第五章 断翼の麒麟(一)
鷺丹爺が飛び立ってから、一週間が過ぎた。いくら辺境での下見だからと言っても、流石に長いと思う。ある日突然ふらっと姿を消した上に、自分達になんの言伝も残していない。数日経って、やっと文が届いたかと思えば、まだしばらくかかりそうだ、と言う。院主のいない麒蕾院はここ数日、すったもんだの大騒ぎだった。
「燦耀!鷺丹爺まだ帰ってこねぇの?頭龍達が、調査の依頼が山積みだって泣いてるぞ!中には、対応に追われてほとんど眠れず、ここを辞めてやるって発狂する奴も出てきてる。ありゃあ、相当な極限状態だぞ」
扉に手をかけてこちらを覗く細っこい院生は、声だけ聞けば切羽詰まっているようでも、その顔は少し非常事態を楽しんでいるように見える。確かこいつは二つほど年上で、真鱗階級生だったはずだ。特に話したこともないし、接点もない。なにより燦耀は、まるで最後の頼みの綱であるかのように毎日誰かしらが部屋に駆け込んでくるので、正直うんざりしていた。
一つ大きな溜め息をついて、刀に丁子油を塗っていた手を止める。
「だから、俺にはどうしようもできないって言ってるだろ。なんで、一人残らず俺を責めるんだよ。俺とあのジジイが何かで繋がってるとでも言いたいのか?気色悪い」
そう吐き捨てて、何事もなかったかのように作業を再開する。
相手は少し言葉に詰まったあと、慌てたように手を振る。
「いや、別に責めてるわけじゃなくてさ。ただ、このままだと死人が出そうなんだって。早くどうにかしねぇと」
「じゃあその死にかけの頭龍さん達、手伝いに行けば?」
「……」
こういう沈黙が本当に嫌いだった。自分は正直に思ったことを言っているだけなのに、そのせいで相手が黙ると、まるでこっちが悪いかのような雰囲気になる。
いや、実際俺が悪いのか……?
それすら分からない。よって、燦耀には友人らしい友人がいない。
真鱗の一人は何か言いたげにしばらくこちらを睨みつけた後、足を踏み鳴らして帰って行った。
麒蕾院には主に三つの階級が存在する。ここに入ったばかりの初心者階級、馬蹄。中級者階級、真鱗。上級者階級、頭龍といった具合である。刀に全く触れたことがない者でも、ここに入って三年もすれば大抵の人が馬蹄を卒業できる。しかし、真鱗の場合は十年経っても頭龍に進めない者がおり、もし頭龍になれたなら将来有望だとして朝廷から高官を約束されたも同然である。また、この三つに加えて鹿角という階級も存在し、これは周りから頭ひとつ飛び抜けた才能を持つ異能者階級で、三人も所属していれば多い方だ。鹿角になるということはつまり、次期院主候補ということであり、桜州の断罪を任せられる桜州断罪人の資格を得たということでもある。その鹿角は今現在、この麒蕾院にただ一人しかいない。
「おっ、鹿角様じゃねぇか。こんなところにいたのか。飯ができたってよ。早く来い」
その者は麒蕾院に入ってわずか三年、十二歳という若さで鹿角に抜擢された異例の麒麟児である。
「おい、俺にもちゃんと名前があるつってんだろ」
「はいはい。あ、飯食ったら、戦術学の課題見せてくれや」
「……自分でやれ」
「まあまあ、そう言わずに。今日の晩飯一品やるからさ」
「対価として釣り合わない。却下」
その者の名を――
「ええー。頼むよ鹿角様ー」
燦耀、という。
* * *
春風通る食堂にはたくさんの人がいた。血走った目で獣のように飯を貪り食う頭龍。その頭龍を怯えたように見やって、一歩距離を取る馬蹄。その馬蹄に突っかかろうとしている頭龍を必死でなだめる真鱗。とても、賑やかだった。
だが、燦耀が食堂に足を踏み入れた瞬間、一部は静かになって、代わりにひそひそ声が聞こえてきた。
「なぁ、見ろよ。あいつ鹿角じゃねぇ?」
「ん、どれ?ああ、確かに。うへぇ、うわさどおりの美貌だな。あの歳であそこまで整ってると、端正通り越して気持ち悪いまであるよな」
