第107話 はい!もう駄目ー!
透き通るように白く、そしてすらりと伸びる脚。
しかし程よく肉付きの良い、女性らしい柔らかな脚。アーデルハイトが脚を組み替える度に、太腿がむっちりと形を変える。見様によっては扇情的だが、やはりその仕草にはどこか気品が感じられる。テーブル上のカップへとゆっくり手を伸ばすその姿は、いっそ優雅ですらある。
そんな、落ち着いた様子でコーヒーを口に含むアーデルハイトの眼前では、何やらとてもやかましい生き物が、奇声を上げながら床をゴロゴロと転がっていた。
「わ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
探索者協会伊豆支部長の国広燈が、頭を抱えながらリノリウムの床を行ったり来たり。時折ソファやテーブルの足に身体の一部をぶつけているが、そんなことはお構いなしだった。彼女の部下である四条饗が、困り顔でそれを眺めている。
「……クリス、魔物が現れましたわよ?」
「はて。小柄ですし、ゴブリンの変種でしょうか?」
「二人とも言い過ぎッス。ゴブリンにしては大き過ぎるッス」
応接室の大きなソファに腰掛けながら、異世界方面軍の三人は思い思いのコメントを口にする。汀に至っては、フォローをすると見せかけた追い打ちであった。
「誰がクソ雑魚無能メスゴブリンですかッ!!!」
流石にゴブリン扱いは心外だったのか、燈は転がるのを止めて起き上がる。唾を飛ばしながらばしばしと床を叩いているあたり、まだまだ興奮は収まっていないらしい。
「そこまでは言ってねぇだろ……コイツはこれでも伊豆支部で一番偉いんだぜ。俺も今まで、何度も世話になってるんだ。嬢ちゃん達も、あんまり虐めてやらんでくれ」
「こうしてみると、支部長もいろいろな方がいらっしゃるんですねぇ……渋谷の花ヶ崎さんとはまた違うタイプというか……情緒が凄いですね」
異世界方面軍のメンバーではないものの、今回サポートメンバーとして参加した東海林と月姫の二人も、アーデルハイト達と共に連行されていた。駆け出しの頃から伊豆を本拠地として探索活動をしていた東海林は、どうやら燈とも面識があるらしい。一方、娘の月姫は基本的に渋谷ダンジョンで活動を行っている。当然ながら、伊豆の支部長である燈とは初対面だった。
そもそも、基本的な窓口業務は一般職員の仕事である。いち探索者が支部長クラスと直接話をする機会など、そうそう訪れるものではない。月姫が花ヶ崎刹羅と面識があるのは、偏に『†漆黒†』が渋谷ダンジョンに於ける代表パーティーのひとつだからである。そういった意味では、燈と面識のある東海林は、伊豆の代表と言えなくもないかもしれない。
「どうせ私は、クールな先輩と違ってちんちくりんですよッ!!」
花ヶ崎に対してコンプレックスでもあるのだろうか。月姫の言葉には特にそういった意図は無かったのだが、燈は全方位噛みつき機と化し、月姫にまで当たり散らしていた。無論彼女も本気で怒っているわけではないのだが、ぎゃあぎゃあと騒ぐ燈の姿を見れば、成程確かに、ちんちくりんとは言い得て妙だった。それを言ったのは燈自身なのだが。
「結局のところ、彼女はどうして暴れていますの?」
アーデルハイトの疑問も尤だ。
燈は一行がこの部屋に案内された時から、既にこの様子だったのだ。そうしてソファに座り、お茶を出され、転がる燈を眺めること十分程。その間特に説明も無かった為、アーデルハイトには燈がこうなっている理由が理解らなかった。
「皆さんが悪い訳ではありませんので、どうかお気になさらず。一種の発作のようなものです。しばらくしたら治まりますので」
「そ、そうですの……」
饗がそう言ってからおよそ五分後、燈は突如として落ち着きを取り戻し、先程までの醜態が嘘のような態度でソファへと腰を下ろした。そうしてきりりとした表情で一行を見渡し、威厳たっぷりに息を吸い込んでこう言った。
「世界初のダンジョン制覇、おめでとうごじゃます!」
「噛みましたわね」
「噛みましたね」
「噛んだッスね」
燈の精一杯の威厳は、ほんの数秒も保たずに霧散した。しかし燈は、このままでは話が進まないと思ったのだろう。顔を真っ赤に染めながらもそのまま話を続ける。
