小さな赤い竜
こういう場合、どうすればいいんだろう。
パニックになりながら、それでもリモールは何とか必死に考えようとした。
だが、努力はあっさり空回り。とにかく逃げよう、とは思うのだが、気が付くと完全に座り込んでいた。
足に力が入らない。もう立ち上がれそうになかった。これが、腰が抜けた、という状態なのか。こんな所でこんな初体験をしたくはなかったのに。
リモールの目の前に現われたのは、竜だった。
全身を鮮やかな赤い鱗におおわれ、瞳もルビーのように赤い。頭には枝分かれした黒い二本の角があり、爪も鋭い。背中にはコウモリのものに似た形をしている翼。骨組みに皮の膜を張ったような翼で、色は身体より少し薄いが、やはり赤。
リモールはこれまでに本物を見たことはない。だが、これはどう見たって「竜」と呼ばれる生き物だ。まさかこんな所で本物に出会うとは思ってもみなかった。
ただ、その大きさは仔ねこほど。小さな竜が背中の翼をはばたかせ、滞空しているのだ。
相手が小さいからって、油断しちゃいけないわ。竜はすごく魔力が強いって聞いたことあるもん。小さくたって、竜は竜よ。
リモールが幼い時に読んだ絵本の中に、竜が出て来るものもあった。魔法使いと仲よしだったり、敵対していたり。物語によって性格や状況は違うが、どんな立場であっても竜の魔力は強い、という設定になっていたはず。
きっとこの竜も強いはずだ。小さいのは、屋敷の中にいる時に大きいと動きづらいからに違いない。外へ出てしまえば、天を突くような巨大な竜になるはず。この建物よりもずっと大きく。
そうなれば、リモールなんて一口で終わりだ。
きっとあいつとグルなんだわ。お茶を用意だなんて言ってたけど、あたしはお菓子程度のエサな訳?
同じ喰われるにしても、メインディッシュと単なるお茶請けでは、ずいぶんと差がありすぎて気分が悪い。悔しいのと、やっぱり怖いのとで涙が浮かんでくる。
「どうしたっ」
悲鳴を聞き付けて、アッシュが部屋へ飛び込んで来る。
リモールはぐずぐずと色んなことを考えていたので時間が長いように思えたが、実際には悲鳴が聞こえてほとんど間を置かずにアッシュは現われていた。
「えーと……どうしたんだろうな」
座り込むリモールと、それを見て困った顔をしている竜を見て、アッシュはため息をついた。今の状況から、だいたいのことが想像できたからだ。
「びっくりさせるなよ」
「そんなつもりじゃなかったんだ。オレは素直に歓迎の意を表わそうと思っただけで」
竜が人間の姿であれば、肩をすくめていそうな口調だ。
「魔法使いの家へ来るくらいだろ。だから、これでもいいかなって。こっちの方が『きゃー、かわいいっ』ってなると思ったんだよ」
竜の声だけを聞いていると、十歳前後の男の子がしゃべっているみたいだ。
「残念ながら、その『きゃー』の中身が違ったな。こいつ、ここが魔法使いの家ってだけで、門に魔法がかけられてる、なんて思い込んでたんだぜ」
「あれ、そうなの?」
アッシュと話していた竜が、リモールの方を見る。
「まだ話は聞いてないけど、何も知らない田舎者ってことだけは確かだ」
「アッシュ、それは失礼だぞ」
少しパニックもおさまり、理性が何とか働くようになってきたリモールは、竜の言葉に心の中で「そうよ、そうよ」と合いの手を入れた。
「少なくとも、街の人間じゃないぜ」
確かに田舎者だけど、何も知らないって部分は余計よ。……そりゃ、何も知らないけど。
「んー、まぁ、それはそうなんだろうけれど。言い方ってものがあるぞ」
「悪かったな、言い方ってものを知らなくって」
「オレはいいけど、お嬢さんの方に悪い」
あれ? この竜って、もしかして味方なのかな。
話を聞いていると、竜の方がずっとリモールに気を遣ってくれている。
思い返せば、アッシュは「バカ」と言ったが、この竜はリモールを「かわいい」と言ってくれた。お世辞であっても、気分が全く違う。
アッシュが、座り込んだリモールの方へと近付いて来た。何をするつもりかと、リモールが身構えていると、手を差し出される。
「立てるか」
リモールはこれまで男性からこんなふうに手を差し出されたことはなかったが、なぜか反射的にその手を取っていた。逃げようと思ってもまるで力が入らなかった足腰が嘘のように、彼の手のおかげですっと立ち上がれてしまう。
何度も「バカ」と言った男が相手だし、そんな場合ではないはずだが……ちょっとレディ扱いされたみたいで、リモールはどきどきしてしまった。
「すぐ戻るから、おとなしくしてろ」
言いながら、リモールをソファに座らせる。口は悪いのに、何でもないようにあんなことをされ、リモールは部屋を出るアッシュの後ろ姿を呆然と眺めていた。
「あの……お嬢さん」
声をかけられ、リモールははっとなる。部屋を出たのはアッシュだけで、竜はまだすぐそばに残っていたのだ。
「すまなかったね。お嬢さんがあんなに驚くとは思っていなかったんだ。ここへ来る人間はだいたいオレのことを知っているし、初対面でも今までそんなに驚かれることがなかった。だから、勝手にお嬢さんも平気だろうなんて思い込んでいたんだ。オレもまだまだ修行が足りないな」
「あ……いえ、あの……」
こうも下手に出られ、リモールとしても悩んだ。
