
「よろしかったのですか? 私はてっきり、今回も『お断りしますわ』かと思っていたのですが」
「まるでわたくしが、いつもいつもお断りをしているような口ぶりですわね……あの条件でも良いというのなら、別に構いませんわ」
「確かに、随分とこちらに都合の良い条件でしたが……」
回復薬の流通を持ちかけてきた莉々愛に対し、アーデルハイトが提示した条件。それはクリスの言う様に、酷く異世界方面軍にとって都合の良いものであった。
1つ目の条件。回復薬を卸すのは月に一本まで。
これは当然、市場への影響を考えての事だ。ゆくゆくは回復薬を一般にまで広めたい、という莉々愛の目標は理解出来る。だが、回復薬の価値が急激に変化することを、アーデルハイト達は是としていない。そもそも異世界方面軍が作り出す回復薬は、現在市場に出回っている回復薬よりも質が数段上なのだ。そんなものを次から次へと供給するわけにはいかない。
それに加えて、材料の問題や製作ペースの問題もある。百本程度であれば、クリスとオルガンの二人がかりならばそう苦でもないだろう。だが数千、数万もの供給となれば現実的に不可能だ。回復薬屋を開くわけでもあるまいし、そんなことに余計な時間を使うつもりは、異世界方面軍には毛頭なかった。
2つ目の条件。仕入先については口外しない。
これに関しては敢えて言うまでもなく、莉々愛達も元より承知している事であった。獅子堂へ卸しているのが異世界方面軍だとバレれば、厄介事になるのは火を見るより明らかだ。目立ちたくないだとか、それ以前の問題である。
3つ目の条件。獅子堂莉々愛個人への卸売とする。
これには、2つ目の条件と重なる部分がある。獅子堂という巨大組織へと正式に売りつければ、どう足掻いても何かしらの記録に残る。出どころをバラしたくないのだから、それではあべこべだろう。
その代わり、売りつけた回復薬の用途は莉々愛の自由だ。必要としている誰かに売るも良し、個人で所有するも良し。或いは、サンプルとして研究に使うも良し、だ。月に一本までという条件があることを考えれば、基本的には研究用に使用される気もするが。
他にもいくつかの細かい条件は設定したが、大きなものでいえばこの3つだ。業務提携というよりも、単純な個人間での継続取引契約に近い。莉々愛の望む形とは随分と異なる契約となったが、しかし彼女はそれを承諾した。
「こちらの世界にやって来て早数ヶ月。わたくしたちも、初期に比べれば随分と名が知られるようになりましたわ。公爵家の後ろ盾もない今、こんな片手間で大きな後ろ盾が得られると考えれば、まずまずなのではなくて?」
「棚からぼたもちならぬ、庭先に聖剣レベルの成果だとは思いますが……何かあった時の後ろ盾としては強力ですが、その分しがらみも否応なく増えます」
「今のわたくし達は、言ってしまえばただの密入国者ですわ。これだけ知名度が上がった今、ただの密入国者のままでは居られませんわよ。こちらの世界で生きていく上で、これは必要なしがらみですわ」
「まぁ考えようによっては、貴族の庇護下に入った平民、或いは店子のようなものでしょうかね」
「そこまで遜ったりはしませんわよ。ただの利害の一致ですわ」
生まれた頃より、悪鬼羅刹の蔓延る貴族界に身を置いていたアーデルハイトだ。剣を振るうだけではどうにもならない、そんな状況があることも理解している。それはこちらの世界でも同じことだ。こちらの世界に来てからというもの、随分と思うままに振る舞っている様子ではあるが。
例えば探索者協会との間でトラブルが起きた時。例えば、国内外からの好ましくない接触があった時。そういった異世界パワーだけでは如何ともしがたい状況に陥った時、この契約はきっと役に立つ。何かとやらかし気味な異世界方面軍にとって、世界にその名を轟かせる獅子堂の後ろ盾は、獅子堂莉々愛との繋がりは、まさしく渡りに船だった。
あちらの世界ではなんてことのない回復薬で、それらが得られるのであれば。アーデルハイトが莉々愛の提案を受けた、その最たる理由。それは後ろ盾を獲得するためであった。
この場には似つかわしくない、少々真面目な相談をしているその横で。集中を乱した月姫が、もう何度目になるか分からない高貴注入を受けていた。
腹が膨らんだせいだろうか。その隣には、鼻から提灯を出したり引っ込めたりしている肉と毒島さんの姿もある。
「そういえばお肉の検査の件、すっかり忘れていましたわね……」
「まだ一度も行ってないですよね。花ヶ崎支部長も何も言ってこないですし」
「……何か言ってくるまでは、とりあえず無視しておきますわ」
「面倒くさいですしね」
ふとそんな約束をしていたことを思い出し、どこか遠い目をする二人。午前のハードなメニューとは異なり、随分とのんびりした空気の流れる午後となっていた。なお、当然のことながら月姫の修行はまるで進みはしなかった。
* * *
「よかったの? あんな条件呑んじゃって」
やたらと大きくて長い高級車の中で、莉瑠が莉々愛に問いかけていた。彼の視線の先には、美しい青色の液体が入った小瓶を、うっとりと眺める莉々愛の姿があった。
「良いも何もないわよ。これは私の悲願よ? どんな条件だって呑むわ」
「私達の、だよ。さっきはああ言ったけど、莉々愛の立場なら僕だって二つ返事さ」
二人の顔には、してやられたなどといった色は見えない。それどころか、二人ともどこか嬉しそうな表情を浮かべていた。アーデルハイトにとって、莉々愛たちとの出会いがラッキーであったように。この二人にとってもまた、アーデルハイト達との出会いは幸運であった。
「そもそも、これは私達にとっての最優先事項よ。上級ともなれば、如何に私達といえど手に入れることすら難しい。そんな回復薬の現物、それも最上級のものが定期的に手に入るのよ。これに勝る成果はないわ。どんな条件だって、悪条件にはならないわ」
「ふふ、確かにそうだ」
今この手にある回復薬の代わりに、アーデルハイト達が何を求めたのか。莉々愛にはそれが良く分かっていた。先ほどやり取りをしたのは金銭などではない。もっと大切なものを交換したのだ。この回復薬は、謂わばその証。それを思えば、たかだか一億程度の出費等どうということはない。
「挨拶代わりのつもりかしらね? 売値よりも買値の方が下がるのは当たり前だけど、それにしたって安すぎるもの」
はっきりと言ってしまえば、この回復薬の値段は莉々愛にすら分からない。恐らくは上級回復薬の最も安い売却例に値段を合わせてきたのだろう。だがそれはとある事情があっての売却額であり、平均額よりもずっと低く売られたものだ。それよりも効果が高いと思われる『コレ』の値段としては、どう考えたって安すぎる。
「仲良くしていけるといいね」
「勿論よ。折角見つけた夢への手がかりだもの。絶対に切られるワケにはいかないわ」
思っていた形とは少々異なったものの、しかし何も問題はない。こうして異世界方面軍と、回復薬に狂った双子の邂逅は、確かに『お互いに良いことばかり』で終わったのだった。
暑い、暑すぎるんよ……
というわけで皆さん、マジで体調にご注意下さい