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傷を引き受ける伯爵令嬢は、帝国皇太子の最愛になる

作者: 紫乃芽零
掲載日:2026/08/02

「今夜、レオンハルト皇太子殿下が毒矢を受ける。お前は、その傷を引き受けろ」


父であるガストン・フェルナー伯爵は、明日の予定を確認するような口調で、私にそう命じた。隣国グランツ帝国の皇太子レオンハルト殿下が、フェルナー伯爵領にある白百合聖堂を訪れたのは、私の異母妹ミレーヌとの婚約を正式に発表し、両国の医療同盟へ調印するためだった。


ミレーヌは、瀕死の病人さえ救う〈白百合の聖女〉として知られている。今夜の式典が終われば、彼女は未来の帝国皇后となる。その父であるガストン・フェルナー伯爵も、聖女を育てた功績によって侯爵へ昇る予定だった。その婚約披露の場でレオンハルト殿下が毒矢を受け、ミレーヌの奇跡によって生還する。父が考えた筋書きだった。


「矢は急所を外すよう命じてある。毒も、お前がすぐに引き取れば問題ない」


父は地下礼拝堂の壁につながれた私を見下ろし、鍵の束を指先でもてあそんでいた。私の名は、アリシア・フェルナー。フェルナー伯爵家の長女でありながら、八歳の頃から十二年間、この地下へ閉じ込められてきた女である。


私には、他人の傷や毒を自分の体へ移す〈身代わりの恩寵〉があった。切り傷を引き受ければ、相手の皮膚は閉じ、代わりに私の体が裂ける。毒を引き受ければ相手の血は浄化されるが、その毒は私の血管を巡る。傷や病が消えてなくなるわけではない。私が代わりに受け取るだけだった。


「北方蛇の毒は、以前に引き受けたものより強いと聞いております」


私は寝台代わりの板へ手をつき、ゆっくりと体を起こした。三日前に治療した騎士の矢傷が、まだ左脇で痛んでいる。


「もし、私の体が耐えられなければ……」


「そのときは、そのときだ」


父は少しも迷わなかった。


「殿下が助かり、ミレーヌが聖女として帝国へ嫁げば、フェルナー家の未来は安泰だ。お前一人の命と比べるまでもない」


分かっていた答えだった。それでも、胸の奥へ重い石を落とされたような痛みが残った。父にとって私は娘ではない。家族や貴族たちの傷を肩代わりし、金と名誉を生み出すための道具だった。


「聞き分けよくしてね、お姉様」


地下へ続く階段から、明るい声が降ってきた。白い聖女服をまとったミレーヌが、母の形見だった青い宝石を胸元に輝かせながら現れる。長い金髪には白百合の髪飾りが差され、傷一つない白い指先には、帝国から贈られた指輪が光っていた。


「今夜のわたくしは、帝国皇太子殿下の命を救った聖女になるの。お姉様には、とても大切な役目があるのよ」


「殿下が亡くなる可能性があります」


「それなら、お姉様が死ぬまで頑張ればよいでしょう?」


ミレーヌは白い靴の先で、私の足首につながれた鎖を軽く踏んだ。


「あなたが死んでも、誰も困らないわ。でも殿下が亡くなれば、わたくしの結婚がなくなってしまうもの」


「ミレーヌ」


父は妹をたしなめるどころか、面倒そうに名を呼んだだけだった。


「今は機嫌を損ねるな。アリシアが力を使わなければ、計画が崩れる」


「使うわよ」


ミレーヌは腰をかがめ、私の頬へ爪を立てた。


「だって、お姉様にはエマがいるもの」


老侍女エマは、私が地下へ閉じ込められてからも、父の目を盗んで食べ物や本を届けてくれた唯一の人だった。その名前を聞いた瞬間、体が強張った。


「失敗したら、エマを北の鉱山へ送るよう、お父様にお願いしてあるの。あそこは、冬を越せない人も多いそうね」


ミレーヌは私の反応を確かめると、満足そうに笑った。


「お姉様は優しいから、きっと頑張ってくださるでしょう?」


そのとおりだった。自分の命だけなら、いつか力を使うことを拒めたかもしれない。


けれど父とミレーヌは、私が他人の苦しみに耐えられないことを知っていた。私を従わせるために、自分たちの手を汚す必要さえなかった。


地上から音楽と歓声が聞こえてきた。白百合聖堂の大広間には国王夫妻をはじめ、国内の有力貴族と帝国の使節団が集まっている。祭壇にはミレーヌへ授けられる白百合の聖冠と、父を侯爵へ昇らせるための叙爵状が用意されていた。父とミレーヌは、最も高い場所へ上がる直前にいた。やがて楽団の演奏が不自然に途切れ、何かが倒れる音と、幾人もの悲鳴が響いた。


「来たぞ」


父が立ち上がった。祭壇の裏へ続く扉が開き、二人の王宮騎士が一人の男性を運び込んでくる。初めて目にしたレオンハルト殿下は、肖像画よりもずっと若く見えた。黒に近い銀髪が額へ張りつき、血の気を失った顔には苦痛が浮かんでいる。右胸へ突き刺さった黒い矢の周囲から、不自然な色をした血が流れ、濃紺の礼装を濡らしていた。


