妹の身代わりで嫁げと言われたので、「私を選ぶ方」とだけ結婚することにしました
「セレナ。お前が代わりにアルヴァレス辺境伯へ嫁げ」
朝食の席で、父は予定を変更するような口調で言った。
向かいでは妹のリリアが目を赤くしている。
昨日まで、アルヴァレス辺境伯へ嫁ぐことになっていたのはリリアだった。
北は寒い。
王都から遠い。
辺境伯は無愛想で恐ろしい男だという噂もある。
だから行きたくない。
昨夜、リリアは泣きながらそう訴えたという。
一晩明けた今、なぜか嫁ぐのが私に変わっていた。
「分かりました」
父が当然のようにうなずく。
「姉なのだから、そのくらい――」
「ただし、条件があります」
父の眉が動いた。
「辺境伯ご本人が、妹ではなく私を望む場合だけです」
「何を言っている。先方が必要としているのはマーロウ家との縁だ」
その言葉に、一瞬首を傾げそうになる。
我が家がこの縁談に必死なのは、傾きかけた財政を立て直すためだ。
それなのに父は、まるでこちらが相手を選べる立場のように話す。
「なら、なおさら確認してください」
「何をだ」
「リリアの代わりとして私でもいいか、ではありません。セレナ・マーロウを妻として迎える意思があるのか、と」
父があからさまに面倒そうな顔をした。
「同じことだろう」
「私には違います」
「セレナ」
いつもの声だった。
そこで黙れ、と言うときの声。
家が傾き始めたことに気づいたときもそうだった。
貴族同士の付き合いには金がかかる。
我が家は古い家柄ではあるが、父はそれを補うだけの新しい収入を生み出せなかった。
領地や財産の一部を担保に資金を調達していることも、私は知っている。
私の人生にも関わることだから力になりたい。
そう言ったときも、父は同じ声で私を制した。
以前なら、それ以上何も言わなかった。
父に説明しても仕方がない。
何かを訴えたところで、「家のためだ」「姉なのだから」で終わる。
だから私は、父を説得することをずっと前に諦めていた。
けれど今回は、父に理解してもらう必要はない。
「先方へ尋ねてください」
それだけ繰り返した。
今回のことは、私が行かなければ始まらない。
嫌だと言う人間を無理やり連れていけば、縁談そのものが壊れる。
父にもそれくらいは分かっているはずだ。
しばらく私を睨んでいた父が、やがてナプキンを置いた。
「先方が了承すれば行くのだな」
「会ってから決めます」
「まだ何か言うのか」
「結婚するのは私ですから」
父は深いため息をついた。
初めて明確に逆らった私に、ようやく諦めたようだった。
「好きにしろ。先方が断るとは思えん」
それで話は終わり、父は席を立った。
扉が閉まると、リリアが小さな声で言った。
「……ごめんなさい、お姉様」
「あなたが謝ることではないわ」
「でも、私が嫌だって言ったから」
「嫌なものを嫌だと言っただけでしょう」
そう答えながらも、胸の奥に小さな棘が刺さっているのが分かる。
リリアが嫌いではない。
むしろ可愛い妹だと思っている。
けれど――羨ましく思ったことなら、何度もあった。
リリアは嫌なら泣ける。
行きたくないと言える。
そしてリリアがそう言えば、大人たちは別の方法を探す。
たいていの場合、その「別の方法」が私だった。
リリアが熱を出せば、私が代わりに客人を迎えた。
舞踏会へ行きたくないと言えば、私が出席した。
慈善会の仕事を忘れれば、私が帳簿を整えた。
姉なのだから。
しっかりしているのだから。
セレナならできるのだから。
最初は、頼られているのだと思った。
認められているのだと思っていた。
あるとき、私も体調が悪いと言ったことがある。
「姉なのだから我慢しなさい」
返ってきたのは、その一言だった。
そこで初めて分かった。
私は頼られていたのではない。
ただ、断ることを許されていなかったのだ。
それからは、どれだけ辛くても嫌でも、頷く方が早いと思うようになった。
