懐かしい夢
ノランは今夜、この部族、群れを離れる。
ここのところ、徒党を組んだ野犬の襲撃に連敗しているこの群れに係累なし、族なし児を養う余裕はもうない。
掟に沿って離れるとはいえ、準備を皆が少しずつ手伝ってくれていたから、心残りはなかった。
中心の天幕に集まってくれた皆に、これまでの感謝と挨拶をしてまわる。
皆は彼の手にそっと餞別を持たせて、別れの言葉をくれた。御守りの編み紐に、敷いても掛けても暖かいぶ厚い膝掛け、とっさに袖口から出せる小さな石の隠しナイフ、わざわざ仕立ててくれた新しい履物。
ノランはそれらを大きな鞄に詰め込むと、最後に族長に別れを告げた。
「掟に従い、群れを離れる事になりました。どうか、ここから先はこの髪を群れに役立ててください。」
教わってきた、しきたり通りに短刀で幼い頃から編み込んできた髪の一番長くて丈夫な一房を落として群長に渡す。
少し短いが触媒として、役に立つはずだ。
群長は眉間にシワを寄せたまま、ノランを一度ぎゅっと抱きしめた。
「お前の機転で群れはここまで来る事ができた。一緒にいてやることができなくてすまない。ここから先お前の分まで群れを守る。独り立つお前なら、あの六角岩の街まで辿り着ける。街が受け入れるかはお前次第。もし街が駄目だったら、荒れ山に登ってみる事だ。ノラン、お前なら大丈夫だ」
草の波に夏霧の雫が宿る広大な大草原の端には、青く険しい東峰山脈が聳え立つ。羊馬の民は今日も良い土地を追い、風向を占っている。
旅する者には見えないらしいが、大草原を生きる者にとって、良い土地とは積極的に逃げるものだ。昨日良い土地だと居を構えたからといって、明日まで良い土地だとは限らない。羊達の好物の近くには食べてはいけない草の群生地があるものだし、逆にあの草が少ないのに好物が茂る所には、狼や方の肉食の巣穴が近い証拠だ。
……いや、もう気にするまい。気持ちは髪と一緒に群長の所に置いてきた。
こんな独りの気持ちを感じるのは初めてだった。
感じた事のない気持ちに新鮮さと不安を覚えながら、大草原をひとり歩きはじめた。
◆
彼女を見かけた時、お日様が笑ったとノランは思った。
ひと月かけて大草原を渡り、はじめて荒れ山に登った日。
初夏を告げる山渡りの風が、彼女の方から駆け降りてきて、ノランの心を持ち去ってしまった。
彼はふわふわとした心地のまま挨拶した。
「お初にお目にかかります。六角岩の羊飼いは貴女ですか?」
「違うけど」
「え」
「強いて言えば代理かな。さあ、もうすぐ日が暮れる。番犬が帰ってきたら夕飯にするから、そこの井戸で手足を洗っておいで。家に入って手前右、若芽色の扉の部屋に荷物置いておいで」
「井戸……?……わかめ?」
「教えてあげるからこっちにおいで。特に手洗いはきっちり覚えて。きりきり頑張るんだよ」
「頑張る……何をですか?」
「おっと、そこから?……街のやつらめ、何も教えなかったか。私はメリィ。私の事は師匠と呼ぶように」
「分かりました、メリィさん」
「師匠と呼びなさい」
「群長――部族長が全てに警戒するように、と」
「群長ね。その言い回しだと……ラムダかな」
「知ってるの?」
「律儀に毎年羊一頭分の対価を支払ってる奴は珍しいからね。君がそこの子だとすると……ノラン君か。ここまでひとりで旅して来たの?良く頑張ったね」
「……ありがとうございます」
群れから離れては、心折れる事ばかりだった。
草原はひとりで渡る人間には厳しかった。
使える人間を求める街は、全てがはじめてのノランを受け入れる気はなかった。
それでもここに来ればどうにかなるかもしれないと、ただここを目指した。
でもだからってこんな風に言ってもらえるとは考えてなかった。
その後、手押し井戸というものを教えてもらった。水を一人で沢山汲み上げる事ができるらしい。今まで川や雨水を溜めて使っていたノランにはそのまま飲めるという冷たい水が不思議でならなかった。
後から書庫の存在を知り、夜燈の書庫にはそんな叡智が詰まっているのだと、強烈に焼き付いた思い出だった。
◆
静かにたたずむ満月に手を伸ばすような柱状節理。
その崖の先端に美しい扉がある。艶やかに月光を反射する濃紺の扉には、鍵の取手がついたままだ。この扉の主になる事は彼女の居場所を奪う事だと、ノランは知っていた。それは彼女の後悔を否定する行為だとも。
覚悟を決めて服で手を拭うと、扉に手をかけた。
「今は俺が六角岩の羊飼いです。」
この頃メリィさんは対価を書庫に支払いすぎて、彼女の存在も意志も身体も虚ろで希薄になっていた。本来であれば、生来の力と人からの信仰でこの辺りの誰よりも、何よりも力強く美しい、高位の人ならぬもののはずなのに。
先代の六角岩の羊飼いに後を頼むと言われたからと、メリィさんはノランが生まれる遥か前から合わぬ魔術を纏って人以外にはなりえぬはずの六角岩の羊飼いの代行をしていた。
夜燈の書庫は魔術階位によって対価が違う。階位が高いものがここで簡単に知識を得ることは、とても高価な対価が必要だった。
それなのに、彼女は何かあるたびに身を削って対価を支払い、書庫の知識を駆使して羊飼いとしての義務を果たしてきた。
ノランには自分の横にいてくれたこの人に、これ以上我慢して欲しくなかった。だから、覚悟を決めた。
彼女はこちらをじっくりと確認する様に見つめた後、小さくひとつ頷いた。
「……そう、なんだね」
彼女の姿が解けていく。その中で、彼女の眉はひそめられ、目は潤み、でも口元は浅く笑みを浮かべている様にも見えた。
解けた姿は空に登って、月の真下に白く美しい竜になる。
おぉん……
高く遠くからの声をのこして、彼女はこの地域から姿を消した。