「帝国の侍医を入れてください!」


扉の向こうで、近衛隊長らしき男が怒鳴っている。


「聖女の治療は、神聖な秘儀でございます」


父は扉を閉めながら、落ち着き払った声で答えた。


「儀式が終わるまで、何人たりとも立ち入ることはできません。殿下のお命を救いたいのであれば、我々を信じてお待ちください」


閂が下ろされた。礼拝堂へ残された王宮医師が矢を引き抜くと、黒い血があふれ出した。レオンハルト殿下は祭壇の前へ横たえられ、父は彼を運んできた騎士たちまで外へ追い出した。中にいるのは父と継母クラリッサ、ミレーヌ、王宮医師、そして私だけだった。


「早くしろ」


父が私の足首の鎖を外した。自由にするためではない。地下室から祭壇まで歩かせるためだった。数歩進むだけで、古い傷の残る右足へ痛みが走る。私がよろめくと、ミレーヌは支えるどころか、白い衣装へ触れられないよう身を引いた。


「血を飛ばさないでね。殿下がお目覚めになったとき、わたくしまで汚れていたら困るもの」


継母も、床へ落ちた血を見て顔をしかめた。


「顔に毒の痕を残さないようにしなさい。聖女の儀式で、見苦しいものを殿下へお見せするわけにはいかないわ」


私は祭壇の前へ膝をつき、レオンハルト殿下の胸へ両手を置いた。冷たいものが、皮膚の下から入り込んでくる。北方蛇の毒は、これまでに引き受けたどの毒とも違っていた。無数の細い刃が血管の内側を切り裂き、その傷へ氷を押し込まれているような痛みだった。


殿下の胸に開いていた傷が、ゆっくりと閉じていく。それと入れ替わるように、私の右胸が裂けた。寝間着が赤く染まり、喉の奥から血がせり上がってくる。視界が揺れ、祭壇の輪郭がぼやけ始めた。それでもレオンハルト殿下の呼吸は浅く、速いままだった。


「息をしてください」


私は震える声で呼びかけた。


「七つ数えて、ゆっくり吸ってください。そのあと、七つ数えながら吐くのです。眠れない夜には、何度か繰り返してください」


それは、私がレオンハルト殿下へ送った十一通目の手紙に書いた言葉だった。国境戦争から戻って以来、悪夢に苦しみ、夜中に息ができなくなることがある。殿下がそう打ち明けてくれたため、地下で呼吸を整える際に、自分が使っていた方法を伝えたのだ。


もちろん、手紙の末尾に記されていたのは私の名前ではない。ミレーヌ・フェルナー。私の言葉はすべて、妹の言葉として帝国へ送られていた。意識を失っていたはずのレオンハルト殿下の指が、私の手首をつかんだ。


「その言葉を、なぜお前が知っている」


かすれた声だった。私は息をのんだ。答えを求める殿下ではなく、反射的に父の顔を見てしまう。


父は少しも慌てていなかった。ただ、私にしか分からない冷たい目で、いつもの命令を伝えていた。余計なことを言うな。従わなければ、エマを罰する。


「その娘は、ミレーヌが慈悲から世話をしている使用人でございます」


父は私が答えるより先に、滑らかな声で口を挟んだ。


「聖女様から、いくつかのお言葉を聞いていたのでしょう。毒を引き受けた影響で、自分の考えであるかのように錯覚しているのです」


「そうなのか」


レオンハルト殿下は父ではなく、私を見ていた。私は、うなずかなければならなかった。ミレーヌ様から教わりました。そう答えれば、今までどおりに戻れる。地下へつながれ、次の患者を待つだけの日々へ戻ることを、安心と呼べるのかは分からなかったが、少なくともエマは助かる。


「ミ、ミレーヌ様から……」


けれど声が震え、最後まで言葉にならなかった。レオンハルト殿下は、私が父を見るたびに肩をこわばらせていることに気づいたのだろう。私へ同じ問いを重ねる代わりに、白い聖女服をまとったミレーヌへ視線を向けた。


「ミレーヌ嬢。十一通目の返事で、俺は七つでは長すぎて数えられない夜もあると書いた。お前は、その次の手紙で何と答えた」


ミレーヌの青い瞳が揺れた。


「それは……眠れるまで、同じことを繰り返していただくように、と」


「違う」


殿下の声が低くなった。


「手紙の書き手は、七つという数に意味はないと答えた。呼吸を正しく行うことよりも――」


「自分の呼吸を、もう一度自分のものにすることが大切だから、と……」


気づいたときには、私が続きを口にしていた。殿下の呼吸が苦しいのなら、正しい言葉を伝えなければならない。その思いが、十二年間染みついた恐怖を、ほんの一瞬だけ上回ったのだ。言ってしまった。そう理解した途端、体中から血の気が引いた。私は口元を押さえ、父の顔を見た。


「アリシア!」


父の表情には、隠しようのない怒りが浮かんでいた。


「何を勝手なことを言っている!」


父は大股で近づき、私の腕を乱暴につかんだ。


「その手を離せ」


レオンハルト殿下の声は、毒を受けた直後とは思えないほど冷たかった。


「殿下、この娘は混乱しております。地下で手紙を清書させていたため、内容を覚えているだけで――」


「清書させていた?」


殿下は、父の失言を聞き逃さなかった。父が口を閉ざす。レオンハルト殿下は、私の手首をつかんだまま上体を起こした。胸の傷は消えていたが、顔にはまだ毒と血を失った影響が残っている。