「なんせ、根街一の女郎の子供らしいからな。きっとここに来るまで色々あったぜ、あれは」
なぜ、本人のいるところであんなにも堂々と話せるのだろう。聞こえていないとでも思っているのだろうか。言いたいことがあるなら直接言いに来いよ、と心の中で溜め息をつく。燦耀は麒蕾院の中でも食堂が一番嫌いだった。
さっさと済ませようと足早に厨へ向かう。料理の乗ったお盆を受け取って、食堂の隅っこへ飛んでいき、食べ物を胃に詰め込む。周りから、鹿角、という言葉が聞こえるたびに胸のどこかがすっと冷えて、苛立ちが湧き上がってくる。味なんてしなかった。きっと今、顔を上げればたくさんの人と目が合うのだろう。そして目が合うと、相手は気まずそうに目を逸らし、急いで友達との会話を再開するのだ。聞こえてくる笑い声全てが自分を笑っているようで苦しい。苦しいと感じる自分が腹立たしい。きっとたくさんの人から恨まれている。この歳で鹿角になったこと、もう何年も努力してやっと頭龍になったやつはどう思うだろう。
俺は何も、悪いことはしていない。だから周りに怯える必要なんてない。ただ一人の鹿角として堂々としてれば良い。なのに、どうしてこんなにも周りの目が気になるのだろう。一人だからだろうか。友達といれば周りなんてどうでもよくなるのだろうか。
頭を振る。いいや、考え過ぎだ。今だって話しかければ彼らはとても優しく親切に会話を返してくれるだろう。なぜ俺はそんな彼らを悪者扱いしようとするのか。本当に自分が嫌になる。だからうわべだけでも、自分に嘘をついても、堂々とする。怯えた顔なんて絶対にしない。もちろん泣くのは論外だ。弱い自分を見せるのは鷺丹爺にだけと決めている。あの人は自分の全てを受け入れてくれた。
「なあなあ鹿角様。頼むから戦術学の課題見せてくれよ」
またやって来た。ゆっくりと顔を上げる。視界に飛び込んできた凝った笑顔はそれは良くできていて一瞬騙されそうになるが、その三日月型の目は燦耀なんて見ていない。ずっと前からわかっていた。
「他の人を頼れば?」
何があろうとも絶対に貸してやらない。こんな奴に一度手を差し伸べれば、ずっと付き纏われるのは目に見えている。そうして自分の成績も下がっていって、しまいには麒蕾院に見捨てられる。そうなれば国に隠華の居場所なんてない。
「なんだよ。やましいことでもあんのかよ」
頭龍の顔が訝しげに歪んだ。明らかにいらいらし始めている。だが、その顔は嗤っているようにも見える。一瞬、心が恐怖に染まる。
燦耀はさっと立ち上がり急いで食器を片付け、逃げるように食堂を出た。会話を続けるだけ無駄だ。どうせ笑われる。何度やっても同じ。人間は学ぶ生き物だ。切り替えて、暁川師範に剣の稽古をつけてもらおうと道場へ足先を向けた時だった。
一気に後ろへ引っ張られた。と思えば胸ぐらを掴まれ、足が地面を離れる。目の前に自分より五つ年上で背の高い、さっきの頭龍が憤怒の形相で震えていた。
「おい。何すかしてんだよ。人にもの貸すってだけだろ?なのに、ああこいつ話通じねぇわ、みたいな舐めた顔、やめてくんねぇ?」
燦耀は顔色ひとつ変えず、目の前の怒り狂う獣をぼーっと見ていた。
逃げるのもあまり良くないのか。今度からは別の方法にしよう。
「おい、聞いてんのかっつってんだよ。自分が鹿角だからか?顔が良いからか?自惚れてんじゃねぇぞ!むかつくんだよ!その顔、今から俺がぐちゃぐちゃに――」
話が長い。
流石に苦しくなってきた燦耀は、もういいかと相手が話し終わるのも待たずに、胸ぐらを掴む腕に手を掛け、膝で思いっきり鳩尾を蹴り上げた。
相手が呻き声をあげてうずくまる。地に降り立った燦耀は軽く服を整えて、死にかけの虫みたいに地面の上でもがく頭龍を眺めやった。しばらく観察した後、満足した燦耀は何事もなかったかのように踵を返して歩き出した。
