舞踏会には正装で
「?!……夢か」
まぶたをひらいたノランは、辺りを見まわして現状を思い出した。壁のつまみをきんきんにして、いつもの水の温度に心を落ち着ける。
普段より温かい温度に、心臓がばくばくしている。懐かしくもにがい夢だった。
ふと部屋の端を見ると、こちらをじっと見てにやにやしてる男がいる。気配を感じず、目を離せば消えてしまいそうな存在感の人間のようだが、この場で汚れの目立つ服を着ている違和感に、警戒を強める。
「何の用ですか?」
「へへ……散髪屋ですよ、旦那。いい髪をしていらっしゃる。が、その髪型はすごく勿体無い。ひとつ、私に任せて頂けないですかね?」
そう言って、ノランの細かく編み込まれた長い髪に手を伸ばす。
「失礼します」
返答する前に扉越しに、ノックと共に体格の良い雄山羊頭の男が入ってきた。きっちりとした白襟シャツを肘まで腕まくりし、ベストと折り目の揃ったパンツはほこりひとつない黒。
「風呂屋でございます。黒羊執事から身支度の手助けをするようにと……おや、偽羊ですか」
「ひっ!ご勘弁を。ちょっとつまみ食いする位いいじゃないですか」
雄山羊頭は汚れた男を睨みつけると、扉外へ乱暴に放って扉を閉めた。
「お客様には大変失礼いたしました。最近は羊を騙る厄介なものが増えておりまして。きちんと駆除が行き届いていおりませんで、申し訳ございませんでした」
「いや、こちらとしては実害がなかったので大丈夫です。ありがとうございます」
「ご理解ありがとうございます。黒羊執事からの指示で、お手伝いをさせて頂きたいと思いますが……少々洗いが足りない様ですね。この舞踏会には大事なお客様が多々いらしておりまして。人間臭い事を嫌う方々も何人かいらっしゃいます。双方に気持ちよく過ごしていただく為にも、できる限りの洗浄が好ましいです。申し訳ございませんが、こちらで処理させて頂いてもよろしいでしょうか?」
ここでは人は下位の存在だ。だからと言って迎合するような振る舞いを人外達は嫌う。とはいえ、あちらから見て生意気な、と思われないような言い方を考える。ふと、書庫の司書の来訪者への対応ならいける気がして、真似してみる。
「綺麗にして頂けるのは大変ありがたく、こちらからお願いしたいです。しかし痛い事や怖い事、後々こちらが望まない様な処置は辞退させて下さい」
「承知致しました。洗浄魔術で除去いたしますので、そういった事はないと思いますが、異変がありましたらお知らせください」
そう言って雄山羊頭が指を軽く振ると、全身の肌がすっきりした。
そして予備に張ってあった一月かけて張る防御結界も3段階ほど削られた。決してよろしくはないが、残り5段階と基礎結界があるので、不審がられずにいる為には必要な損失だろう。
「それではしたご……保湿させて頂きますね」
「したご?」
辞退したかったが、雄山羊の勢いに負け、ハーブの香りを魔術で均等に塗り込まれてしまった。
◆
皮膚の上の水分油分の感覚に違和感はあるが、なんとか風呂は終わったらしい。
促されて風呂場から出ると、その先は家具師の特別教本で見た様な優美な鏡台だけがぽつんとある小部屋だった。
部屋の扉は風呂へ続く一つのみ。裸の状態でどこかへ行く気はなかったが、囲い込まれたような閉塞感を感じる。軽く呼吸を整えて気持ちを落ち着けた。
どうやら黒羊執事と言うらしい、最初の羊頭の声がふってきた。
「以前のサイズでは合わないようですので、備え付けの衣装部屋をお使い下さい」
「え……?俺の服を返却いただけませんでしょうか」
「申し訳ありませんが、季節の祝祭へお越しである以上、正装以外は許されておりません。クロークにて全てお預かりしておりますので、どうかご安心を。お帰りの際にはきちんとご返却いたしますので、どうぞこちらをご利用くださいませ」
裸でいるより服を着た方がいいのは確かだが、ここは人間に向けた場所ではない。それにここの服は場の管理者たる人ならぬ者達が、魔術で編み出したものだろう。いざという時に拘束着になったり、望まぬ行為をさせられる可能性を考えると、あまり身に付けたくない。とはいえ背に腹はかえられない。
せめて、とこっそり取寄せの魔術を使うと、書庫の鍵を手の内に取り戻すことができた。特にこちらを咎める様子もないので、いつものように、首から下げる。これでせめて自分が誰の名代か、という身の証にはなるだろう。
念のため、未を預かる六角岩の羊飼いとして、書庫に初めて入った時に行った誓いをもう一度誦じる。
