第四章 白き玄鳥(三)
男の名は雁槐といった。この国の地方には雁の者がよくいる。そのため珍しくともなんともないが、あの明るい髪の色は槐の色だったのかと一人納得する。
雁槐の家は燕蓮と出会った場所から少し飛楊の方角へ進んだ所にあった。この国では方角を表す際、桜都を基準にする。つまり、どんな所にいても桜都のある方向が飛楊、反対を凋落、桜都に向かって右を右傾、左を左傾と言う。北、南、東、西などはあくまでも地図上で地方を表す際の指標であり、例えば麓陽村は西海岸にあるというふうに地名に近い使い方をする。東というのは単純に太陽が登ってくる方角を示し、沈むのが西、東を向いて左手側が北、右手側が南になる。
桜都を現在地とする時は、飛楊も凋落もないので東西南北がよく使われている。それとは反対に、この国の地図すら見たことがない農民や地方の村の住民などは四方にあまり馴染みがなく、使いづらい。よって、桜都を基準にすれば、商人がやって来る方向、勅令を知らせる烏が飛んでくる方向など判断材料が多く、分かりやすいのだ。なにより、桜都は華大陸の盆地内であれば大抵どこにいても見えるくらい大きくて目立つし、夜には光り輝く大樹となる。方角の指標としてこれほど、うってつけのものはないだろう。
「鷺丹さん。この火傷、跡が残るかな」
雁槐の家の一室で燕蓮はやっと傷の手当を受けていた。火傷は見た目ほど深くはなく、服が共に焼けて肌に張り付いているのが厄介なくらいで、適切な処置をすれば一週間ほどで問題なくなる程だった。この場合、張り付いた布は無理に剥がさず布ごと冷やすのが鉄則だ。しかし、焼けてから結構時間が経ってしまっているので確かに傷は残ってしまうかもしれない。
「ああ、少しは残るかもしれんな。ただそんなに深くないようだからすぐに良くなるぞ。心配するな」
そう言って燕蓮の頭を撫でた。燕蓮は色々ほっとしたのか、体のこわばりは解け、随分柔らかい表情になっている。やはり子供の自然な笑顔ほど可愛いものはないなと改めて思う。
「しっかし、鷺丹さん、というのはなんだか少し慣れないな」
鷺丹は白髪混じりの長髪を揺らして首の裏を掻いた。
「じゃあ、なんて呼べば良いですか」
でも流石に呼び捨てはできません、と怖さ半分興味半分といった顔で見上げてくる。鷺丹はうーんと唸った。
「私の子供たちは皆、鷺丹爺と呼んでいるな。我ながら馴れ馴れし過ぎず硬過ぎずといった良い塩梅で気に入っているのだよ。それに、敬語もいらん。あそこでは全員家族だからな」
燕蓮の表情が少し強張る。
「……家族?」
「ああ、家族だ。何人であっても麒蕾院に集う者は皆家族だ。血のつながりなど関係ない」
無意識に言葉に力が入ってしまった。燕蓮に、自分のその一員になれるのだと気づいて欲しかった。新しい帰る家があると、安心して欲しかった。
しかし、燕蓮はしばらく難しそうな顔をしたあと、急に無表情で鷺丹を見上げた。
「家族って……何?」
鷺丹は絶句した。
な、なんだって?
さっきまであんなにすらすらと言葉が出てきていたのに、まるで喉を締められたかのように声一つ出せない。燕蓮は見上げた格好のまま、少し首を傾げた。そのぽっかりと開いた目は真っ直ぐ鷺丹を捉えて離さない。感情を表しているはずの目の色は薄く、限りなく白に近かった。危うくその目に吸い込まれそうになる。やっとのことで正気を取り戻し、声を絞り出した。
「か、家族というのは……えっと、え、燕蓮が家族だと思えば、家族なんじゃないか?」
何かものすごく適当なことを言ったような気もするが、これで精一杯だった。
すると、燕蓮は何事もなかったかのように笑顔になると、
「そっか、そうなんだ。じゃあ、鷺丹爺は俺の家族ってことでいい?」
と、無邪気に聞いてくる。先程のあれは見間違いかと思うほどの可愛い笑顔である。鷺丹はこっそり冷や汗を拭うと、燕蓮の頭をくしゃっと撫でた。
「私はそうだと思っていたが、燕蓮は違ったか?」
燕蓮は本当に嬉しそうに目を細めた。
* * *
数日経って、痛みも和らいできたのか燕蓮の髪と目はだんだん黒く朱の見た目になっていった。弔寡の力を持つにも関わらず、黒髪のままになっている姿を朱の民になぞらえて朱の姿と言うが、実際のところこれは軽蔑の意を多く含んでいる。弔寡の力は日々使い所が多いので、一日中黒髪のままというのも珍しいのだが、なにより隠華と間違えられることを恐れて、たとえ使い所がなくてもわざと姿を変える人がほとんどだ。手の上で花を開花させるだけなので労力もいらないが故に、この国ではある意味身分証明みたいな形で花を使う場面も多い。