「お姉様?」
「何でもないわ」
私は笑った。
妹を責めたいわけではない。
けれど結婚まで「代わり」で済ませたくはなかった。
夫になる人にまで、
妹が嫌がったので、こちらをどうぞ。
そんなふうに差し出されるのだけは嫌だった。
せめて、自分の人生くらいは前を向いて歩きたかった。
*
返事は四日後に届いた。
父は封を切ると、一度だけ読み、妙な顔で私を呼んだ。
「お前宛てだ」
「私に?」
「辺境伯の直筆だ」
飾り気のない文字が並んでいた。
『セレナ・マーロウ嬢へ。
あなたの意思を確認せず話を進めたことを謝罪します。
私はマーロウ家との婚姻を打診しましたが、姉妹のどちらでもよいという意味ではありません。
妹君の代わりとしてあなたを迎えるつもりもありません。
あなた自身に婚姻を検討する意思があるなら、一度お会いしたいと思います。
会った結果、断っていただいて構いません。
三年前、王都西部震災の救援会議で、マーロウ家に残る過去の震災記録についてお話しされていた令嬢があなたなら、一度お見かけしています。
あなたの提案をきっかけに復旧が早まったことを覚えています。
人違いなら申し訳ありません。
レオン・アルヴァレス』
二度読んだ。
三年前。
確かに私は、父の代理で震災救援の会議へ出席した。
我が家には、曽祖父が大きな災害に遭った際の記録が残っていた。
当時どのように食料や人員を集め、道路を復旧したのか。
それを覚えていた私は、会議で過去の記録について話した。
さらに現在の帳簿を見せてもらい、何がどれだけ不足しているのかを一緒に確認した。
後になって、提案が役に立ったと聞いた。
父は「皆の前で大きな顔ができた」と喜んでいたらしい。
執事のロウから、そう教えられた。
けれど、あの会議に辺境伯がいたことすら覚えていない。
「何て?」
リリアが尋ねる。
「一度、私と会って話したいそうよ」
「お姉様と?」
「ええ」
その言葉が妙に胸に残った。
マーロウ家ではなく。
リリアの代わりでもなく。
私と話したい。
「結局、行くのだろう」
腕を組みながら父が鼻で笑う。
「はい。会いに行きます」
「なら最初から素直に行けばよかったものを」
無駄なことをさせる、と言いたげな顔だった。
私は手紙を丁寧に畳む。
「言いたいことがあれば言っていいぞ?」
「……最初とは違いますから」
「何が違う」
「少なくとも今は、妹の代わりに行くわけではありません」
父は何も答えず、また鼻で笑って部屋を出ていった。
分かってもらえるとは思っていなかった。
それでも、最後まで私の気持ちを理解してもらえないのだと思うと、少し悲しかった。
*
北へ向かう馬車の中で、何度も期待するなと自分に言い聞かせる。
手紙一枚で人柄など分からない。
会ってみれば噂どおりの恐ろしい男かもしれない。
丁寧な文面も、政略結婚のための礼儀にすぎないかもしれない。
やがて馬車はアルヴァレス領の館へ着いた。
降りると、一人の男性が玄関前で待っていた。
黒い髪に灰色の瞳。
華やかというより、冬の山を思わせる静かな人だった。
「セレナ・マーロウ嬢」
「はい」
「レオン・アルヴァレスです」
余計な挨拶はなかった。
けれど、これまで会った誰よりも柔らかく、見下す様子もなく丁寧に一礼してくれた。
「遠路、ご苦労でした」
「お招きいただきありがとうございます」
なるべく失礼のないように答える。
彼は頭を上げ、私の顔を見た。
「先に確認します」
少しだけ空気が張る。
「何でしょう」
「帰りたければ、今日帰って構いません」
困惑した。
やはり妹の方が良かったのだろうか。
「……今、着いたばかりですが」
「そうですね」
「なぜ最初にそれを?」
「ここまで来たから結婚を断れない、と思われると困るので」
冗談ではないらしい。
そんな自由が当然に認められる時代ではない。
親の決めた縁談に逆らえば、家同士の問題になる。