てっきり喰われるかと思っていたのに、この竜はアッシュより何倍も優しく接してくれる。そのアッシュも、座り込んだリモールへ当たり前のように手を差し出して。
彼らの会話から「グル」なのは当たっているようだが、この家の魔法使いをどこかに閉じ込めて、だとか、リモールを喰うといった部分は当てはまらないらしい。
もしかしたら油断をさせて、ということもチラッと考えた。だが、アッシュはともかく、力の強い竜が弱い人間を相手にそんな回りくどいことはしないだろう。
彼らにリモールを傷付けようという意図はない。リモールの疑心暗鬼もここまでだ。
「あたしこそ、ごめんなさい。魔法使いの家って初めてなの」
必要以上に怖がって、悪い方にばかり考えが偏っていた。自分でもこんなことではダメだと思うのだが。
「そうだったんだね。魔法使いの家と言っても、特別変わってる訳じゃないんだよ。確かにオレみたいなのがいたりして、変わってる部分もあるけれどね。あと、棚に並んでる本が、普通の人には読めないような物だったりするかな。大まかに言えば、それくらいだよ」
竜はパタパタと飛んで、リモールが座っている向かい側のソファの背に降りた。
改めて見ると、本当に小さい。こういう存在を見慣れた人なら「きゃー」と喜ぶのだろう。相手が魔法を使う前なら、リモールが手を伸ばしてその首を絞められるような気さえする。
もちろん、そんなことをするつもりもないし、しようとすれば想像以上に手痛い反撃を食らうだろう。
つらつらと考え、そんなことを考えられるまでに落ち着いてきた自分にリモールは気付いた。
「あたし、リモール。あなたは?」
「リモールか。いい名前だ。オレは……」
竜が言いかけた時、アッシュが再び入って来た。手にはランチボックスよりもやや大きい、白い箱。
「オレはジークフォーラ・ジェンベルテスィ。以後、お見知りおきを」
自分の名前だから当たり前だろうが、竜は流れるような口調で自己紹介する。聞かされたリモールの目が点になった。
な、ながっ。一回じゃ覚えらんないよぉ。
「え……えっと、ジークフォー……」
「ジークでいい。みんな、そう呼んでる。こいつは初対面の相手に自分の名前を言うのがくせなんだ。こういう時にでも言わないと誰も言ってくれないし、忘れるから」
「おいおい、アッシュ。いくら長くても、自分の名前を忘れるはずないだろ。オレなんかまだ短い方だぞ。オレのはとこの友達のいとこはもっと長い名前なんだから」
それってもう、知り合いですらないんじゃ……。あ、長い名前ってわかってるなら、知り合いではあるのかしら。
「ほら、足」
ジークの抗議など、アッシュは聞いちゃいない。リモールの横へ来ると、箱のフタを開けながらそう言った。中には薬らしき瓶や包帯が入っている。
「何するの」
「薬箱を持って来て、ピクニックでもすると思うか? 足、さっさと見せろ」
「あれ、リモール、ケガしてたんだ」
ジークもリモールのスカートが汚れていることに、遅ればせながら気付いた。
「転んだんだとさ。ほら、そのままだと手当できないだろ。自分でできないなら、俺がスカートめくってやろうか」
「な、何言ってるのよ。やらしいわねっ」
リモールはソファに置かれていたクッションを掴むと、アッシュに投げた。が、あっさりとかわされる。
「冗談だ」
「すました顔して、そういう冗談を言わないでよねっ」
笑いながら言われるならまだしも、無表情で言われると怖い。
それでも、今までこんなことを言われた経験のないリモールは、顔にどんどん血が上ってくるのを感じた。それを自覚すると、余計に恥ずかしくなる。
「ここへ入って来るまでそんなに時間は経ってないと思うけど、お前の顔ってころころとよく変わるな」
「よっ、余計なお世話よっ」
感情がすぐ顔に出るのは自他共に認めるが、初対面の相手にまで言われたくない。本当ならもう一度クッションを投げ付けてやりたかったのだが、手近にはもうなかったのであきらめるしかなかった。
「で、どうするんだ。手当するのか、しないのか」
「……急に本題に入らないでよ」
思いっ切りフェイントをかけられた気分になる。
「放っておいても俺は構わないけど、化膿するぞ」
「う……」
会ったばかりの異性に足を見せるのははばかられるが、リモールはそろそろとスカートをたくし上げた。血に染まった右のひざが現われる。
さっきまでは考えることや目の前で起きることに対処するのが忙しくて気にしていなかったが、傷を見ると今更ながらにズキズキしてきた。傷が「忘れないでくれよ」とでも言いたげに、その存在を主張する。
「派手に転んだな」
「……ふんだ」
何も言い返せない。事実、派手に転んでしまったから。よく右ひざだけで済んだものだ。あの石畳が悪い。
「いたっ」
「がまんしろ」
消毒薬を塗られて思わず泣き言を言ってしまったが、言葉を返すところが妙に律儀だ。
「……さっき部屋を出たのは、薬を取りに行くためだったの?」
「ああ」
包帯の巻き方がとても手慣れている。と言うより、器用なのだろう。
「魔法使いなら、魔法で治せるんじゃないの?」
「一応な」
「それなのに、薬と包帯?」
「魔物が近くにいる時にケガをした時は、魔法で治す。血の臭いがするのはまずいし、命がかかっているからな。でも、命の危険がある場合は別として、普段は魔法を使わない」
「どうして?」
「魔力がもったいない」
「はあ?」
その理由、ひどすぎない?
