第四章 白き玄鳥(二)
足跡は森に入るとほとんど見えなくなり、掻き分けたり踏まれたりした雑草や折れた木の枝を頼りに追いかけるしかなくなった。前日の雨で森は歩きづらく、とても滑る。平野ならば雨上がりは後追いに最適なのだが、山となれば話は違ってくる。一歩一歩に細心の注意を払いながら、木の根を上手く使って登ってゆく。その途中に何度か子供が転んだような跡を見つけた。転がり落ちた様子はないものの、
血痕がないな……
不思議なのは、全く血の跡が見当たらないことだった。あの村では、人間という人間は全て家の下敷きになるか心臓を貫かれるかして、大量の血を流していた。自分で止血したとは考えにくい。運良くたった一人だけ無傷で生き残ったとでもいうのだろうか。村の中心で?ますます疑問は増えるばかりだ。森も奥深くに行くほど、暗く足元が見えづらい。一体どこまで行ったのだろう。特に目的があるような歩みには見えないのだが。
村壊滅の報が来た時間からして、夜に何かが起こったのは間違いない。誰かに攻め込まれたのか、村の内から起こった悲劇なのかは分からないが、海青村が跡形もなく消えていることと無関係ではあるまい。しかし、こうやって考えれば考えるほど当時の状況がわからなくなるのだから鷺丹もお手上げである。いつもなら大抵、現場を見れば何かと見えてくるのに、今回に関しては少しどころか全く何も浮かんでこない。齢五十にしてまた新たな事例に出会ってしまった。本当に、人生なにがあるかわかったものではない。しみじみとそんなことを考えながら後追いを続ける。
なかなか歩いた。ふぅ、と一息ついて額の汗を拭う。少し立ち止まって辺りを見回してみた。人気は全くない。春の木漏れ日が、柔らかく差し込んで葉の上の雫を輝かせている。岩を覆う苔はさながら宝石をまとっているようだ。昨日の夜、村から逃げてきたのだとしたら子供も相当腹が減っているだろうし、距離からして体力も尽きる頃だ。そろそろ追いつけるのではないかと遠くを見やると、ちょうど大きな岩陰へと跡が続いている。一休みでもしているのなら今だ、と足早に近づいていった。岩陰から何かが逃げ出すような気配はない。息を潜めているのだろう。鷺丹はごつごつした岩肌に手をついて、陰を覗いた。
目が合った。
鷺丹は雷に打たれたかのような衝撃を受けた。体は覗いた格好のまま目を見開いて固まる。今見ているものはしっかりとそこにあるはずなのにまるで脳が拒絶しているかのように、唐突に何も考えられなくなった。力無く岩に背を預ける少年の髪は、透き通るような白髪。眉も睫毛も髪と同様に白い。鷺丹と同じく目を見開いてこちらを凝視する目も真っ白で、唯一の色彩は瞳孔に近づくにつれ深い青へと変化している瞳。森の中に届くわずかな光が、少年の髪を七色に輝かせていた。
まさか、そんなはずはない、と必死で自分に言い聞かせる。きっと頭が混乱しているのだ、見間違いだ、こんなところにいるはずはない。いや、いたとしてもすぐ朝廷に見つかって連れて行かれているはず。こんな辺境の地に、こんなに大きくなるまで放っておかれているなんてありえない。絶対に。けれど、見れば見るほど古い書で見た特徴と一致する。鷺丹は突然恐怖に襲われ、いい年にして体が震え始める。もう、どうすればいいのか分からない。今すぐこの場から逃げたい。できれば夢であってほしい。まさかこんなところに睡蓮がいるなんて……
すると突然、こちらを見返す瞳の青がぐっと濃くなったかと思うと少年は這うように逃げ始めた。一生懸命手足を動かし、遠くへ行こうとするが体力が尽きたのかうまく前へ進めていない。よく見ると、右の二の腕に酷い火傷を負っている。その部分に葉が擦れた。相当痛かったのか、少年はうめき声を上げてその場にうずくまる。その姿を見てはじめて鷺丹は我に帰った。
