第五章 断翼の麒麟(三)
「――であるからして、この策は一見非の打ち所がないように見える。しかし、推敲を怠っては何万という命を屑籠に投げ捨てる事態になりかねない。油断ほど恐ろしい敵は存在しないのである。実際これにも大きな欠陥がある。では、その欠陥と、代わりとなり得る代替案、どちらも過不足なく答えられる者は挙手」
講堂が水を打ったように静まり返る。
ここは麒蕾院の中にある戦術学の講堂。今の時間は頭龍達に対して講義が行われている。ずらりと並ぶ長机と椅子は後ろにいくにつれて段々と高くなっていて、まるで前方で教鞭を取る戦術師――江樹に覆い被さろうとしているかのようだ。席はほとんどが埋まっていて、皆真剣な表情で講義を聞いていた。その厳粛な空間の後方右端に縮こまるように座っているのが、燦耀である。座学は実技指導のように鹿角専属師範がいるわけではなく、基本頭龍と一緒に講義を受けることになっている。
今問われているのは、戦時下においてどのような場合にどれくらいの人をどこに配置するか、という基本的な問題だ。馬蹄ならまだしも、頭龍ともなれば答えられないのは恥と言える問題なのだが、厄介なのが、先ほど江樹が提示した「想定」である。想定は、鷹州が謀反を起こし、約五十万の兵を率いて桜州に攻め込もうとしている、というものだ。武家である鷹家が治める鷹州は桜州以外の六州の中でもっとも強大な軍事力を誇り、個々の能力も高い。一度鷹家が本気になれば、桜軍全ての力を持ってしても守りで精一杯になるほどだと言われている。しかも、五十万ということは鷹軍のほぼ全勢力に相当する。
このような場合に麒蕾院既卒生及び学生で組織される我らが麒軍の動向がとても重要になってくる。少数とはいえ、この国随一の精鋭が集まっているし、各州との結びつきも強く、仲介役になることもある。そして何よりの強みは、この国全ての人の犯罪履歴を握っていることだ。あまり賞賛される方法ではないが、いざとなれば、七翼家当主でさえ脅して意のままにできる。その材料には当分困ることもないだろう。
したがって、我らが麒蕾院としてどのような立場に回るかでだいぶ戦況が変わる。桜軍のように王に絶対の忠誠を誓っているわけでもないので、どこにつくかは全くもって自由である。ただ、先ほど江樹は鷹州謀反の理由を言わなかった。そのため、この戦が鷹州の利益のために行われているのか、愚王打倒のためのものなのか判断がつかない。鷹州が単に力を示そうと進軍しているなら、隼州と燕州、桜州で連合軍を組み制裁を加えなければならない。
力を得た州が有頂天になり、その力を過信し始めると、次第に王権を狙うようになる。特に鷹家や隼家などの武家はこれが顕著だ。そのため、時には容赦なく制裁を加えて七翼家をならすのも大事な麒蕾院の役目である。
だがしかし、愚王を倒すための進軍なら当然鷹州側に付くべきだろう。桜州側が勝利を収めた場合にはそれ相応の裁きを受けることになるが、もし新王が立つことになれば、麒蕾院は評価される。それ以前に民衆の支持が得られる。
江樹が鷹軍進軍のわけを言わなかったのは、実際の戦になるべく近い状況を燦耀らに体験させるためだ。戦では最新の情報が入ってくるまでいくらか時間がかかる。だが、その情報を待っているようでは、現状の打開ならさも知らず、戦況の先読みすら出来はしない。戦場の限られた情報の中で、いかに最適に近い選択をするかが今後の麒蕾院の立場を大きく左右する。特に、隠華である限り、一度信頼を失えば再び人間として見られることはほぼ無い。
難しいな……
そう頭を悩ませていると、
「三百」
突然、江樹はそう言い放った。そしてまた静寂が戻ってきた。院生たちはその意図がわからず、不思議そうな顔で仲間と顔を見合わせている。
「三百。皆、この数字が何かわかるか?」
江樹は講堂を見渡す。誰も何も言わない。しばらく、期待するように皆の顔を眺め回していたが、答える者がいないとわかると、江樹はため息をつき、少し息を吸ったかと思うと、一気に声を張り上げた。
