序章
憐憫の情をもって、ここに記す。
禁苑、近づくべからず。
朱繊、守るべし。
同胞を慈しみ、殺めるべからず。
空虚を恐れず、空を駆けよ。
凛々しき慈鳥を敬う者、強靭なり。
垣根の花をも愛づる者、尊人なり。
栄華は争いの先に。
衰弱は閑却の果てに。
―幻神大綱―
「嗚呼、また駄目だったか」
と、我が主は言った。
「この国の者はどいつもこいつも馬鹿でかなわん。このままじゃ、いつまでたっても変わりゃせん。わたしはもう飽きたというのに」
その言葉とは裏腹にとても楽しげな声が響く。
私は自分の右前に鎮座する豪奢な椅子を見た。ここからではその高い搨背しか見えないが、この果てしない空間にぽつねんとある孤高の椅子は堂々と主を乗せ、心なしか誇らしげだった。
からから、と甲高い奇妙な笑い声が聞こえる。
「さあ、次はどうしてやろうか」
――止めなければ。今度こそ。
私はほとんど反射的にそう思った。
視界いっぱいに広がる無数の人間。等間隔で並べられているそれらは皆、主に向かって首を垂れ、献花礼をとっているが、我が主の独り言に何の反応も見せない。あまつさえ、彼等から人の生気というものを感じ取ることすら難しい。まるで人間の形をした置物のようだ。肌は枯れ枝のように茶色く変色し、ただ骨に皮を貼り付けたのみとなって、到底人間とは思えない見てくれである。
唯一無二の存在にただ花を捧げる幾千万本の枯れ枝達。あまりに長く彼等を見ていると、一体どういう経緯でここにいるのだろうと思わずにはいられない。どういう人生を経て、何を見てきたのか、知りたいと思う反面、それらが決して明るいものではないと知っているから気が重くなる。ああ、地獄を見るような暗い話には、もう慣れたと思っていたのに。
――止めなければ。なんとしても。
主は椅子の肘掛けに頬杖をついて妄想に浸っている。搨背から覗いている白く華奢な腕はいかにも健康そうだ。進言するなら今しかないと頭の中で誰かが叫んだが、また別の誰かがそれを拒否した。一僕でしかない私の言葉など到底聞き入れられないことは今までの経験から判っている。
もういい加減、嫌気がさした。苦痛に歪む顔、悲鳴、焼け跡、累々と積まれた死体、ちぎれた手足、何も見ていない目、湯気を上げている内臓、血のにおい。
やっと嫌になった。真実を知っている自分も、それでいて残虐な行いの数々を当然のように看過してきた自分も、全て。
椅子を挟んだ反対側に立つ、もう一人も同じように思っているだろうか。言葉を交わさなくなってどれくらい経つのだろう。共に自分の信念を貫こうとがむしゃらに走って、躓いて、転んで、また立ち上がって、頑張ろう、そう言って笑い合った遥か遠い記憶。この狂乱に満ちた森を抜けた先にはきっと明るい未来が待っている、そう信じて疑わなかった。だから、己の手が血で染まっていくのも、無辜の民があっけなく花と散るのも、見ていて苦しくはなかった。全ては素晴らしい国にするための仕方のない犠牲なんだと、自分はそれに貢献しているだけなんだと己に陶酔して、誰もその過ちに気づくことはなかった。仮に気づいたとしても何も変わらなかったのだろうが。
隣に目をやってみる。この長い長い年月の中でその人は決して微動だにせず、ただその場に屹立して、前を見ていた。やはり真面目だ、と思う。とっくの昔に死んだその目は一体何を見ているのだろうか。彼も、終わって欲しい、そう思っているだろうか。永遠などという生ぬるい言葉では言い表せないほどの、この地獄が。この痛みが。
名前も、忘れてしまった。
――止めなければ。
止めることなどできないと解っている。それが何のためにもならないことも。止めたいと思うことすら煩わしい。もういっそのこと、何も感じなければ幾分か楽なのではないだろうか。こんな姿になっても、なぜ人間の感情というくだらない部分だけがこの身に残ってしまったのか心底、不思議だ。
――止めなければ。
それでも、この頭の中で鳴り続ける警鐘は果たして私の意志なのだろうか。あるいは、今までの……
主が立ち上がった。ふわりと衣が舞う。その姿はどこにでもいる幼気な少女そのものだった。彼女は遊び疲れた子供のようにその場でぐうっと伸びをする。
「ふう、やはりこの世界はすばらしいな。わたしは今、とてもたのしいよ。たのしくてたまらない」
少女は目の前の全てをいとおしむかのように両手を広げ、ぱっと私を振り返ったかと思うと輝くような笑顔を見せた。
――止めなければ……。
その顔は、なぜか泣いているように見えた。