力の差
「ラノーラはどこにいるっ。お前の仲間が連れているのか。もしラノーラに何かあれば、お前もその仲間も八つ裂きにしてくれるっ」
重くのしかかってくるような感覚さえするランシェの声。アッシュはそれに押しつぶされないよう、足を踏ん張る。
「何かあれば? 彼女に何かあったから、俺達はここまで来てるんだ」
リモールの気持ちを代弁するアッシュ。
「……リモール、ごめんね」
魔法使いの言葉を聞き、ラノーラがささやくようにして謝った。
「俺達、か。やはり他に仲間がいるようだな。どれだけの数で来ようと、どうでもよい。お前が……お前達が我らのことに対して口を挟むなど、許さぬっ」
気付いた時にはランシェが目の前にいて、アッシュは本能的にしゃがんだ。
それまでアッシュの顔があった位置で、ランシェの拳が空を切る。そのままでいれば、間違いなく殴られていた。ジークが近寄るなと言っていたことを思い出す。
逃げたアッシュを見て、ランシェがまた拳を繰り出した。魔法を使うまでもなく、直接攻撃で十分と考えたのか。
かろうじてアッシュはまた逃げたが、その拳から起こる風が少年の身体をわずかに浮き上がらせる。長身のアッシュは決して軽い方ではないが、そんな彼の身体を浮かせてしまうのだ。
「そう何度もこの私から逃げられると思っているのか?」
「殴って口がきけなくなったら、ラノーラの居場所は絶対にわからないぜ」
次の攻撃を牽制してアッシュはそう言ったが、ランシェは意に介さない。
「口がなくてもかまわん。お前の意識から直接読み取れば済む話だからな」
さっきまでとは違い、ランシェの口調は静かだ。怒っているのか、冷静なのかわからなくなってくる。静かにそういう脅しをかけられると、背中を冷や汗が滝のように流れるのが感じられた。
一人での初仕事で殉職なんて、俺は願い下げだ。
わずかな時間にアッシュは防御の魔法を自分にかける。どこまで通用するかはともかく、ないよりましだ。
「くっ……」
そう思った次の瞬間、アッシュの身体が重くなる。地に縛る魔法だろうか。
ランシェが近付いて来る気配を感じたが、足が動かない。すぐには逃げられない。
あごの左側に重い衝撃がきた。同時に、その身体が部屋の端まで飛ばされる。
それを見ていた少女二人は首をすくめ、かたく目を閉じた。
床に倒れたアッシュが必死に立ち上がろうとしていると、目の端にランシェがゆっくりとこちらへ近付いて来るのが映る。口の中に今まで味わったことのない、濃い血の味が広がった。
「このっ……」
痛みに悲鳴を上げる身体を無視し、アッシュは呪文を唱えた。宙に光の球が浮かび上がる。雷の力だ。それをランシェに向けた。
「往生際の悪い」
自分へ向かって来た人間の頭ほどもある球を、ランシェはあっさりと手で弾き返した。返された球はアッシュへ向かう。豪速球になった自分の力に攻撃されたが、かろうじて直撃は免れた。
首をすくめたアッシュの頭上の壁に当たり、破片がバラバラと頭に降りかかる。
くそ……同じ弾き返すにしても、素手かよ。やっぱり相手が悪すぎる。
アッシュは風の刃や氷の槍など、自分の力で出せるものは次々と出した。ランシェの周りを炎で囲んだ。
しかし、どれもあっさりと消されてしまう。空しくなるくらい、全てを無効化される。
そして、気付けばランシェはアッシュのすぐ前まで来ていた。
「気が済んだか?」
片ひざをつき、汗をしたたらせ、肩で息をするアッシュを見下ろしながら尋ねてくるランシェ。その口調は、どこか優しくさえあった。
なので、余計に怖い。
突然、浮遊感がアッシュを襲う。ランシェがアッシュの胸ぐらを掴み上げていたのだ。その足は完全に床から離れていた。
胸に重い痛みが走る。と同時に、床の上で身体が跳ねているのを、アッシュはまるで他人事のように感じていた。
ランシェは拳ではなく、手の平でアッシュの胸を突き、その勢いで飛ばされたアッシュは床へ落ちたのだ。
まるで強い力で投げ付けられた岩を胸に受けたような、呼吸すらまともにできない痛みに、人間の魔法使いはうずくまるしかできない。
しかし、ランシェは何の感慨もない様子で、少年を見下ろす。