朝、太陽が全て顔を出し切った後は一度力を使えば次の日の朝日を浴びるまで姿は変わらない。にも関わらず、麓陽村が壊滅した日、朝日を浴びたはずの燕蓮が朱の姿にならなかったのは、体が痛みに耐えていたからだ。弔寡は激しい痛みや恐怖、その他急激な心の変化があれば、自衛本能で意識しなくても勝手に開花し、自分を癒そうとする。そして痛みが続く限り、手を振って花を消してもしばらく経つとまた開花する。それが長時間続けば手だけでなく身体中から花が咲くようになる。そうして痛みの根源に直接花が咲き、傷が癒えてやっと開花が止まるという仕組みである。しかし、花は体の表面的な部分しか癒すことができないため、体の内の痛み、例えば腹痛や頭痛などは薬を使わないと治らない。その上、あまりにも出血するとそもそも開花ができない。だから薬師にも十分需要がある。また、身体中に花が咲くと言っても一日に一つという頻度なので、お金があるなら薬師を頼った方が断然楽である。
ただ、一つ疑問なのが燕蓮があまりにも平然とし過ぎていることだ。あの村で何があったにせよ、実の家族や村民を目の前で失ったのである。それにしては立ち直りがずいぶんと早い。出会った時には、自分が全部やったとかなんだとか言っていたが、どういうことなのだろう。これもあとで詰めなければいけないなと頭の中を整理する。それよりも今優先すべきなのは鳥の姿を借りる方だ。なるべく早く麒蕾院に連れて帰って安全な所で話を詰めたい。一応、文は飛ばしたのだが、鷺丹にしてみても院主として長時間麒蕾院を離れるのは避けたいところである。
「俺って空を飛べるの?鳥みたいに?」
「そうだ。君の睡蓮の力を使ってな」
二人は雁槐の家の庭先で水盆に水を入れていた。鳥の形を借りる準備である。なるべく新鮮で綺麗な水のほうが、より早く鳥と契約を結べる。燕蓮はまだ睡蓮がなにかを理解していないが、形を借りる分には別段問題にはならない。と、そこへ庭の農作業を終えた雁槐が、汗を拭き拭き家の裏から嬉しげに歩いてきた。
「いやあ、懐かしいな。人生で一度しかできないことだからきっと良い思い出になるぞ。俺なんかは夜眠れないほど楽しみにしてたなあ。なんてったって空が飛べるようになるんだから」
当時を思い出しているのかその目の中には少年のような輝きが灯る。鷺丹も懐かしむように頷いた。
「私が形を借りたのは大人になってからだが、それでもわくわくしたものだよ。ずっと憧れてたから」
雁槐が不思議そうに首を傾げた。
「大人になってから?普通、授花の儀式のあとにすぐ借りるものだとばかり思っていたが、借りなかったのか?」
鷺丹はしまったとばかりに頭を掻いた。言うべきか迷ったが、ここまできて恩人に嘘をつくわけにもいかない。意を決して言うことにした。
「ああ、言うのを忘れていました。実は、私は麒蕾院の者なのです」
雁槐が目を剥いた。
「麒蕾院だと!?あの麒蕾院か?本当に?」
この感じは嫌厭される流れかと直感的に思った。もう慣れたものだが、元隠華と分かっただけで態度が一変する人も少なくない。言ってしまったことを少し後悔し始めていたが、ここを追い出されないように祈るしかなかった。
雁槐は鷺丹をじっと見つめた。
「麒蕾院の人で弔寡の力を持ってる……その髪からして花は牡丹……まさか、あんた、麒蕾院の院主様か!」
雁槐は驚愕の表情を浮かべ、挙句の果てには献花礼までとろうとする。鷺丹は軽蔑の目を向けてこないことにほっとしながらも慌てて雁槐の顔を上げさせた。
「いやいや、そんなことをされるような身分じゃない。やめていただきたい。今はただ、そこら辺にいる老人として接してもらいたいのだ」
それでも雁槐の物腰はだいぶ低くなってしまった。
「いや、しかし、麒蕾院の院主様といえば桜軍将軍様に匹敵するするほどの御身分にあせられる方。一介の農民が生涯かけてもまみえることのできない御方でございます。どうか、今までの無礼をお許しください」
そう言って深く頭を下げる。鷺丹は困ったように眉尻を下げ、なんとなく燕蓮を振り返った。けれど、自分よりも燕蓮の方が困った顔をしていたので少し吹き出してしまった。
「すみません。礼儀もなってないですよね」
雁槐は自分のことを笑われたと思ったのか、余計に小さくなって謝った。