なんだか晴々とした気持ちだった。稽古の気分ではなくなったので、麒蕾院の裏手にある小さな泉へ行くことにした。燦耀はそこが好きだった。滅多に人の来ない、水のせせらぎと小鳥の鳴き声に満ちた空間。人の目も気にしなくて良い。自分が誰で、何をしなければならないのか、ひとときだけ忘れることができる。
燦耀は泉のそばの庭石に腰掛け、しばらく目を閉じて自然の声を聞いていた。柔らかく静かな水の音。心地よく響く軽やかなさえずり。風に揺すられて笑い声を上げる草木。その声は、先ほどの心臓を握られるような笑い声とは似ても似つかない、体を包んでくれるような優しい音だった。ふぅーと息を吐くと同時に、先ほどの興奮が体から抜けて、代わりに自然の匂いを肺いっぱいに満たす。ふと、目を開けて懐から一つの帳面を取り出した。戦術学の課題を解き記したものだった。
なんで持って来たんだろう、とぼんやり思った。はたから貸すつもりなんてなかった。だから、持ってくる必要はない。なのに――
表紙をめくる。そこにはのびやかで優しく、丸みを帯びたなんとも女性らしい文字がびっしりと並んでいた。顔を歪める。何度も、何度も笑われて来た。始めは、その理由がわからなくて皮肉にも何がいけないのかを聞いて回っていた。この文字を見せびらかしながら。馬鹿だったのだ。聞く度に笑い声は大きくなり、最終的にどうすればいいのか分からなくなった。そして途方に暮れていたところに、こう言われた。
それ女郎の文字だろ。通りで穢れてるわけだ、と。
何を言っているのか分からなかった。女郎の何がいけないのか。穢れているとはどういうことなのか。当時の燦耀は自分の母を貶されたような気がして、嘘をつくな、と相手に掴み掛かった。でも、それはただ自分が無知だっただけで、実際には正しかった。
燦耀は帳面を閉じて側に置き、膝を抱いて顔をうずめた。
俺は一体何に期待していたんだろう。麒蕾院に一体なんの幻想を思い描いていたんだろう。隠華ならみんな仲間で、家族のように手を取り合える。そんなの嘘だ。麒蕾院ではみんな家族になれる。そんなの出鱈目だ。所詮みんな他人で、みんな誰かの上に立ちたい。みんな誰かを嗤って気持ちよくなりたい。そんな当たり前のことをどうして忘れていたんだろう。根街で嫌というほど学んだはずなのに。
「私は燦耀の文字、美しくて良いと思うがな」
突然、声が聞こえた。幻聴だと思った。ついにあのジジイが脳内で喋り始めてしまった、と絶望していると、隣から紙をめくるぱらぱらという音が聞こえてくるではないか。弾かれたように隣を見ると、白髪混じりの老人が人の良さそうな笑みを浮かべて帳面を開いている。もう相当な歳であるにもかかわらず、見た目はそれを一切感じさせないどころか、顔のしわと曲がらない綺麗な立ち姿から洗練された強さまで感じ取ってしまう。この見た目に、老人だからと刀を持って突っ込む奴は相当な阿呆だ。言うまでもなく、この人も昔は鹿角だったのだから強いのは当たり前なのだが。
「ろ、鷺丹爺?」
燦耀は情けないほど口をあんぐりと開け、目を見開いて凝視する。老人はにっこり笑って、燦耀の頭をぽんぽんと撫でた。
「久しぶりだな。稽古はちゃんとやったか?問題起こさなかったか?」
今しがたちょうど頭龍一人を悶絶させてきたところなのだが、そんなことはどうでもいい。
「い、いつ帰って来てた?」
「今さっきだよ。上から、うずくまってるお前が見えたから様子を見に来たんだ」
そして燦耀の目の高さに合わせてしゃがみ、心配そうに首を傾げた。
「大丈夫か?また何か言われたのか?」
燦耀はほとんど脊髄反射のように首を振り、ぱっと立ち上がって服についた土を払った。
「俺は大丈夫。この一週間、何もなかったよ。平和だった」
嘘だったが嘘ではなかった。
「それで?調査はどう?」
