scene3:試食 ― 消える衝撃
レティシアは、崩れかけた一枚をそっと持ち上げた。
指先の力を抜く。
割ろうとしない。
確かめようとしない。
ただ、口元へ運ぶ。
舌に触れた瞬間――
音がない。
氷層クラッケンのような硬質な衝撃も、
王都の焼き菓子の軽やかな破断音もない。
噛む前に、崩れる。
だがそれは粉砕ではなかった。
粉ではない。
砂でもない。
ほどける。
層がほどけ、熱に溶け、
生地が空気へと還っていく。
溶解に近い。
舌の上で、輪郭が失われていく。
甘さは控えめだった。
強くない。
押しつけない。
代わりに、香りが立つ。
焼かれた小麦の香ばしさ。
遠くに柑橘の皮のような清涼。
かすかな花の気配。
味が、静かに広がる。
広がりながら、主張しない。
強度を持たない。
中心がない。
やがて――消える。
本当に、消える。
跡形もなく。
口の中に残るのは、わずかな余韻だけ。
レティシアは、しばらく動かなかった。
噛んだ記憶が曖昧だ。
力を使っていない。
衝撃もない。
戦いが、ない。
戦えない菓子。
強度で語らない。
音で存在を示さない。
自己主張しない。
それでも。
確かに、何かが残っている。
記憶だ。
形ではなく、感触でもなく、
「空白」に似た印象。
何も残らなかったはずなのに、
確かに体験は刻まれている。
レティシアはゆっくりと息を吐く。
グラシエールの菓子は、生き延びるために硬くなった。
王都の菓子は、音で美を主張した。
だがこれは違う。
ここ南方アレフの菓子は、
消えることを前提に作られている。
残らないことが、美徳。
握りしめれば壊れる。
確かめようとすれば崩れる。
だが、委ねれば、満ちる。
彼女はもう一片を口に運ぶ。
今度は確かめるためではない。
ただ、受け入れるために。




