scene1:試食 ― 運命の一口 演出
銀皿は、儀式のような速度で回された。
誰も急がない。
急ぐ必要がないのだ。
最適解は逃げない。標準は揺らがない。
壇上から一歩進み出た王太子アルバートが、最初の一枚を取る。
指先の所作は流麗で、まるで菓子そのものに敬意を払っているかのようだった。軽く掲げ、光を透かすように眺め、それから口元へ運ぶ。
歯が沈む。
音は、ない。
わずかな布擦れの気配だけが、午後の庭園に落ちる。
アルバートは目を細めた。
「……包み込まれるようだ」
その声は柔らかく、安心を運ぶ調子で響いた。
拍手こそ起きないが、貴族たちの肩が一斉にわずか緩む。
王太子が肯定した。
つまりこれは、正解である。
隣のリリアナが、そっと一枚を手に取る。
彼女は一瞬だけためらい、それから嬉しそうにかじった。
小さく息を吸い込む。
「優しい……」
その一言は、春の陽だまりのように場へ広がる。
優しい。
この国が好む言葉だ。
角がなく、誰も拒まない響き。
銀皿は次々と手を渡り、やがてレティシアの前に止まる。
彼女は怒っていない。
眉も動かさない。唇も歪めない。
ただ、観察している。
指先で一枚を摘まみ上げる。
重さを測る。
厚みを見る。
縁の丸みをなぞる。
ひびはない。
焼き色は均一。
静かな完成。
彼女は、両手で軽く持ち直した。
割ろうとする。
親指に力をかける。
ぱきり、と鳴るはずの瞬間。
鳴らない。
柔らかく、指に沈む。
形が、わずかに歪む。
割れない。
ほんのわずか、彼女の視線が細くなる。
もう一度、今度は慎重に力を加える。
やはり、音はない。
そのまま口へ運ぶ。
歯が触れる。
沈む。
抵抗がない。
崩壊は静かで、内部からほどけるように広がる。
甘味が舌に溶ける。
外界には何も響かない。
沈黙。
庭園の空気が、ひどく湿って感じられる。
誰もが、彼女の言葉を待っていると、まだ自覚してはいない。
だが確実に、視線の流れが変わった。
公爵令嬢レティシア・ヴァルモン。
王太子の婚約者。
彼女がどう評するかは、軽い出来事ではない。
レティシアは、ゆっくりと飲み込んだ。
扇子を閉じる。
顔を上げる。
声は高くない。
強くもない。
ただ、事実を述べるように。
「……しっとりしていますわね」
ざわり、と空気が動いた。
否定ではない。
称賛でもない。
しかし、その言葉はどちらにも寄らなかった。
王太子が穏やかに微笑む。
「それが良いのだ」
軽やかな返答。
場は、まだ崩れていない。
問題は――次の一言である。




