出発前夜
シルクはご機嫌だった。
「やっぱり一番風呂は最高ね~」
フンフンと鼻歌を口ずさみながら、足取り良く浴室から出る。一日の終わりにはやはり一番風呂だ。一日の汚れを綺麗な湯で洗い流す。この宿では、基本的に男性客が多い。そして風呂は大浴場は一つで、客と従業員の共用なのでいつもシルクが一番風呂に入っている。なにより女性であるし、シルク自身も後から入って他人の髪の毛を見つけでもしたら、せっかくの気分が台無しとなるからいつも初めに風呂に入ることを決めている。
この後は、自室に戻ってゆっくりくつろごうと廊下を歩いていると、向かいから歩いてくる人影が見えた。背丈を見て一瞬弟かと思ったが、見えてきた美しい金髪は、自分と同じ髪色の弟とはどうみても違う。自称女将は、お客に向けて笑顔を向けようと表情筋を引き締める。向こうから歩いてきた客も、シルクに気がついてぺこりと頭を下げて挨拶をしてきた。
「こんばんは」
「はい、こんばんは」
相手が笑顔で挨拶をしてきたので、こちらも思わず笑顔で返してしまう。
そして、お互いににこにこしながらすれ違った。
シルクはその後に二、三歩足を運んでから。
「……今の娘、誰?」
すれ違った後で、ゆっくりと自問自答しながら客が消えていった廊下を振り返った。
「――あらまぁ」
一度部屋に戻ってから、夕食を食べるために降りてきたシルクは今日の献立を見て思わず呟いてしまった。肉、魚、野菜料理と盛りだくさんで種類のある様々な食事が並んでいた。
「何この豪勢な食事」
今日はヘルシーな食事とリクエストしたのにこの豪勢さは何だろう。嬉しいけれど。
客の戦士達も嬉しそうに頬張っている。彼らのためかもしれないが、普段はここまでしない。何かあったのだろうか。
シルクの質問にもルークは、特に気にした風でもなく返答する。
「そうか?」
「そうよ。いつものメニューより四、五つ多いじゃない。何かいいことでもあったの?」
「……別にないけど」
「そういえば、さっき見慣れない女の子とあったけど、お客?」
どがしゃーん。
ルークは思わず、持っていた客の平らげたお皿を落としてしまった。
「ははーん」
状況は瞬時に理解した。それと同時にシルクにいたずら心が湧き上がる。
「な、何だよ……」
姉の突然の機嫌の良さに薄気味悪さを感じながら、恐る恐る聞いてみる。
「そうよねぇ。こんな場所じゃ筋肉戦士が沢山きても、あんな可愛らしい女の子が来ることは滅多にないものね……。そうかぁ、良かったわー。ルー君がいつか筋肉趣味にならないかお姉さんは心配してたのよー」
「なるか! 気色悪いことを言うな!」
シルクは満面の笑顔でルークの耳に唇を寄せ、美しい手で親指を立てて握りしめた後にそれを百八十度回転させて言った。
「落・と・せ」
「――はぁ!?」
「そろそろルー君も大人にならないとねぇ。頑張るのよー遠征の間」
「そんなんじゃないっての! いや、女の子が来たのは確かに嬉しいけど……っていうか、ルー君って呼ぶなよ」
「お姉さんが今日中に女性への効果的な口説き文句を考えといてあげるから!」
「そういうのはいいから、宿の手伝いをしてくれよ……」
「あ、あの……」
後ろからおそるおそる話しかけられたような声に、二人して目を向けると噂の少女が立っていた。
「げっ」
「ハイ、何デショウ!?」
シルクは思わず素で対応してしまい、ルークは片言で返事をしてしまった。突発的なことに弱い姉弟である。
少女は特に気にする風でもなく、笑顔を浮かべながら話し出した。
「すみません、明日のことについてお聞きたいのですがお時間よろしいでしょうか?」
「あ――」
ルークが返答しようとしたら、シルクが彼を押しのけて彼女に笑顔を作って言った。
「ぜーんぜん大丈夫! こき使ってやってー」
「ありがとうございます。では食事が終わってからで良いでしょうか」
