第一章 夕陽に紛れて
俺には分からないことがある。
猫が、俺の後ろをついてくるのだ。
餌をあげたわけでもなければ、食べ物を持っているわけでもない。ましてやマタタビなんて持ってもいない。
鳴いて餌をねだるわけでもなければ、足に絡みついてくるわけでもない。ただ、一定の距離を保ちながら、ただ静かについてくる。
俺の名前は園田 響。小学五年生。この状況を理解しろというのは無理がある。
何人も人とすれ違っているのに、猫は脇目も振らず俺についてきていた。
後ろを向いて立ち止まれば、猫もピタリと立ち止まる。
「猫、悪いけど俺んち飼えねぇーんだわ。」
口に出してみたけど、猫に通じるわけもない。
暴力は好きじゃないし、
どうしたらいいか困った末に――俺は一目散に走った。
しばらくして振り返ると、もう猫の姿は見えなかった。
「なんだ、案外簡単だったな」
そう思いながら、俺は帰路についた――。
「おかえり、響」
ここは『向日葵園』。いろんな事情を抱えた子どもたちが暮らす児童施設だ。
声をかけてきたのは、ここを管理する“寮母さん”。俺たちは皆、親しみを込めて『ママ』と呼んでいる。
外に出て迎えてくれるなんて珍しい。こういう日は、誰かが施設に来る日だったりする。
「ママ? お客さんでも来んの?」
「いいえ、なんか今日は、ここにいないとダメな気がしたのよ」
……たまに、こういう意味不明なことを言うのがママだ。
昔からそうだから、特に気にもせず――俺はそのまま施設に戻ることにした。
帰宅したら宿題を夕食の前までに終わらせる。
難しいものはママに相談する。これは園のルールだった。
宿題を机に広げた。ドリルとタブレット。
ふと背中に気配を感じて振り返ったが、誰もいない。
気のせいか……と首を傾げて、タブレットを開いた。
夕方だというのに、窓から差し込む陽の光の強さ、蝉の鳴き声に少しうんざりしながら座った。
「あー、Wi-Fi弱ぇーな。図書館でやってくりゃあ良かった」
頬杖をついて窓を見る。
「うぇ!?」
さっきの猫である。
自分の後をついてきた猫。
……しかも、部屋の中にいる。
「窓から入ってきたんか?ここ2階だぞ…まじかよ」
猫を捕まえるために席を立ち、ジリジリと間合いを詰める。
猫は退屈なのか毛繕いを始めた。
この猫は、やっぱりただの猫じゃない。
見た目は普通なのに、肌がヒリつくような違和感。
胸の奥にじんわりと広がってくるのは——恐怖、だと思う。
「猫なんかじゃない」とは言えない。だけど「普通の猫だ」とも、言い切れない。
俺は必死に、自分に言い聞かせる。
“これは、ただの猫。どこにでもいる、ちょっと図々しい野良猫。”
……そうでも思わなきゃ、怖くてまともに動けない。
ここは施設。動物の持ち込みはルール違反だ。
寮母さんに迷惑はかけたくない。だから、出てってもらわないと。
「なぁ、出てけよ……頼むからさ」
恐る恐る手を伸ばして猫を抱き上げようとした——が、
猫は俺の手をすり抜け、のんびり毛づくろいを始めた。
……何度やっても同じ。捕まえられない。
軽く手をかわされるたびに、心がすり減っていく。
怖くて、勢いよく掴みにいくなんてできなかった。
目を合わせると、胸の奥がギュッと掴まれるみたいに苦しくなる。
この猫の瞳の奥にあるものが、俺を立ちすくませるんだ。
ようやく、猫が窓際に座り込んだ。
「ほら、外に帰れって……。ここはお前の家じゃねぇんだ。頼むよ……」
俺は懇願するように声をかけた。
——そのとき。
「ゴーーーン……ゴーーーン……」
園のチャイムが鳴る。
この音は、就寝時間までのカウントダウン。今は17時。
猫はその音にピクリと反応し、次の瞬間、ベッドの下へ逃げ込んでしまった。
「あっ……」
思わず声が漏れる。
……これ、長引くやつだ。
ため息をひとつ、大きく吐き出す。
夕食は18時。それまでに猫を追い出して、宿題を片付けなきゃ。
とりあえず、猫が出てくるまで……
俺は机に向かって、漢字ドリルを開いた。
猫にビビっていたのに、それっきり何をしてくるでもなく、勉強は案外スムーズに終わった。
「……なんだ、俺の思い違いか。普通の猫じゃん。
何にビビってたんだ、俺……」
ぼそっと悪態をつきながら、時計に目をやる。
針は、17時50分を指していた。
この施設では、小学高学年から“宿題が早く終わったらご飯の準備を手伝う”のが暗黙のルールになっている。
誰かが決めたわけじゃないけど、いつのまにか、それが“当たり前”になっていた。
「猫は……まぁ、お腹が空いたら出てくだろ」
窓を少しだけ開けて、部屋の扉をしっかり閉める。
食堂に向かう足取りは、少しだけ軽かった。
「響、遅かったな!今日の宿題、むずかったんか?」
「珍しいね!ご飯真っ先に食べたくて、いつも一番乗りなのに!」
食堂に入れば、仲間たちが口々に声をかけてくる。
「難しいわけねぇだろ。」「うっせぇよ。」
軽口を叩きながら、慣れた手つきでササッと配膳の手伝いをする。
やがて、チャイムが鳴った。
合図のように、ぞろぞろと皆が食堂へ集まってくる。
「みんな、揃ったわね。今日はメニューとは別に、特別に“バナナ”をいただきました。ありがたくいただきましょう。それでは——感謝を込めて」
『いただきます』
ママの合図に合わせて、皆が一斉に声を揃える。
この「いただきます」のひとことが、今日も変わらない日常の始まりを告げる。
それぞれが、思い思いの会話を楽しみながら食事を始めた。
俺はこの時間が何より好きだ。
どうでもいい話をして、笑って、ちゃんとご飯があることを噛み締めて——。
夕食が終われば、お風呂の時間。
大浴槽のある風呂は、19時〜20時が男子、20時〜21時が女子。
他にも、個別に使えるシャワー室が二つある。
俺はいつも湯船にゆっくり浸かる派だけど、今日は違う。
部屋には、あの猫がいる。
…だから、今日はさっさとシャワーで済ませることにした。
食べ終わった俺は、そそくさと立ち上がり、手早くお皿を洗う。
「今日は早いな。もう行くのか?」
「やることあんだよ。おやすみ」
手をひらひらと振って、食堂の出口に向かう。
そのとき。
「……何かあったの?」
ママが箸を置いて、俺のそばまで来る。
「何にもないよ、ママ。今日、金曜でしょ? ちょっと疲れただけ。今日は早く寝る。」
「……そう。おやすみ、響。お疲れさま。」
「うん、おやすみ」
背中にママの視線を感じながら、俺は静かに食堂をあとにした。
このあと部屋で“あいつ”がいなくなっていることを祈りながら。