「皆さん、これは大変な名誉ですよ!何しろ世界初ですからね!」
いつの間に用意したのだろうか。燈が小さなパーティー用クラッカーをぱん、と鳴らす。これから彼女を待ち受けているであろう様々な手続きはさておき、支部長として、そしてダンジョン探索に携わる一人の人間として、嘘偽りのない祝いの言葉であった。隣に控える饗もまた、柔和な笑みを浮かべながら小さな拍手を送っている。
「有難う存じますわ。わたくし達にかかれば、この程度は容易くってよ!!」
「わ、すっごいドヤ顔だ……」
「それで、用件はこれで終わりですの?」
「わ、これもう帰りたがってるヤツだ……」
アーデルハイトの言葉、その言外の含みを読み取った燈が、渋々といった様子で準備していた書類を取り出す。正直に言えば、彼女は今回のダンジョン制覇についての話を、それこそ根掘り葉掘り聞きたかった。彼女は探索者に寄り添う仕事がしたくて協会に入ったのだ。支部長としてもそうであるが、何よりも燈個人が武勇伝を聞きたかった。
とはいえ世界初のダンジョン攻略パーティー、そのメンバーの機嫌を損ねることはしなくない。直接的ではないにしろ『早く帰らせろ』と言われているのだから、可能な限りそうするべきだ。詳しい話は後日、機会があれば尋ねればいい。そう、国広燈は融通の利く女なのだ。
「じゃあ仕方ない。今日すぐに決めておかなきゃいけないことだけやっちゃうよ。あ、詳しい聴取はまた後日やりたいから、出来れば来て欲しいなぁ、なんて思ったりしてます」
「んー……」
あからさまに面倒そうな顔をするアーデルハイト。彼女は話をするのが嫌というよりも、それによって芋づる式にやってきそうな、後の面倒事を嫌っているのだ。だがそこに、隣で話を聞いていた東海林からの口添えが入った。
「俺からも頼む。さっきも言ったが、ここの支部には世話になってるんでな。出来れば聞いてやってくれ。なに、嬢ちゃん達にとっても悪いようにはならねぇハズだ。そうだろ?」
「も、もちろんですよ!!その、なんとか……も、諸々、こっちで、処理、しますぅ……うぐぅっ!!」
本部への報告や、その逆、本部からの追及などといった、容易に想像が出来てしまう面倒事の数々。待ち受けるであろう残業の山を想像し、燈は顔をしわくちゃにしながら東海林の言葉に同意する。それらの面倒なあれこれを無しにしてくれるというのであれば、アーデルハイトに否やはなかった。
「では、ひとつめ。今回の取得物についてです」
そうして漸く、燈が本題へと入る。最初の決め事とは、今回異世界方面軍が獲得したアイテムの数々についてだ。これはダンジョンから戻った探索者として、至極当然のやりとりである。そもそも探索者とは、このためにダンジョンへと潜っているのだから。
だが渋谷の時もそうであったように、今回もまた彼女達は激レアアイテムと呼んで差し支えないものをいくつも持ち戻っている。そこらの探索者が持ち戻る雑多な物とは異なり、その一つ一つがかなりの価値を持つであろう品々だ。コレを協会で買い取れるかどうかによって、燈の立場も随分と変わってくる。故に支部長である燈にとっては、この件が最も重要な話だといっても過言ではない。
「刀を除いて、全て協会に売却致しますわ」
この件に関しては、クリスや汀とも事前に相談を済ませていた。彼女達はもとより、今回取得したアイテムは全て売るつもりであった。故に、アーデルハイトは特に迷うこともなくそう宣言する。
「本当ですか!?やったー!!はい!もう駄目ー!キャンセル不可ですぅー!!では値段はそちらの四条と、後日相談ということで!はいっ、じゃあ次行きまーす!」
アーデルハイトからの言質をとった途端、燈はさっさと話題を終わらせてしまう。長々と話をして、アーデルハイトの気が変わってしまえばそれまでだからだ。そんな、態度が悪いと言えなくもない燈の行いであったが、アーデルハイトは特に気にした様子もなかった。
あちらの世界の冒険者ギルドでは、この程度のやりとりはごく普通に行われていたからだ。というよりも、アーデルハイトは前々から、こちらの世界の探索者協会は形式張っていてやりづらい、と思っていた。何をするにも書類がどうだのと、面倒この上ない。無論、領地の運営などに関わる重要な契約であれば話は別だが、この程度の売買など雑にやればよいのだ、と。
