九月の夜だった。
蝉が鳴いていた。
太陽は真上に昇り、風は生温い。
アスファルトの上には陽炎が揺らめいている。
私は夏休み、祖母の家へ遊びに来ていた。
毎年、祖母の家から少し離れた場所にある向日葵畑に行くのが好きだ。
太陽に手を伸ばすように咲く、自分より背の高い向日葵に囲まれていると御伽の世界にでも迷い込んだ気持ちになれたからだった。
その日も私は向日葵畑へ足を運んだ。
「遠くへ行くんじゃないよ」
祖母の声を聞いてから、向日葵達の中へ混ざった。
黄金に輝く向日葵が天井を作り出し、上を見上げれば空の青と雲の白が花弁の間から見えた。
まるで空の絵に黄色と少しの緑で無理矢理塗り潰したような可笑しさを感じる。
思わずくすくすと笑っていると、背中に冷たい空気が流れた。
不思議に思い、振り返った。
それを見た時、私は背筋が凍った。
黒々としたモヤがそこにはあった。
顔なのだろうか、赤い目のようなものがこちらをずっと見ていた。
それに近付いてはいけない。
それと目を合わせてはいけない。
警告のような気持ちが湧き上がる。
得体の知れないものへの恐怖が、私の足が逃げることを許さない。
それどころか、その赤い目に私は吸い込まれるように、そいつに近付いてしまった。
頭では危険とわかりながら、好奇心もあったのだ。
黄色に塗り潰された空間に現れた唯一の赤に、私は魅了されたのだ。
ある程度近づくと、黒いモヤから手のようなものが出て、こちらに手招きしていた。
その手に導かれるように私は黒いモヤのすぐ目の前まで来ており、気がつけば黒いモヤの中にいた。
「よく来たね」
モヤの中には赤い目をした少年がいた。
中学生ぐらいだろう。黒の学ランを着たその少年は言葉を失う程美しく、この世にこの少年を越える美しさなどないと思えた。
「君、向日葵は好き?」
心の隙間に入り込んでくるような、
恐ろしい程優しく、甘い声に戸惑いながら私は小さく頷いた。
声を出してはいけないと、私の中で警告していたからだ。
「それは良かった。
いい所へ案内してあげよう」
私はその少年について行った。
少年はたわいのない話を一人し続けていたが、
急に私の方を向いた。
「ねえ、子どもは昔は神様の子だったって知ってた?」
私は首を振る。
そうか、と目を細めて私を見る少年はポツリポツリと話し出した。
「7つまで子どもは神様の子で、人間の子どもではないんだ」
その目には生気はなく、ただ朧気に続ける。
「子どもは8つの誕生日を迎える前に決めれるんだ」
何を、思わず聞こうとした時に、少年は私の目を見た。
「神様の子でいるか、人間の子になるか」
燃えるような赤い目に、見つめられ、背筋がぞっとする。
「あぁ、ついたよ」
私は少年が指差す先をみた。
真っ赤な彼岸花が小川が流れるように咲いていた。
「綺麗だろう?」
私は頷いた。
小川と見間違える程、美しく咲く彼岸花は確かに綺麗だった。
「子どもは神様の子」
呟くようにそう言うと、彼岸花の小川に入っていく。
「あそこの向日葵はね、神様の子を選んだ子どもの数だけ向日葵が咲き続けるんだ」
強い風が吹き、赤い花弁が宙に舞った。
「ねえ、こちらへおいで」
赤い川から手を差し出し、私を見つめる少年。
目を見ていると、そのまま手を取ってしまいそうで、思わず目を逸らした。
「生きていくことはとても辛い。幸せが約束されている訳でもない。何度も死を望むことだってある」
幼い私はただ首を横に振り続けた。
「何もわからない内に、こちらに来た方が楽だよ」
首を縦に振ってしまえば、どこかはわからないが、連れていかれてしまう気がした。
私がひたすら首を横に振り続けていると、黒いモヤを見つけた時と同じ、冷たい空気が流れた。
「君は、両親が好き?」
私はすぐに頷いた。
「会えなくなるのは嫌?」
強く頷いた。
「......そう」
少年はあの優しい声ではなく、辺りに漂う冷たい空気と同じぐらい冷たい声でそう言った。
「なら、ここからまっすぐ、振り向かずに走るといい」
少年の顔を見ようとすると、いつの間にか発生していた霧がその顔を見せてくれない。
「向日葵畑に出るまでは決して振り向いてはいけない」
私はその言葉に頷いて、一礼してから少年の言う通りまっすぐ走った。
今思えば、少年の顔が見えなくて良かった。
私は振り向かずにひたすら走り続けた。
振り向きそうになっても、何度も考えを改めた。
何も考えず、ただ走った。
どれくらい走ったかわからなかった。
気がつくとあたりが緑に塗りつぶされていた。
あの冷たい空気などなく、太陽の熱気を感じる。
上を見上げると、黄色の天井にその隙間から青と白が見える。
私は息を整えて、向日葵畑を出た。
私が出ると、警察の人が驚いたように駆けつけてきた。
後から知った話だが、私は11日程いなくなっていたらしい。
父も母も祖母も心配していた。
一体どこで何をしていたのだと、頻りに聞いてきた。
何度も話そうとしたが、口にしようとすると何故だか恐ろしくなってできなかった。
「覚えてない」
私はそう答え続けた。
様々な病院で検査をされたり、警察の人と何度も話したが、次第にそれもなくなった。
私が戻ってきた日、既に学校が始まっていたため、みんなに騒がれた。
次第にその騒ぎも収まり、私は日常へ戻っていった。
それから少しして、私には弟が生まれた。
成長すればする程、生意気で、言うことを聞かないやんちゃな子どもだった。
私が一度行方不明になってから母親は向日葵畑だけには絶対に行くなと私と弟に言い聞かせていた。
私はあの少年との出会いから、向日葵畑に行くのが恐ろしくなってしまい、足を運んでいなかった。
私もその方がいいと思い、弟にそれだけは守るようにと口を酸っぱくして言ったのだ。
しかし、弟が7つの時に私とまったく同じ時期に弟はあの向日葵畑でいなくなってしまった。
11日以上経過しても弟が向日葵畑から出てくることも、帰ってくることもなかった。
母親が泣いている中、私は恐る恐るあの向日葵畑へ足を運んだ。
怖かったが、あの時、あの少年に会った場所へ行く。
自分より遥かに大きかった向日葵が、今では自分とそんなに変わらなくなっていた。
黒いモヤを見かけた場所あたりにつくと、足元に一本の手折られた彼岸花と新しく生えたばかりの向日葵が生えていた。
「あぁ、行ってしまったのか」
私は彼岸花を拾った。
地元の文芸祭に応募して落ちたものです。