鷺丹爺はまだ心配そうな顔をしながらも、燦耀が話題を変えたがっているのを敏感に感じ取り、これまでのことを詳しく話してくれた。
麓陽村の惨状。消えた海青村。大量の変死体。今の時点で考えられること。現場での鷺丹爺の視点は、いつ聞いても驚くものばかりでとても参考になる。燦耀はその度に日々の辛いことなんて忘れて、自分の将来に思いを馳せることができた。
「――そこで私は麓陽の生き残りと出会ったんだ。ちょうどお前と同じ年頃だよ。酷い怪我をしていたし、身寄りもなさそうだったからここに連れて来たのだが、今日はもう疲れて寝ているからまた明日会わせよう」
燦耀は驚いた。
「連れ帰ってきたの?ここに?」
数多の事件の調査へ行くということは、それだけ多くの孤児と出会うことと同義だ。きっと鷺丹爺はそんな子供をたくさん見てきただろうに、ただの一度も引き取って帰ってきたことはない。曰く、その子にとっての最善は私ではない、ということらしい。
「ああ、ただちょっと問題付きでな。あまり多くの人と会わせるのは避けたいんだ」
そんなに凶暴なやつなのだろうか。
燦耀は少し心配になってきた。眉根を寄せる自分を見て鷺丹爺は、暴力を振るうとかではないよ、と優しく否定した。
「性格もとても穏やかで、明るくて優しい。燦耀とは違うところも多いが、私は馬が合うのではないかと思っているよ」
すると燦耀は、突然あることに思い至った。
「待って、さっきその子をここに連れ帰ってきて、鷺丹爺は上から俺を見たって言ってた。ということは、そいつは……弔寡!」
一緒に飛んで帰ってきたのだ。つまり鳥の形を借りている。燦耀の胸に黒いものが広がった。
「弔寡の子供を連れて来たの?今までずっと、孤児の隠華は放って帰って来たくせに!弔寡ならまだ、この国で生きていけるっていう希望があるのに。隠華にはないんだよ!家が無くなる、親に捨てられるってことは隠華にとっては死と同じなんだ。だから死に物狂いでここを目指してきてるんだ!」
鷺丹爺はなだめるように燦耀の肩に手を置いた。
「違うんだ、燦耀。さっき言った問題付きっていうのは、授かった花のことなんだ。あの子をあのまま放っておいたらきっと、花に負ける。死んでしまう」
燦耀は鷺丹爺の手を振り払った。
「だから何?花を授かったことは事実でしょ?その時点で隠華とは雲泥の差だよ。花が良くなかったって?あーあ、そりゃまた贅沢な悩みですねー」
鷺丹爺の顔が少し険しくなる。
「燦耀、やめなさい。人の苦しみを分かったような顔でものを言ってはいけない」
けれど、燦耀は止まらなかった。
「苦しみ?手から醜い花か咲くって?はは、笑えるね。俺なら泣いてその花を欲しがるのに。隠華ぜーいん、泣いて欲しがるのにね!」
「燦耀!」
鷺丹爺が静かな怒りを爆発させた。
「いい加減にしなさい。苦しみは人と比べられるものではない。それが鹿角の姿か?私は残念でならないよ」
一瞬、燦耀は思考が止まった。そしてすぐに何かがぐわっと胸に突き上げてくる。
この人だけは、そんなこと言わないと思っていた。
「何だよ!みんな、鹿角、鹿角って。俺は鹿角じゃない。ちゃんと燦耀っていう名前があるんだ!何で誰も俺を見てくれないんだよ!食堂に行けば聞きたくないことを散々ささやかれるし、冷やかしだって毎日だ!頭龍や真鱗には恨まれて、嫌がらせはどんどん酷くなる。鷺丹爺だけが唯一の理解者だったのに!俺の勘違いかよ。もういい、こんなの枯兵になったほうがましだ。俺は麒蕾院をやめる」
そう言ってくるりと背を向け、自分の部屋に向かった。後ろで鷺丹爺が自分を呼ぶのが聞こえた。その声を聞くのも嫌で、燦耀は走り始めた。心臓はこれでもかというほど速く脈拍を繰り返し、体は風呂上がりのように火照って暑い。もう他の何事も考えられなかった。
荷造りして今すぐ出ていってやる。
だが、体とは反対に、なぜか心はすっきりしていた。




