1.3 翼人へのお届けもの
崖のふもとでは、斜面に生える木々がまばらになってきた。
歩むうちに木々の間に岩肌が見え始める。足元の傾斜もきつくなる。
ラガは一度立ち止まり、鼻先を上げて風の匂いをかいだ。石の匂いと、乾いた土の匂いが濃くなる。
ここからが本番か。
少し進むと、木はほとんどなくなり、斜面一面に灰色の岩が広がっていた。その手前で、道がふたつに分かれている。
左側は、斜面をゆるやかに巻くようにして伸びている。ところどころに石を置いた階段と、簡素な木の柵がある。
右側は、土がえぐられたような段差と、細いへりが連なっている。上の方へ、翼人の足跡が重なっているのが見えた。しっかりと刻まれた踏み跡は、こちらのほうが濃い。
ラガは両方の道を見比べた。
左は安全そうだが、遠回りに見える。
右は踏み跡が濃い。つまり、よく使われているということだ。
こっちが近道、だよな。
聞いている場所はこの真上だ。日が暮れる前に届けたい。
息を整え、荷袋の紐をきゅっと締め直す。帽子のつばを指先で押さえ、右のほうへ足を踏み出した。
大丈夫。獣人の身体能力なら、このくらいは――
最初のうちは、ただの急な坂道だった。両足で踏ん張れば何とかなる。
だが、中腹に差しかかるころには、風が正面からまともに吹きつけてきた。
「……っ、強すぎだろ」
思わず口の端から漏れた声を、風がさらっていく。
帽子がふわりと浮き上がりかけ、ラガは片手で押さえた。もう片方の手で岩の出っ張りをつかみ、身体を斜面に貼り付けるようにして数歩進む。
足場は細くなり、横に広がる余裕はない。岩のへりは、獣の足一つ分ほどの幅しかなかった。下を見れば、森の緑が小さく揺れている。
下見るな下見るな……
心の中で自分に言い聞かせながら、ラガは前だけを見る。
ときどき吹く突風に身体ごと押されそうになり、そのたびに爪先で岩を掴むように踏ん張った。しっぽが無意識に左右へ揺れ、バランスを取る。
さっきの夫婦が言ってた通りだ。
風が、強い。
上段へ差し掛かるころには、とうとう足だけの支えではどうにもならなくなった。
自然に、手が岩のくぼみを探している。指先に石のざらつきが食い込み、爪が岩をつかむ。
腰の荷袋が揺れた拍子に、足がすべった。
「!!……っと」
反射的に両腕に力を込め、指と爪で岩をつかんでいた。岩のへりから足が落ちかけ、胸がひやりとする。
一拍遅れて、自分の心臓の音が耳に届く。
「……本気で落ちるかと思った」
息を吐きながら、ラガはそろそろと足場を探り直した。
恋人に、今の話したら怒られるだろうな。
「無理しないでって言ったのに!」って。
少しだけ笑いそうになる。でも、笑ったら力が抜けそうで、ラガは顔を真剣に戻した。
大丈夫。もう少しだ。
やがて、頭上の空がぱっと開けた。
最後の岩の縁に手をかけ、懸垂の要領で身体をぐっと持ち上げる。腹で岩の端を越え、上に転がるように這い上がった。
腕も脚もヘトヘトだった。獣人は体力が多いとはいえ、風を読んで飛べる翼人の近道は無謀だったと悟った。
……着いた。
地面に這ったまま辺りを確認すると、そこは思っていたよりも広い場所だった。
風はまだ強いが、足元は平らだ。
岩の上にいくつかの低い家が建っている。石を積み上げた壁と、木の梁を渡した屋根。崖の縁から少し離れたところに、子どもが走り回れそうなスペースもある。
ラガはしばらくうつ伏せのまま、荒い息を整えた。それから、ゆっくりと上体を起こす。
服の埃を払って、顔や手足の毛並みを手のひらでざっと撫でつける。しっぽもほこりを払うと、背中の荷袋を前に回した。
無事に届けられそうだ。
玄関らしき戸の前まで歩き、荷袋をそっと地面に降ろす。受け取り人の家は、入口の上に刻まれた模様でわかった。
ラガは、ポーチから手袋を取り出す。指を一本ずつ通し、片手の手首のところを整えた。
そのときだった。
