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「あのグレイさん。下ろして欲しいのですが」
シェリーはグレイに抱えられたまま移動している。しかし、グレイはシェリーの言葉には答えず、西区第二層の屋敷に向うため、黙々と足を動かしてた。
その周りにいるカイルもスーウェンもオルクスもリオンも誰一人文句を言わない。普通であればオルクスぐらいが、グレイにつかかっていきそうだったが、そのオルクスでさえ難しい顔をして歩いていた。
街の中は警邏の第6師団の者たちと門兵の第5師団の者たちが慌ただしく走りまわっていたが、人々は冷静さを取り戻し、瓦礫を片付ける者、けが人に手を貸している者、上を見て何かを話している者。混乱は収まり、人としての営みを存続させるために、人々は動いていた。
だから、彼らの行動は人々から至って普通に映っている。人族の怪我をしている女性を運んでいる。その女性は不思議な回復する空間で回復しているのだろうが、その衣服についた血の量が尋常でなく、休めるところに運ばれているのだろうと。
「怪我は治っているので、問題ないのですが」
無視をされたので再度シェリーは言ってみるものの、またしても無視された。いや、シェリーの言葉にカイルが答える。
「シェリー。その見た目では大怪我を負っている感じだから、大人しくグレイに運ばれているといいよ。それに大量の血を流したのだから、俺たちの心の平穏のためにもそのままでいて欲しい」
シェリーが自分の身を顧みない戦い方を知っているカイルとしては、今回のことはかなり思うことがあったのだろう。
戦うと決めたシェリーはその場から引くことはなく、その身が傷ついても相手を屠ることに専念する。
そして、今回は守るべきルークがいたことで、シェリーの行動がいっそ顕著になり、シェリーと世界の記憶から作られた者たちの戦いを見ていたグレイもオルクスもスーウェンでさえ、かなりの衝撃があった。
あの瞬間。シェリーがカイルの目の前から消えた瞬間。カイルは他の者たちに命じてシェリーの元に駆けつけていたのだ。
シェリーが目の前から消え去る直前に見ていた空を見上げ、何かしらの飛行物が向かって来ていることを認識したところで、カイルは叫んでいた。
「スーウェン!今すぐにここを覆う結界を張れ!オルクス!落ちてくる物体を破壊しろ!グレイとリオンは攻撃しているヤツを黙らせて来い」
「え?ここを覆う結界ですか?」
スーウェンはかなりの広さがある場所に結界を展開させることに戸惑いを見せたが、その言葉をカイルはねじ伏せる。
「ここにはルークがいる。ルークがいればシェリーは自分のことなど二の次になるからさっさと動け!」
それだけのことを叫んでカイルは直ぐ様シェリーの元に駆けつけたものの、一足遅くシェリーはその身を呈してルークをかばっていた。立っているのが不思議なほどの怪我だったが、シェリーは誰も寄せ付けないほどの殺気をまとい、平然と立っていた。
カイルより一瞬遅れて、闘技場に降り注ぐ魔弾を全て破壊したオルクスが現れたものの、シェリーの姿にカイルの言っていたことを理解したのだ。
ルークが居ればシェリーは自分のことは二の次となるということを。
オルクスは足手まといのルークに憤りを感じたが、それを隣にいた青狼の子に向けることで、なんとかしのいだ。でなければ、オルクスはルークに手を出していただろう。何故お前が無傷なのだと。
そうして、グレイに抱えられたまま移動しているシェリーだったが、このように抱えられて外を移動することなど、この世界に生まれ落ちてから初めての経験だった。
困惑と戸惑いと恥ずかしさでシェリーはこの場から逃げ出したかったが、獣人であるグレイにしっかりと抱えられてしまえば、逃げ出すこともできず、ただただ居心地の悪さをシェリーは感じていた。
いや、正確にはばあやには抱えられていた記憶はあるが、所詮オリバーの結界の中。このように人目にさらされることなど無かったのだ。
ただ、この状況でカイル以外が言葉を発していないことが更に気味が悪い。いつもであれば、シェリーが無視をしていても、誰かが話しかけてくるし、彼ら同士で移動中でも話をしている。しかし、シェリーの耳には街の人々のざわめきしか聞こえてこない。
しかも、シェリーの耳にはキーンと甲高い耳鳴りまで聞こえてきた。ざわざわとする何とも言えない悪寒も……悪寒?
血を流し過ぎたからだろうかとシェリーは首を捻るが、耳鳴りも悪寒も徐々に悪化していく。
この事に他の者たちが気がついているのかと言えば、シェリーが周りを見渡しても、先ほどと何も変化は見られず、ツガイである彼らにも変化は見られない。
これは本気で体調の不調を疑うべきだが、造血剤を飲んだ後にカイルからオリバー作、回復薬も渡され飲むように促されたために、体調としては万全だった。
後口は死ぬほど不味かったが、耳鳴りを起こすほどでは無かった。