ここは『羊季の舞踏会』だ。羊飼いに意味があることを祈り、着衣に挑むことにする。
覚悟を決めて台の前に立つと、卓上に置かれた薄い本を開いた。
本には一文だけが記載されている。
『←手動/推薦→』
どうやらページをめくる形式らしい。
しかし、どうやっても推薦のページしか開けない。
『←紳士服/淑女服→』
推薦をめくると出てきた文字に紳士服を捲った。
『下着(さらりふっくら用) 次へ→』
ページの文字を読むと、机の上に布が現れた。
色形からするとどうやら下着の様だ。触るとふわふわさらさらで何故か良いパンの香りがする。
とりあげると下着が手から逃げる様に、床に落ちた。
「おい、お前!ここに足を通せ」
「え」
「いいから通せ、ほら早く!」
下着に命令された。有無を言わせぬ言い方にむっとするが、どうせやる事は変わらないので、落ち着いて足を通すと、下着が身体を登ってきた。身体に沿う位置に来ると、止まり、そのまま静かになった。
また鏡台の布から声がする。
「終わったなら今度はこっちだ。ほらここに腕を通せ。違う、違う!そこは首だ!」
叫ばれた。耳が痛い。正しい位置に身を通すと、こちらもするりと身に沿う位置に勝手に移動し、そのままただの下着になった。
全てを身につけたので、ページをめくる。
『下着(添加用) 次へ→』
現れた白い襟シャツは、パリッとした肌触りだった。おそるおそる袖を通すと、一見薄い布のように見える。しかし不思議な事に、シャツからは羊の気配がした。
首を傾げながらも、開いた前を閉めようとすると、シャツから猫撫で声がした。
「小さいおぼっちゃん。あっしを着るならね、ボタンは下から穴に合わせてとめるんですよ。留め方は分かりますか?」
「ありがとう。下から順に留めるんだね。これでいいだろうか?」
疑問に返ってくる言葉はなかったので、次のページを捲った。
『下袴(スパイシー用) 次へ→』
深い紺のそれをそっと床に置き、片足を通すなり、パンツが低い声で叱責してくる。
「裾を踏むな!」
「すまない、着慣れていないから難しいんだ……」
履いてしまったら、すっかり黙ったので、いいのだろう。そっとページを捲る。
『腰留(蔦柄飾り) 次へ→』
金具飾りが立派なベルトは現れるなり、こちらに横柄に命じてくる。
「パンツの外側に俺をまけ。ベルト紐はお前には無理だろうからこちらで通す」
いい大人なのでできるはずだが、とりあえず黙って言われた通りにして勝手に止まってもらう。もういいだろう。ページを捲った。
『襟飾(飾り) 次へ→』
現れた細長い布は古書の様な落ち着く香りだったが、着方が分からなかった。……手拭いだろうか?パンツの隠しに仕舞おうとしたら、布に手をはたかれて襟は首だと正しい位置に直された。そして勝手に結ばれた。
はたかれた手をさすってページを捲る。
『 袖なし中衣(追いコク) 次へ→』
特に何も言わずに静かなので、濃灰青のベストに袖を通してボタンを留めた。最後のボタンまでくると、一つずつずれてると金切り声で罵られた。……良いバターのような匂い?
なんとかすべて留めなおし、ページを捲る。
『上衣(香りつけ) 次へ→』
薄い灰青のジャケットは手にとると、静かにため息をつかれた。
「あんた……どうしてこの舞踏会に参加するんだ?あんたは人ながら未の匂いがぷんぷんする。生贄になりにきたのか?」
「ここははじめてだから、勝手が分からなくて……すまない。俺は自分の羊を探しているだけなんだ」
「未探しねぇ…あんたは帰った方がいいと思うよ」
「心配してくれてありがとう。でもうちの子が迷子らしいから、見つけて守ってやらなければ」
返事はなかった。次のページをめくる。
『靴(子羊皮) 次へ→』
月色の靴は鏡台の下に現れた。おずおずとして見えたので、こちらから声をかけてみることにした。
「やあ、とても柔らかくて履き心地の良さそうな靴さん。申し訳ないけど、履かせてもらうよ」
先に声をかけてはくと、素直に履かれてくれた。次のページをめくる。
『装飾品(指輪・腕輪・首飾り・帽子・眼鏡)』
今までと違い、装飾品のページには幾つかの品物が載っていた。品物の文字を指で触ると品物があらわれるようだ。眼鏡を選んだが、ベタベタはしないが飴の様な甘い匂いがする。
というか、どれもいい香りがする。昔メリィさんが作ってくれた料理の下準備の様だ。
しかし服たちが協力してくれたおかげで、概ねきちんと着られた様だ。
疲れた。しかしこれで気兼ねなくうちの可愛い羊を探せるはずだ。気を引き締めていこう。