「アリシア」


今しがた父が叫んだ名を、殿下は確かめるように口にした。


「外交資料には、フェルナー伯爵家に病弱な長女がいると記されていた。十二年前から療養中で、人前へ出られないと」


レオンハルト殿下の視線が、私の足首へ落ちた。祭壇の脚には、地下室から引きずってきた鎖が巻きついている。鉄輪の周囲には新しい傷と古い傷が重なり、血がにじんでいた。


「ずいぶん変わった療養だな、伯爵」


「危険な力を持つ娘なのです。本人と周囲の安全のために――」


「俺を見ろ、アリシア」


レオンハルト殿下は、父の言葉を途中で切った。


「伯爵の顔を見る必要はない。妹も見るな。今は俺だけを見ろ」


そんなことをしてよいのか分からなかった。それでも殿下は、私が顔を上げるまで待っていた。


「声に出せないなら、うなずくだけでいい。四十七通の手紙を書いたのは、お前か?」


父の怒りが、離れた場所からでも伝わってくる。ここで認めれば、エマが何をされるか分からない。地下へ戻されたあと、今度こそ食事を断たれるかもしれない。恐怖で、首を動かすことさえできなかった。レオンハルト殿下は、そんな私の沈黙を否定とは受け取らなかった。


「お前が答えることで、誰かが傷つけられるのか?」


私は父を見そうになり、寸前でこらえた。代わりに、ほんのわずかだけうなずく。


「誰だ」


「エマという……侍女です」


声は、自分にしか聞こえないほど小さかった。それでも殿下には届いた。


「分かった。エマも守る」


迷いのない返事だった。レオンハルト殿下は礼拝堂の扉へ顔を向け、毒にかすれた声を張り上げた。


「近衛隊長、扉を破れ! エマという侍女を最優先で確保しろ。フェルナー家の者には触れさせるな!」


父が慌てて扉へ向かったが、その前に外から激しい衝撃が加わった。一度、二度と閂が軋み、三度目で扉が内側へ弾け飛んだ。帝国の近衛兵たちが礼拝堂へなだれ込む。


「伯爵夫妻とミレーヌ嬢を引き離せ。地下室を調べろ。書類も人間も、一つ残らず保護しろ」


「殿下、他国の伯爵家へ、そのような――」


「俺を毒矢で射た人間が、今もこの建物の中にいる」


レオンハルト殿下は父を見据えた。


「そのうえ、俺を救った女が鎖につながれている。これ以上の理由が必要か?」


父が兵士に腕を取られた。継母クラリッサは悲鳴を上げ、ミレーヌは自分の白い衣装が乱れることばかりを気にしている。レオンハルト殿下は、もう一度私へ向き直った。


「エマは俺の兵が守る。伯爵にも、そこの妹にも近づけさせない。だから今度は、自分のために答えろ」


自分のため。その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。これまで何かを選ぶとき、基準になるのは家族の利益か、誰かを傷つけずに済むかどうかだった。自分がどうしたいかなど、考えたことがなかった。私は、生まれて初めて自分の意思で首を縦に動かした。


「はい」


涙とともに、声がこぼれた。


「お手紙を書いたのは、わたくしです。四十七通、すべて……わたくしが書きました」


レオンハルト殿下は、それ以上何も尋ねなかった。自らの上着を脱ぎ、私の胸の傷口へ押し当てる。


「それで十分だ。残りは、お前が生き延びてから聞く」


「ですが、殿下はまだ――」


「俺はもう助かった」


殿下は私の体を抱き上げた。


「次はお前の番だ」


白百合聖堂の大広間では、婚約披露の宴が中断されたまま、国王夫妻と貴族たちが待っていた。祭壇には、ミレーヌの頭へ載せられる予定だった白百合の聖冠と、父へ授けられるはずだった侯爵位の叙爵状が飾られている。レオンハルト殿下が私を抱いたまま現れると、大広間にどよめきが広がった。私がまとっているのは、血に濡れた薄い寝間着だけだった。足首には鉄輪が残り、鎖の先には、地下礼拝堂の壁から引き抜かれた金具がついている。


「レオンハルト殿下、ご無事であったか」


レーヴェル国王が玉座から立ち上がった。


「命は助かりました」


殿下は短く答え、私を抱く腕へ力を込めた。


「この女性のおかげで」


兵士に囲まれた父たちも、大広間へ連れてこられた。


「陛下、これは誤解にございます」


父は拘束されているとは思えないほど、落ち着いた声を作っていた。


「長女アリシアには、幼い頃から精神の病がありました。傷や病を自分へ引き寄せる危険な性質もございます。家族は皆、あの娘を守るために――」


「床へ鎖でつないだのか?」


レオンハルト殿下が問い返した。


「聖女の力は、フェルナー家に与えられた恩寵です。誰が行使したとしても、家の功績であることに変わりはございません」


父は、ついに本音を隠さなかった。


「アリシアは家の庇護を受ける娘であり、その力も労働も、フェルナー家へ奉仕するためにございます」


大広間が静まり返った。レオンハルト殿下は私を帝国の侍医へ預けると、ゆっくり父へ歩み寄った。


「娘の体を切り刻み、その傷で金を稼いでおきながら、庇護と呼ぶのか」


「伯爵家の者には、家のために尽くす義務があります」


「ならば次に誰かが傷ついたときは、貴様が代わりに切られてみろ。家のためなのだろう?」


父は答えられなかった。そこへ、地下室の調査を終えた近衛隊長が戻ってきた。彼の後ろには老侍女エマが付き添われ、大きな帳簿と、何束もの紙が運ばれている。


「地下室から、治療の記録が見つかりました」


帳簿には、十二年間に私が傷を引き受けた八十八人の名前と、治療後に父が受け取った金額が記されていた。さらに、レオンハルト殿下へ送られた手紙の下書きも見つかった。書き損じた箇所を直すため、私が地下へ残していたものだった。帝国に保存されている原本と同じ筆跡。


