1.1 翼人へのお届けもの
森へ足を踏み入れると、空気が変わった。
さっきまでまとわりついていた湖の湿気は薄れ、鼻の奥に入ってくる匂いも、肌をなでていく風の重みも森らしいものになった。足の裏に伝わる感触も、ぬかるみから根の張った乾いた土へと切り替わった。
ラガは深く息を吸い込んだ。
木の匂い。土の匂い。生きている森の匂い。
「ここが、目的の森だよな」
耳がぴくりと動く。さざめく葉の音、遠くの水音。それらを聞き分けながら、ラガは歩き出した。
しっぽが自然に左右に揺れる。バランスを取るためでもあるし、久しぶりの森歩きが少し嬉しいせいでもある。
ラガは犬の血が強く混ざった獣人族の青年だ。獣の性か、環境の変化には敏い。だが翼人のように飛べないため、場所の詳細まではわからなかった。
二日歩いてきた道のりを思い返す。朝露に濡れた草原、昼の強い日差し、夜の焚き火の音。湖の周りを歩いている間、何度も「本当にこっちで合ってるのか?」と不安になった。でも、地図は間違っていなかった。
背負った大きなリュックを肩からずらして前に回すと、中から折りたたんだ地図と荷札を取り出した。口は閉じたまま小さく息を吐く。
「この先だよな……」
誰にも聞こえないくらいの声で、独りごちた。
このあたりには獰猛な動物は出ないと思いつつも、耳としっぽで周囲を警戒しながら、目だけを紙に落とす。
普段ラガが生活する街の近くにある大きな湖。その湖の対岸の少し外れに、二日歩いてたどり着いたこの森がある。
そしてさらにその先、ぎざぎざとした線の上に小さな×印がついていて、そこが今回の届け先――崖の上の、翼人の家だ。
荷札には簡単な住所と受け取り人の名が連名で書かれている。ラガはそれを一度だけ目に入れると、地図を折り畳む。
湖のこっち側は初めてだからなぁ。とはいえ、二日も歩いたんだから、上まで登って、登る場所を間違えていたせいで降りて登り直し、なんてのはごめんだ。
地図と荷札を戻し、リュックの口を締め直す。肩に担ぎ上げると、今度は森の奥へ視線を向けた。
進むにつれ、木々の幹は太くなり、頭上の葉の密度が増していく。
だが足元は、思ったほど悪くない。適当に伸びた枝は刈られ、獣の通り道とは違う"道"が続いている。少し乾いた土の上には、靴の裏で踏みしめた跡がいくつも重なっていた。
人族の生活圏、だな。
ラガは鼻先をひくつかせる。
火を焚いた匂い、木を削った新しい香り、家畜の毛の匂い。人族は、あちこちをいじって自分たちの暮らしやすい形にしてしまう、小器用な特性をもつ。
人族はほかの種族より弱いからこそ、環境そのものを変えていく――そういう話を何度も聞いた。
とはいえ、街に住んでいたら違いを感じないのだが。
地図によると、この森の奥に人族の家が一軒あって、そこからさらに進んだ崖の上が、今回の届け先になる。
場所が不明確な場合は、人族に聞けばいい――出発前に職場の人にそう言われていた。
耳を澄ませると、かすかに「トン、トン」と規則的な音が聞こえた。木を割る音。
少し離れたところから、低い鳴き声も混ざる。家畜だろう。
「あっちか」
ラガは進行方向を少し変え、音の方へ足を向けた。