「ええ、わかったわ。終わったらこのルークに話しかけて頂戴」
「よろしくお願いします」
少女はぺこりと礼をすると、夕食の準備された席についた。
ルークはシルクの手を押しのけて怒りを交えつつシルクに怒鳴りつける。
「勝手に返事するなよ!」
「いいじゃない。それとも断った方が良かったの?」
「そんなつもりじゃないけどな」
「じゃあ、お姉さまに感謝こそしてくれるべきじゃないの?」
そういうシルクに、ルークは面白くない顔をしながらブツブツ小言を言っている。
「じゃあ、その間に後片付けは任せていいですか、お姉さま」
シルクは慈愛の笑顔を浮かべながら、もちろん、と言いつつ。
「それとこれとは話が別よ」
「すみません……お取り込み中でしょうか」
「あ、ごめんなさい。片付け終わるまでもう少し待っててもらえますか」
ルークは心底申し訳ないような顔を浮かべながら謝罪した。
「手伝います」
そういうと、少女は近くの空皿をひょいひょいと持ち上げて流しに持っていく。
ルークの彼女への好感度が10上がった。――じゃなくて。
「いいですいいです! お客さんにやらせるわけには」
「セリムです。いいえ~時間ありますし。手持ち無沙汰も何ですので」
彼女は気にするでもなく、そのまま作業を続けた。
ルークの彼女への好感度が20上がった。――じゃなくてっ!
「ありがとう。それとセリムさんは敬語使わなくてもいいんですよ」
「じゃあ、そっちも使わないでね? フェアじゃないから」
にこりと微笑みながら、釘を刺される。これでまた敬語を使ったら失礼だろう。
「……分かった。んじゃ時間ももったいないし、質問は今聞くよ」
「えーと……あ、さっきいた女の人は誰? 綺麗な人だねえ」
「ああ……。あれは姉さんだよ」
「そうなんだ~。ご家族で宿屋をやってるんだね」
「両親はもういないけどな。六年前に他界してこの町に移り住んだんだ」
「……そう。私も両親はいないよ」
「そっか」
「でも、お姉さんが居ていいね。羨ましいな」
ルークもセリムについて聞こうかと思ったが、何となく雰囲気から聞きそびれてしまった。
その他に、明日の必要な持ち物とか服装とかを教えていると、片付けが終わって、何となく会話が途切れる。
ルークはそっとセリムを見ると、彼女は真面目な顔で窓の外を見ていた。
「あの森の向こうに魔女がいるのかな……」
「らしいけどね。オレが此処に住んでから一度も見たことないけど」
「魔女ってどんな人なんだろう」
「噂だとその昔、髪も眼も全てが漆黒に包まれた容貌の"魔女"が、尋常でない魔術を使用して王宮に反逆して大混乱を起こしたらしい。それ以来魔女狩りが施行されて、魔女はこの森に隠れ住んでいると云われているな。王都では莫大な懸賞金が掛けられているとか。だからこんな王都から離れた辺境の森に、一獲千金を狙う強者がいっぱい来てる訳だけど……」
まぁウチの客は半分姉さん目当てだが。
「……そうなんだ」
「まぁ、オレも明日は同行するし。その時に気軽に何でも聞いてくれ」
「ルークも行くの?」
意外、という顔で見られてしまった。そんなに頼りないだろうかと少し自己嫌悪に陥る。
少し苦笑しながらも、
「一応ね。この森は広いから迷って行方不明になる人が多いんだよ。だから地元民として料金貰いながら、案内人を請け負ってるんだ。」
「へぇ……そうなんだ」
「あと、ついでに食料調達に。結構、果物やキノコとかが取れるんだよ」
ちょっとおどけた風に言うと、セリムはくすくすと笑った。
「じゃあ、一石二鳥なんだね」
「うん――あ、」
ルークは、自分のことを話した後にふと当たり前の疑問が思いついたので聞いてみることにした。
「セリムは……どうして"討伐"に行くんだ?」
するとセリムは、一瞬凍りついたようにこちらに視線を向けた。
そして少しの間の後に、ちょっと申し訳ないように微笑むと、一言簡潔に口にした。
「秘密です」