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幻影の華  作者: 知瑪坂 斎
第1巻
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序章 いまわのかみ

憐憫の情をもって、ここに記す。

 

 禁苑、近づくべからず。

 朱繊、守るべし。

 同胞を慈しみ、殺めるべからず。

 空虚を恐れず、空を駆けよ。

 凛々しき慈鳥を敬う者、強靭なり。

 垣根の花をも愛づる者、尊人なり。

 

 栄華は争いの先に。

 衰弱は閑却の果てに。

                

                 ―幻神大綱(げんしんたいこう)

「嗚呼、また駄目だったか」

 と、我が(あるじ)は言った。

「この国の者はどいつもこいつも馬鹿でかなわん。いつまでたっても変わりゃせん。わたしはもう飽きたというのに」

 その言葉とは裏腹に、とても楽しげな声が響く。

 私は少し視線を上にずらした。この果てしない空間にただ一つ根を張る桜の大樹。その立派に伸びる太い枝の上に、一人の少女が座っていた。彼女はぶらぶらと足を揺らして、どこか遠くを見ている。

 不意に高いような低いようなひび割れた声が、空気をゆらした。どうやら笑っているらしい。

「さあ、次はどうしてやろうか」

 言葉の端々から口角が上がりきっているのが分かる。全てを意のままにできる、その興奮が伝わってくる。

――止めなければ。今度こそ。

 私は反射的にそう思った。

 桜を囲うように広がる無数の人間。等間隔で並べられているそれらは皆、主に向かって深く頭を下げ、献花礼(けんかれい)をとっている。しかし、彼らは文字通り微動だにしなかった。主の独り言が虚しくこだまする。静寂が訪れた。誰一人として、みじろぎ一つしない。ただうつむいて何かを待っている。いや、もうなにも待ってなどいないのかもしれない。少なくとも、彼らが待つ何かはここ数千年の間、一度も訪れてはいない。それだけは確かだ。

 それ以前に、彼らを人と呼べるのかどうかすら怪しい。まるで人間の形をした置物のようだ。肌は枯れ枝のごとく茶色く変色し、ただ骨に皮を貼り付けたのみとなって、到底人間とは思えない見てくれである。

 (ひざまず)き、深く(こうべ)を垂れて手を胸の前で重ねる。()()()()()、その手のひらの上には美しい花が咲いているはずなのだ。咲くはずのない花をひたすらに捧げようとする彼らは、とても惨めで、悲しい。葉を落として幹と枝のみが残った木々が、暖かな春を待っている。そんな景色だった。春など、来るはずがないのに。

――止めなければ。なんとしても。

 主は枝の上に立ち上がって、軽く弾みをつけ始めた。枝がしなり、咲きけぶる桃色の花が散って霧散する。まだ消える前の小さな花弁が、頬をかすめていった。

 最近、主はこれが楽しいらしく、ことあるごとにこうして遊んでいる。もう散々散らしてきたはずなのだが、当の桜は一向に花を減らす気配がない。少し前までの、花の一つも咲いていないあの弱々しい姿は一体どこへ行ったのだろう。心なしか幹も太くなっている気がする。しかも、この桜に呼応するかのように、主もまた元気になっていった。理由はわからないが、どうもこの桜は普通ではない。

 その舞い散る花びらと、かすかな甘い匂いは、私の遠い記憶を呼び起こした。柔らかな陽の光を浴びて輝く桜吹雪。その中に立つ一人の男。顔はわからない。つとその男は手に持っているものをこちらへ向ける。ぎらりと光る鋭利な銀色。刀だった。

 突然辺りが血生臭いにおいで満たされる。苦痛に歪む顔、悲鳴、焼け跡、累々と積まれた死体、ちぎれた手足、何も見ていない目、湯気を上げている内臓とその生暖かい空気。

 ふと我に返る。主は桜散らしに飽きたのか、また枝に座って手持ち無沙汰に花を手折っている。嫌なものを思い出した。なんとなく隣を見やる。そこにはもう一人「自分」がいた。厳密には姿形の違う、もう一人の自分だ。

 この長い長い年月の中で、その人は決して微動だにせず、ただその場に屹立(きつりつ)して、前を見ていた。とっくの昔に死んだその目は何を見ているのだろう。我ながら、自分がわからない。もっと言うならば、あの楽しそうな彼女も「自分」であるはずなのに、わからない。何もわからない。わかりたいとすら思わない。

――止めなければ。

 止めることなどできないと(わか)っている。それが何のためにもならないことも。ならば、この得体の知れない義務感は何だ?こんな姿になっても、人間の感情というくだらない部分だけがこの身に残ってしまったのか。それでは、ただ苦しいだけだ。

 過去に一度だけ主に懇願したことがある。この煩わしい感情をどうにかしてくれと。楽にさせてくれと。もう限界だと訴えた。しかし、主は首を振ってこう言った。記憶には感情が必要なのだ、と。

――止めなければ。

 理解ができなかった。ただの記憶のためにこんな地獄を経験しなければならない理由が知りたかった。だが、主ははっきりと答えてくれなかった。ただ寂しそうに笑って、わたしには記憶が全てだから、と言うだけだった。

 無性に腹が立った。そんなものに私を巻き込むなと怒鳴ってやった。怒りの感情などもう久しくなってしまったが、その頃はまだ純粋だったということだろうか。怒鳴られた主が、ひどく怯えた顔をしたのをよく覚えている。その後の、蚊の鳴くようなか細い声も。

「でも、あなたは、わたしなんでしょう?」

――止めなければ。

 主が枝から飛び降りた。ふわりと衣が舞う。まるで高さを感じさせない着地は、既に彼女が人間から遠く離れた存在であることを証明した。軽く服を払うその姿は、どこにでもいる幼気(いたいけ)な少女そのものだ。彼女は遊び疲れた子供のようにその場でぐうっと伸びをした。

「ふぅ、やはりこの世界はすばらしいな。わたしは今、とてもたのしいよ。たのしくてたまらない」

 少女は目の前の全てをいとおしむかのように両手を広げた。そして、ぱっと私を振り返ったかと思うと輝くような笑顔を見せた。

――止めなければ……。

 その顔は、なぜか泣いているように見えた。

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