第一章 烏の悪戯
少年はただひたすらに走っていた。
焦りと同時にふつふつと湧き上がる高揚感は未だかつて経験したことのないものだった。あれは夢ではない、今現実に起こったことだ。そう自分に言い聞かせながら夕焼けの道を急ぐ。たった一つの地を蹴る足音が辺りに響いて、驚いた烏がばさばさと飛び立っていった。
今、俺だけが知っているあの村の秘密。誰も知らない、ただ俺だけが知ってる……
異様な優越感が全身を駆け巡り、喉を焼く。なんだか叫んでやりたい気分だった。あの村の弱みを握った。初めてあいつの先を行った。きっと今日は俺の日だ……
少年は村の囲いを飛び越え、赤く染まった茅葺き屋根の家々を縫うように走った。すれ違う人々の仕事終わりのゆったりした会話と、なんともうまそうな夕餉の匂い。その日常の中を少年は一目散に走り抜ける。やっと、一際大きな屋敷が見えてきた。
村長の住まいであるその屋敷は村を見渡すことができる高台に建てられており、老人にはいささか辛いであろう長い階を登った先に高床式の立派な木造屋敷が見える。なんとも重そうな茅葺き屋根を背負ったその屋敷はこの村を代表せんとばかりに堂々とそこに鎮座していた。
階を三段飛ばしで駆け上がり、引き分け戸を壊れんばかりに開け放つ。もう日は山に掛かり、空は赤く染まっている。そうなると村長は今日の執務を終え、奥の間に下がっている可能性が十分あったが、いざ開けてみると座敷にはあぐらをかいた豪族数人と村長の姿があった。彼等は幼い乱入者に驚き、目を見張っているが見知った少年だと分かったのか、すぐ捕えようとはしてこない。小さな少年は肩で息をしながらこの光景の意味を考えてはみたものの一介の子供に分かるはずもなく、すぐに諦めてその場に膝をつくと、はやる気持ちを抑え一生懸命次第を伝えようとした。のだが……
「はぁっ、はぁっ、あの、すみません突然、はぁ、えっと、はぁ、その、げほっ、隣の、ごほっ、村が、げぇっ」
「ちょっと待て海斗!落ち着け!死ぬにはまだ若すぎる!」
「そうだぞ海斗!まだワシも逝っとらんのに!」
「黄泉国のお父さんとお母さんに送り返されるぞ!」
海斗のむせ具合に豪族達が慌てて寄って来て背中をさすったり、叩いたり、喚いたりとあっという間に村長の屋敷の広間は地獄絵図と化した。
「えっ、あっ、ちょっと皆さんの方こそ落ち着いてください!大丈夫です!大丈夫ですよ皆さん!俺、まだ逝きませんから!」
むしろ、豪族達の何人かが卒倒して逝きそうな勢いである。
懸命な海斗の言葉に落ち着きを取り戻した豪族達は我に帰ったように皆動きを止めた後、何事もなかったかのようにもとの位置に戻り、真剣な表情を決め込んだ。ただの子供一人に少々出過ぎた真似をしたと恥ずかしくなったのだろうか。
そんな一部始終を終始、ニコニコして見守っていたのが上座に座る細くてよぼよぼのじいさん――村長である。その胡散臭い笑顔を村一番に浴びているのが海斗で、その胡散臭すぎる笑顔の裏を知っているのもまた海斗であった。
村長の存在を一瞬忘れ去っていた海斗は慌てて頭を下げ、よく通る声で進言した。
「村長にご報告申し上げます!只今、隣村の麓陽村が弔寡族の村であるという情報を入手いたしました!よって、直ちに会合を開き、対策を講じることをお勧めいたします!」
一時の沈黙と静寂。海斗が恐る恐る顔を上げると動揺を隠しきれずに、こそこそと話し合う豪族達の姿が目に入る。どうやらこの進言に対する反応を決めあぐねているようだ。突然村で名の知れたいろんな意味での問題児が飛び込んできて突拍子もないことを言ったのだから、無理もない。村長はしばらくこちらを見ていたが、ややあって口を開いた。