断られた側が名誉を傷つけられたと怒り、争いに発展した例だってある。
それでもこの人は、私が帰りたいと言えば帰すつもりなのだろう。
「父との話は?」
「私がします」
「怒りませんか?」
「何に?」
「私が帰ったら」
「残念には思います」
「残念?」
「あなたと話したかったので」
それだけ言うと、彼は館の入口を示した。
「入りますか?」
あまりに簡潔で、少しだけ笑ってしまった。
私が決めるのを待っている。
「入ります」
「分かりました」
それだけだった。
けれど、嬉しかった。
*
夕食のあと、気になっていたことを尋ねた。
「三年前の会議、本当に覚えていたのですか」
「はい」
「私自身は、アルヴァレス様がいらしたことを覚えていません」
「端にいましたから」
「何を覚えていたのです?」
「震災に尽力したあなたのご先祖の話と、それをもとに帳簿を見て必要なものを提案したことです」
彼は水を一口飲んだ。
「あの場では、皆がどうしたらいいか分からず途方に暮れていました」
「そうでしたね」
「そんな中で、あなたは昔の震災と復旧方法について話し、今の帳簿を見て必要なものを整理した」
「曽祖父の記録を覚えていただけですよ」
「覚えていても、使わなければ何も変わりません」
「実際に復旧したのは、働いた皆さんです」
「もちろんです」
それ以上、過剰に褒めることはなかった。
私は妙にほっとした。
父の代理で出席した私ではなく、その場で私が何を考え、何をしたのか。
そこを覚えているらしい。
*
アルヴァレス家に滞在して数日。
一つ困ったことがあった。
よく尋ねられるのだ。
朝食に何が食べたいか。
部屋は寒くないか。
外出するなら馬と馬車のどちらがいいか。
三日目。
屋敷の庭で剣を振るレオン様を見つけ、疑問をぶつけた。
「こちらの方は、何でも聞くのですね」
「皆、あなたのことを知りたいのでしょう。できれば気分よく過ごしてほしいので」
「私に?」
「ええ」
その言葉に、時間が止まったような気分になる。
私はこれまで、用意されたものの中から選んでいるつもりだった。
けれど思い返せば、聞かれるときには相手が望む答えが最初から決まっていた。
今は違う。
私がどうしたいかを聞かれている。
誰かが望む「正解」がない。
どう答えればいいのか、分からなかった。
「あの、アルヴァレス様」
「レオン」
剣を振る手を止めて、彼が振り向く。
「え?」
「アルヴァレスは姓です。名はレオンです。レオンと呼んでください」
「で、では私もセレナ、とお呼びください」
そう言うと、彼は小さく微笑んだ。
*
四日目の朝。
食事を終えかけたころ、侍女が小さな皿を持ってきた。
「今日は蜂蜜を使った焼き菓子もございます。いかがなさいますか?」
「私は――」
いつもなら、
皆さんと同じもので構いません。
そう答えていただろう。
けれど今日は、すぐに答えず焼き菓子を見る。
蜂蜜の甘い香りがした。
食べたい。
そう思った。
「……いただきたいです」
「かしこまりました」
侍女は何でもないことのように皿を置いた。
それだけだった。
誰も驚かない。
誰も困らない。
私は焼き菓子を一口食べた。
甘くて、おいしかった。
「気に入りましたか」
向かいに座るレオン様が尋ねる。
「はい」
それだけ答えて、もう一口食べる。
ただ自分が食べたいものを選んだだけなのに、妙に落ち着かなかった。
けれど悪い気分ではなかった。
*
昼前。
レオン様が外出の準備をしていた。
「どちらへ?」
「谷の橋です。工事の進み具合を確認します」
館の二階から何度か眺めた橋だった。
以前から気になっていた。
「私も、ご一緒していいですか?」
自分から尋ねたあとで、少し驚いた。
誰かから誘われたわけではない。
自分で行きたいと言った。
「もちろん」
レオン様はそれだけ答えた。
すぐに馬車の準備が始まる。
「変ですか?」
馬車の中で尋ねた。