「いや、違うのです。この子の顔が異様に大人びて見えましてね。そんなことよりも、私にそのような礼儀は必要ありません。少なくとも今は。どうか先ほどのように接していただけませんか」
院主になる前は、どこに行っても誰と出会っても麒蕾院の者だと言えば、軽蔑を含んだ畏怖の目で見られることがほとんどだった。それが、今やこうだ。院主になって花を授かるだけでこんなにも周りからの視線が変わる。なんとも複雑な気持ちになるが、きっとこの感覚もいつか麻痺するのだろうなと思う。
隠華として生まれた以上、桜祭りの前日にいくら手を握り、開いても花を授かることはない。ならばどうやって鷺丹は花を得たのか。あまり考えたくないことだが、もちろん体内に直接取り込むしかない。つまり、誰かのものだった花を喰った、ということである。一応表に出ている朝廷機関として根街の闇市から買うということはないが、当然誰かのものを貰わなくてはならない。耐え難い激痛を伴う零落という行為を自ら進んでする者などいるはずがないのだ。だからこそ、鷺丹はあの人のことを一日たりとも想わない日はない。
「ですが、いくらなんでも敬語をやめるのは私が耐えられません」
今度は雁槐が困った顔になる。
「では、こうしましょう。敬語を使うのは自由にしてもらって構いませんが、私がここに滞在していたという事実はなるべく人に話さないでいてもらえますか?もちろん助けていただいたお礼は差し上げるつもりですが」
鷺丹自身あまり頭を下げられるのは好きではないので、院主だということを極力会う人々に話さないようにしていたのだが、今回ばかりは気が緩んでしまったようだ。こうなると、自分が何を言っても農民は頑として低姿勢を解かない。始めの方は鷺丹もしつこいくらいにやめてほしいと懇願していたが、最近はある程度の所で身を引くようにしている。農民には農民の意地があるのだ。
「いえいえ、お礼など滅相もない。あなた様の助けになれただけで、この上ない名誉でごさいます」
雁槐はそう言って微笑み、深く一礼した。
この笑顔も今や見慣れてしまった。地位が上がれば上がるほど自然な笑顔を見せてくれる人というのは貴重になる。何代か前の王は、位に就いてしばらくは賢王として崇められていたが、次第に猜疑心に苛まれ国を混乱に導き、最終的に愚王だとして王の座を引きずり降ろされた。それも、毎日こんな笑顔を大勢から向けられていたとしたら、仕方のない部分もあったのではないかと、今なら思える。決して、たくさんの民を死の淵へ追いやったその王を擁護するわけではない。それでも俗に言う高官というものになってみると、色々見えてくるものもあるのだ。国民のために国を治めているはずの者が、国民の考えを一番理解できない人物であるという矛盾は朝廷では有名である。
「では、形を借りる準備を再開しよう」
鷺丹は気を取り直して水盆に水を入れ始めた。
「鷺丹爺、偉い人なの?」
そこへ、燕蓮が興味津々で顔を覗き込んでくる。
「いいや。私は何の役にも立たないただの老人だよ」
そう笑ったが、視界の左端で雁槐が何か言おうと身じろぎしたのに気づき、燕蓮に見えない方の手で制止する。
「ふうん。あ、ねぇ形を借りるってどうやるの?早く教えてよ」
燕蓮が待ちきれないというふうに水盆をのぞいてみたり、鷺丹の肩をゆすってみたりと忙しい。
雁槐が説明を買って出た。
「今、院主様が水盆に水を入れているだろ?その水の中で自分の花を開花させるんだ。すると花が自然と手から離れて水に浮かぶ。その花が浮かんだ水を鳥が飲みに来ると、契約成立というわけだ」
燕蓮は分かったような分かってないような顔をしていたが、
「開花ってどうやるの?」
と、基礎中の基礎を尋ねるという失態をさらしてしまい、雁槐を大いに困惑させた。雁槐が目を白黒させているのを見て、鷺丹はどうしたものかと考えを巡らせる。
「すまない、雁槐。この子は親から開花の仕方を教わらずに育てられたのだ。今から教えてやるつもりだからあまり責めないでやってほしい」
まあ、嘘は言っていないだろう。
雁槐は慌てたように手を振った。
「いや、責めるというか単純に驚いたというか……。最近はそういう家庭も多いのでしょうか?はは、どうもこんな辺鄙な場所に住んでいると、流行りというものに疎くて」
そんな風習が流行った時にはこの国も終わりだな、と心の中で苦笑する。