アーデルハイトの感覚で言えば、今回取得した素材などまるで大したものではない。彼女にとっては『ちょっとだけ強めの魔物の素材』程度の認識である。高値が付けば良し、つかなくともそれはそれで別に構わない。その程度のものだ。
こちらの世界に於いて、それが珍しいものであることは理解しているが、だからといって何が何でも高値で売りたい程のものではない。総じて、わざわざ契約書を作るほどの価値を感じない、といったところか。
「では、二つ目。そちらの……ぶ、毒島さん?についてです」
話題を変えた燈が次に触れたのは、肉の尻から汀の頭の上へと移動した、真っ白な蛇についてであった。大人しいとはいえ、毒島さんは歴とした魔物である。肉をダンジョン外へ連れ出した時と同様に、はいそうですかと言って認めるわけにはいかない案件である。
「えー……まぁ、うん。ぶっちゃけ私じゃよく分からないので、お肉ちゃんのときと同じ感じでお願いします!!私から先輩に頼んでおくんで、多分大丈夫です!知らんけど!!」
しかし、燈は全てを投げっぱなす事にした。
肉を連れ出した際は、花ヶ崎が持てる全てのコネを動員してどうにか処理した。だが燈にはそんなものはない。故に彼女は、頼れる先輩に全てを投げることにしたのだ。実を言うと、友の会経由で既に刹羅へと連絡はしてあるのだ。あとは花ヶ崎がなんとかしてくれるはずである。多分。
「ざ、雑ッスね……」
「こんなもん、いち支部長の権限では決められんだろうぜ。渋谷の支部長が例外なんだよ」
「大丈夫なんでしょうか?あとで引き渡せなんて言ったら、師匠にグーパンされますよ?」
そんな月姫の冗談に乗り、アーデルハイトがその場に立ち上がりシャドーボクシングを始める。何やら小さな声で『しッ!』などと口にしながら。目視できないほどの速度で放たれるアーデルハイトの拳に、燈は若干涙目になりながらも話を進める。
「つ、次で最後です!!えー、その、私もみなさんの配信を見ていたんですけども……」
「あら、有難う存じますわ」
「そのー……最後の部屋で、石板?みたいなの拾ってたじゃないですかぁ?」
「あぁ……面倒なので置いてきた、例のアレですわね」
「ですです。それで、そのー……アレ、やっぱり回収してきてもらえませんかねぇ……なーんて……えへへ?」
あちらの世界に於いて、ダンジョンとは未だ謎の多い存在である。誰が造ったのか、何故作られたのか、そういったことは一切解明されていない。故にあちらの世界では、神が造ったなどと言われているのだ。
そしてそれは、地球でも同様である。むしろ程度で言えば、あちらの世界よりもよほど謎だらけだ。あちらの世界では常識とされていることも、地球では認識自体されていない、といったこともしばしば見られる。
ダンジョン内の死体が魔力となって吸い上げられる、という現象はその最たる例だろう。
そんな謎の存在であるダンジョンの、その最深部で発見された意味ありげな石板。アーデルハイト達はそれがなんであるかを知っているが、世界中のダンジョン研究者からすれば未知の塊である。そんな歴史的な発見を、ダンジョンの最下層へと置いてきてしまったのだ。当然ながら、協会本部からは報告を求められるだろう。非常に面倒な話である。まさしくそれを避けるためにアーデルハイト達は置いてきたのだが、しかし燈としては、なんとしても手元に置いておきたかった。探索者であるアーデルハイト達はともかく、支部長である燈はどう足掻いても逃げられないのだ。
だが在処はダンジョンの最下層だ。今までの最高到達記録が20階層だったダンジョンの、である。言わずもがな、誰も辿り着くことが出来ない未知のエリアだ。異世界方面軍以外の者にとっては、だが。
故に、ひどく面倒な事を言っていると自覚しつつも、燈は頼むしかなかったのだ。
「────お断りしますわ!!」
そしてそれを受けたアーデルハイトの答えは、もはやお馴染みのセリフであった。
あっかりん可哀想だなぁ!
でもお断りですわ!!