俺自身による露田遥人
紅茶に入っていた氷が音を立てて落ちる音がして我に返った。すこしだけ、すこしだけ考え事をしているだけのつもりだった。ここの喫茶店は立地がいい割には人が少なくて、平日の昼間にはほとんど人はいない。だから、聞こえるのはこうした些かな音とかちょうど隣の窓から聞こえてくる鳥たちの囀りぐらいである。それも今日はあまりしない。
「虫の音すら聞こえない場所には立ち寄ってはいけない」ということを知っているだろうか?それは、たとえば森の中、普通は虫であるとか鳥であるとかの鳴き声がするというのに、唐突に鳴きやんで聞こえなくなる瞬間がある。そうしたときは、その木々の奥になにか「よくないもの」が潜んでいて、だから立ち寄ってはいけない、とかなんとか。だから、この静けさも、もしかしたらそういう「よくないもの」が近くにいることの証左なのかもしれないと思えてきた。
「遥人が交通事故で死んだ」と聞いたのは、つい数日前のことだった。
人には、その人が死んではじめて恋に落ちるということがある。この場合は完全にそれだった。彼と過ごした時間はそう長くもなかったし、むしろ彼からの好意を無碍にしていたのはこっちの方だったと思う。何度かふたりでこの美術館に来ることもあって、そのときは毎回嬉しそうに絵画の講釈を垂れてきて、うるさい奴だと思って心底うんざりしていた。そのせいもあって、さっき常設展を見て回ったときはいやに静かに思えた。《セーヌ河の朝》。クロード=モネの作品だ。三週間ぐらい前にここに来たとき、「モネが55歳の頃の作品だ、どこまでが河でどこからが森かさえ分からなくて一体となっている、彼の唯物論的な世界観がわかるかい?」と彼は私に問うてきたのをよく覚えていて、その声まではっきりと耳に焼き付いている。俺にしたら彼の話す言葉はいつも高尚すぎてよく分からなかった。構造がどうとか、写真がどうとか、文学がどうとか、俺はその言葉のどれ一つさえ分かっていなかったように思えるけど、俺は俺なりに背伸びして分かったような返事をして、そのたびに彼はいい指摘だ、その言葉を待っていたんだよといった風なことを言って話を合わせてくれていた。
遥人とは中学生からの付き合いである。俺と遥人はよく公園なんかに集まってサッカーをしたり、学校でいっしょに勉強をしていた仲だ。高校からは別のところに行って、大学も違うところだったが、一応関係は続いていた。だけど、俺と彼とでは明らかに生きてる世界が違かった。彼の才能は大学に入ってから途端に評価されだして、遥人の周りにはいつも偉い大人がいた。それでも彼はずっと俺には対等でいてくれようとしていたし、難しい話を俺にしてくれていたのも、それが理由だったんだと思う。俺もそれに応えようと思っていたけど、途中から無理が来る。彼と自分との才能の差は歴然となるばかりだった。俺が彼に対して冷たくあたるようになったのはそれからだった。要は、さっきも言ったとおり幼稚な苛立ちだったんだ。もうこんな俺のこと構わないでくれよ、もうお前にはお前の世界があるんだろ、そう言いたくなっていった。
俺は、これだけ長い時間いっしょにいたっていうのに、遥人のことをなにも知らない。彼の両親とも面識がないし、葬式がいつとか墓はどこになるとかさえ知らない。訃報も、学部生時代の友人から回ってきたメールではじめて知ったことだった。
葬式がいつ執り行われるのかは知らない。彼の墓の場所さえ知らない。でも、その偉い大人たちはこの美術館を知っているんだろうか?俺と遥人が時間をともにしたここの美術館を知っているのか?遥人は死んだ、だからもう彼の周りに偉い大人たちはいない。
この喫茶店は、さっきからまったく音がしなくて、俺がこれを日記にしたためている音だけがずっと響いている。店員は本当にいるんだろうか?本当にいたんだろうか?この静けさは「よくないもの」のせいだと思うか?仮にそれが「よくないもの」のせいだとして、君は本当にそれが「よくない」と思うか?
もう彼の周りには、君の周りには偉い大人も家族も誰もいない、この美術館にいるのは、俺たち二人だけだよ、遥人。