同じ表現。同じ修正の跡。父は、それでも偽造だと叫んだ。


「では、ミレーヌ嬢へ確認しよう」


レオンハルト殿下は妹を見た。


「俺は三十二通目の手紙で、野戦病院へ不足しているものを尋ねた。お前は何と答えた」


「薬と、清潔な包帯でございます」


「それだけではない」


殿下は私へ答えを求めなかった。ミレーヌ自身が何も知らないことを、大広間にいる全員へ見せるための問いだった。


「手紙には、負傷兵が家族へ送る便りを代筆する者と、帰る家を失った兵士を受け入れる場所が必要だと書かれていた。俺は、その考えを持つ女を妻に迎えたいと思った」


殿下の声が、大広間へ響く。


「俺が求めてこの国まで来たのは、四十七通の手紙を書いた女性だ。名前がミレーヌではなかったと分かっただけで、相手まで変わったつもりはない」


「殿下!」


ミレーヌは兵士の腕を振りほどこうともがいた。


「わたくしが白百合の聖女です! お姉様は傷を引き受けることしかできません。考えた言葉を紙に書く程度、誰にでも――」


「では、お前にはなぜ書けなかった?」


ミレーヌの口が閉じた。


「治療ができず、手紙も書けず、それでも聖女を名乗るというのなら、お前は何をした」


レオンハルト殿下は、妹の白い衣装へ視線を落とした。


「俺を救った女は血を流し、立つことさえできない。お前の衣装には、血の一滴もついていないな」


ミレーヌは、自分の綺麗な両手を見た。その指には傷一つなく、白い手袋にも汚れはなかった。


「わたくしは……皆様へ希望を与えてきました」


「姉を地下へ閉じ込め、痛みと功績を奪いながらか」


「お姉様が、自分からわたくしを支えたいと言ったのです!」


その瞬間、エマが一歩前へ出た。


「アリシア様は、一度もそのようなことをおっしゃっていません」


老いた声は震えていたが、言葉ははっきりしていた。


「力を使えないほど傷が重なった日にも、旦那様は食事を与えませんでした。ミレーヌ様はアリシア様の傷へ塩を塗り、叫び声が儀式の邪魔になるから、声を出さないよう覚えさせるのだと……」


参列者の間から、低いざわめきが広がった。


「嘘よ!」


ミレーヌの顔から、聖女らしい微笑みが消えた。


「わたくしは皇太子妃になるのよ! お父様は侯爵になって、わたくしはいずれ帝国の皇后になるの! 地下にいるだけの女が、今さら何を――」


「俺の妃を、なぜお前が決める」


レオンハルト殿下の声音には、怒りさえ含まれていなかった。価値のない話を打ち切るような、冷え切った声だった。


「俺が選ぶ女は俺が決める。少なくとも、自分の言葉を一つも持たない女を選ぶほど、俺は物好きではない」


ミレーヌの頭へ載せられるはずだった白百合の聖冠を、王国の神官が銀盆から取り下げた。レオンハルト殿下は婚約証書を手に取り、妹の目の前で二つに裂いた。


「ミレーヌ・フェルナー嬢との婚約は成立しない。白百合の聖女を前提とした医療同盟も、すべて白紙へ戻す」


「お待ちください!」


父が初めて、取り乱した声を上げた。


「侯爵への昇爵は、すでに陛下がお認めになったはずです!」


レーヴェル国王は、父のために用意されていた叙爵状を手に取った。


「聖女の父としての功績に対する昇爵だった」


国王は書面へ目を落とし、ゆっくりと破いた。


「娘を監禁し、奇跡を奪った者に与える爵位はない」


紙の裂ける音が、静まり返った大広間に響いた。わずか半刻前まで、父は侯爵となり、ミレーヌは未来の帝国皇后となるはずだった。二人に残ったのは、破られた叙爵状と、外された聖冠だけだった。


「フェルナー伯爵夫妻とミレーヌ嬢を拘束せよ」


国王が命じた。


「長女の不法監禁、恩寵の強制行使、治療費の横領、帝国に対する詐欺、そしてレオンハルト殿下襲撃への関与を調査する。判決が出るまで、領地と財産の管理権を凍結する」


「アリシア!」


兵士に連れていかれながら、父が私をにらんだ。


「すぐに誤解だと説明しろ! お前はフェルナー家の娘だ。お前の体も、力も、書いた言葉も、すべて家のものだ!」


私は侍医に支えられながら、父の顔を見た。幼い頃から、その声を聞くたびに体が動かなくなった。けれど今は、私と父の間に帝国の兵士が立っている。エマは保護され、父の命令が届く場所にはいない。


「いいえ」


声は小さかった。それでも、大広間の全員に届いた。


「わたくしの体も、力も、言葉も、わたくしのものです」


父の顔が歪んだ。


「誰が育ててやったと思っている!」


「地下へ閉じ込め、死なない程度の食事を与えることを、育てるとは申しません」


「家を捨てるつもりか!」


私は、もう視線をそらさなかった。


「捨てる家など、最初からありませんでした」


意識を失う直前、レオンハルト殿下が私を抱き上げたことだけは覚えている。次に目を覚ましたとき、私は白百合聖堂ではなく、王城の客室にいた。窓から明るい光が差し込み、厚い布団が体を包んでいる。地下礼拝堂では朝も夜も分からなかったため、空が青いという当たり前のことにさえ、目が慣れるまで時間がかかった。


