……魔物?
ティンスは、リモールが住むラグロの村を含む王国である。周辺各国から見れば、どちらかと言えば小規模な国だ。
しかし、南は海に面しているので漁業や貿易が盛んで、天候と土に恵まれているおかげで不作になった年はない。小さいながらも豊かな国だ。近隣諸国とも諍いはなく、当たり前のように平和がある。
だが、問題がまったくない訳でもない。
人間の住む場所には、しばしば魔物が現われる。元から人間界にいた魔物だったり、たまによその世界から現われた魔物だったり。
それらがおとなしくしていればいいのだが、中には人間に対して害をなす魔物も少なからず存在する。
ティンスの国に限らず、どこの国でもそういった魔物には悩まされていた。
そういった存在に対抗できるのが、魔法使いだ。ティンスの王室付き魔法使いは数名いるが、その中にメルザックの名がある。
他の魔法使い達よりも飛び抜けて腕のいい彼は、よその世界から現われたらしい魔物と対峙し、撃破した。その時のメルザックの様子が、まるで竜のようだった、と誰かが言い、彼の瞳がとても印象的な濃い青だったこともあって「ティンスの青き竜」と呼ばれるようになったのだ。
リモールが住む田舎でも、そういう噂くらいは流れてくる。本人の顔なんて見たことはないし、魔法使いという存在がない場所で生活していたら、何がどうすごいのかなんてことはわからない。
それでも、魔物を退治できるなんて魔法使いってすごい人なんだろうなー、くらいは思っていた。
それなのに、目の前にいるのは自分とそう年齢が変わらないであろう少年。
リモールの中に住むメルザックは、少し怖い雰囲気を持ちつつも頼りになりそうな人、だった。そして、立派な大人だ。自分の父親世代、もしくはもう少し上くらいか。
それなのに……。
「魔法使いに用事があるんだろう? 入らないのか」
門の外で呆然と立ちすくんでいたリモールだが、少年に言われて我に返り、慌てて少年の後を追って屋敷へ入った。
「お邪魔します……」
開けられた玄関の扉を通ると、天井の高いエントランス。家の戸を開けたらすぐに部屋になっている家に住むリモールには、この空間の用途がよくわからない。ここの空間だけでも、リモールの家なら一部屋分はある。いや、もっと広い。
それにしても、やけに静かだ。人の気配がまるで感じられない。外から見ているより、中はずっと広かった。広い分、ひどくガランとしているように思える。
「あの……」
「何だ」
「あなたがメルザックさん、なの?」
「違う」
即答されたが、その中身にリモールは戸惑う。
「……え?」
さっき崩れてしまった魔法使いのイメージ画像を、リモールはどう処理していいのかわからない。
瞳が青だという点だけで、少年=メルザックだと思い込んでいた。彼ではないなら、崩れた画像は早々に修復すればいいのだろうか。
「違うって……じゃ、あなたは?」
「アッシュだ」
リモールの頭の中に、メルザック以外の魔法使いの名はない。相手に名乗られても、彼がどういった人物かなんてリモールにわかるはずもなかった。
だが、ここは俺の家だと言っていたし、それなら彼も魔法使いなのだろうか。
リモールが思い描いていた魔法使いなら、たぶん子どもがいたっておかしくない年齢のはず。親譲りの青い瞳をしていたって、何も不思議ではないのだ。
つまり、単なるリモールの早とちりである。
「えっと……」
「スカート」
「え?」
「血が付いてる。ケガしてるのか」
言われてリモールが見てみると、スカートの一部に血がにじんでいた。
「あ、さっき転んだから」
ここベイルの街へ来てから何度も転びそうになっていたが、この屋敷の前でとうとう転んだ。その時に周りには誰もいなかったはずだが、どこで誰が見ているかわからない。
それまで転びそうになっても何でもないような顔をしていたせいで、その時も他人事のような振りをしていたのだ。
痛いな、とは思っていたが、スカートににじんでしまうまで血が出ているとは思わなかった。こんな所でばれてしまうとは。
転んだ、と正直に言ってから、また「バカ」と言われるんじゃないかと思ったリモール。だが、アッシュの口からそんな言葉は出なかった。
「ついて来い」
アッシュはさっさと廊下を歩き出す。わかったともイヤとも言えないまま、リモールは彼の後を追った。
入った部屋には、ソファやその前には小さなテーブルが置かれている。テラスへ出られるガラス扉があり、そこから太陽の光が差し込んでいた。ガラス扉の向こうには、きれいな濃い緑の芝生が広がっている。これが「庭」と呼ばれるものだろう。
この部屋はリビングと呼ばれる場所、とリモールは推測する。自分の家にこういった部屋はないが、来客があった時に使う部屋なのだろう。
お日様の光が入って明るい部屋なのに、やっぱり淋しい感じがするな……。
「どこでもいいから、座ってろ」
「え……あの……」
やっぱりリモールが返事をする前に、アッシュは部屋を出て行ってしまう。
もう、何なのよ、あの人。……ちょっと待って。さっき、ここが「俺の家だ」なんて言ってたけど、それって本当かしら。だって、こんなに広い所でここまで人がいないのって、変じゃない?
