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味覚

作者: 篠原 環

 朝食を食べる前に、鏡の前で自分の髪を梳かしているときのことだった。


 鏡の中の私はにい、と笑った。しかし、自分の口角が吊りあがる感覚はなかった。平凡な一軒家の一室で、私は混乱した。鏡の中の私はそんなことお構いなしに、「交換しましょ」と言った。ホラーにはそれなりに耐性のある私だが、鏡から腕が伸びてくる光景には流石に恐怖を覚えた。白くほっそりとしたその腕は、自分で言うのもなんだけど美しいと思う。結局、私も鏡の中の私も同じ自己中心的な考え方であることに気づき、呆れた。


 気がついたら、腕が伸びてくる前と同じくに鏡の前で座っていた。夢だったのではないかと疑ったが、鏡の向こうで手を振る私をみて、私は別の世界に来てしまったのだ、と納得した。もちろん、私は鏡に向かって手なんか振っていない。


 非現実的なことを受け入れたくなくて鏡から目をそらすと、そこには私の部屋とまったく同じ光景が広がっていた。小さなテレビ。元彼にプレゼントしてもらったウサギのぬいぐるみ。友人から時代遅れだと言われるが、10年以上愛用している鳩時計。全部、全部私のものだ。何も変わっていなかったのだ。やはり先ほどのことは寝ぼけていただけだったのだ、と自分に言い聞かせた。


 部屋を出て、階段を下りた。もうそろそろ朝食が食卓に並んでいる時間だ。今日のメニューを想像しながらリビングのドアを開けると、そこには地獄が広がっていた。


 最初に気がついたのは、鼻がひん曲がりそうなほどの異臭だった。一瞬、昨日のテレビニュースでみた化学兵器が頭を過ぎった。私の父は会社員、母は専業主婦。そして弟は中学生。スパイでも重要人物でもない。そんな家庭に、一体誰が化学兵器を使おうとするだろうか。私がリビングの入口で呆然と佇んでいると、すでに食卓についている家族が不思議な目でこちらを見てきた。どうして皆は平然としているのだろう。


 父に催促されたので仕方がないから口呼吸をしながら食卓につくと、この異臭の正体が分かった。奴が、食卓の上にいるのだ。


 納豆である。


そう、大豆を納豆菌で細菌発酵させることでできる悪魔の食品である。言葉で表せないほど凄まじい悪臭。蜘蛛の糸を連想させるような、大豆にまとわりつく粘り気。私はこれを食品だと認識したことがない。6歳の時に給食でだされたものを食べて嘔吐してから、約15年間一度も口にしなかった。 


 私は、呆然と悪魔の食品を眺めていた。もちろん、口呼吸のままだ。すると、私を訝しげに見ながら、父は自分用の悪魔の食品を掻き混ぜながら言った。


「どうした。お前の大好きな納豆だぞ」


 誰が。いつ。どこで。どうして。どのようにして。そんな虚言を言ったというのか。いや、父は若年性アルツハイマーとなってしまったのだろうか。そうか。これから父の介護をしなければならないな。父はいつまで私のことを覚えていてくれるだろうか。もし忘れてしまったのなら、そのとき私は平静を保っていられるだろうか。なんてことだ。朝っぱらから将来について不安を抱く羽目になるとは、思いもよらなかった。


 私が困惑していると、弟が父に賛同するかのように頷いた。こいつも若年性アルツハイマーになってしまったのか。


 そこまで考えだしたとき、私はふと今朝の不可解な現象を思い出した。信じがたいが、もしかしてここは『私が悪魔の食品を好んでいる世界』なのではないか。異世界について書かれている書籍は山ほどあるが、こんな馬鹿げた世界などあっただろうか。私を中心にして世界が廻っているかのようだ。いや、待てよ。私以外の家族も全員納豆が嫌いだったはずだ。しかし皆楽しそうに悪魔の食品を掻き混ぜている。加えて、弟は大嫌いだった牛乳を美味しそうに飲んでいる。そこで、私は気づいた。私が知っている家族の味の好みがまったく違うのだ。


 気持ち悪かった。家族の皮をかぶって、全く違う生物が平然と私の家で過ごしているような気がした。納豆なんて嫌いだ、と宣言していた母が、父が、弟が。どうしてそんなものを。


 頭が真っ白になった。


「どうしたの、早く食べなさいよ」


 母からの何気ない言葉は、私にとって死刑宣告に等しいものだった。


 諦めよう。諦めて、これを食べるんだ。そしてすぐに吐き、自分がこれを食べることができないのをアピールしてこの場をしのぐんだ。そのあと、これからどうすべきかを考えればいいじゃないか。なんだ、簡単なことじゃないか。これを一口食べさえすればいいのだ。たったの一口だ。


 緊張で手が震える。この世のものとは思えないほどの異臭に吐き気がし、涙を流しそうになる。醤油とからしを入れて掻き混ぜ、ご飯の上にかけた。


 そして一口分を箸で取り、口に、運ぶ。噛む。飲み込む。


 嗚呼、約15年ぶりの感覚よ。最初のうちは舌が麻痺していたせいか、何も感じなかった。しかし、徐々に機能を取り戻していき、納豆本来の味わいを感じ取った。美味い。美味いじゃないか。確かに臭いが良いとは言えないが、何故私はあんなにも納豆を嫌っていたのか。まるで、味覚が発展を遂げたかのようだ。私はすぐさま納豆ご飯を口いっぱいに詰め込み、納豆独特の風味を家族全員で楽しんだ。


 不気味に思えた世界が、途端に輝きだしたようにみえる。いや、むしろ今までが夢だったのではないか。家族皆が納豆好き。この世界こそが、本来あるべきものだったのではないのか。





 気がつけば、彼女は大好きだったミルクティーや苺に嫌悪感を覚えていた。そして納豆同様に嫌いだった沢庵やキクラゲを好んで食べるようになった。しかし彼女はそんなことを気に留めなかった。何が本当なのかということを、納豆を食べて以来考えることはなかった。すぐに鏡から伸びてきた腕の存在を忘れ、何の違和感も抱くことなく新しい世界を受け入れた。


 だって、味覚以外は何も変わらないのだから。

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