寝台の横には、レオンハルト殿下が座っていた。皇太子が使うには簡素すぎる椅子に長い脚を組み、帝国から届いた書類を読んでいる。私が身じろぎすると、すぐに顔を上げた。


「動くな」


命令口調だった。


「帝国の侍医から、十日は寝台から下ろすなと言われている」


「殿下は、ご無事なのですか」


「お前が全部引き取ったからな」


殿下は書類を脇へ置き、寝台のそばへ来た。


「だから命じる。三か月、誰の傷も引き受けるな」


私は、役に立てなければここへ置いてもらえないと思った。


「ですが、力を使わなければ、わたくしには何も――」


「今すぐ、その考えを捨てろ」


強い声に、体が反射的に震えた。レオンハルト殿下は一度目を閉じ、怒りを押し戻すように息を吐いた。


「悪い。怒っているのは、お前にではない」


「では、誰に」


「お前へ、役に立たなければ生きる価値がないと思わせた連中すべてにだ」


殿下は私の包帯へ触れないよう注意しながら、寝台の端へ腰を下ろした。


「四十七通の手紙を書いた頭がある。自分が死にかけていても、俺の呼吸を気遣う心もある。それ以前に、何もできなくても、人間は道具ではない」


「わたくしを、帝国へ連れていくために助けたのではないのですか」


「帝国が、お前の力を必要とする可能性はある」


殿下は、国益を考えないふりをしなかった。


「だが帝国が必要だと言えば、お前はまた命令されるまま傷を引き受けるのか?」


私は答えられなかった。


「力を使うかどうかを決めるのは、お前だ。帝国にも、俺にも、お前へ命令する権利はない」


「先ほど、三か月使うなと命じられました」


「あれは取り消さない」


レオンハルト殿下は当然のように言い切った。


「お前が自分を大切にする方法を覚えるまで、自分を捨てる判断だけは俺が邪魔する」


「勝手ではございませんか」


「俺は勝手な男だ。今さら気づいたのか?」


口元だけで笑った殿下を見て、私は初めて、ほんの少しだけ緊張を解いた。三日後、レオンハルト殿下は私へ今後の居場所を尋ねた。伯爵家へ戻る必要はない。王都の修道院、王家が用意する別邸、帝国皇宮のどれを選んでもよい。エマについても、私が望む場所で安全に暮らせるよう手配すると約束してくれた。私がすぐ答えられずにいると、殿下は苛立つこともなく待った。


「帝国へ行けば、力を使うよう求められませんか」


「求める者はいるだろう」


「殿下は、その方々を止めてくださるのですか」


「止める」


「皇帝陛下でも?」


「父上が相手なら、俺が勝つまで話し合う」


そこまで言い切られ、私は思わず殿下の顔を見た。


「俺と来い、アリシア」


レオンハルト殿下は、私へ手を差し出した。


「皇太子妃にすると約束して連れ出すつもりはない。恩を理由に、俺を選べとも言わない。まずは、誰にも命令されずに生きろ」


「その後は?」


「俺がお前を口説く」


殿下は自信に満ちた顔で答えた。


「顔を見る前から惚れていた女だ。簡単に諦める気はない」


私はしばらく迷ったあと、その手へ自分の指を重ねた。


「帝国へ、連れていってください」


「よし」


殿下の手が、私の指を包んだ。


「これからは、お前が選んだ場所を帰る場所にしろ」


私が〈身代わりの恩寵〉を受け継いでいると分かったのは、八歳のときだった。母にも、同じ力があった。戦地から戻った父が毒に倒れたとき、母は夫を救うために毒を引き受けた。父は助かったが、母は三日後に亡くなった。


葬儀から半年もたたないうちに、父は以前から関係を持っていたクラリッサと再婚し、その娘ミレーヌを正式に伯爵令嬢とした。母の部屋も、衣装も、宝飾品も、すべて二人のものになった。そして私が、熱湯で火傷を負ったミレーヌの手を治した日、父は私を地下礼拝堂へ移した。


最初は家族の怪我だけだった。やがて父は、治療の難しい貴族たちを白百合聖堂へ招くようになった。患者は目隠しをされ、私の前へ運ばれる。私が傷や病を引き受けて倒れると、治療を終えたミレーヌが白い衣装をまとって現れた。


感謝も、治療費も、名誉も、すべて妹が受け取った。私には次の治療まで生き延びられる程度の食事と、逃亡を防ぐ鎖が与えられた。重い傷を引き受けた直後に次の患者が運ばれてきたこともある。力を使えないと訴えると、父は食事と水を止め、ミレーヌは傷口へ塩を塗った。


『痛みで眠れないなら、次の患者が来ても起きていられるでしょう?』


妹は笑いながら、そう言った。父は私が拒めない方法も知っていた。力を使わなければ、エマを罰する。


患者を見殺しにしたのは私だと、目の前で泣き叫ぶ。私が優しさを捨てられない限り、父は何度でも私を利用できた。レオンハルト殿下から手紙が届くようになったのは、私が十九歳の頃だった。


