宗教で違う『法治』
仏教について書いていて、わかったことは宗教と政治の関係だ。
キリスト教は「キリストの名の下に精神的な許しを与える」ものであり、罰するものではないということだ。そのために、統治国家として法によって罰を与える必要がある。罪を償ってもなお残る贖罪の念を神父が開放することでバランスが取れている。
イスラム教では政治の法ではなく宗教が戒律という法でコントロールしている。なので、国という概念が稀薄でも成り立つ。
仏教は、経典によって倫理感を説き、贖罪の心を開放するために何をすべきかを教える。実践することで、現実でも精神でも救済される。自分たちで考えなさいという突き放しにもみえる。考えそして動き発見しなさい。これが悟りの本質でなないだろうか。
日本はキリスト教と仏教国を合体したような国家だと思う。その価値感が国の教育というシステムによって与えられる。教育によって養われた倫理感によって罪の意識が芽生え、それを政治の法が裁く。しかし、精神の贖罪は与えられるものではなく、実践によって得られる。自分を許せるのは自分だけ。キリスト教国家より、厳しい社会だ。
つまり、日本という国は、画一的教育がなくなったときに無法地帯になるということで、すでにその兆候が出始めているのではないだろうか。教育にたよれなくなった時、どういった法治になるのだろう。