「いいえ、とても珍しいです。と言うより前代未聞です」
やはりそうですよね、と雁槐はほっとしたような表情になる。
「では、私はこの子に開花を教えますので、あなたはこの水盆を置く場所を決めておいてもらえますか?この家のことはあなたが一番詳しいので」
「もちろんです」
雁槐は即答した。
ふと思いついて、鷺丹は探りを入れてみることにした。
「あの、突然で申し訳ないのですが、睡蓮は知っていますか」
燕蓮がぱっと顔を上げて、困惑した顔で鷺丹を見上げる。なぜそんなことを聞くのかと言いたいのだろう。鷺丹は口に人差し指を当て、何も言わないようにと合図を送った。
水盆を置く場所を探してあちらこちらを見渡していた雁槐はふいをつかれたのか、しばらく何のことを言っているのかわからなかったようだ。
「睡蓮?弔寡の花に?うーん、聞いたことがないですね。人探しですか?」
鷺丹は心の中で良かったと胸を撫で下ろした。今までの感じからして、きっと知らないのだろうなとは思っていたが、これではっきりした。睡蓮の脅威は知る人ぞ知る有名な話であるものの、辺境の民は知らない者も多い。そこに賭けていたのだが、もし知っているようであれば、ここで開花させるわけにはいかなかった。燕蓮の住んでいた麓陽村は燕家の村であるため、知らない人はいなかったに違いない。だからこそ、隠蔽という手段を取ったのだ。
「実は、この子は睡蓮なんです。珍しいので御両親もどうすれば良いのか分からなかったのかもしれません。その上、早くに親を亡くしてしまいましたから、もう教えてあげられる人がいないのです」
雁槐は辛そうに顔を歪めたが、新たな疑問が湧いたのか訝しげな表情になる。
「あ、でも授花の儀式の時に親から教わるのでは?」
確かに、その答えは鷺丹も分からない。二人揃って燕蓮を見た。
「えっと、授花の儀式は村の子供達みんなでやるって聞いてて、俺は楽しみにしてたけど、当日に父上がみんなのところに行くのはだめだって急に言い始めて……なんでって言ったらインカだったら怖いからって」
鷺丹は顔を歪めた。昔は五歳になった子供同士が集まって一斉に花を授かる風習があったが、最近は各家で個別に済ませることが増えていると聞く。それも、弔寡と弔寡から隠華が生まれる異常事態と何か関係があるのだろうか。
「それで、うちの庭で授花の儀式をしたんだ。そのときは、手を握ったら温かくなって、開いてみたら綺麗な睡蓮が咲いたんだけど……。なぜか、もう二度と咲かせてはだめだって言われて……でも三年くらい経ってまたあの花が見たくなって手を握ってみたけど、咲かなかったんだ」
鷺丹は耳を疑った。
咲かない?
大人二人は信じられないというように顔を見合わせて、首を傾げた。
「で、どうしても咲かせたくなって、水が足りないのかなと思って、庭の池に手をつけて咲かせようとしたけどやっぱり咲かなかった。でも、何回も挑戦したら一回だけ咲いたんだ。その時はなぜか最初と見た目も違ったし、根が張って池に固定されたの。けど、俺、嬉しくて、だめだって言われてたのに母上に言っちゃった。そしたら切るって。俺が嫌だって言い張ったらやめてくれたけど、それから花の咲かせ方が分からなくなっちゃった」
弔寡の力を持っているのに、手を握っても咲かせられないなんてことがあるのだろうか。そんな例、聞いたことがない。これもまた睡蓮の特徴だと言うのか。燕蓮から話を聞けば聞くほど疑問が増える。雁槐もしきりに首を捻っている。
根が張ったということは、きっとそれは「開花」をしたわけではない。単純に花を生やしたのだ。弔寡には自分の花を近場に自生させる力も持つ。その場合血液は使わないので、庭に彩りを加えたり、墓参りの献花に使ったりと、日常と関わりが深い。
つまり、この少年は花を授かって以来、一度も開花できていないことになる。鳥の姿を借りられるかどうか不安になってきたが、
「でも花の力を持っているのは事実。きっと練習すればなんなく咲かせられるようになるよ。今から私と一緒に練習しよう」
鷺丹はあえて明るい声を出し、落ち込んでいる燕蓮を元気付けようとした。
「練習する!絶対にまたあの花を咲かせる!」
どうやらやる気になったようだ。嬉しそうに飛び跳ねる燕蓮をなだめて、ひとまず室内に入る。雁槐は水盆の置き場所を検討するため、外に残った。
しかし、鷺丹は気づかなかった。この家の近く、大きな黒い影が空から舞い降りてきたことに。