殿下は白百合の聖女へ、帝国の医療や救貧政策について意見を求めていた。ミレーヌは一通目を読んだだけで、難しい言葉ばかりで退屈だと私へ投げ渡した。私は地下で読んだ本と、治療した人々から聞いた話をもとに返事を書いた。野戦病院では、傷だけでなく、家族へ便りを送れない苦しみを抱える兵士がいること。


孤児院へ食料を贈るなら、冬の燃料と衣服まで考える必要があること。癒やす者にも、休む権利と治療を拒む権利が必要であること。殿下は、毎回丁寧に返事をくれた。


私の考えを笑わなかった。女が政治へ口を出すなとも、地下にいる人間が理想を語るなとも言わなかった。けれど手紙の最後に書かれた名前は、いつもミレーヌだった。


私の傷だけでなく、言葉まで家族のものにされていた。


グランツ帝国へ向かう旅の途中、私は何度も、地下礼拝堂へ連れ戻される夢を見た。夜中に飛び起き、誰かが罰を与えに来たのではないかと周囲を見回す。レオンハルト殿下は無理に理由を尋ねず、私が眠り直すまで隣の馬車で仕事をしていた。帝都へ着いて間もない頃、侍女が果物を切る際、指先へ小さな傷を作った。


血を見た瞬間、私は考えるより早く手を伸ばした。途中で、レオンハルト殿下が私の手首をつかんだ。


「何をしている」


「傷を引き受ければ、すぐに治ります」


「紙で切った程度の傷のために、お前が血を流す必要はない」


「これくらいなら、痛くありません」


「痛くないなら、侍女も自分で耐えられる」


殿下に止められ、侍女は自分で傷を洗い、薬を塗った。翌日には、ほとんど痕も残らず治っていた。誰かが傷ついても、私が代わりに痛む必要はない。


医師が治療し、薬が効き、時間が傷を閉じることもある。そんな当たり前のことさえ、私は知らなかった。レオンハルト殿下は、皇宮へ持ち帰った四十七通の手紙を、私の部屋へ運んできた。上等な箱の中へ一通ずつ収められ、長い旅をしてきたとは思えないほど大切に保存されている。


「返す」


「殿下へお送りしたものです」


「俺が受け取ったのは、ミレーヌという名前のついた手紙だ。言葉を書いた本人へ返す」


殿下は一通目を手に取り、妹の名前が記されていた場所へ視線を落とした。


「俺が会いたいと思ったのは、この言葉を書いた女だった。聖女という肩書が欲しかったなら、医療同盟だけ結べばよい。婚約まで決めたのは、手紙の相手を妻にしたいと思ったからだ」


「ですが、わたくしは殿下が想像なさったような女性ではありません」


「どこが違う」


「傷もございます。社交界へ出たこともなく、皇太子妃としての教育も受けておりません」


「俺は妻を選ぶために、傷の数を数えたことはない」


殿下は私の包帯が外れた手へ視線を落とした。右手にはミレーヌの火傷を引き受けた跡があり、手首から腕にかけて、これまでの治療で残った細かな傷が重なっている。


「顔を見る前から、お前の考え方に惚れていた。顔を見た今は、以前より欲しくなった」


「欲しいとおっしゃるのですか」


「遠慮のある言葉が好みなら、愛していると言い換えてもいい」


顔が熱くなり、私は手紙へ目を落とした。レオンハルト殿下は楽しそうに私を見ていたが、それ以上答えを迫らなかった。


「今すぐ俺を選べとは言わない。お前はこれまで、自分で何も決めさせてもらえなかった。俺まで同じことをすれば、あの伯爵と変わらん」


「では、どうすればよろしいのでしょう」


「俺を見ていろ」


殿下は余裕のある笑みを浮かべた。


「お前が断る理由を、一つずつ潰してやる」


宣言どおり、レオンハルト殿下は毎日のように私のもとを訪れた。ただし、必ず扉をたたき、私が許可するまで入ってこなかった。仕事が忙しい日にも、書類を持って部屋へ来て、私が本を読む横で政務を続けた。眠れない夜には、理由を無理に聞こうとせず、隣室で朝まで仕事をしてくれた。歩けるようになってからも、侍医に止められた距離を越えようとすると、問答無用で抱き上げられた。