「これが自分の口で話せる最後のチャンスだ。お前がどう使おうと私は構わないが……さて、どうする?」
ランシェの脅しが、やけに遠くから聞こえてくるような気がした。鋭い爪が伸びる大きな手が、うずくまるアッシュのあごを掴んで顔を上向きにさせる。
「くっ……」
掴む力は強く、それでなくてもあごを砕かれそうに思えるのに、さっき殴られた部分にも指がかかってさらに痛みを増す。ランシェの腕をアッシュが掴んだところで、離れることはない。
「わかっているのだろう? 今までは人間並みに力を抑えていた。次は死なない程度に、お前の顔を砕く」
言われなくても、アッシュはわかっていた。
ランシェは半分も力を出していない。防御の壁すらも出していなかった。
なのに、かすり傷一つない。魔法の技がどうこうではなく、これが純粋な力の差だと思い知らされる。一つの魔界を統べる者が持つ力なのだ、と。
「……それをラノーラが見ていたら、あんたのこと、どう思うのかな」
かすれた声でアッシュは言い返す。
力の差が何だよ。こうなったら、こっちも意地だ。最初から言うつもりなんかなかったけど、絶対に言ってやるもんか。意識を読むとか言っていたけど、それなら全然違うことを考えて、すぐには読めないように邪魔してやる。
半分以上もうろうとした意識の中で、それでもアッシュなりのプライドは捨てない。
「ラノーラを取り返すためなら、私は何でもする。必ずラノーラを取り返す」
誰か同じようなこと、言ってたな……。
ランシェの言葉に、アッシュは笑みを浮かべた……つもりだった。
だが、さっき殴られた頬が腫れ、あごを掴まれているので口元がまともに動かない。
「ラノーラは、どこだ」
最後の問いかけ。
「教えない」
アッシュの答えに、ランシェの目が細くなる。
もう片方の手が握りしめられ、少年の顔に叩き込まれようとした直前。
「やめてっ」
その手に何か……いや、誰かがすがりついた。
「もう十分でしょ。そこまでしなくていいじゃないっ」
突然の乱入に、ランシェも驚きを隠せなかった。
この状況に乱入するなど、正気の沙汰ではない。声を出すだけではなく、行動を起こし、なおかつ魔王の動きを止めようとしているのだ。
ランシェは自分の手にすがりつくものがよく見えず、アッシュのあごを掴んでいた手の力が抜けて少年の身体が床に崩れる。
すると、自分の手の動きを止めていたものもなくなった。離れたらしい。
「お前は……なぜだ……ラノーラ、なぜお前がそやつをかばう……」
アッシュの魔法が次第に解け、ランシェは自分を止めた少女の姿をようやくその目でとらえられた。
ランシェの手から離れた少年に、見覚えのある少女がすがりついている。
そこにあるのは、ありえない光景。あるはずのない状況だ。
乱入し、自分を止めたのはこの少女。
それはわかったが、信じられないものでも見るように、ランシェは二人を見ていた。
「ラノーラ、なぜ……いや、違う。お前は……ラノーラではないな」
飛び出して来たのは、リモールだ。
最初はよく似たその姿を見間違えたランシェだが、すぐに自分が捜し求める少女ではないことに気付いた。
バカ……どうして出て来るんだ。
こんなふうに出られては、アッシュがどれだけ力を振り絞ってもリモールを隠し切れない。守れない。
「お前は誰だ。ラノーラの姿になって、私を欺くつもりか」
一瞬は緩んだように思えたランシェの怒りのオーラが、再びその場に満ちる。
「お前達、私のラノーラに何をしたっ」
怒りのオーラが光の鋭い矢になり、アッシュとリモールを襲った。
ごめんなさい、アッシュ。あたしのせいで、ひどい目に遭わせちゃった。せっかくラノーラも見付かったのに、こんな所で終わりだなんて……。今度はあたしがラノーラを置いて行くことになるなんて。
少しでもランシェの攻撃を受けないで済むように、リモールは動けなくなってしまったアッシュを胸に抱く。そんなことをしても無駄だとわかっているが、最後くらいは自分が守ってあげたかった。
そんなリモールを、アッシュは押し倒し、自分の下へ隠すようにしてかばう。これくらいでは何の役にも立たないとわかっていても。