「何がです?」
「橋を見たいなんて」
「私の領地で造っている橋なので、そう言ってもらえるのは嬉しいです」
「そ、そうだったんですね」
知らなかったことが少し恥ずかしかった。
けれど同時に思う。
私は今まで、自分から何かを知ろうとする必要すらない場所にいたのだ。
*
橋を見た帰り、領内の倉庫にも立ち寄った。
冬を越すための穀物、薬草、薪。
管理人が説明してくれる横で帳簿を眺めていると、一つ気になる数字があった。
「この村だけ、羊毛の買い取り価格が低いですね」
レオン様が帳簿を見る。
「運搬費です。山道を迂回するので」
「でも、あの橋が完成したら?」
「道程はかなり短くなります」
「なら次の契約では、運搬費も下がるのではありませんか?」
言ったあとで口を閉じた。
またやってしまった。
父の仕事に口を出したときは、よく「お前が考えることではない」と言われた。
「すみません。余計なことを」
「どこが?」
「領政のことです」
「数字がおかしいと思ったのでしょう」
「はい」
「では説明してください」
「私が?」
「あなたが気づいたので」
それだけだった。
私は帳簿を開いた。
橋が開通すれば、市場までの距離は大きく縮む。
以前と同じ運搬費を差し引けば、差額は商人の利益になる。
契約更新前に計算し直した方がいい。
レオン様は最後まで聞いた。
「明日、担当者を呼びます」
「私の意見だけで?」
「まず確認する価値があると思ったからです」
「震災のときのことがあるからですか?」
「それもあります」
レオン様は帳簿を見る。
「ですが、誰が言ったかより、数字が合っているかを確認します。合っていれば変える。間違っていれば変えません」
まっすぐな答えだった。
「良い意見なら使います」
それで話は終わった。
翌日、本当に商務官が呼ばれた。
私は同席するつもりなどなかったが、
「説明した人がいた方が早い」
と席を勧められた。
商務官と三人で計算すると、橋の完成後は運搬費を大幅に下げられることが分かった。
「ほかの村も確認した方がよさそうです」
私が言うと、商務官が地図を広げる。
「二村ほどありますね」
気づけば、三人で次の契約について話していた。
会議が終わったあと、私はレオン様に言った。
「役に立ててよかったです」
「とても助かりました」
嬉しかった。
けれど、ふと父なら何と言うだろうと思った。
「……レオン様は、口を出すなとか、自分を立てろとか言わないのですね」
彼は私を見たあと、少しだけ考えた。
「私は天才ではありませんから」
「え?」
「一人ですべて正しく決められるとは思っていません。助けてくれる人は多い方がいい」
そして私を見る。
「あなたも、その一人になってくれると嬉しい」
その言葉が嬉しかった。
ここに置いてもらうために役に立たなければならないのではない。
気づいたから言った。
それが彼を助けることになった。
ただ、それだけでいいらしい。
*
滞在して一週間が経ったころ、父から「一度帰ってこい」という連絡が届いた。
以前の私なら、理由も聞かずに帰っただろう。
今回も一瞬、従うべきなのだと思った。
私が逆らったことで、レオン様に迷惑をかけるのではないかとも考えた。
けれど私は、もう少しここにいたかった。
父がどう思うかではなく、自分がどうしたいのか。
初めて、その二つを分けて考えた。
七日目の夕食後、レオン様が言った。
「明後日が、最初の出発予定日ですね」
「はい」
「予定どおり帰りますか」
私はすぐには答えなかった。
もう少しここにいたい。
そう思っている。
けれど、その答えがレオン様を喜ばせるからなのか、自分がそうしたいのか、少しだけ考えた。
「三日、延ばしたいです」
「分かりました」
それだけ。
「理由を聞かないのですか?」
「必要ですか」
私は首を振った。
「いいえ」
その夜、父へ手紙を書いた。
『婚姻について前向きに考えています。私の意思で、今は帰りません』
