第一章 王国はティータイムだった scene0― 王都の午後(静かな異様さ)
王都シュクレアの午後三時は、甘い。
城下の大通りを抜ける風さえ、どこか湿り気を帯びている。焼き菓子の香りが石畳の隙間にまで染み込み、この国の空気は常にわずかに砂糖を含んでいるのではないかと錯覚させるほどだった。
やがて、王城の塔から鐘が鳴る。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
その音は戦の合図でも、祈りの時間でもない。
午後三時――ティータイムの開始を告げる鐘である。
王城庭園には、すでに白布をかけた長卓が一直線に並べられていた。陽光を柔らかく跳ね返す純白は、まるでここで起きる出来事に一点の曇りも許さぬという宣言のようだ。
貴族たちは着飾っている。絹とレース、金糸の縁取り。
武器は携えていない。
だが誰一人、くつろいではいなかった。
背筋は不自然なほど伸び、扇子を持つ手は止まり、笑みは唇の端で固定されている。
なぜなら今日は――
王立菓子学院監修。
「王国標準しっとりクッキー」正式発表の日。
甘味統一政策。
それは王太子アルバートの名のもとに進められてきた、新たな国家事業であった。各地方に散らばる焼き菓子文化を整理し、規格を定め、王家が“標準”を宣言する。
標準とは何か。
それは安心であり、秩序であり、反逆の余地を減らす装置である。
菓子は文化。
文化は秩序。
秩序は王家の正統性を支える。
ゆえに、これはただの菓子の発表会ではない。
王国の味覚を統一する儀式なのだ。
庭園中央に設えられた一段高い壇上へ、ゆっくりと老人が進み出る。
王立菓子学院院長、グレゴワール・シュクレ。
年老いた身体に対して、その眼光だけが不自然なほど澄んでいる。彼は銀縁の眼鏡を指で整え、控えめに咳払いをひとつした。
「諸君」
声は穏やかだが、よく通る。
「本日ここに、我が学院は王国標準焼菓子の完成を宣言する」
控えていた侍従が銀蓋を持ち上げる。
現れたのは、整然と並ぶ円形のクッキー。
焼き色は均一。縁は柔らかく丸い。表面にひびはない。
完璧に“穏やか”な姿。
「水分率十八パーセント」
院長は淡々と言う。
「外層の焼成温度は低温持続方式。内部組織の気泡は均等。口腔内での崩壊時間は三秒。これが――最適解です」
わずかな間。
そして拍手が起こる。
大きすぎず、小さすぎず。
賛同を示すに足る、しかし熱狂とは程遠い、上品な拍手。
王太子アルバートが満足げに頷く。
彼の微笑みは、柔らかく、誰をも傷つけない形をしている。
隣には、奨学生リリアナ。
彼女は目を輝かせ、まるで春の花を見つけたかのような顔でその菓子を見つめていた。
そして、その少し後ろ。
レティシア・ヴァルモンは、まだ何も言わない。
公爵令嬢として、完璧な姿勢で立っている。
背筋はまっすぐ。顎はわずかに引き、視線は皿の上へ。
彼女の目は、形を見ていた。
縁の丸み。
焼き色の均一さ。
ひびのなさ。
音の予感がしない。
その事実だけが、胸の奥に小さく引っかかる。
湿った午後の空気が、静かに庭園を満たしている。
風が吹いても、白布はほとんど揺れない。
まるでこの国そのものが、柔らかさを保つために慎重に動いているかのようだった。
拍手はやがて止む。
銀皿が列へと回され始める。
標準が、配られていく。
レティシアはその光景を見つめながら、指先にわずかな違和を覚えていた。
まだ、何も起きていない。
だが確かに、この午後は――
どこか、静かに異様だった。




