幕間の章 ものざね
はじめは、白かった。そこには文字通り何もなくて、白いという感覚すら麻痺してしまいそうなほど虚無だった。どうしてここにいるのか、この白は今見えている世界なのか、全く分からない。何一つとして理解できるものが無かった。自分の存在すら不確かで、立っているのか、目を開いているのかも分からない。けれど、胸のあたりは温かくて、心臓の動きと呼吸だけは感じることができた。おぼろげな感覚でのまま、しばらく待ってみたが何も変わらない。その気配もまた皆無だった。
私はそのまま、長いこと「白」のなかで過ごした。疑問も願望も何も無かった。ただ知らない場所で、ただそこに存在していた。
だんだんと、考えることができなくなっていった。頭の中がだんだんと、「白」に侵されていった。時間の感覚も無くなって、存在しているという感覚でさえ、揺らいで消えようとしていた。特に、何も思わなかった。体が死のようなものを感じ取って、焦りで胸が熱くなっても、呼吸が苦しくて涙が流れても、何も思わなかった。やがて体が抵抗をやめて、ゆっくり弱っていくのを他人事のように見ていた。
死というのはこんなにも穏やかなものなのかと思った。もっと、痛くて辛くて苦しいものだと思っていた。実際には、痛くて辛くて苦しいのは体だけだった。身体から乖離した心は、まるで他人のように悶える体を俯瞰し、嘲笑っている。心には、まだ生きる意思とその能力があった。
身体が崩れていく。それと同時に言いようのない開放感が心を満たす。ずっと付き纏っていた重く不快なものが取れる、そんな開放感。あるものは溶けて流れ落ち、あるものは細かくなって宙を舞い、またあるものは塊となって、ぼとり、ぼとりと落ちていく。
視界は無くなった。私は暗闇に閉じ込められた。
桜が見たいなぁ。純粋な心は思った。ああ、でももう体は無くなってしまった。残念だなぁ。どうしたものか。心は思った。体があればいいのになぁ。目があれば、鼻があれば、手足があればいいのになぁ。
気づけば、また白いところにいた。白い、と感じることができたのは、そこに白ではないものがあったからだ。体だった。ついさっきまで体だったものがそこにあった。原型など全く無い。土の小山のようなものがそこにあった。私はそれを見て、それからゆっくり下を見た。そこには華奢で肌つやのいい綺麗な体があった。薄汚れて火傷まみれの、傷だらけの体はもうなかった。
何か着たいなと思った。肌触りの良い、ふわふわした着心地のものが良い。
いつの間にか、服を着ていた。服というよりかはほぼ布を体に巻きつけたような感じだったが、無いよりはましだ。
もしや、と思う。目をぎゅっとつぶって、桜が見たいと願ってみる。もし、私の考えていることが当たっていれば……。恐る恐る目を開けた。
しかし、予想に反してそこには何もなかった。がくっと肩を落とす。どうやら好き放題できる、というわけではないようだ。当たり前か、と自嘲する。初めて作った笑みは、それは不恰好だろうと思うが、どうでもいい。どうせ誰もいない。
ふと、足元に小さななにかを見つけた。かがんで拾い上げる。何かの種のようだった。ちらちらと好奇心がうずく。なんの種だろう。木だろうか、食べ物だろうか、花だろうか。なんとなくその種を鼻に近づけてみたが、なんの匂いもしなかった。どこかに植えてみようか。そう思ったものの、土などあるはずがないし、栄養になりそうなものすら……
いや、あった。私は数歩前に出て、ゆっくりとしゃがんだ。それを手に取ってみる。いくらか湿っていて、いかにも土っぽい。栄養も無いわけではないだろう。私はその小山に種をうずめた。ぽんぽんと埋めたところを叩いて、そのまましばらく観察してみる。当然、すぐ生えてくるなんてことはない。けれどその小山を見つめること以外、特にすることがなかった。空腹も眠気も一切感じない。なので、私はずっと小山の前でしゃがんで、見つめ続けた。飽きるということもなかった。何が育つのか、想像するだけで十分だった。
どれくらい経ったろう。次第に土が少しずれて、緑色のものが見え始めた。その鮮烈な色は白と少しばかりの色味しか見てこなかった自分にとって、とても眩しく思えた。と同時に小山が見るからに乾燥し始めた。この緑が水分を使っているのだろうか。私は焦った。水が必要などとは一度も考えることがなかった。このままでは枯れてしまう。