最後の一文を何度か読み直した。
消さなかった。
*
父から返事は来なかった。
代わりに十一日目の午後、マーロウ家の馬車が館へ入ってきた。
降りてきたのは父とリリアだった。
「お父様?」
「話が変わった」
父は応接室へ入るなり言った。
「リリアも考え直した。やはり当初の予定どおり、この子をアルヴァレス辺境伯へ嫁がせる」
私は意味を飲み込むまで少し時間がかかった。
「……私は?」
「家へ戻れ」
「なぜです?」
父は咳払いをした。
「この領地について、こちらの認識に誤りがあった。北方交易も鉱山も安定しているそうだな。新しい橋も完成する」
それで分かった。
貧しい辺境だと思っていたから私。
豊かな領地だと分かったからリリア。
「リリアの方が若い。社交界での評判もいい。先方にも悪い話ではない」
「リリアは、それを望んでいるの?」
「家同士の婚姻だ。本人の気分だけで決めるものではない」
「私はリリアに聞いています」
「セレナ」
たしなめる声。
私はもう黙らなかった。
「リリア」
妹を見る。
「あなたが決めたの?」
リリアは目を伏せた。
「……私は」
「お父様に言われたから?」
「余計なことを聞くな」
父が遮った。
私は妹の顔を見る。
昔から、リリアが「嫌」と言えることを羨ましいと思っていた。
リリアは確かに、嫌なものを嫌だと言うことはできた。
けれど、そのあとどうしたいのかは、いつも誰かが決めていた。
北へ行きたくない。
だから姉が行く。
今度は豊かな土地だと分かった。
だから姉ではなくお前が嫁げと言われる。
拒むことはできても、その先にどこへ向かうかを自分で選んだ経験は、リリアにもほとんどなかったのかもしれない。
そしていつもなら私で済んだことがダメだったとなり、受け入れざるを得なくなったのだろう。
「私は、リリアに聞いています」
もう一度言った。
「……分からないの」
小さな声だった。
「何が?」
「私、本当は分からない」
リリアの目に涙が浮かぶ。
「北が怖いって言ったら、お姉様が行くことになったでしょう?」
「ええ」
「それで今度は、ここが豊かな土地だって聞いたら、お父様が『姉ではだめだ、やはりお前が行け』って」
「家のためだ、黙っていろ!」
父が声を荒らげ、リリアの肩が震え始めた。
ここまで激しく怒る父を見たら、リリアは何も言わないだろう。
そう思ったが、彼女は黙らなかった。
「そればっかり!」
父が目を見開く。
「お姉様には『姉なんだから』って言う。私には『妹なんだから守られていろ』って言う。でも結局、都合がいい方を使っているだけじゃない!」
「リリア!」
「私、辺境伯様のこと何も知らない! 結婚したいかなんて分からない!」
リリアは父を見てそう叫んだ。
私はずっと、嫌だと言えるリリアを羨ましいと思っていた。
けれど「嫌ではない方」を選ぶことと、「自分が本当に望むもの」を選ぶことは違う。
それは、私もここへ来て初めて知ったことだった。
「お話は終わりましたか」
低い声がした。
入口にレオン様が立っていた。
父はすぐに表情を整える。
「これはアルヴァレス卿。ちょうど婚姻について話していたところでして」
「聞こえていました」
「それなら話が早い。こちらが次女のリリアです。当初のお話どおり、この娘を――」
「リリア嬢」
レオン様が父の言葉を遮った。
妹が顔を上げる。
「あなたは私と結婚したいですか」
「え……」
「あなたの意思を聞いています」
父が口を挟む。
「もちろん本人も――」
「あなたには聞いていません」
短かった。
父が黙る。
レオン様はリリアを見る。
「どうですか」
リリアは唇を震わせた。
「……分かりません」
「分かりました」
それだけ言って、今度は父を見る。
「では、リリア嬢との婚姻はお断りします」
「待ってください。これは家同士の――」
「最初はそうでした」
「ならば――」
「今は違います」