睡蓮どうこうよりもまずは一人の子供を助けよう。
そう頭を切り替える。鷺丹は大丈夫かと声をかけながら少年にかけ寄り火傷の具合を見るために手に触れようとした。すると、
「触るな!」
と、ものすごい剣幕で怒鳴られた。鷺丹は一瞬戸惑ったが、手当をしなければ傷は酷くなるばかりだ。なんとか手当だけでもと説得を試みる。
「しかし、それは放っておいてはいけない傷だ。早く適切な処置をしないと、どんどん酷くなるぞ」
「知らない!あっちへ行け!近寄るな!」
それでも少年は必死にわめいて、逃げようとする。
「全部俺がやったんだ!全部、全部!でも、俺じゃない!俺のせいじゃない!俺じゃないんだよ!」
誰かに何かを必死に訴えかけている。はっ、とした。そうか、そういうことか。この子は被害者じゃない。加害者だ。だから傷もないし、死ななかった。しかも、睡蓮ならあんなこともできなくはない…気もする。残酷な話、あの罪深き希少な花は大量殺戮をするためだけにある。実際何がどうなったのかはまだ分からないが、いずれ明らかになるだろう。
しかし、今はそれよりもこの少年をなんとかしなければならない。ひとまず麒蕾院に連れて帰って、心身共に傷が癒えるまで診てやろう。その中で少しずつ事情を聞き出す。その後の対応や王に報告だなんだのは後で考えればいい。院生の皆はきっと嫌がるだろうが、このまま放っておけば何が起こるか分かったものではない。下手すれば、華大陸が海に沈む……
ああ、そうか。
鷺丹は心の中で手を打った。海青村は消えたのではない。あの海の中だ。津波が起きたのだ。あの辺りが黒っぽかったのも津波が持ってきた泥のせいだ。睡蓮は水を生み出すことはできないが、今ある水を自在に動かせる。津波など朝飯前だろう。
だが、この子供は今混乱している。余計な情報は与えない方が良い。ひとまず敵ではないことを示さなければ。
「大丈夫だ、少年よ。私は敵ではない。そなたを助けに来たのだ」
誠心誠意、心を込めて言ったつもりだった。しかし、少年は落ち着くどころか、かえって不安定になってしまった。
「嘘だ!全部嘘だ、そうやって安心させてまた突き放すんだろう?死んでほしいならさっさと殺せば良いじゃないか!俺の何が悪かったんだ、何を直せばよかったんだよ!」
これは相当な経験をしてきているな、と思った。順風満帆な生活を送っていたわけではないらしい。もしかすると、彼の中で何かが限界を迎えてしまったのかもしれない。人は押さえ込まれるほどその反動が大きくなるものだ。
「自己紹介がまだだったな。私は麒蕾院院主の鷺丹という。鳥の鷺に牡丹の丹だ。そなたの名は?」
すると、少年はきょとんとこちらを見返してきた。少し落ち着きを取り戻したようだ。
「名前……?名前は、燕。そう、燕って言うんだ」
まるで自分自身に確認しているかのような口調だった。
「燕?花の方は?」
「え、花?」
少年は不思議そうにこちらを見る。その目は深く濃い紫。古い書に記してあった通り、感情で目の色が変化するようだ。確か、紫は強く興味をそそられた時の色。その色が濃ければ濃いほど大きく感情が動いていることを示している。つまり、先ほどの濃い青色か表すのは強い恐怖。目の色が変わるだけでずいぶんと印象が変わるが、こうして改めて見てみるとなかなかに端正な顔立ちだ。
「まさか、知らないのか?」
すると少年は慌てたように、早口でまくしたてた。
「花の名前ならわかるよ。うちの屋敷の庭にいっぱい咲いてるし、裏山には大きな桜だって――」
そこでふっと言葉を切った少年は何を思い出したのか、深くうつむいて黙り込んでしまった。
この国で弔寡の持つ花のことを知らない者はいない。自分の花が分からないということは自分の名前を知らないということ。親は本当に何も教えなかったのだろうか。