ひやりと足に冷たいものを感じた。水、のようなものだった。はっとして辺りを見回すと、一面に薄い水が張っていた。足の甲がやっと浸かるほど浅かったが、目の前の小山はみるみる潤いを取り戻した。ずっと水に浸かっていて、崩れないか心配になったが、小山はびくともしなかった。
足先を動かしてみる。水特有のあの抵抗は感じなかった。どちらかと言うと、少し冷たい空気を触っているようだ。
ひとまず危機を脱したとわかり、ほっと胸を撫で下ろす。
そこからは簡単だった。ただ見つめているだけでそれは勝手に成長した。いつの間にか根が小山を突き抜けて、水面下に潜り込んで、白の中へと貫入していった。何かの木だろうなと思った。幹と根は休みを知ることなく成長し続けて、小山ももう見えなくなった。流石に根もなにか支えが必要だろうと思った瞬間、低めの丘ができた。久しぶりに陸に上がった。柔らかな草で覆われた丘は裸足だと少しくすぐったい。けれどすぐに慣れた。草の上に大の字に寝っ転がり、もうお手のものになった笑顔を顔に浮かべる。
楽しかった。楽しくてたまらなかった。何がと言われるとわからないが、ひとまず幸せだった。新鮮な草の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、吐いた。初めて眠りたいと思った。目をそっと閉じてみる。眠気など来なかったが、それで良かった。
あとは……風かな。優しくなでるような、柔らかいそよ風。それがあれば完璧だ。
そして例の如く、すぐ空気が流れ始めた。私は目を閉じたまま、風を感じていた。
眠るとまではいかなかったが、結構な時間をそのまま過ごした。どうにか睡眠ができるようにならないかなと様々な妄想をした。
すると突然、頬を何かがかすめた。なんだ、せっかく気持ちよく寝転んでいるのに。少し苛立ちを覚えながら、目を開く。すると、淡い桃色が視界いっぱいに飛び込んできた。驚いた。一瞬、目がおかしくなってしまったのかと思った。
慌てて起き上がる。桜だった。見上げるほどの大樹が圧倒的な存在感をもってして、そこにあった。木の枝という枝は桃色に覆われて、なんとも息苦しそうだ。それはもう、満開を超えた満開だった。風に揺られて枝を揺するその姿は本当に笑っているようで、圧巻とはこういうことを言うのかと妙に感動した。
一際強い風が吹いた。小さな桃色の花弁が何百枚、何千枚と風に乗って飛び散った。彼らは、ぼぅ、と見つめる私の顔や手足を楽しそうに撫でていく。ほのかな甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
彼らはまた、緑の草の上に到着し、また水面に浮いた。と思えば消え、そこで新たな花を生んだ。丘はたちまち菊の花で覆われ、水面にはぽつぽつと立派な睡蓮が咲いた。
一気に、にぎやかになってしまった。あまり突然のことに、私は口をぽかんと開けてその花々を瞳に映した。ゆっくりと視線を桜に戻す。すると桜の幹の両側に誰かが立っていた。
びくっと体が震えて、後退りを始める。人影はというと、どんどんこちらに近づいてくる。怖かった。理由もわからず逃げたいと思った。二人が私よりもずいぶん大きかったせいかもしれない。その表情の無い顔と、瞬きを一切しない目のせいかもしれない。とうとう追いつかれて、ぐっと腕を掴まれた。思わず、ひっ、と情けない声が漏れた。
「なぜ逃げるんです?私たちはあなたの意思で生まれたのに」
腕を掴んできた目つきの悪い方は、流暢な言葉を発した。
「そりゃあ怖いでしょう。初対面で腕を掴んでくる人は特に。ねぇ?」
にこにこした柔和な表情の方は、私を擁護した。
「あ?お前にゃ聞いてねぇ」
「ほらほら、その口調もですよ」
なにやら仲が悪そうだ。そんなことよりも私は、もうなにがなんだか分からなくなっていた。
「だ、誰……?」
やっとそれだけ言うと、腕を掴んでいた方は驚いたように手を離して、不思議そうに少し首を傾げた。
「え、分からないのですか?」
そして、こう続けた。
「私たちは、あなたですよ?」




