第五章 断翼の麒麟(二)
あまりにも身勝手で馬鹿なことだと分かっていた。一時的な怒りに任せてここを出ていけば、もう頼れる場所はない。根街は一度地上に出た者を再び受け入れたりはしない。街に降りたって、この黒髪のせいで一発で隠華だとバレる。髪を染めるという手もあるが、そんな金もない。
ここは一度怒りを収めて踏み止まるべきだと冷静な自分が言う。けれどそんな自分に腹を立てて、出ていくべきだと叫ぶ自分もいる。感情に任せて赤く燃える方の自分はとても魅力的に見えた。
鷺丹爺が追ってくる気配はない。やっぱり自分は麒蕾院の一院生でしかなかったのか、と分かりきったことに失望する。
ふと荷造りする手が止まった。なんだ、このもやもやした気持ち悪い感情は。ゆっくりと部屋を見渡してみる。なんの変哲もない、質素な小部屋。土壁は所々剥がれて、柱にはたくさんの傷や落書きがあった。窓から日の光が差し込んで、畳を照らしている。舞う埃がちりちりと光を反射して輝き、静かに落ちてゆく。
俺は幸せな方だと思う。下には下がいて、挙げればきりがないけれど根街では楽しかった記憶の方がよく残っているし、ここに来るまでの険しい道のりだってたくさんの仲間と助け合いながら乗り越えた。住むところも食べるものもあって、生きる目的だってある。何が不満なんだ、と自分を殴りたくなる。環境が良くなっても、それに慣れてまた新しい欲求が出てきて、それが叶えばまた新しい不満が出てくる。皆が幸せな社会なんて存在しないのだろうなと思うが、だからこそ生きたいという思いが出てくるのだと勝手に思っている。一つまた一つと湧いて出る願望を叶えながら死んでいく。一見なんの意味もない行為だが、それが「幸せ」なんだろう。王にだって平民にだって女郎にだって隠華にさえも、幸せはある。けれど、その幸せが他の幸せと並んだとき、不満や優越感、嫉妬が生まれる。
燦耀は頭を振った。俺は一体何を考えているんだ。考えても仕方がないことを考える時間が一番無駄だ。急いで荷造りを再開する。といっても持ち物はそんなに無く、悲しいほど小さな荷が一つ出来上がっただけだった。部屋を出る。外にはまるで皮肉のようにたくさんの花が咲き誇り、鳥が飛び交っていた。燦耀はそれらをなるべく視界に入れないように俯いて歩いた。時々すれ違う院生達が足を止めてこちらを見てきたが、誰も何も言わなかった。もしかすると、心のどこかで引き止めて欲しいと思っていたのかもしれない。燦耀の足取りはだんだんと重くなっていった。
すると唐突に歓声が上がった。顔を上げると、集まってきた院生達がこちらを見ている。なんだと思ってよく見ると院生達の目線は燦耀の少し上を通り過ぎている。その中の一人が叫んだ。
「みんな、あれ見ろ!帰って来たぞ!鷺丹爺だ!鷺丹爺が帰って来た!」
その声を皮切りに歓声は最高点に達し、大勢の人が燦耀の背後に向かって走り始めた。自然と人の波に逆らう形になる。右、左と肩に体がぶつかり、じりじりと後退する。一歩後ずさる度に、自分の中で何かがゆっくりと頭をもたげていくのを感じた。
ふっと辺りの景色が消える。と思えば周りは提灯の赤い光で溢れ、空気は湿ってこもり、燦耀はガラの悪い大人達が大勢行き交う大通りの中心にいた。人とすれ違うたびにどつかれ、肩を押される。根街の表参道で間違いなかったが、周りの音が変だった。急に大きくなったり小さくなったりと気持ち悪い。視界もぼやけている。見知った場所なのに初めて来るかのような奇妙な感覚を覚えた。もう何なんだよ、と頭を振るが何も変わらない。正面に目を凝らすと、大通りの突き当たり、奥の方にぼんやりと赤く輝く大きな妓楼らしきものが見えた。胸がきゅっと詰まる。あれは……母さんの……
「枯兵にだけはなっちゃだめだからね!約束だよ」
はっきり声が響いた。はっと息を呑む。
麒蕾院に戻って来ていた。人の波は収まり、燦耀は一人、広場に立ち尽くしていた。慌てて辺りを見回す。さっきの声は妹のものだ。根街で最後の別れの時、かけてくれた言葉。しばらく忘れていた。あの日交わした約束でさえも。お互い大きくなって必ず上で会おうね、そう言って笑い合ったのに。母に似てしまった驚くほど整った顔と丸い目。一見あどけない少女に見えるが、その顔には先を見る聡明さと大人びた色気も持ち合わせている。少し目つきの悪い自分とはあまり似ていなかった。しかし、ふわふわした口調の割には意思が強く、目の前にどんなに金を積まれようとも決して体を売ろうとしなかった。通常根街の子供に拒否権など無いのだが、金に別段困っていなかったし母の威厳もあってか、彼女が嫌だと言えば男達は素直に引き下がった。根街の男にも矜持というものがあったのかと幼ながら感心したのを覚えている。なので、別れるまで一度もそういうことはしていなかったように思う。人に優しく、よく笑うが愛想笑いはしない、そんな妹が燦耀は誇らしかったし大好きだった。きっと自分が隠華でなければ今も一緒にいただろう。