「では、花を咲かせたことはあるか?」
今度は少年の顔が嬉しそうに輝いた。手を挙げながら、その場でぴょんぴょんと飛ぶ。
「あるよ!真っ白の綺麗な睡蓮!庭の池に咲かせたんだ。すごく綺麗だった。俺はあの花が本当に好き」
そこまで話したところで、ふと顔を歪ませる。
「でも、なぜか父上は摘み取ろうとしてくるんだ。母上も止めないし、俺は嫌だったからなんとかそのままにしてもらったんだけど」
よく喋るようになった。表情も明るく、感情が安定している。だんだんと落ち着いてきたようだ。
「そうか。ではそなたの名は燕蓮というのだな」
少年は、ぽかんとした。
「燕蓮?俺はそんな名前じゃない」
「この国ではそういうきまりだ。先に家柄表す鳥の名がきて、その後に個人の持つ花の名がくる」
燕蓮は依然不思議そうにしている。
「この国って何?家柄って何?」
本当に何も教えられず育てられたのか、と鷺丹は悲しいような残念なような気持ちになる。これは一から教えていく必要がありそうだ。
「あとで教えてやろう。まずは傷の手当だ。その状態じゃきっと飛べないだろうから、近くに誰か住んでいないかどうか見てくる。できることなら、手当もさせてもらおう。少し待ってろ」
「え、待って飛ぶってどういうこと?」
燕蓮は焦ったように鷺丹の服を掴む。ああそうか、と鷺丹は手で額をぴしゃりと叩いた。自分の花も知らないのに、鳥の形を借りているはずがない。自分が飛べるということももちろん知らない。
ふむ、と顎に手をやる。そうなると、なんとか形をとらせて飛ばなければならない。なんといっても麒蕾院は高山の頂上にあるのだ。徒歩は少し無理がある。それ以前に、あの道のりをもう一度歩むなど、鷺丹にとっては悪夢に近い。
「それもあとで教える。大丈夫だ、すぐ帰ってくるから」
「嫌だ。行かないで」
燕蓮は頑なに服を掴んだまま離さない。その目はまた青みがかってきている。どうしたものかと途方に暮れていると遠くから声が聞こえてきた。
「そこにいるのは誰だ?あの村の生存者か?」
中年くらいの男の声だ。ちょうどいい所に、と声のした方を振り返ると、引っ張られていた服が緩んだ。見ると、燕蓮が反対方向へ逃げようとしている。
「おい、燕蓮。戻ってこい。大丈夫だ、きっと助けてくれる」
そう声をかけてもなお逃げ続ける。鷺丹はため息をついて、吐き捨てるように言ってやった。
「何がそんなに怖い?そうやって逃げて、動物に食われたいのか?飢え死にたいのか?なら、好きにすれば良い。私は何も言わない」
そこでやっと燕蓮の動きが止まった。
「助けてほしいなら声に出しなさい。辛いなら辛いと、怖いなら怖いと言いなさい。何も言わなくても誰かが引き止めてくれる、誰かが助けてくれる、そんな甘い考えはこの国では通用しない。今も、助けてほしいと声を上げながら死んでいく子供がこの国に一体どのくらいいると思う?私が、もしどちらかを選ばなければいけないなら、迷わず後者を選ぶだろうな。国はそういう所だ」
しばしの沈黙。燕蓮は森の奥の方を向いたまま、立ち止まっている。その背中からは幼いながらも、大人顔負けの葛藤が見えた。すると、燕蓮は怯えた顔で鷺丹を振り返った。今にも泣き出しそうな顔だ。
「でも……俺の周りにいた人は全員死んだ。俺が殺してしまった。また殺すかもしれない。誰かと仲良くなっても、と……友達ができても、そいつは俺のせいで死ぬんだ。俺と仲良くなったせいで。もう嫌だ。死んでしまいたい。……違う、死なないといけないんだ」
ちょうど、死というものがなんとなくわかってきて、怖くなる年頃だ。そんな時にあんなに多くの死を見てしまえば、心に深い傷を負うのも当然だ。しかし鷺丹は、今こそ彼が成長する大切な節目だと見て、あえて同情は一切見せない。