「三百!これはお前たちが返答に窮している間に死んだ民の数だ!」
ぴん、と講堂の空気が張り詰める。後ろからでも頭龍達の表情がぐっと引き締まったのが分かる。
「いいか、戦場で「悩む」なんていう贅沢な時間があると思ったなら大間違いだ。無論、向こうは悩みに悩んで策を練ってきている。だからといって私達に悩んで良い時間などない。悩み抜かれた策をその場その場で上手く受け流し、即座に最適解を選び、実行しなければならない。それができる者のみが軍を統率することができる」
教師陣の中では比較的若く、理不尽な課題や説教こそないものの、講義には人一倍熱心だ。話を聞くに、一度自分の提案した策が上手く機能しなかったことがあり、多くの命を失うことになった経験から、始めは戦術教師になることをためらっていたそうだが、鷺丹爺にどうしてもと頼み込まれたらしい。現役だった時は冥界から蘇った策士と呼ばれ、それはたくさんの謀反兵や枯兵を冥界へ葬ったと言われる。
惜しまれながらも若くして引退し、穏やかな隠居生活を送ろうとしていたところに、鷺丹爺に引きずり戻されたというわけだ。この天空の地獄院に。
「どんなに兵が優秀であっても、それを使う者が愚者であればそれは何の意味もなさない。また、使われる者もその意図を理解していなければ、軍は軍として成立しない。皆少なからず何かの集団には属しているだろう?その集団の中でいかに衝突を減らすかが我々人間の行動原理に直結している。つまり、お互いを理解し――」
また難しいことを言い始めた。
燦耀は途中からろくに聞いていなかった。江樹のああいう話は始まれば長い。構えていた筆を下ろし、あくびを噛み殺しながら、講堂をぐるりと見渡す。よく見るとなかなか凝った装飾が、窓や吹き抜けの天井に施されている。細やかな木の彫刻や木目を上手く利用した柱。様々な鳥がまるで生きているかのように浮き彫りにされている。そして、花や鳥やその他植物に囲まれて、天井の中心で一際存在感を放つ一羽の霊鳥――王の象徴、鳳凰だ。大きな翼を広げ、空を舞い、地を癒す。その、他を寄せ付けない圧倒的な雰囲気。隠華の手の届かないもの――。その鳳凰が何を治め、何の上に立っているか、この彫刻を見れば一発でわかる。一見、木ばかりで息の詰まる空間に思えるが、窓が多いおかげで、講堂内は明るく息苦しさは微塵もない。よく考えられた素晴らしく贅沢な空間だった。
他六家はこういうところで鶴家にかなわないのだろうな。
普段はあまり目立つ家ではない。けれど、日常の無ければ困るものについては、そのほとんど鶴家が考案し、製造を一手に引き受けている。また、意匠や装飾にもこだわっており、その技術は数年の修行では到底身につかないほど高度だ。そのため、鶴州の景観はそれは美しく荘厳であると聞く。その街並みは一度訪れると忘れられないほどなのだとか。
行ってみたいな……。
自分が飛べるなら。隠華でなければ。きっと数刻で着く。だが、そんな翼は無く、行くとすれば数日をかけて陸を歩いていかなければならない。飛べることが常識であるこの国は陸路の交通手段がほとんどない。
だからこうやって、講堂の装飾を眺めて想像することしかできない。
はぁ、と小さく息をついて視線を江樹に戻す。
でも……
院主になれば、院主にさえなれば、花を授かることができる。飛べるのだ。そのことを考えただけで、胸が大きく膨らむ感じがする。飛びたい。空をこの手で掴んでみたい。街を高みから見下ろしてみたい。桜州の桜も飛び越えられるだろうか。ひやりと体を撫でる冷たい空気と果てしなく広がる平野、輝く海。ああ、どんなに気持ちいいだろう。
一人妄想に浸って口角を上げていると、突然、視界の片隅で何かが動いた。いや、動いたというより新たに入ってきた。講堂の入り口だ。ひょこっと覗いた顔は好奇心で満たされ、正統派の整った顔立ちは一目でそこら辺の家の出ではないことがわかる。艶やかな長い黒髪はゆったりとまとめられて、少し肩にかかっていた。
誰だ……?