「歩けます」


「知っている」


「では、下ろしてください」


「嫌だ。俺が運びたい」


「皆様が見ております」


「帝国皇太子に抱かれているんだ。もっと誇らしそうな顔をしろ」


「そのような顔は、まだ分かりません」


「なら、俺の腕の中で覚えろ」


尊大で、自信に満ち、私の意見を聞く前から物事を決めてしまうこともある。けれど私が本当に嫌だと言ったことだけは、決して強要しなかった。


ある雨の日、レオンハルト殿下の肩に古い傷があることを知った。国境戦争で受けたもので、天候が悪くなると今も痛むという。


「わたくしが引き受ければ、消せるかもしれません」


手を伸ばすと、殿下は私の指をつかんだ。


「これは俺の傷だ」


「痛むのでしょう?」


「痛む。だが、自分が受けた傷をお前へ渡して、俺だけが楽になる気はない」


「殿下のためでしたら――」


「その言葉を、簡単に使うな」


強い口調だったが、手を握る力は穏やかだった。


「お前は、誰かのためなら自分が壊れても構わないと教え込まれている。俺はそれが気に入らない」


「では、目の前で誰かが死にそうでも、力を使ってはいけないのですか」


「違う。助けるかどうかを、お前が選べと言っている」


殿下は私の手の甲へ口づけた。


「少なくとも、俺の痛みは俺が持つ。愛している女へ押しつけて、平然としていられるほど落ちぶれてはいない」


そのとき私は、自分がこの人を愛しているのだと気づいた。助け出してくれたからではない。皇太子でありながら、私の力を欲しがらなかったからでもない。


彼が、自分の痛みを自分で背負う人だったからだ。


体が回復すると、私は帝国の医療評議会へ招かれた。四十七通の手紙の中で、私は恩寵を持つ者へ休息と報酬、治療を拒否する権利を認めるべきだと書いていた。帝国にも、傷や病を癒やす力を持つ者はいる。その多くが幼い頃から神殿や貴族に囲われ、本人の意思に関係なく力を使わされていた。評議会の席で、一人の老貴族が、恩寵は国から与えられたものなのだから、持つ者は国家のために行使する義務があると主張した。


「では、アリシア嬢の力が本物であることを、この場で示していただくのがよいでしょう」


老貴族は、控えていた従者へ小刀を持たせようとした。


「必要ない」


レオンハルト殿下が、低い声で止めた。


「アリシアは見世物ではない。証明のために傷を作ろうとした者は、俺が同じ場所を切ってやる」


会議室が静まり返った。以前の私ならば、殿下の後ろへ隠れていただろう。けれど私は、自分から立ち上がった。


「力をお見せする必要はありません」


声は震えていたが、言葉を止めなかった。


「この腕に残っている傷だけで、十分でございます」


袖を少し上げると、火傷や骨折、刃物の傷が重なった皮膚が現れた。


「恩寵を持つ者へ拒否する権利を与えなければ、最も心の優しい方から壊れていきます。苦しんでいる人を見捨てられないと知っているからこそ、家族や神殿は善意を鎖として使えるのです」


老貴族が不快そうに眉をひそめた。


「では、治せる者がいるのに、国民を死なせてもよいと?」


「救うことと、一人を使い潰すことは同じではありません。治療する者を守らなければ、その後に救える命まで失われます」


私はレオンハルト殿下を見た。助けを求めたわけではない。彼は私の代わりに答えず、ただ、続きを話す時間を守ってくれた。


私の提案をもとに、帝国では〈恩寵保護法〉が制定された。未成年者へ力の行使を強制すること。治療後の休息を与えないこと。


本人の報酬を家族や後見人が取り上げること。それらは、明確な犯罪となった。


私は皇太子に救われた哀れな令嬢ではなく、自分の名前で法律の制定に関わった人間として、帝国の人々に知られるようになった。


レーヴェル王国で行われた裁判の結果が届いたのは、法の成立からひと月後だった。父がレオンハルト殿下を襲わせた証拠は、捕らえられた弓兵の証言と、報酬の支払命令書によって確認された。死なない程度の毒矢を撃ち、聖女の奇跡を見せるよう命じられたと、男は自白した。


父は伯爵位を剥奪された。帝国皇太子に対する計画的な傷害、十二年間にわたる監禁、恩寵の強制行使、治療費の横領によって、終身禁錮となった。判決の日、父は自分が家族と王国のためにしたことだと叫び続けたらしい。


けれど、もう誰もその言葉を聞かなかった。継母クラリッサも共犯として有罪となり、母から奪った宝飾品と衣装をすべて没収された。財産を失った彼女は、王立施療院の付属施設で働くことになった。ミレーヌは、聖女詐称、治療記録と手紙の盗用、監禁への加担によって貴族籍を失った。


未来の帝国皇后となるはずだった妹は、王立施療院で、治療に使われた血まみれの布を洗って暮らしているという。患者へ触れることも、聖女を名乗ることも許されない。白百合の衣装をまとって感謝だけを受け取っていた彼女は、今になって初めて、一人の傷を治療するために、どれほど多くの血と汗が流れるのかを見ている。ミレーヌから、私へ一通の手紙が届いた。


『お姉様が許してくだされば、わたくしはもう一度やり直せます。レオンハルト殿下にも、わたくしが本当は悪い人間ではないと伝えてください』


私は最後まで読まず、封筒へ戻した。


「返事はしないのか」


レオンハルト殿下が尋ねた。


「はい」


「俺なら、二度と近づくなと百枚ほど書くが」


「それでは、ミレーヌと長く関わることになります」


「なるほど。お前のほうが容赦がないな」


殿下は満足そうに笑った。フェルナー家の領地と財産は没収され、その一部は私が治療させられた人々と、父から脅迫されていた使用人たちへの補償に使われた。地下礼拝堂は取り壊され、同じ場所へ、恩寵を持つ子供たちを保護する施設が建てられることになった。私は、父たちの判決を見届けるために帰国しなかった。


彼らがどこまで落ちたのかを自分の目で確かめなくても、私は前へ進めるようになっていた。


恩寵保護法の公布式が終わった夜、レオンハルト殿下は私を皇宮の庭へ連れ出した。春の花が咲き始め、石畳には月の光が落ちている。噴水の前まで来ると、殿下は珍しく何も言わず、しばらく私を見つめていた。