こんなところで逃げてたまるか。ふつふつと怒りにも似たものが湧き上がってきた。寺院の最上層で寝かされているであろう例の子供を思い浮かべ、睨みつける。弔寡だから何だ。どうせ刀も触ったことのない赤子だろう。そうだ。目の前で俺の実力を見せつけて、隠華を舐めるなと笑ってやるのだ。花を持っているから何だ、飛べるから何だ。何一つ俺は欲しくない。「兄さんの拳で生意気な弔寡やっつけちゃえ」そう言って笑った妹。「あ、でも私も弔寡だからやっつけられちゃう」そう言って頭を抱えた妹。昨日のことのように思い出せる。
まだやれる。いや、やらなきゃいけない。朝廷で大きくなるのに、弔寡ごときに怖気付いていては何も始まらない。朝廷は弔寡だらけなのだ。これはあいつらと渡り合うための最初の練習なのだと直感的に理解した。
燦耀は意気揚々と回れ右をして大きく息を吸った。その息を吐ききって上げた顔にもう迷いなど微塵もない。遠くで鷺丹爺が仁王立ちをしてこちらを見ているのに気づいた。一瞬気まずくなったが無視して、大股で来た道を戻り始める。やってやろうじゃないか。ここで何が何でも高官になって再び桜都へ行き、必ず再会を果たす。視界が一気に開けたようだった。覆い被さってくる果てしない青空も道端に咲く花々も、さっきより随分綺麗に見えた。
* * *
「暁川師範!稽古をお願いいたします」
張りのある威勢のいい声が道場に響く。暁川という名の老人は驚いたようにこちらを振り返った。
「燦耀?今日の稽古はもう終わったはずだろう?」
燦耀は真っ直ぐ師範を見つめて、深く頭を下げた。
「追加で、お願いします。俺、もっと強くなりたいんです」
暁川は顔を上げた燦耀をしばらく眺めた後、嬉しそうな顔をした。
「何だ、いい顔してるじゃないか。なんかあったか?」
「ええと、その、ここに来た理由を思い出したというか、なんというか」
燦耀は照れ隠しに頭を掻いた。
暁川はこの麒蕾院の鹿角専属師範だ。今は燦耀一人しかいないので、勝手ながら祖父みたいなものだと思っている。
「はは、若いっていいねぇ。熱いものを胸に秘めてる。そういう人が強くなれるんだよ」
そう腕を組んでしきりに頷く。だんだん恥ずかしくなってきた燦耀はいてもたってもいられなくなった。
「あの、師範。早く稽古を始めたいのですが」
「ああ、そうだったな。では、受け流しの練習をしようか。燦耀は攻めは良いのだが、守りや受けがまだまだだ。体術に関してはしばらく教えることはないよ。やり方は少し乱暴だが、基本は成っている」
燦耀は苦笑した。この年にして体術がそこそこできるのは、根街で大の大人相手に喧嘩ばかりしていたからだ。といっても仕掛けてくるのは大抵向こうで、ほとんどは正当防衛なのだが、喧嘩慣れしている巨漢達と毎日やり合っていたので強くなるのは当然と言えば当然だ。しかし、暁川師範に言わせれば自分にはなかなか戦いの才能があるらしい。
「よし。では始めよう。木刀を取っておいで」
そこからは、暁川師範による容赦ない稽古が延々と続いた。師範は一度その気になるとまるで仏が鬼になるかのような変貌を遂げ、子供大人関係なしに鋭い指導を次々加える。それは、時々様子を見にきた鷺丹爺が思わず諌めてしまうほどだ。この人も実は元鹿角で、鷺丹爺と共に院生時代を過ごしたらしい。どうやら当時は鷺丹爺よりも剣が上手かったようだが、面倒くさそうという理由で院主の座を鷺丹爺に譲り、今は鹿角専属師範に落ち着いている。一度受けたら数日は悪夢にうなされると言われる暁川の稽古は、それは厳しかったがその分実力もちゃんとついてくる。燦耀は鷺丹爺と同じくらい、この人を尊敬していた。
「違う!今、これを流すのに力を使ったろう?それではだめだと何度も言っているじゃないか。いいか、受け流しとはその名の通り受けて流すことだ。弾くことじゃない。さあもう一度」
もう稽古を始めてから数刻は経っている。燦耀は返事もできないほど疲弊し、肩で息をしながら必死で暁川の指導に食らいついていた。