燦耀は眉をひそめた。明らかに貴族の類だ。今、一番見たくないものである。だが、気になる点もいくつかあった。麒蕾院を偵察しに来たにしては幼すぎること。貴族のくせに黒髪であること。お高い家から隠華が生まれるのは稀だ。生まれたにしても家の面目を保つためにすぐ殺されるので、あんなにのうのうと生きているわけがない。そして、もしも隠華であり貴族であるならば、なぜあんなにも苦労というものを知らない無垢な顔ができるのだろう。
分からない。一つとして分からない。この世の矛盾をひっくるめた存在がそこにいた。気づけば、燦耀はその少年に釘付けになっていた。彼といえば、興味深々で見るもの全てを目に焼き付けようとしているかのように、あちらこちらに視線を飛ばしている。その流れで、目が合ってしまった。まるで、ばちんという音でも鳴ったかのように見事に目が合った。少年は、あっ、という表情になったかと思うと急いで頭を引っ込めた。
ん……?気のせいか……?でも、今確実に目が合ったよな。
少なくとも麒蕾院では見たことのない顔だった。不思議に思って首をかしげていると、
「おい、燦耀!よそ見をするな。話を聞いているのか?」
と、江樹のお咎めをくらった。しかも、
「ではついでに、質問に答えてもらおうか。燦耀、枯兵とは何か?」
嫌な質問が飛んで来た。前に座る頭龍の何人かはこちらを振り返ったり、隣の人と耳打ちしたり、にやにやしたりしている。中には明らかな嫌悪を包み隠さず表情に出している者もいる。そういった人は決まって院生にしては歳が行き過ぎた人ばかりだ。
燦耀は一つ深呼吸をして、その場に立ち上がった。どうも大勢に注目されるというのは慣れず、心の臓がこれでもかというほど暴れている。側から見ていてその動きが見えてしまうのではないかと心配になるほど早鐘を打っていた。
「はい。こ、枯兵とは、私たち隠華の、も、もう一つの姿、です」
こんなにも話すことが困難に感じたことはなかった。ましてや、内容が繊細なものであるので、燦耀はゆっくりと一つずつ言葉を選ばなければならなかった。
「具体的に」
江樹が鋭く指示する。
「は、はい。わ、私たちは主上の従花つまり桜の力によって、何の意思も持たない、ただ主上に全てを捧げる兵士に、な、なることができます。彼らは枯兵と呼ばれて、枯軍を構成します。ええと、枯軍は桜軍とは違って、ほぼ主上のもう一つの体のように機能します。彼らは例外なく主上の思惑通りに動きます。喜怒哀楽は無く、痛みも感じません」
燦耀はそっと江樹の顔をうかがった。江樹は腕を組んでうなずいている。
「続けろ」
「はい。主上の従花の力で、私たちは生気を奪われます。見た目は枯れ枝の如く細り、骨と皮のみになって、皮膚も茶色く乾燥します。切られると血液の代わりに樹液が出ます。なので刀で斬り続けると、次第に刃が使い物にならなく――」
江樹は今度はうるさいものを払うかのように手を振った。
「見た目の話など求めていない。私は、枯兵とは何か、と問うたのだ。なぜこの社会において枯軍が成立する?我ら隠華側に何の利益がある?」
でないと、あんなに志願者がいるわけないよな?と詰められる。燦耀の背は恐怖と緊張で伸びきっている。一生懸命、今までの講義を頭に奮い起こした。
「利益……ええと、わ、私たちが、枯兵になった場合、その家族に、多大なる謝金が支払われます。その額は、一般家庭の約五年分の収入です。そのため家族が求めていなくても、隠華自ら志願することが多々あります。私たちは、存在自体が家族への負担になるので……えと、特に経済面で……。そして、えっと、これは枯兵志願の動機になっているかどうかは分かりませんが、主上に魂を抜かれる時、えーっと、その、こ、これ以上ないほどの、か、快感を、え、得られる、とか。あ、これは、噂ですけど……」