あいつ、実は魔物か何かで、魔法使いをどこかに閉じ込めたか何かして、面倒だからここにいた人達も全部閉じ込めて、この家を自分の物にしちゃった、とか。
不思議なくらい、こういった発想なら次から次へと出て来る。
すごい魔法使いでも、やっぱり人間だもんね。だから、ちょっとしたスキがあったりしたのよ。そこへあいつが来て。だけど、魔物が人間の家なんか欲しがるかしら。まぁ、あたしには魔物の好みなんてわからないけど。
……そうだ、メルザックさんは王様に信頼されてる魔法使いなのよね。本物をどこかに閉じ込めて、自分が本物になりすまして、今度は王様をどうにかする気なんだわ。で、自分が王様になって、ティンスの国を自分の物にして、それからそれから……えっと……他の国に戦をしかけて、その国も自分の物にして。
リモールの妄想はどんどんふくらんでゆく。ここには誰も止める者はいない。
でも、待って。どうしてあいつはあたしを家の中へ入れたのかしら。あたしがかわいいから、とか……。まぁ、あいつもなかなか整った顔立ちだし、体型も引き締まった感じで……って、ちがーうっ!
もしかしたら、魔法で変身してるのかも知れないじゃない。実はものすごーくブッサイクだったりすることだってありえるわ。だまされちゃいけないわよ、リモール。
わずかでもぐらつきそうになった自分の気持ちに、リモールは喝を入れる。
顔はともかく、どうしてあたしを中へ入れたかって問題は残るわね。んー、人間がだまされてくれるかって、テストしてるのかも。それとも……こんなこと考えたくはないけど、実は喰うため、とか。
そこまで考えて、リモールは青ざめた。
そうよ、相手は魔物よ。人間を喰うかも知れないわ。魔物が喰うと言えば、赤ちゃんか女性、それも若い女性って決まってる。やだぁ、あたし、その中に入っちゃうじゃない。あたしの傷の血を見て、余計に食欲をそそられたのかも。
リモールの頭の中では、とうとう自分が喰われることになってしまった。相手が喰うつもりならとっくに喰われているはず、ということは考えつかない。
どど、どうしたら逃げられるかしら。ここへ入って来たのはあいつが扉を開けてくれたからだけど、あたしにもあの玄関の扉、開けられるのかな。簡単に開けてたけど、もし自分で魔法をかけてたなら簡単に開けられても当然よね。もうすでにあたしが逃げられないように、見えない鍵をかけてたりして。
扉のことはともかく、玄関へ行くまでに見付かる可能性もあるわね。それじゃあ……そうだ、ここのガラス扉からなら出られるかも。外へ出てしまえば、一気に門まで突っ走って、門が開かなかったら門か塀をよじ登るくらいのことはしないとね。この際、スカートだからとか、女の子らしくないなんてことは横に置いておかなきゃ。なんたって命がかかってるんだから。
玄関に魔法がかかっているなら、アッシュが連れて来たこの部屋にも魔法がかけられている可能性も考えるべきなのだが、リモールは自分の都合のいいように考えている。妄想とは、得てしてこういうものだ。
とにかく、アッシュが戻って来るまでに逃げよう、と決めたリモールは、ガラス扉の方へと進んだ。
いざ、扉のノブに手をかけようとした時。
「やぁ、かわいいお客さんだね」
突然、アッシュとは別の声が響いた。驚いたリモールが振り返り、そのまま硬直する。
「初めて見る顔だね。歓迎するよ。あれ、アッシュの奴、どこへ行った? まったく、こんなかわいいお客さんを放ったままにしておくなんて。あいつのことだから、お茶を用意してる最中、なんてことはないだろうなぁ。あ、お嬢さん、遠慮しないで座って。今はメイドさん達に暇を出しているから、大したおもてなしはできないけれど。……お嬢さん、どうかした?」
現われた声の主が、硬直するリモールに近付く。相手にすれば、彼女の様子を心配した結果の行動なのだが、それがあまりよくなかったらしい。
「きゃーっ!」
屋敷中にリモールの悲鳴が響き渡った。