レオン様が私を見る。
「私が望んでいるのはセレナです」
胸の奥が強く鳴った。
飾りのない言葉だった。
だからこそ、まっすぐ胸に届いた。
「私は長女だから彼女を選んだのではありません」
レオン様は続ける。
「彼女と話し、人となりを知った。そのうえで、これからも彼女と話していたいと思っています」
「そんなものは感情論だ!」
父が吐き捨てた。
「婚姻は家と家の――」
「だから断っています」
「何?」
「娘を都合によって入れ替えるという申し出を、私は受けません」
父の顔から血の気が引いた。
そのときレオン様が私を見る。
「セレナ」
「はい」
「あなたは別です」
「……別?」
「私が父上の提案を断ったことと、あなたがどうするかは別の話です」
彼らしい言い方だった。
「王都へ帰るなら、馬車を用意します」
「はい」
「ここに残りたいなら、それでもいい」
「はい」
「私との婚姻を断っても構いません」
「はい」
「結婚してもらえるなら、私は嬉しい」
私は思わず笑ってしまった。
レオン様が眉を上げる。
「何か?」
「いえ。相変わらず簡潔だと思って」
「長い方がいいですか」
「今のままで結構です」
私は父を見る。
怒っている。
昔なら、それだけで怖くなった。
いや、怖いというより、
また何を言っても無駄だ。
そう思って黙っただろう。
「セレナ」
父が低い声を出す。
「今ここで決めれば、後悔しても知らんぞ」
「分かっています」
「家へ戻れなくなってもだ」
「はい」
「本当にいいのか」
私は初めて、父の問いに答える前に自分へ問いかけた。
どうしたい?
答えは、もう分かっていた。
「私はここに残ります」
父の顔を見る。
「お父様が決めたからではありません」
次にレオン様を見る。
「辺境伯様が望んだからでもありません」
最後は自分に言うように続けた。
「私が、ここにいたいからです」
レオン様が静かにうなずく。
「分かりました」
「それから」
「はい」
「あなたとの結婚も、お受けします」
今度は、ほんの少しだけ彼の表情が崩れた。
「……そうですか」
「嬉しくないのですか?」
「嬉しいです」
「とても?」
「とても」
それで十分だった。
*
父はその日のうちに王都へ帰った。
リリアは帰る前、私の部屋へ来た。
「お姉様」
「何?」
「私も少し考えてみる」
「何を?」
「自分が何をしたいのか」
私はうなずいた。
「そうね」
少し迷ってから、言った。
「私ね、あなたが羨ましかったことがあるの」
「私を?」
「嫌なことを嫌だと言えるでしょう」
リリアは驚いた顔をした。
「私は、お姉様が羨ましかった」
「どうして?」
「何でもできたから。何を任されてもちゃんとしていたから」
二人で顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑った。
「変ね」
「ええ」
「お互いに全然違うところを羨ましがっていたのね」
「そうみたい」
リリアは少し考えた。
「今度会ったら、自分で決めたことを一つ教えるわ」
「楽しみにしている」
それで別れた。
*
翌春。
山間の村と市場を結ぶ橋が完成した。
羊毛の買い取り契約は見直され、村へ入る金額も増えた。
私は開通の日、レオン様と橋の中央まで歩いた。
「寒くありませんか」
「今日は平気です」
「そうですか」
欄干の向こうには、雪解け水の流れる川が見える。
「次はどこへ行きますか」
レオン様が尋ねた。
私は橋の向こうに続く道を見る。
その先には、羊毛の契約を見直した村がある。
朝食で焼き菓子を選ぶだけでも落ち着かなかった頃を、ふと思い出した。
「私が決めても?」
レオン様がこちらを見る。
「もちろん」
私は少し考え、橋の向こうを指した。
「では、あの村へ行ってみたいです」
「分かりました」
彼が歩き出す。
私はその隣へ並んだ。
二人で、私が選んだ道を歩いていった。