なぜかだんだん恥ずかしくなってきた。次第に声も小さくなって、最後には蚊が鳴くような声が口からこぼれた。静まり返った講堂に、誰かが耐えられず身じろぎした音がやけに大きく響き渡る。
最悪の空気を作り出してしまった。なんとか目線だけ上げて、江樹を見る。こんなやっかいな質問を投げてきた江樹を心底恨んでいたし、早く助けて欲しいとも思っていた。睨みつけるような、祈るような中途半端な視線を彼に注いでいると、江樹が一つゆっくりと頷いた。
「ああ、そうだ燦耀。それが事実だ。大体は合っている。ただ、一つ訂正しよう。先程の魂を抜かれる際の快感についてだが――」
びくっと体が跳ねる。やはり、いらないことをしゃべりすぎた。大して知識もない子供が、ましてや噂話を公衆の面前でぺらぺらと話して、良いことなどなにもないのに。現に、毎日この癖を鷺丹爺に怒られてるじゃないか。なにやってんだ、俺。
「皆が思っている通り、全く根拠のない法螺話だ。いったいそんな話をどこで仕入れてくるのだか。いいか、魂を抜かれる際、我らは快感も痛みも何も得はしない。何も感じないのだ。当たり前だろう?魂を抜かれているのだからな。少し考えれば分かるものを……」
そう言って呆れた顔を向けられる。そこで、なんとか顔を上げさせていた矜持も流石に耐えきれなくなり、うつむいてしまった。なんだか泣きそうだった。そんな自分への嫌悪感でまた心が弱る。ただ、もちろん泣くわけにはいかなかった。燦耀は必死で自分の腕をつねった。
「まあ、いい。説明も概ねできていた。燦耀、座って良いぞ」
燦耀は急に膝の力が抜けたかのように、すとんと椅子に座った。皆の視線から解放されると、安心してしまって危うく涙腺が緩みそうになる。
なんだよ、お前ただの泣き虫じゃねぇか。
そう自分を叱りつけて、頭を振る。しっかりしろ。朝廷で大きくなるんだろ。麒蕾院院主になるんだろ。鷺丹爺を見習えよ。あの人、泣いてるとこ見たことねぇだろ。
ふと視線を感じた。顔を上げる。また入り口の方だ。そこには、ひっこんだはずの腹立つ顔が、再びこちらを伺っていた。ただ、その顔は先程とは打って変わり、眉は下がり、口をきゅっと結んで、少し首を傾げていた。明らかにこちらを見ている。
燦耀はしばらく、一体どうしたのだろうとその顔を見つめ返した。先の明るさはどこへ行ってしまったのだろう。そして、しばらく見つめた後、やっと気づいた。
ま、まさか、それは俺を心配する顔、なのか……?
気づいた途端、額に青筋がたった。
なんだお前。勝手に覗き込んで、勝手に心配して、なにがしてぇんだよ、クソが。得体の知れねぇやつに心配されて嬉しいやつがどこにいんだよ。
名前も知らない貴族に醜態を晒した上に、心配までされている。なぜか無性に腹が立った。
燦耀は自分にできる最大の目力で、思いっきり少年を睨みつけた。もともと目つきは悪いし、その上、根街で鍛え上げられたこの睨みが、貴族に効かないはずがない。
しかし彼は予想と反して、安心したようににこっと微笑んだかと思うと、再び向こうへひっこんだ。
……へ?
拍子抜けにもほどがある。自分は睨もうとして誤って微笑んでしまったのか、と錯覚するほどだ。
なんだ、あいつ。
調子が狂うとはこのことか、と一人考えながらも、次会ったら一発入れてやると心の中で誓った。




