魔法使いの家
「きゃっ」
石畳のわずかな出っ張りに足を引っ掛け、少女は転びそうになった。が、両手を広げてバランスを取り、片足で数歩前へ進んだだけで、かろうじて地面と衝突することは免れる。
「……」
周囲を行き交う人々の中には、転びそうになった少女の存在に気付いている人もちらほら。だが、少女の方はまるで何もなかったかのように歩き続けた。
だが、頬が赤くなっているのを見れば、彼女がどういう心境かは誰でもわかる。
幸い、その周辺にいる人達はみんな大人だったので、指を差して笑うような子どもじみた行為をする人はなかった。
もう……やだな。石畳って歩き慣れないから、すぐにつまづいちゃう。
転びかけた少女リモールは、心の中でグチをこぼした。しかし、歩き始めた幼子ならともかく、十五にもなって石畳に何度もつまづくのは……やっぱり恥ずかしい。
もし彼女の後をずっとつけている人がいたら、つまづいた回数にあきれてしまうだろう。
みんな、どうしてつまづかないで歩けるのかしら。道端に石が転がってるなら、それをよけて歩けば済むけど、石畳なんてぜーんぶ石だもん。よけようがないじゃない。本当に転んだら、土の上ですりむくより絶対に被害が大きいわ。どうしてそういう危険性を誰も訴えないのかしら。危機感がなさすぎだわ。
自分の不注意さは棚に上げ、リモールがあれやこれやと文句を並べているうちに、またつまづきそうになる。
街へ入って十回を軽く越える自分のつまづきに、リモール自身もさすがにいやになってきた。
文句を考えるのはやめ、とりあえず足下に注意しながら歩くことにする。
「あのー、すみません」
リモールは、通りすがりの若い男性に声をかけた。
「ん? 何だい?」
「メルザックさんの家はどこか、ご存じですか」
「メルザックって、あの大魔法使いのメルザック……だよね」
「はい、そうです。ティンスの青き竜って呼ばれている、メルザックさんです」
この街にメルザックという名前の人が何人いるかは知らないが、男性の言うメルザックは確かにリモールが会いたい人物だ。
「彼の家ならこの道をまっすぐ行って、角を右に曲がればいいよ。そのまま歩けば青い屋根の屋敷が見えてくるから、すぐにわかる。でも」
「まっすぐ行って、右ですね。ありがとうございました」
リモールは礼を言うと、すぐに歩き出す。が、またつまづいた。今度もどうにか転ぶところまではいかなかったが、後ろを見ると男性がこちらを見ている。
リモールは笑ってごまかし、再び何もなかったように歩き出した。
「行っても、メルザックには会えないんだけど。いいのかなぁ……」
彼のつぶやきなど、リモールには聞こえていない。聞いた道を忘れないうちに(角を右に曲がるだけなのだが)青い屋根とやらを目指す。
そうして歩いている間にも数回転びかけ、目的地の屋敷の前でとうとう転んだ。
☆☆☆
これが「屋敷」って呼ばれる家なんだ。予想程じゃないけど、それでも村にある集会所より大きいじゃない。
「ティンスの青き竜」と呼ばれる国一番のすごい魔法使いの家だから、リモールはお城のような家かと思っていた。だが、こうして見た感じだと、一般庶民の家より少し大きいくらいかなー? というくらいか。
この街に住む一般庶民の平均的な家の大きさなど、田舎者のリモールが知るはずもない。かなりいい加減な目安なのだが、ここへ来るまでに見た家と比べて少し大きいくらい、いう意味だ。
もっとも、この辺りは富裕層と呼ばれる人達が住んでいるエリア、ということをリモールは知らなかった。つまり、基準がちょっとずれているのだが、それを教えてくれる人はいない。
とにかく、敷地はそれなりに広いようだが、建物の方はリモールの予想よりは大きくない、ということだ。
