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いつの日か、鬼札を手に  作者: 荒木田久仁緒
2/7

望月に哭くは幼子


  ぱたりぱたりと、したたる雨音がする。

  ゆらりゆらりと、毛玉は揺られていた。

  ふわりふわりと、毛玉は包まれていた。


  なにか暖かくて柔らかいものの上で、毛玉は夢を見ていた。


  体が動かない。手足が冷たい。

  寒い。寂しい。でも暖かい。

  なんだろう。このふわふわで、暖かいものは。


  ああ、そうだ、これは、母さん。

  母さんの、尻尾だ。


  ふわり、ふわり。

  ゆらり、ゆらり。

  毛玉は尻尾に乗せられて、どこかへと運ばれてゆく。




  いつしか、雨音は止んでいた。

  とんとん、ぐつぐつ。何かの音がする。

  どこかから、何かの匂いがする。

  おいしそうな、匂い。


  ふうふう、と音がして。

  おいしそうな匂いが、鼻先に近づいて。

  口をあけたら、温かいものが入ってきた。

  もぐ、もぐ、もぐ。

  ごくん。


  また、ふうふう。ぱくり。もぐもぐ、ごくん。

  だんだん、体が温かくなってくる。ふわふわの上で、手足が少し動く。

  ゆっくりと、目を開けたら、顔が見えた。

  女の人の顔。

  母さん。


  じゃ、ない。


「目が覚めたか」


  そう言った女の、尻尾で作ったベッドの上から、目を見開いた黒い毛玉の姿が、一瞬で消える。

  同時に。


「ぎゃんっ!?」


  飛びのいた先の壁際で、毛玉が悲鳴を上げていた。包帯の巻かれた、自分の右足を押さえて。

  ほぼ全身を覆う黒い毛と、尻から生えた太い尻尾、そして頭の上にぴんと立った獣の耳。それらを除けば、その顔と体躯は、まだ幼い少女のものだ。しだれた長い髪の毛が、畳の上で渦を作っている。


「あまり動くな。手当てはしたが、そんなに浅い傷でもないぞ」


  雑炊の入った椀と匙を、ちゃぶ台の上に置きながら、女は言う。

  その顔を、痛みに涙ぐんだ瞳で睨みつけ、


「お前はっ……八雲(やくも)(らん)!!」


  少女が大声で叫んだ。


  八雲藍と呼ばれた女は、わずかに顔をしかめる。


「……大きな声を出すな。私を、知っているのか」

「誰だって知ってる! 九尾の妖狐! スキマ妖怪の腰巾着! 領主きどりの八雲(やくも)(ゆかり)の、飼い犬!」


  畳の上をにじって後ずさりつつ、噛みつくように声を張り上げる少女。


「大きな声を出すな。犬よばわりは心外だが、おおむねその通りだ。それで……」

「ここはどこだ!? あたしに何をした! あたしを一体どうするつもりっ ぷぎゅっ!?」


  蛙が踏み潰されるような声と共に、何かがぶつかる鈍い音がした。

  突然に少女の細い首をわしづかみにした女──(らん)の手が、その背中と後頭部を、背後の壁に押しつけた音だった。


「いいか、よく聞け」


  喉笛をつかまれ、声も出せず恐怖に顔を引きつらせた少女の眼前に、据わった目をした藍の首が突き出される。


「お前の言ったとおり、私は(ゆかり)様の忠実な(しもべ)

 そしてここは、紫様の住まう屋敷。

 そしてその紫様は……今、この屋敷の奥で、お休みになられている。

 だから、大きな声を、出すな。

 ……四度目はないぞ。わかったか」


  じっとりと浴びせかけられた、静かで、冷たい声。真っ白い牙の隙間で、真っ赤な舌がちろちろと光っている。

  容赦のない眼光で壁にはりつけられた少女は、ただ小さく震えることしかできない。


「わかったか、と聞いている」


  言われてようやく、がくがくと首を上下に動かすと、それを見た藍は、わかればいい、と言って手を離した。

  けほ、と小さな咳を吐いた少女の尻が、畳の上に落ちる。


  しばらくの間、激しい動悸に頭を揉まれて、ひゅー、ひゅー、と喉を鳴らし、肩で息をしていた少女だったが、恐怖をひとまずの安堵で徐々になだめると、ごくんと大きく唾を飲みこんでから、改めて自分のいる場所を見回した。