木の戸の奥で小さな叫び声がして、次の瞬間には戸が勢いよく開いた。
「来た!」
「ほんとに来た!」
白い羽を羽ばたかせ、子どもが二人飛び出してきた。片方は短い髪の子で、片方は肩までの髪を揺らしている。
「ちょ、ちょっと待っ……!」
ラガが慌ててもう片方の手袋を装着しようとしているあいだに、小さな手がその手首をつかんだ。まだ指を出せていない手袋の縁から、むき出しの肌に、子どもの白い指が触れる。
それは、ほんの一瞬のことだった。
肌の表面に、ふわっと温度が混ざる。子供感情が、言葉でも匂いでもなく、ただ"向き"として流れ込んでくる。
期待と、好奇心と、「やっと」という高く跳ねる気持ち。
……うわ。
ラガは目を瞬いた。久々の接触感情。でも、あまりに真っすぐな感情で、思わず笑ってしまいそうになる。
子どもはこちらの戸惑いも感じ取ったのか、はっとして手を離した。
「あ、手袋忘れてた……! ごめんなさい」
「大丈夫です、大丈夫。僕も、今つけますから」
ラガは笑ってみせ、急いで反対の手袋をはめる。
もう1人の子どもは、その様子をおろおろと見ていたが、ラガの口調に少しほっとしたようだった。
「ふたりとも、荷物を待ってたんですか?」
「うん! おじさんから、プレゼントが届くって!」
「そっか。じゃあ、お受け取りをお願いします」
ラガはリュックから、大きめの箱を取り出した。
「荷物、こちらで合ってますかね。ええと……」
名前を読み上げると、家の奥から大人の声が返ってきた。
「合ってます! 中まで持ってきてもらってもいいですか? 今手が離せなくて」
「わかりました。失礼します」
ラガはうなずき、戸口から家の中に入る。
子どもたちはもう荷物から目を離せないといった様子で、ラガのすぐ前をちょこちょこと歩いていた。
大人の翼人に荷物を渡し、受領のサインを受け取る。あとは問題がないか確認できたら、完了だ。
大人が箱を開ける。
「……これは」
声が、少し弾んでいる。
子どもたちが駆け寄る。
「何? 何が入ってたの?」
「おじさんからの手紙と、おもちゃだ」
「おもちゃ!」
「成長祝いだそうだ」
ラガは少し離れたところで、その様子を見ていた。
箱の中には、手紙と、小さな木彫りの玩具が入っていた。四つの車輪がついていて、背中に羽根のような板が立っている。その下には、小さな木琴のような板が並んでいた。
大人が手紙を読み上げる。
「『手を痛めて、しばらく飛べなくなった。すぐに良くなると思うが、荷物は配達屋さんに運んでもらうことにした。良くなったら、そっちへ成長祝いに行く。それまで、この玩具で遊んでいてくれ』……だって」
「おじさん、手を痛めたの? いつまで飛べない?」
「でも、すぐ良くなるって!」
子どもたちは少しだけ心配そうな顔をしたのもつかの間、玩具に目を奪われていた。
「転がしてみていい?」
「ああ、いいよ」
短い髪の子が、玩具を床に置いた。そっと押すと、玩具が転がり始める。
パタパタ、ポココ。
羽根が回り、木琴が音を鳴らす。
「すごい!」
「音が鳴ってる!」
子どもたちは大喜びで、玩具を追いかけた。
ラガは、その様子を見ながら、ほっと胸をなでおろした。
無事に届けられて、よかった。
大人が頭を下げる。
「ありがとう。こんなところまで、よく運んでくださった」
「いえ、仕事ですから」
そう言いながら、ラガは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
「気をつけて帰ってください。その様子だと、右から来られたんでしょう? 今度は、反対の道を使ってくださいね」
「……そうします」
ラガは笑って、手を振った。
子どもたちも、玩具を転がしながら手を振っている。
戸を出て、数歩歩いたとき――
家の中から、バキッという音がした。
それから、子どもたちの声。
「あれ……?」
「壊れちゃった……」