「それはまことか、海斗」
その声はざわついている室内をものともせず、真っ直ぐ海斗の方へ向かってきた。それに伴い、豪族達も口を閉じる。海斗は今だと確信し、村長をじっと見据えながら言った。
「幻神に誓って、本当のことにございます」
村長の目が少し見開かれたような気がした。
息をするのもはばかられるような長い沈黙の後、村長が答える。
「わかった。そなたを信じよう」
一瞬にして室内は騒がしくなった。
「村長!この子供ごときの進言を聞き入れるおつもりか!」
「進言の内容が内容ですぞ!よくお考えになってくださりませ!」
「情報源も確かではありませんのに!」
なんとも忙しい豪族達である。
しかし、村長は豪族達の反対の声を軽く手を振っただけでいなすと、部屋の隅々まで響き渡る太い声で言った。
「こやつが、今すぐに会合を開けと申しておる。したがって、この場を会合の場とし、今すぐ会議を始めようぞ」
口を開く者はいない。この村において村長の言は絶対である。静まり返った室内を満足そうな顔で見渡した村長は隣に控えている側近に何やら耳打ちをする。すると、その側近はすっとその場に立ち上がり、厳かな口調で喋り始めた。
「では、只今から村民の進言に対する会議を行う。進言者は、進言の内容を述べよ」
急な展開に頭の追いついていなかった海斗は、ぽかんと側近を見ていたが、その側近にものすごい目で凄まれ、慌てて姿勢を正す。
「ええと、村民を代表して進言いたします。つい先ほど隣村の麓陽村が弔寡族の村であるという情報を入手いたしました。よって、この場で対策を講じるべきかと存じます」
「村長および豪族の方、意見を述べて下さい」
ところが、そう側近に言われた豪族達はおろか、村長でさえ口を開かない。何かまずいことでも言ったのだろうか。海斗が焦りだした頃になってやっと、村長が口を開いた。
「焼くしかなかろう」
と。
――やく?……焼く?
その言葉の意味を理解するのに多大な時間を要した海斗は思わずまじまじと村長を見返した。情けないことに豪族達の大半は海斗と同じ表情である。考える前に口が動いた。
「そ、それは、火をつける、ということでしょうか?」
「そうじゃ」
「村に?」
「火矢を飛ばすだけではない。あそこの壁は土と石でできておるからの、もちろん火薬も使う。特に爆風で飛ばされた石などはあの村に甚大な被害をもたらすじゃろう」
さらりと言ってのけた村長は室内をぐるりと見渡し、続けて言った。
「弔寡は恐ろしい民族である。生かしておくわけにはいくまい。ここは、早急に対処をすべきであろう。可能であれば五日以内に」
表情からは分かりづらいが、村長にしては珍しく焦っているようだった。その尋常でない様子に海斗は思わず口を開く。
「でも、俺、少し違和感は感じますけど、あの村の人たちを怖いなんて一度も思ったことがないですし、ごく普通の平和な村に見えるんですけど…」
なにも焼く必要はないのでは、と主張したが、どうやらこの発言は村長の癇に障ったらしい。村長はこちらを睨むと厳しい口調で言った。
「お主は何もわかっておらぬ。弔寡族の残酷で非道な行いを見たならば決してそんな事は言えんじゃろう。もうよい、戯言を言うために来たのなら今すぐここから出ていくが良い」
要は、子供が首を突っ込むなと言っているのだ。海斗は違和感を覚えながらも大人しくその場から退出する。長い階を降りている間も、あの部屋の異様な空気と豪族達の不安そうな顔がどうも頭にこびりついて離れない。
嫌な予感がする。
あいつだけでも逃してやらないと。
[悪戯]
ふざけて、ちょっとよくないことをすること。