  片隅に小さな箪笥があるだけの、八畳の和室。背後は塗壁、右手は襖。正面と左手には障子戸があり、左手のそれは開け放たれていて、その先には台所らしき土間が見える。

  土間の壁に開いた小窓の向こうからは、かすかに聞こえる雨音と共に、濃い夜の闇の気配が伝わってくるが、部屋の天井に架けられたランプのようなものが放つ光で、室内はひどく明るい。炎の揺らめきをまったく感じさせない、少女の見知らぬ奇妙な光だった。


  とりあえずそこまでを確かめた少女は、ただ静かに自分を見下ろしている目の前の女を、形のいい眉を逆立てて()め上げつつ、恐る恐る口を開いた。


「……あたしを、どうする気だ」


  藍はそれを聞くと、さっきまで座っていた座布団の上へするりと戻り、正座しなおす。その顔に表情はないが、今さっき見せた剣呑な威圧も、既に欠片もなく消え失せていた。


「お前をどうこうするつもりはない。少し聞きたいことがあるだけだ」

「聞きたい、こと?」

「お前は、竹林の一角を根城にする人狼、白縫(しらぬい)の子か?」

「……そうだ。それがどうした」


  警戒は解かず、低く押し殺した声で言う少女。その答えに、やはりそうか、と頷いて、藍は問いを続ける。


「お前の倒れていた所は、竹林からは遠く離れている。里を挟んで反対側だ。なぜ怪我をして、あんな所にいた。白縫はどうした。何があった?」


「……それ、は……」


  言いかけて、言葉が詰まる。

  くしゃりと、顔がゆがむ。


「……人間……が……っ」


  しなびた目尻に涙の玉が浮かび、こぼれ落ちた。ぱたり、ぽとり、次から次へと。


「母さ……母さんを……人間、がっ……あいつらっ……!」


「……人間に、襲われたのか?」


  拭っても止まらぬ涙を拭いながら、少女はうなずく。


「人間の中に、巫女はいたか?」

「いなかっ、たっ……」

「ただの人間に、やられたのか? 人数は?」

「たぶんっ……じゅう、にん、くらいっ……」


  細まった藍の目に、疑念の色が浮かぶ。


────たったそれだけの人間に、人狼が? 満月の夜に?


「おかしい、んだっ……満月、なのに……母さんも、あたしも、力が、ぜんぜん出なくてっ……」


「……なるほど」


  藍は片膝を立てると、少女の頭に右手を近づけた。


「……っ!? 何!?」

「何もしない。ちょっと調べるだけだ。動くな」


  怯えた表情でのけぞる少女の上に、しばらく手をかざす。

  少女には、その手から目には見えない何かが放たれて、自分の表面を上から下までなぞったように感じられた。


  やがてゆっくりと手を下ろし、


「……毒だな」


  発したその言葉に、少女の目と口が丸くなる。


「毒!?」

「妖怪の力を弱める毒。襲われる直前、何かを食べなかったか?」

「食べ……。あっ!」


  はっと顔を上げる。


「人間を、おどかしたんだ! 母さんが! 一人で歩いてた、そいつ、悲鳴あげて逃げて……荷物、落としてった、その中に……」


  今度はうつむく。呆然とした目で。


「入ってた、肉団子……食べたんだ、母さんと二人で……」


「……神代からある、由緒ただしい罠だな。お前の足がいつまでも治らないのも、そのせいだろう」


  そう言うと藍は再び身を引いて正座に戻り、顎に手を当てて考えを巡らせていたが、ふと何かに気づいたように口を開いた。


「その足の傷も、人間が?」


  言われて、呆けた顔のまま、そっと自分の足に手をやる。


「ちがう……これは、ムジナが……」

「ムジナ?」


「あいつ、ずっと母さんやあたしのこと、目の敵にしてて……。逃げる途中、あいつが縄張りにしてる川べりで、あたし一人だったから、襲われて……その時」


「そうか。人間が噛み傷は付けまいと思ったが」


  得心して頷く藍の言葉を、聞いているのかいないのか、少女はぼんやりと畳を見つめたまま、小さく口を動かす。


「……母さん、囲まれて……縄、かけられて……逃げろって、言ったんだ。私に構わず逃げなさい、って……それで、一人で、逃げて……。あたしは、逃げた、けど……」


  しばらくの、沈黙の後。


「……母さんは」


  ぼそりと、つぶやく。


「母さん、は……っ」


  その先の言葉は、言えない。

  言いたくない。認めたくなどない。

  けれど、きっとそれが現実であることは、わかっていた。


「ふぐっ……うっ……うぐぅうっ……!」


  再び、ぼたぼたと落ちて散る雫。畳に突っ伏し、嗚咽を上げる少女。

  それを少しのあいだ見つめてから、藍はそっと立ち上がり、音もなく部屋を出て行った。


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