教えられた屋敷の門は閉められていた。だが、いくつかの窓が開いているのは見える。春の終わりの暖かい風を入れて、部屋の換気しているのだろう。開けたままでは不用心だから、最低でも一人は中にいるはずだ。
「この門、開くのかな」
門にはノッカーのような物はない。それはそうだ。ノッカーは扉に付いている物であって、門にはない。
家の誰かを呼ぶにしても、門から屋敷の玄関扉まではそれなりに距離がある。ちょっとくらい叫んでも、中まで声が届くかどうか。
それなら、この門を開けて中へ入り、玄関となる扉の前まで進んでから声をかけるなり、扉を叩くなりする必要がある。ずっとここにいたって、何かの拍子に外を見てリモールが立っていることに気付いてもらわない限り、中へは入れてもらえない。
だが、ここは魔法使いの家だ。間違っていなければ、ではあるが、教えられた青い屋根の家は周辺にないので、ここと思っていいはず。
それなら、この目の前にある門だって、魔法使いの家の一部ということ。
もし……もしも不用意に触れて、何か妙な魔法をかけられたりしないかしら。
そんなことはあるはずもないのだが、リモールは門の前で真剣にそんなことを考えていた。
誰でもいいから、ここに用事のある人、来ないかなー。
周囲をきょろきょろと見回してみたが、そんな都合のいい来客はない。それ以前に、歩いている人が近くにいなかった。商店街ではないから、この近くに住んでいる人くらいしか通らないのだろう。
田舎でもないのに、こんなに人が少ないなんて思わなかった。街と呼ばれるエリアはどこでも人がたくさんいる、とリモールは思っていたのだ。
「どうしよう……」
門に触れるのは怖いし、かと言ってこうしていたって魔法使いには会えない。せっかくこの国一番の魔法使いに会おうと思ってラグロの村を出て来たのに、このままでは何も進展しないままだ。
いつまでもこんな所でぐずぐずしてなんかいられないわ。
困っているリモールの視界の端に、石が転がっているのが映った。その色や形から見て、石畳の一部が何かの衝撃で割れたものらしい。
その割れた石が道の端に寄せられているのだ。割れた石でリモールのようなおっちょこちょいがつまづかないように、との配慮だろう。
石のすぐ近くには、中途半端な形で残っている石畳と穴。これはこれで、リモールならつまづきかねないが、それはともかく。
リモールはその石を拾い上げた。リモールの手より少し大きいくらいの石だ。
これがあれば、魔法使いを呼び出せるわよね。
最初はこれを屋敷に向かって投げようかと思ったが、コントロールが狂って窓ガラスが割れたりしたら大変だ。玄関の扉に当たったとしても、それはそれで傷が付く。河原の石とは違い、丸くないのでどこに当たっても傷が付いてしまうだろう。
門の外から屋敷までの距離を見る限り、肩がいい訳でもないリモールがこの石を投げたところで届くとは思えない。だが、ないだろう、と思ったことに限って起きたりするものだ。
なので、リモールはこの石で門を叩くことにした。接触することで何かが起きても、素手よりはずっといいはず。
それに、投げるより直接持っている方が絶対にコントロールしやすい。
鉄でできているであろう門。悪い表現をすれば、牢屋の鉄格子タイプ。もちろん、そんな無粋なものではなく、細い鉄の棒が緩やかな曲線を作って美しい模様を描いている。
だが、今のリモールに門の仕様なんてどうでもいい。これに石を当てれば、それなりの音が出るはずだ。
その音に気付いて魔法使いが、もしくは屋敷の中にいる誰かが出て来てくれる……と、とてもありがたい。
そういう計画をたてたリモールは、早速その計画を実行に移そうと、石で門を叩こうとした。
「お前、その石で何するつもりだよ」
「きゃっ」
いきなり後ろから声が聞こえ、びっくりしたリモールは持っていた石を落とした。