「アリシア」


「はい」


「俺の妃になれ」


予想していたはずなのに、胸が大きく鳴った。レオンハルト殿下は、私の前へ片膝をついた。尊大で、臣下にも他国の王にもほとんど頭を下げない人が、私を見上げている。


「以前のお前は、助けられた恩があるからという理由で、俺へうなずいたかもしれない。だから待った」


殿下は私の手を取った。


「今のお前には、自分の仕事がある。自分の収入も、帝国での居場所もある。俺を選ばなくても、安全に生きていける」


指先へ、静かな口づけが落ちる。


「そのうえで頼んでいる。俺を選べ」


命令ではなく、願いだった。いつも自信に満ち、望むものは自らの手でつかみ取るレオンハルト様が、私の返事だけは奪わず、こうして膝をついて待ってくださっている。


「お願い、ですか……」


「ああ」


レオンハルト様は私の手を取ったまま、まっすぐに見上げていた。


「お前を助けた恩で縛るつもりはない。皇太子の地位で断れなくさせる気もない。俺と生きたいと、お前自身が望むなら選べ」


胸の奥へ、温かなものが広がっていった。以前の私なら、相手が求める答えを探していただろう。怒らせない言葉や、家の利益になる選択を考え、自分の心を後回しにしていた。けれど今は、誰かに命じられたからではなく、自分が何を望んでいるのかを知っている。


「では、わたくしからも一つ、お願いがございます」


「言ってみろ」


「どうか、わたくしをあなたの妃にしてください」


レオンハルト様の目が、わずかに見開かれた。いつも余裕を失わない方が、ほんの一瞬だけ言葉を忘れている。その姿が嬉しくて、私は彼の手を握り返した。


「救っていただいた恩を返すためではございません。皇太子妃という地位が欲しいからでもありません。わたくしが、あなたの隣で生きていきたいのです」


「……それは、今しがた俺が頼んだことだ」


「はい。ですが、選んだのはわたくしです」


そう告げると、レオンハルト様はしばらく私を見つめたあと、堪えきれないように笑った。


「まったく、お前という女は。俺が一世一代の求婚をしたというのに、最後には自分から申し込んだことにするのか」


「お気に召しませんでしたか?」


「まさか」


レオンハルト様は立ち上がると、私の腰へ腕を回した。けれどすぐには抱き寄せず、私が身を引かないことを確かめるように、その場で待っている。


「気に入った。俺が欲しいと言ったから差し出される妃ではなく、自分の意思で俺を選ぶ女が欲しかった」


「では、お願いを聞いてくださいますか」


「ああ。お前を俺の妃にする。誰にも譲らないし、今さら逃がすつもりもない」


尊大な言葉に、以前のような恐ろしさは感じなかった。私の選択を受け取ったうえで、大切にすると宣言してくださっているのだと分かるからだ。


「アリシア」


「はい」


「抱き締めてもいいか」


私の答えを待ってくださる彼へ、私は自分から一歩近づいた。


「それも、お願いなさるのですか?」


「お前に触れることだけは、頼むと決めている」


「でしたら、お断りいたしません」


言い終えるより早く、私は力強い腕の中へ包まれた。


「わたくしも、あなたを愛しております。レオンハルト様」


その言葉を耳元で聞いた彼の腕に、さらに力がこもる。


「今の言葉は、何度でも言え」


「それは命令ですか?」


「そうだ。これは一生、取り消さない」


私たちの婚礼は、翌年の春に行われた。帝国の仕立師たちは、腕や胸元に残る傷を隠すため、長い袖と高い襟の衣装を用意しようとした。私は、それを断った。


傷跡は今も残っている。けれど、それは私の恥ではない。家族に奪われた十二年と、それでも生き延びた事実を示すものだった。大聖堂の入口へ立つと、祭壇で待っているはずのレオンハルト様が、階段を下りてこちらへ歩いてきた。


「決まりでは、祭壇でお待ちになるのでは?」


「一年以上待った。もう十分だ」


レオンハルト様は私の手を取り、傷の残る指へ口づけた。


「今日は誰の傷も引き受けるな。誰のためにも我慢するな。俺の隣で、誰よりも幸せそうにしていろ」


「難しい命令でございますね」


「なら、一生かけて従わせる」


尊大な言い方をしながら、誓いの口づけをする前には、私だけに聞こえる声で許可を求めた。皇太子妃となった後も、私は医療評議会の仕事を続けている。自分の意思で恩寵を使うこともあるが、以前のように一人ですべての傷を背負うことはない。医師たちと相談して、自分が引き受けられる範囲を決め、治療後には十分な休息を取る。それでも仕事が続きすぎると、レオンハルト様は会議室まで迎えに来る。


「今日は終わりだ」


「まだ書類が残っております」


「明日読め。今夜は俺の妃を甘やかす予定が入っている」


「そのような予定を、政務日程へ書かないでくださいませ」


「帝国の最重要案件だ。書かない理由がない」


周囲の臣下たちは、皇太子殿下は妃を溺愛しすぎだと笑っている。レオンハルト様は、そのたびに不満そうに答える。


「十二年分を取り戻すには、これでも足りない。一生甘やかして、ようやく釣り合う」


かつての家族は、私を誰かの痛みを背負うために生まれた人間だと言った。今の私は違う。救う相手も、使う力も、自分の人生も、自分で選べる。そしてレオンハルト様は、今日も当然のように私を抱き寄せて言う。


「お前は俺の隣で幸せになるために生きてきた。異論は認めない」


以前の私なら、その言葉を命令として恐れただろう。今の私は彼の胸へ自分から寄り添い、笑って答える。


「では、一生かけて従います」

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