第三章 崩れの美学 scene1:到着 ― 熱の世界
船を降りた瞬間、熱が押し寄せた。
刺すような冷気に満ちたグラシエールとは、まるで別の世界。
ここ南方アレフの空気は、熱を帯びている。
乾いているのに、重くはない。
軽い。だが鋭い。
吸い込むと、肺の奥まで熱が届く。
白くならない吐息に、レティシアは一瞬だけ戸惑う。
足元の石畳は陽に焼かれ、ほのかに温かい。
遠くでは陽炎が揺れている。
港から続く市場通りは、色で溢れていた。
赤、橙、黄金、深緑。
香辛料が山のように積まれ、
熟れた果実が籠からこぼれ、
薄焼きの菓子が布の上に幾何学模様を描く。
声が飛び交う。
笑い声。値切りの応酬。呼び込みの歌うような口上。
音が多い。
グラシエールでは、音は貴重だった。
氷が割れる音、硬質な破断音。
だがここでは、音は背景だ。
途切れない。
重なり合い、溶け合い、流れていく。
レティシアは帽子の縁を押さえ、ゆっくりと歩く。
風が砂を巻き上げ、頬を撫でる。
熱いのに、湿ってはいない。
肌に張り付かない空気。
明るい。
空も、建物も、人の表情も。
だが――落ち着かない。
すべてが動いている。
視線を止めても、周囲が揺れる。
包み込む湿度も、削る冷気もない。
代わりにあるのは、絶え間ない活気。
隣を歩く案内役が言う。
「ようこそ、アレフへ。ここでは甘味も、風と同じです」
「風?」
「止まれば、重くなる。動いてこそ軽い」
意味はまだ掴めない。
だが確かに、この街の菓子は棚に積み上げられていない。
次々と焼かれ、売られ、消えていく。
レティシアは市場の奥を見つめる。
香ばしい匂いが風に乗る。
焼きたての薄い円盤が、布の上に並べられているのが見えた。
まだ形を保っている。
だがどこか、脆そうだ。
グラシエールの硬質な円盤とは正反対。
彼女の胸に、わずかな緊張が走る。
ここでは、何が正義なのだろう。
熱風が再び吹き抜ける。
砂が舞い、色彩が揺れる。
辺境の静寂とは違う活気。
この街は、戦わずに満ちている。
レティシアは一歩、深く踏み出した。
今度は、音を求めるためではない。
確かめるために。




