表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢レティシアは”カリカリ”が好き  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/52

scene3:決定的瞬間 ― 浸す

 レティシアの手にあるビスコッティを、職人は静かに見つめていた。


 その視線に焦りはない。


 ただ、待っている。


「そのままでは未完成です」


 穏やかな声。


 レティシアは顔を上げる。


 未完成。


 焼き上げ、二度も火を入れ、水分を極限まで落とした菓子が――未完成?


 職人は棚から白磁のカップを取り出した。


 注がれる琥珀色の液体。


 湯気がゆらりと立ちのぼる。


 紅茶の香りが、湿った空気に溶ける。


「浸してください」


 差し出される。


 当然のように。


 レティシアの指先が、わずかに強張る。


 菓子を液体に浸す。


 それは彼女にとって、ほとんど敗北に近い行為だった。


 硬さを崩すこと。


 構造を弱めること。


 完成された強度を、自ら壊すこと。


 王都でも、辺境でも、菓子は単体で完結していた。


 外部に頼らない強さこそ誠実。


 それが彼女の基準だった。


 だが今、目の前の職人は、それを当然のように否定する。


 レティシアは静かに息を吸う。


 細長い菓子を、カップの縁へ近づける。


 躊躇。


 ほんの一瞬。


 そして――浸す。


 琥珀色が、乾いた表面を包む。


 小さな気泡が浮かび、消える。


 数秒。


 長くはない。


「今です」


 引き上げる。


 外側は、わずかに色を濃くしている。


 滴が一つ、落ちる。


 彼女はそれを見つめ、意を決して齧った。


 ――変わる。


 外側が柔らぐ。


 歯が沈む。


 だが中心は、まだ芯を保っている。


 完全には崩れない。


 硬さと柔らかさが、同時に存在する。


 紅茶の香りが移る。


 乾いた小麦の風味に、渋みと温かさが重なる。


 単体では単調だった甘さが、奥行きを持つ。


 平面だった味が、立体になる。


 噛むたびに、茶と菓子が混ざり、変化する。


 口の中で完成していく。


 レティシアの目が、わずかに見開かれる。


 これは、弱くなったのではない。


 崩れたのではない。


 役割を果たし始めたのだ。


 単体では沈黙していた菓子が、紅茶という他者と出会うことで、声を持つ。


 硬さは失われていない。


 ただ、目的が変わった。


 彼女はゆっくりと飲み込む。


 胸の奥に、静かな衝撃が落ちる。


 これは――単体完成型ではない。


 初めから、共に完成するために設計されている。


 自らを半分に留め、相手を受け入れる余白を持つ構造。


 レティシアはカップを見つめる。


 湯気が、海霧のように立ちのぼる。


 初めて、迷いが生まれる。


 完成とは、閉じることではないのか。


 強さとは、独立することではないのか。


 もし、完成が他者によって決まるのだとしたら――。


 彼女の中の理論が、静かに揺らぎ始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