「それは冗談として」
また冗談なのか。リモールとしては、全然笑えない。
「生物には自然治癒力があり、それで十分って考え方だ。それに魔法使いが傷を治したら、けが人はみんな医者よりこっちに来て、本来の仕事ができなくなる」
一応、まともな理由があるようだ。
「薬箱なんてほとんど使わないからな。どこにあるか捜していて、見付かったと思ったら悲鳴が聞こえた。悲鳴を上げるような理由が思い付かないから、正直なところ少し焦ったけど。魔物でも忍び込んだのかと思った。……ほら、おわり」
実はアッシュのことを魔物だと思っていた、なんて言えない。魔物が傷の手当てなんてしてくれるとは思えないし、それならやはり彼は見た目通りの「少年」なのだろう。
さっきすました顔で妙な冗談を言ったのも、案外リモールの気持ちをほぐすためだったのかも知れない……と考えておくことにする。
「あの……ありがとう」
「スカートはシミにならないうちに洗った方がいいぜ。もう遅いかも知れないけど」
血は落ちにくい。もう乾いてしまっているが、漬け置きして落ちるだろうか。
「うん。ダメなら、アップリケでも付けてごまかすから」
元々、そんなに気に入っているスカートでもなかった。ベイルの街へ出て来るのにあまりにもみすぼらしい格好はしたくないので、見た目が一番マシだと思えるものを選んだだけ。最終的にはほどいて別の物に作り替える、というのも手だ。
「終わった? いいタイミングだ。お茶も入ったし」
言いながら、赤毛の男性が入って来た。少しくしせのある髪は、腰近くまで伸びている。アッシュも長身だが、彼もかなりの長身。いや、彼の方が高い。
外見を見ている限り、二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。真っ赤な目をしている。充血している、というのではなく、瞳そのものが赤いのだ。こんな人間は見たことがない。
この人、魔物なのかしら。竜がいるくらいだもん、他にも魔物がいたっておかしくないわよね。
鼻歌を歌いながら、トレイに乗せたカップやティーポットをテーブルに置いていく。その手と顔を、リモールは交互に見ていた。
「どうかしたかい、リモール?」
声をかけられ、リモールはどきっとする。
「え、どうしてあたしの名前を……」
「どうしてって……」
言われた相手の方がきょとんとしている。
「これはジークだ」
「アッシュ、これって言い方……ええっ、ジーク? さっきのちっちゃな赤い竜?」
思わず一歩引きそうになったが、ソファに座っていたので単にふんぞり返ったような姿勢になっただけ。
「ああ、何度も驚かして悪かったね。オレ、その時々で都合がいいように姿を変えるから、自分が今どっちの姿でいるのか、あまり気にしていないんだ」
仔ねこくらいの大きさでしかなかった竜が、アッシュよりも背の高い男性になる。声も年相応の低さ。ついでにかなりの美形。やはり竜の力はあなどれない。
「最初に会う時、こっちの姿でいた方がリモールを驚かさずに済んだかな」
瞳の色はともかく、竜が現われるよりはよかったかも知れない。が、一人でいる時に背の高い男性が現われていたら、それはそれで警戒しそうだ。
アッシュの存在を怪しんでいた時だったから、なおさら。
「さてと、ずいぶん時間を取ったな。リモール……っていうのか?」
「あ……うん」
言われてみれば、アッシュには名乗ってなかったことに気付く。名乗るタイミングがなかったのだ。
リモールの顔を見ながら、アッシュは彼女の正面に座った。二人の間となる位置にジークが座る。
「魔法使いに何の用だ?」