「燦耀!構えが下がっているぞ。お前の体力はそんなものか?疲れたなら今すぐやめてもいいのだぞ」
燦耀は首を振り、息を整えて木刀を構え直す。汗が頬をつたい、床に落ちた。腕の筋肉はもうとっくに限界を迎え、足は震え始めている。
「では行くぞ」
そして、しばらくは木刀のぶつかり合う乾いた音と暁川の怒号、床を踏み鳴らす足音だけが道場に響いた。
どのくらい経ったのだろう。すっかり日は落ちて辺りは暗くなり、院生達の話し声も途絶えて静かになっていた。そうしてやっと稽古が終わった。
「ふむ。まあ、今日はこんなところだろう。燦耀、君の受け流しは正直まだ形にもなっていないが、私の指導についてきたその根性は褒めるべきところだろう。よく頑張った。よく食べてよく休み、明日もまた精進するように」
燦耀は息も絶え絶えに、ありがとうございましたと言って頭を下げる。そこで、暁川は鬼から仏に戻った。
「おお、今日も指導に熱が入りすぎたようだな。すまない燦耀。夕餉も食べていないだろう。どうだ、私と一緒に食べに行くか?」
その人が変わったような優しい笑みを見ていると、二重人格というのはやはり存在するのかと思わずにはいられない。そこで湧いてくるのは恐怖を通り越して笑いの感情である。
「ん?燦耀、なぜ笑っている?あ、まさか稽古が足りていないのか?まだ余裕があるのか?」
最悪の展開が頭に浮かんだ燦耀は慌ててぶんぶんと首を振り、そそくさと木刀をしまった。竹筒に入った残り少ない水を喉に流し込み、滝のように流れる汗を拭いて、二人は食堂へ向かった。季節は春だが、山の上というのも相まって夜は凍えるほどだ。しかし、今の燦耀にはちょうど良い。火照って湯気を上げる体に冷たい空気が気持ちよかった。
正直あまりにも疲れて食欲もなかったのだが、暁川の信条が、よく食べてよく寝る、であるので今それに逆らうのはとてもまずかった。なんとか食欲を奮い起こし、食事を済ませて師範と別れ、入浴をしてから部屋に戻った。皆課題に追われているのか、多くの部屋に明かりが灯り、話し声が聞こえてくる。
襖を開けて、ぶちまけるように敷布団を敷き、その上へ大の字に倒れ込む。すぐさま睡魔がやってきた。課題をやらないと、と思いながらうとうとしていると、誰かが戸を叩いた。こんな時間に誰だろう。やっとのことで気だるい体を起こして戸を開けると、そこには鷺丹爺が立っていた。燦耀は驚いて目を見開いたものの、どうして良いのか分からず、何も言わないでじっと鷺丹爺を見つめた。
「燦耀。私は君に謝らなければならないことがある。私は――」
鷺丹爺が何を言おうとしているのかを悟った燦耀はその言葉を遮って、勢いよく頭を下げた。
「すみません!全て俺の自覚が足りていませんでした。あなたの言う通りです。人の苦しみと自分の苦しみを比べてはいけないし、比べられるものではありません。俺は鹿角としていつもあるべき姿でいなければならないし、認めてもらえないからって癇癪起こすなんて論外です。それは分かってます。分かっていたけれど、あの時はつい自分の感情を爆発させてしまいました。本当にごめんなさい。これからはこんなことがないように心身共に精進いたします」
鷺丹爺は燦耀の肩に手を置くと、首を横に振った。
「いいや、謝るべきは私の方だ。私はここの院主である以前に君たちの親代わりでもある。そのことを忘れてはいけなかったのに、燦耀に鹿角であることを強要してしまった。親として失格だ。私の前で素直な感情を見せてくれることがどんなに大切なことかを、私は忘れていた。君の甘えを受け止めてあげられなかった。すまない。どうか許してほしい。その上で自らここに留まってくれたこと、本当に感謝しているし嬉しいよ。私の仕事は麒蕾院を治めることだけではない。家を求めてやって来た子供に温かい家を与え、愛の足りない子供にめいいっぱいの愛を与えることだ。きっと、親としてはまだまだなんだろうけど、私は君たちに全てを捧げる気でいる。それは分かって欲しい」
老人の真摯な目は優しく、我が子を見るかのように暖かかった。それは燦耀の心をじわりと温めて、こわばっていた何かをほぐしてゆく。鷺丹爺は立ち尽くす燦耀をそっと抱きしめた。
「おかえり、燦耀」
帰って来て良かったと思った。ここが俺の家で、俺の居場所なんだとはっきり認識した。安堵で胸がいっぱいになり、その場に立つので精一杯だった。
ただいま、と小さく呟いた。