「なら聞く。なぜあの後、村から逃げた?なぜ行ってほしくないと私の服を掴んだ?死にたいならあの場で落ちている刀なりなんなりで自害すればいい。私が離れている間に獣にでも食われたらいい」
燕蓮の体がびくっと震え、怒られた子供のように深くうつむいた。この年で心の矛盾と向き合うのはいささか酷だと思う。大人でさえ、逃げる腰抜けどもがいる。だが、燕蓮なら乗り越えられると信じていた。話してみて、頭は悪い方ではないと思っている。
燕蓮が顔を上げた。少ししっかりした顔つきになっている。鷺丹は乗り越えたか、と少し嬉しかったが、無論顔には出さない。
「生きたいのだろう?死にたくないのだろう?ならそう言えばいい、助けてほしい、と」
燕蓮は目を見開いてしばらく立ち尽くしていた。そしてうつむいて少し目をこすった後、ゆっくりと鷺丹の元へ戻ってきて、そっと顔を鷺丹の服にうずめる。くぐもった小さな声は、弱々しく震えていた。
「……お願い。助けて。俺は、死にたくない。みんながどんなに俺に死んで欲しくても、俺は死にたくない。たくさん人を殺した。でも俺は生きたい。わがままなのは分かってるけど、死ぬのが怖い。もし死で罪を償わないといけないなら、逃げてでも生きたい。……自分勝手でごめんなさい。殺してしまってごめんなさい」
心の底からの生を乞う言葉と懺悔。その言葉を聞いて鷺丹は安心した。やはりこの子は強い。そう思った。
「おうい。どこにいるんだ。返事をしてくれー」
自分達を探してくれていた存在を思い出した鷺丹は慌てて返事をした。
「ここだ!ここにいる!大きな岩の側だ!」
燕蓮の頭を撫でていた手を離し、岩陰から出る。遠くで辺りを見回していたのは、三十路を過ぎたくらいの体格の良い男だった。淡い黄白色の髪は豊かに波打っており、癖毛なのかあちこちにはねている。しかし、顔の方はなかなか強面で武官を思わせる目つきだったが、明るい短髪のお陰で少しやわらかく見えた。
「すまない、こちらに怪我人がいるんだ。手助けを頼めないだろうか」
そう声を張り上げると、男は心配そうに駆け寄ってきた。
「出血は?」
「いや、酷い火傷のようだ」
男は岩陰を除いて燕蓮の傷を確認した。
「これは酷い。私の家が近くにあるから案内しよう。物は少ないが手当くらいはできる」
「ありがたい」
会話もそこそこに男は二人を先導し始めた。燕蓮の体力も限界だろうし、なにしろ火傷してから結構時間が経ってしまっている。早急に冷やして乾燥を防げば、なんとか数週間で飛べるくらいには回復できないものだろうか。その間に、燕蓮にこの世界を教えてやらなければならない。
それに、燕蓮には酷だが一応大量殺人を実行した者として然るべき罰は受けることになる。子供であるし、きっとあの様子だと殺そうという意思もなかっただろうから、さすがに断罪にはならないだろうが、何しろ睡蓮がやったことというのが朝廷としては詰めて話し合わなければならないところだろう。
この先のことを考えると憂鬱だが、生きたいと願う子供を助けるのは麒蕾院院主である依然に人として正しいことであるのは間違いない。けれど、きっとこれからこの国は荒れるだろうなと思う。それは避けようがない。が、大事なのはいかに損失を最小限にするかだ。睡蓮が生まれた以上、果たしてこの国に残るものがあるのかどうかは怪しいが最善は尽くさなければならない。
今日自分が偵察に来なければ、この国の未来は大きく変わっていたかもしれないと思うと胸が潰れそうなほど苦しい。だが、来たことで最悪の事態を防いだのかもしれない。それは神のみぞ知ることだが、相手に生きる意思があって、助けてほしいと言われたならば無視はできない。麒蕾院で育ったということはそういうことだ。だから、燕蓮に生きたいと願ったことを後悔させたりはしない。絶対に。
たとえそれが終わりの始まりだったとしても。