どきどきしながら振り返ると、誰か立っている。さっきまで人通りがないと思っていたのに、いつの間に現れたのだろう。
そのまま視線を上へ向けると、こちらを見ている深い青の瞳とぶつかる。
リモールの後ろに立っていたのは、背の高い男性だった。リモールが小柄なことを差し引いても、なかなかの長身だ。頭一つ分以上の差。
しかし、その顔は青年と呼ぶよりは、少年の方が合う。早い話、リモールとそう変わらないであろう男の子だ。年の差があるとしても、二つか三つといったところ。
艶のある真っ直ぐな黒髪を後ろで一つにまとめた少年の顔は、かなり整っている。だが、その整った顔はかなり険しい。
「お前、人ン家に何をするつもりなんだ?」
「えっと、あの……」
「昼間からコソ泥か? チビのくせに、いい度胸だな」
その言い方に、リモールもムッとなる。泥棒と決めつけられては、黙っていられない。
「ちょっと! コソ泥って何よ、失礼ね。それとチビは余計よっ」
近所のおばあちゃんには「女の子は小さい方がかわいいんだよ」などと慰められたりもするのだが、リモールとしてはもう少し伸びてほしい。
彼の背が高いので、なおさらリモールが小さく思えるのだろう。だが、わざわざ「チビ」と口に出さなくてもいいじゃないか、と思う。
「ああ、コソ泥ならお前みたいに、正面突破しようなんて考えないよな。ってことは……ガラスを割って、何かのうっぷん晴らしでもするつもりだったのか」
「そんなひどいこと、しないもん!」
一瞬だが、投げようと思ったのは確か。しかし、さすがにリモールだってそれを口にするほどには抜けていない。それに、わざとガラスを割るつもりなんて、これっぽっちもなかった。
「じゃあ、ただのバカか」
相手の言い方に、怒りを通り越してあきれてしまった。
「バカって何よ。初対面なのに、そういう言い方する?」
「普通はしないだろうけど、石を握りしめて明らかに何かしようとしてる奴に対しては、許されると俺は思う」
リモールにとって、優位に立てるような状況でなかったのは事実だ。
「ここって、魔法使いの家でしょ?」
「そうだけど」
「もしかしたら、侵入者があっても被害がないようにって門に魔法がかけられてるかなって……そう思ったのよ。手で触るの、怖いんだもん」
「やっぱりバカじゃないか」
少年の言葉に、リモールは言い返す言葉を完全に失う。顔はいいくせに、口は悪い。
「これはどこにでもあるような、普通の門だ。門に魔法なんかかけていたら、誰も訪ねて来られないだろう。訪ねて来るのが魔法使いならともかく、そうじゃない人間だって来るんだ。奥に宝が隠された洞窟の入口ってことなら、まだわかるけど。こんな所に魔法をかけたら、人に見られて困るようなやましいことでもあるのかって、変に疑われるぜ」
相手の説明を聞けば納得もできるのだが、魔法使いの家を初めて訪問したリモールにはそんなことなど思い浮かばなかったのだ。
それは彼から見れば「バカ」を意味するかも知れないが、だからと言って「チビ」と同じく口に出さなくてもいいじゃないか、とも思う。
「じゃ、この門はどうやって開けるの」
口を尖らせながらリモールが尋ねると、少年は無言で門を押した。簡単に門が開く。単に閉じられていただけで、鍵すらもかかっていなかった。
悩んでたあたしが本当にバカみたい……。
心の中でうなだれるリモールを残し、門を開けた少年はそのまま中へと入って行く。
「あ……ねぇ。あなたもここの魔法使いに用があるの?」
まさか玄関の扉の開け方まで教える、というつもりでもないだろう。それは親切ではなく、完全に嫌みというもの。
「用事なんかない」
「え? じゃ、どうして……」
「ここは俺の家だからだ」
少年の言葉に、リモールは自分で勝手に描いていた「ティンスの青き竜」のイメージ画像が、大きな音をたてて崩れていくのを聞いた。